第11話
休み時間、いつも通り便器での嘔吐と長時間の手洗いからやっと席に帰ったところだった。担任がニヤつきながら、放課後相談室に来るようにと、思わず耳を塞ぎたくなるような猫なで声で言った。
金曜日は塾でテストがあるので行けないと告げると、急に声を荒らげ、
「勝手なことを言うんじゃない。勉強ができるから何でも許されると思うな」
と常套句で威圧してきた。
聡はそれ以上逆らわず、低く「はい」と応えると、放課後言われた通りに相談室に向かった。
「清岡さんが、君が暴力を振るうので怖くて学校に来られないと言うんだが、本当かい?」
もとの猫なで声に戻った担任が尋ねた後、聡はしばらくその質問の意味が理解できなかった。
昨日、担任が美津子に学校を休む理由をきいたところ、聡が嫌がらせや暴力を行うので学校に行きたくないと涙ながらに訴えたというのだ。さらに、次の言葉を聞いて真剣に自分の耳を疑った。
「そのまま鵜呑みにする訳じゃないんだが、……彼女によれば、その、暴力の内容というのが、性的なことも含んでいると言うんだ。これは本人も大っぴらにはしたくないらしい。だから、誰にも言わないで欲しいと言うんだが、聞いた以上は、一応君にも事実関係を確認しておかないといけないからね」
まともに否定するのも馬鹿らしいと思ったが、これ以上自分の立場を悪くして、大人たちの思うつぼにはまるのも癪に障る気がした。聡はできるだけ落ち着いた声で「事実無根です」と答えた。しかし、今日は「じじつむこん」とメモしてくれる友人の姿はなく、かわりに、聡のそのような言い回しを大人への不従順と捉える、自分の権威の傷つきに敏感な教師がいた。
「君だけが事実じゃないと言ってもこの場合、そうですかというふうには行かないことは子どもの君でも分かると思うんだが」
と「子ども」のところを強調して前置きした後、
「とにかく一度、お母さんに学校まで来て頂いて、一緒に話をしよう。君にも言い分があるかもしれないが、彼女にそのような気持ちを抱かせることが少しでもないかどうか、芽は早いうちに摘んでおかなくてはならないし、最近の君の学校での様子も気になるからね」
と余裕をみせるようにゆったりと言った。この男は、聡のようなタイプの人間には、親を呼ばれるという自尊心を傷つける対応が一番こたえるのを知っててやっている。歳に似合わないつるりとした顔に浮かんだ嗜虐的な微笑を隠しきれていない。この分厚そうな皮膚の下に他にどんなものが隠れているのか、それを想像すると先ほど吐いてきたばかりなのに再び何かが喉元にせり上がってくる。
具体的な面談の日については、一応母親の都合をきいた上で決定すると告げる担任の声を上の空で聞き、そのまま機械仕掛けの人形のように深く礼をして、相談室を後にした。
聡は逡巡した。母をこれ以上巻き込むことは、どうしても避けたかった。しかし、現状において、母が学校に呼ばれるという展開自体は避けられそうもない。そして、心証の悪い自分がその時いくら事実を主張したところで、それこそ「そうですかというふうには行かない」はずだ。他の要素はともかく、性的な暴行に関してはせめて相手の誤解だった、あるいは嘘だったということをはっきりさせておかないと、母の恐慌を招くことは明らかだった。
学校における立ち位置がいくら悪くなろうがそんなことはどうでも良かった。ただ、もうこれ以上母を泣かせたくなかった。人間がその生を全うするためにどれくらい悲しめば良いのか知らないが、母は父の生と死に伴走することで、すでにその何倍も悲しんだと聡は感じていた。
美津子に会わなければならない。
会って、どういう意図で聡についてありもしない事実を訴えるのか確かめなければならない。そして、その意図を何とか別の方法で達することができないものか話し合い、訴えを取り下げるか訂正してもらえるよう頼み込むつもりだった。聡は、この期に及んでもなお自分が美津子に対して信頼の欠片を持っていることに気づいて驚いた。真正面から話して、道理と感情に訴えれば、まだ通じるものがあるはずだと信じていたのだ。
いくら精神的に不安定でも聡が本当に性的暴行をはたらいたと信じてはいないだろう。どんな目的があるのか想像もつかないが、たとえそれが聡の理解を超えていようと、美津子の意図の中心的な部分を尊重すれば、こちらの要求することと接点を持たせることができるのではないか。なにしろ事実ではないことを主張しているのだから、多少なりともその危うさに対する自覚はあるはずだ。何とか交渉は成立するように思われた。
