第13話

家に帰り、半狂乱の状態から脱して落ち着いてみると、ヒナは衰弱しきっていた。

 自力で餌も食べられず、足にも力が入らない様子で、立つとよろけそうになってしまう。聡は体の震えを押さえることができなかった。どうしようもない怒りと悔しさが腹の底からこみ上げてきて、こんなことをやりそうなやつの家を順番に回って片端から有無も言わさず頭蓋骨を打ち砕きたい衝動に駆られた。

 しかし、聡は自分に言い聞かせた。まずはヒナを救うことに集中しなくてはならない。今は冷静になり、しっかりと繋ぎとめておいてやらないと、ヒナは向こう側に行ってしまう。

 自分はあの日のように、偶然もう一度ヒナを拾ったのだと思おうとした。事実、ヒナの様子はまるで当初の地肌の目立つ弱々しいヒナに戻ってしまったかのようだった。あれほど好奇心で輝いていた黒い瞳は、周囲の物をまったく捉えず、近くで何かが動いても虚ろなままで、まどろむように閉じられてしまう。起きているあいだ中、ひっきりなしに聡を呼ぶように歌われていた楽しげな歌は、まるで声が存在することを忘れてしまったかのように、くちばしから微かに洩れ出ることすらなくなってしまった。およそ生命力の発露と思われるものは消えかけ、危うく瞬いているかのように見えた。

 まずは好んで食べていたすり餌を与えてみた。いつもだったら奪うようについばむのに、口さえ開けようとしない。いくらくちばしをつついてみても、必死に親鳥の鳴き真似をしても見向きもしなかった。

 今まで聡は、ヒナが自分のことを親だと思ってくれていると勝手に考えていた。しかしこの瞬間、ヒナは自分を完全に拒絶している。ヒナと自分との距離が急に開いてしまったように感じられた。ヒナを守りきれなかった聡は、親の資格を失い、このような目に合わせた人間という種族の仲間に成り下がってしまったのではないだろうか。

 いくら自分が助けようと思っても、ヒナが受け入れてくれなければどうしようもない。弱り切ったヒナに対して腹を立てた。こんな事態を招いた迂闊な自分に呪詛の言葉を吐き、結局自分には何もできないのだと、誰も聞いていない謝罪の言葉をブツブツと繰り返した。

 ヒナはどんどん弱っていくように見えた。自分の無力を呪い、憐れんでいる間に、一番守りたいものが自分の手からすり抜けていく。それだけは許せなかった。

 とにかく自分はもう一度このヒナと出会うことができたのだ。聡は最初からできることをやり直そうと思った。


 最初にヒナと出会った日のことを思い出し、スポーツドリンクを温めた。

 スポイトでくちばしをつついたが当然のように口を開けてくれなかった。

 あの時と同じように、くちばしの端にスポーツドリンクの滴を置いてみた。祈るような気持ちで、じっと待ち続けた。

 これが失敗すれば、もしかしたら今晩、このままヒナは弱って死んでしまうかもしれない。今回は、そわそわしながら後ろで待っていた竹夫の姿もない。どんなことになったとしても、すべて自分ひとりで見届けなくてはならない。


 ヒナがわずかに首を動かした。

 自分のくちばしに置かれたものが何なのか分からず、首をかしげているように見えた。そのまま頭の重たさに耐えかねるように、さらに首の傾斜を大きくした。水滴がくちばしの先に向かって移動し始める。ツルツルと滴がくちばしの先端に向けて滑っていく。そして、それが滑り落ちようとする瞬間、ヒナはゆっくりとザラツいた舌でその大きな滴を舐めとった。

「のんだあ!」

 大きな声で叫んだ。

 一緒に喜んでくれる者は誰もいなかった。聡の声がやんだ後は、物音さえしなかった。それでも聡は、世界が自分とヒナを祝福してくれているように感じた。そして、それが勘違いであったとしても、まったく構わなかった。

 ヒナが生きている、それだけで良かった。

 

 

 学校を再び災禍が襲った。

 夕方聡が屋上から見たヒビの入った団地群の一つから、その日の晩、三人の児童が飛び降りた。

 発見された時に三人は既に死亡しており、検死の結果、落下にともなう衝撃による脳挫傷、頸椎骨折、臓器損傷等が児童たちの死因として挙げられた。

 学校は騒然となった。

 校門の近くにはマスコミ関係と思われる大きな車や機材を抱えた大人たちが陣取っていた。教頭や担任は昨晩から不眠不休で遺族やマスコミの対応に追われていたが、基本的な事実関係の把握もままならず、何が起きたのか全体像の説明すらできなかった。校長は教育委員会に対応に関する助言を求め、緊急支援チームの派遣が決定された。

 死んだ児童に関する様々な噂がまことしやかに囁かれ、直接関係のない児童の中にも心身の不調を訴える者が続出した。保健室以外にも臨時の救護室が作られ、保健教諭やスクールカウンセラー、教室担任のない教師等が対応にあたった。

 飛び降りた三人は聡と同じクラスの男子だった。事件を知って学校を休んだ者、救護室に向かう者、保護者が迎えに来て帰る者等で、教室にいるのはクラスの半分にも満たなかった。

 教室に残った者たちは、ヒソヒソと噂を囁き合うか、無関心を装うか、妙に陽気に振る舞いおどけるかのどれかだった。担任は憔悴しきった表情で、「なにか体や心の不調があったら、どんなことでもいいから先生に話してください」と緊急職員会議で覚えてきた口上を言い、実際に具合の悪い者が現れると救護室へ行けと指示するだけだった。

 全校集会が開かれ、黙祷が捧げられた。そこで、校長が落ち着いた行動を呼びかけるほど、あちこちで倒れる者、泣き出す者が現れ、かえって恐慌への機運を煽動しているように見えた。その日は全校集会とホームルームのみで終業となり、学校には疲弊した大人たちだけが残された。