その日の晩、塾が終わってから、美津子の自宅へ行った。庭の隅には緑色の大きなコンポストがあり、脇にはガラス瓶に差された花が置いてあった。まだ二週間も経っていないのに、美津子の祖母を埋めたのが、随分昔のことであるように感じられた。相変わらず、周囲の田から蛙の声がうるさく聞こえた。空では満月の月が明るく輝き、二週間前に聡たちの埋葬を見守っていた星座たちが、あの時あった場所よりわずかに西に傾いていた。
聡は少しだけためらった後、美津子の部屋のガラス戸を叩いた。
「聡君、待ってたわ」
電気が消えていたにも関わらず、すぐに美津子が微笑を浮かべながら現れた。
美津子に招かれ、暗い部屋の中に入っていくと、二人分敷かれた布団の片方に妹が眠っていた。枕元に置かれた盆にはペットボトルや薬袋がのっていた。妹の具合を尋ねると、最近は二人とも体の調子を崩し、熱を出すことも多いのだという。そういえば、教室でも美津子が咳をするのを良く見かけるようになった。欠席する日数が増えているのには、妹の事情だけではなく本人の体調の悪さも関係しているのかもしれない。それなら、なぜ込み入った嘘をつかなければならないのか。ますます理由が分からなかった。体調が悪いと実際のところを伝えれば、演技の必要もなく説得力もあるだろう。冷静に考えれば、担任に同級生から暴行されているなどと訴えれば、問題は単なる不登校よりも大きくなり、保護者を含めての話し合い等、対応も大がかりになる。祖母の件の暴露を畏れる美津子にとって、それは避けたい状況であるはずだった。
「どうして来たのかは……分かってくれるよな?」
聡は戸惑いをさとられぬよう感情を殺して尋ねた。暗くて美津子の表情は良く分からない。先ほど月に照らされて見せた微笑をそのまま浮かべているか、術中にはまっていく獲物を見てさらに相好を崩しているような気がした。
美津子は黙っていた。聡は尻の奥から背中にかけて無数の虫のように這い上がってくる恐怖をどうしても押しとどめることができなかった。
「どうして、あんな嘘を、ついたんだ」
肺から絞り出すように問うた。何も言わずにいたら、狂いそうだった。声が闇に吸い込まれ、自分が本当に声を出したのかすら確信できない。
ガラス越しにも外の蛙の声がうるさい。どうしてあいつらは、あんなに声を揃えて唄うのだろう? どうして、一匹ずつの独唱を試みないのだろう? 緊張のあまり出口を探している思考が、とりとめのない疑問を作り出す。
「私、ずっと考えてたの」
聡は「何を?」と訊きたかったが、思いとどまった。全ての言葉が自分の思う意味で伝わらず、全ての声が場違いに感じられた。違う原理で動く世界に迷い込んでしまっている。今自分にとって何が正しいのか手がかりすら掴めない。
さっきまであんなうるさかった蛙の声が遠のいて、自分の呼吸の音が気になって仕方がない。自分が混乱し、焦り、息を荒くしているのが、美津子に伝わっているだろう。それを思うと絶望的な気分になった。吐きたい。手を洗いたい。毒を体から流してしまいたい。聡がこの場を逃れようと立ち上がる前に、美津子は歌うような調子で続けた。
「私たち、もっと良く理解し合う必要があるわ」
「何?」「どうして?」そんな問いの意味が失われた空間で、もがくしかない自分と比べ、その声はあまりにも楽しげで軽やかだった。美津子の言葉は聡の体に入り、いつまでも腑に落ちず、浮いていた。
「オレは、どうしてオマエがオレに乱暴されるなんて嘘を吐いたのかを、知りたい」
何とかして目の前の理解不能な存在に暴行の訴えを取り下げてもらわねばならない。まだ残されているのかどうかすら分からない経路を、粘度の高い油の中を泳ぐようなもどかしさを感じながら探し続けるしかなかった。
「オマエが嘘を言う訳は分からない。でも、とにかく、あれは勘違いでした、嘘でした、何でも良いからオマエが言ったことが嘘だと伝えて欲しい。オレにはどうしてもそれが必要なんだ」
なぜ、この部屋の闇はこんなに深いのだろう。相手の表情が読めないだけでなく、人間から発せられる雰囲気のようなものさえ吸い込まれていく。確かに向かい合っているのに、まるで壁に向かって話しているように手応えがない。
「聡君……前に私が言ったこと覚えてる? 聡君が危ないって、磯生先生に気をつけるように言ったの。私、どうしたら聡君が私の話をちゃんと聞いてくれるか、一生懸命考えたの」