 一日中、ニュース番組やワイドショーで事件のことが報道された。自分たちが普段見知っている場所がテレビに映し出され、芸能人や有象無象の専門家たちが子どもの生き方や死ぬ理由について、勝手な思いつきや常套句を言いながら放送時間を埋めていた。


 二日後の晩には、保護者を対象とした臨時の集会が開かれた。確認できた事実の報告と児童への対応に関する説明、噂や憶測にふりまわされぬよう注意がなされた。保護者からは、当然のごとくいじめとの関連について質問があり、現在のところ調査中であると告げられた。安全が確認できるまで子どもを通学させられないと長期の休校を求める者や欠席した場合の出席日数の扱いについて尋ねる者がいた。勉強への影響、トラウマが後遺症を引き起こした場合の責任の所在等について追求する者もいた。さらに、どうして教師が兆候に気づいて未然に防げなかったのか、怒りをあらわにして詰め寄る者や、延々と最近の社会の風潮や子どもの実態について嘆いて十分以上マイクを離そうとしない者まで現れた。そして、それは紛れ込んだ近隣の住民で、保護者でさえなかった。最後にある保護者が飛び降りた児童のうち二人が塾の帰りだったことを指摘して、原因は受験勉強にあると決めつけ、学校や他の保護者に即刻塾通いを禁止するように求めると、会は保護者同士の罵り合いで紛糾し、怒号が飛び交う混乱のうちに解散となった。



 聡の携帯電話に母親から連絡があった。

 時間は夜の十一時を過ぎていた。

 めったにないことなので、不吉な予感とともに電話をとった。


 声はなく、ただ電話越しに、うるさい蛙の声がした。混乱とともに、あの部屋の暗闇が脳裏をかすめた。

「……美津子、か」

 返事のかわりに、押し殺したような笑い声がした。

「どうして、おまえ、この電話……」

「今日、受診日だったのよ。私、お母さんの患者だって、この前言ったでしょ? 覚えてないの? ……先生に言っといて。鞄を医局の机に置きっぱなしにするのは不用心だって。まあ、余計なお世話かもしれないけど」

 そう言うと美津子はまた笑い声をたてた。

「うーんと、そんなことより、ちゃんと聡くんの代わりに……しといたわ。あの三人」

 そう言われても最初はピンと来なかった。足りないパズルのピースを探すように、頭の中をかき回してみた。

「頭、割りたかったんでしょ? ちゃんと、割れたわよ。きれいに」

(どうして?)など疑問が湧くよりも、恐怖が先行した。確かに足りなかったピースがそろったが、誰がこんなパズルの完成図を見たいと思うだろう? 

 飛び降りた三人のうちの一人ついては、ヒナを盗まれたとき、そういうことをやりそうなヤツとして真っ先に思い浮かんでいた。飛び降りのことを聞いたとき、何か引っかかってはいたものの、それだけではヒナが盗られたことと直接結びつかなかったのだ。


「そんなこと……頼んでないだろ?」

 聡は声の震えを悟られぬよう努めて低い声で言ってみたが、上手くはいかなかった。

「約束したわよね? 聡くんを救ってあげるって。磯生先生も、あの三人もいなくなって良かったでしょ? それに、これで私が本気だって分かってくれた?」


 あの日、暗闇の中で聡と美津子は約束をした。

 翌日、美津子は約束通りに嘘の訴えを取り下げた。だから、今度は聡が約束を守る番だと、そう言いたいのだろう。

 三人のことを伝えてきたのは、約束が厳守されるためには手段を選ばないということを示すためか。

 聡は、悲鳴を上げてしまいそうなのをぐっとこらえた。

「おまえ、どうやってあいつらを……」

「どうでも良いことを聞くのね。人間は頼むべき相手を間違えずに上手に頼めば、大抵のことはやってくれるものよ。あなたもお婆ちゃんの死体のとき、私のために働いてくれたでしょ?」

 聡の中に胸を焦がすような怒りが沸き起こった。

「悪戯の度が過ぎたから、鳥の気持ちが分かるように飛んでもらったの。でも、まだ巣立ちには早かったみたい。聡くんのヒナは大丈夫だといいわね」

 胸が苦しかった。学校で反吐を吐く感覚とはまた違う、怒りとそれに対してどうしようもない恥辱とが同時に襲いかかってきた。

「きっと、何もかも上手くいくわ。今度の日曜日、みんなが次の日から始まるつまらない日常に押しつぶされそうになっているとき、あなたはそこから逃げ出すだけでいい」

 分かり切った解答にたどり着けない生徒に教え諭すような調子だった。


「……ねえ、一緒に暮らしましょう」聡は、あの日の、嫌悪を起こさせると同時に傷を舐められるような誘いの言葉を思い出した。そして、最初にその言葉を聞いた後にした質問を、もう一度するしかなかった。

「どうして、俺にこだわるんだ。どうして、ほっといてくれないんだ」

「私には分かるの。このままでは聡くんが危ないって。だから、聡くんを守るために邪魔になるものは、ぜんぶ消えてもらうの」

 答えもあの時と全く同じだった。


 後日、飛び降りた児童たちが、その日鳥かごを持って歩いていたとの目撃証言があり、今回のことはその復讐ではないかと噂された。聡は誰かが自分を捕まえに来るのを待っていた。しかし、今度はいくら待っても、それらしい兆しは全くなかった。警察は捕まえるどころか事情も聞きに来なかったし、担任も相談室に呼び出してくれなかった。

 自分にもう時間がないことは分かっていた。

 美津子との約束の日までにあと三日あったが、それまでにしなければならないことが多く残されていた。

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