その結果がどうしてこうでなければならないのか、闇に浮かんだ壁から発せられる理解不能な言語を解読するため、聡の脳は限界まで稼働した。これが算数の問題ならどんなに解答不能に見えても、答えがあるはずだという確信が自分の努力を支えてくれる。しかし目の前に立ちはだかっているのは、答えがそもそも存在しない問いを行う質の悪いスフィンクスであるかもしれないのだ。謎に対する答えの不確実なことが、ここまで人を不安にすることを聡は思い知った。
「聡君を救う方法はこれしかなかったの。二人でちゃんとお話をして、聡君に私の言うことをちゃんと理解して欲しいの」
そんなことをしなくても「ちゃんと」話をする方法はいくらでもあると言おうとしたが、磯生の訪問のとき、自分が美津子に放った言葉を思い出し、聡は口をつぐんだ。
確かに二度と話しかけるなとは言ったが、その原因と結果の間には気の遠くなるような距離がある。彼女の中には、その距離の飛躍を可能にする回路が存在することになる。聡は、その思考のしくみを想像するだけで、崖の上から底の見えない谷を覗いた時のように怖じ気付いた。しかし、どんなに想像の及ばぬ論理によってであったとしても、紛れもなく彼女は聡の態度によってこんな奇妙な訴えを行うほどに追いつめられたのだ。聡はかろうじて責任の一端は自分にもあることを認めた。
「オレのせいなら謝る。オレはちゃんとオマエの話を聞く。だから、担任にオマエの言ったことが嘘だったと言って欲しい」
「それは頼み、よね? 私に頼んでるのよね?」
聡は力なく、「そうだ」と答えた。
「じゃあ、ちゃんと私に頼んで。ものを頼むには頼み方があるでしょう?」
美津子の豹変ぶりに驚いたが、ここで話を決裂させるわけにはいかなかった。聡は徹底して譲歩する覚悟を決めた。
「……どうしたら、良いんだ?」
「まず、ここに頭を擦りつけなさい」「ナニ?」
「大きな声出さないで、水無子が起きるでしょ? 頭を擦りつけて頼みなさい。聞こえなかったの?」
「オマエ、本気で言ってるのか?」
「あなた、土下座もできないの? 能なしね。能なしの聡君。かわいそうな聡君」
目の前にいる人間が、本当に自分が幼少から知っている美津子なのか信じられなくなった。昔、いつも一人でいる聡に声をかけてくれた彼女と、目の前の人物がどうしても一致しない。聡は未だに過去の幻影を追っている自分の甘さに歯噛みした。
「言うとおりに……したら、嘘だと言ってくれるのか?」
「何言ってるの? 態度は大前提よ。まずはちゃんと頼まれてから考えるわ」
美津子の声は遠くから聞こえるようだった。何を言ってるのか理解できない。
聡は本当のことを言ってくれるよう頼んでいるだけだった。なぜ、そんな当たり前のことが通らないのか。自分の土台全体が揺れているような気がした。誰かにきいてみたかった。間違ってるのは自分のほうか? 自分はそれほどおかしいか。
「お前は間違っている! 何もかもお前のせいだ!」
もう一度間違ったところからやり直したかった。そこからきちんとすれば、努力すればきっと分かってもらえるはずだ。
みんなが自分の言うことを聞いてくれなくなったのは何時か。
自分がみんなのお気に入りで無くなったのは何処か。
「能なしの聡君。かわいそうな聡君」
……聡はキリキリと自分自身が軋む音を、はっきりと聞いた。
「頼む! 担任に嘘だと言ってくれ! 何でもする。おまえが何を望むのかは知らないが、できるだけのことをする。な、頼む!」
聡は急激に喉元をせり上がってくるものを押さえきれず、指の間から畳の上に吐瀉物をまき散らした。
クスクスッ。笑い声がするのに気づいて、背中を波打たせながら目を上げると、いつの間に起きたのか、妹の水無子が聡を見下ろしていた。
聡は吐くものが無くなってからも、ウォーとお産の雌牛のような声を上げ、涙を流しながら吐き続けた。
「私はね……聡君を助けたいだけなのよ」
美津子は「よしよし」と赤ん坊をあやすように、聡の背中をさすった。
そして、汚物にまみれた聡の手を取って、囁くように言った。
「聡君が助かる方法は一つしかない。……ねえ、一緒に暮らしましょう。それしかないわ」
美津子の手は湿っていて、燃えるように熱かった。
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