第10話
磯生は休職した。一応、事後処理のためということらしかったが、復帰の時期は定まっていなかった。
学校には火事についての噂が広まった。出火の原因が分からず、不審火とされたことが一因だが、それだけでなく、付近で男子小学生らしき目撃情報が相次いでいたからだった。目撃されたのは火事の起こった真夜中の時間帯で、子どもがうろうろする時間ではないため、とても印象に残ったらしい。学校では放火したのは誰かということに関心が集まり、憶測が飛び交うこととなった。
聡が閉口したのは、その中のトップに自分の名前が挙がっていたことだった。普段からの磯生に対する態度がその根拠であるらしかったが、さすがにそんなことを本気にする奴はいないだろうと思っていた。しかし、予想に反して、最初に教頭に呼び出され、ついに警察まで家に来る事態となった。本格的な聴取ではないのかもしれないが、仕事場に連絡が入り、その日家にいるように言われた母親はすっかりうろたえた。
火事が起きた時刻には一緒に家にいたのだから、聡が犯人でないことは分かりそうなものだが、母は警察と関わることになってしまったこと自体のショックから立ち直れなかった。泣きながら「昔は良かった」などと、全く事件とは関係ないことを滅裂にまくしたてた。聡もこれには参った。身に覚えのないことで学校の人間に疑われたり、奇異な目で見られることには耐えられても、母親を悲しませたことはかなりこたえた。
学校でも、周囲が聡のことを特別な目で見ていることが感じられた。教師たちはもちろん、かなりよく口を利くほうだった友人まで、ほとんど聡に寄りつかなくなった。新しい担任に至ってはほとんど聡を無視しているにも関わらず、どうしても関わりが必要なときだけ、妙に気をつかうような猫なで声で話すのだった。
竹夫だけは相変わらずだったが、周囲の聡に対する態度の変化には気づいていて、「聡君、何だかみんな変だね」と一日に十回くらいは口にした。そのたびに聡は「変なのはオマエだ」と言って返したが、少なくとも最初はその大らかさに感謝した。房子も時々話しかけてきたが、いつもと変わらぬ調子となるよう気を遣っているのが分かり、それはそれでつらいものがあった。
美津子は、あれからも学校に来たり来なかったりで、相変わらず欠席は多く、学校に来たときでもあまり他の者と話しているところを見ることはなかった。ある意味、教室から浮いたもの同士で、(ああ美津子はこんな気分だったのか)と妙に共感してしまう自分がいて、おかしかった。美津子の言ったことについて、受け入れられない気持ちに変わりは無かったが、自分が周囲から拒絶されている今、常識的な感覚を後生大事にして、受け入れるとか受け入れないとか考えていること自体が全部馬鹿らしく思えてきた。こんな人間たちの中で、大した逸脱もなく行儀良くやっていたのかと思うと、そんな自分自身に反吐が出そうだった。実際、今まで休み時間に手を洗うだけだったのが、頻繁に吐くようになり、授業中に手を挙げて退席することが増えた。それが余計に奇異なものへの視線を集めることになり、聡はさらに孤立した。
「全てを吐き出して、全てを洗い流す」それが聡のテーマになった。
やがて聡は、変わらず接してくる竹夫を疎ましく感じるようになり、逃げ隠れまでして避けるようになった。
「聡君。ボク、鳥の名前考えたんだけど聞いてくれる?」
「勝手に考えんなよ。どうせもうすぐ巣立つんだから、名前なんか要らないだろ」
どんなに冷たくあしらっても、竹夫は聡にあれこれと話しかけてくる。
竹夫の声を聞くと、せっかく覆った心の鎧を脱がされるようでつらかった。今となっては、竹夫は聡のテーマの完成を邪魔する存在となっていた。
磯生が休職に入ってから、ヒナの面倒は、聡がすべて行うようになった。誰もヒナのことを省みようとはしなかった。
(もう、飽きちまったのか)聡は侮蔑のこもった気持ちで周りの人間たちを見た。
ヒナは、もう尻の羽毛も生え、聡の家では部屋の中を飛び回り、勝手にカゴの外の餌を食べ、時には小さな虫を自分で捕らえることもあった。部屋の中で放していると、聡のそばから離れようせず、聡の周りを飛び回り、肩をや腕にとまり、服をつついたり、休んだりする。顔を見ていると毎日成長しているのが分かった。最近はくちばしの黄色い部分も減って、より親のスズメらしく精悍な顔つきになってきた。まだ、行動上、雌雄の違いは分からないが、聡は漠然とした雰囲気から、ヒナのことをオスかもしれないと思っていた。
巣立ちの時期だった。ヒナの体の準備は整っているように見えた。今の状態なら、外の連中の仲間としてやっていけるかもしれない。これ以上、一緒にいて人間に慣れてしまったら、ヒナが自分自身のことをスズメと思わなくなってしまう。雨に弱いヒナのためには梅雨が来る前に巣立ちを終えなくてはならない。様々な条件を考え合わせると、巣立ちを急がねばならないのは明白だった。
ヒナを外のスズメたちの元に返す「リリース」を決めた。早朝より、庭に撒き餌をして、外のスズメたちを集めることにした。すぐ近くには田畑があり、猫も少ないため、聡の家の小さな庭はリリースの場所として悪くないように思われた。家から数百メートルのところに、密集した親鳥たちの声がするスズメのコロニーを見つけてはいたが、車道が近く、カゴの中のヒナを徐々に慣らして群の中に返すのには向かないと思われた。
毎日晴れた日の朝は、撒き餌をして勉強をしながら鳥たちが集まるのを待った。鳥たちの声が盛んに聞こえるようになったら、そっとヒナの入ったカゴを置きに行く。しばらくすると一度逃げた鳥たちがまた戻って、ヒナの近くで餌をついばむようになる。数日、そのようなことを繰り返し、今度はカゴの入り口を開けて、ヒナが自分から群の中に入っていけるようになるのを待った。
今年の春は雨が少なく、異常に暑かった。庭の土は乾燥して、まばらに生えた雑草の間を鳥たちが埃ををたてながら遊んでいた。そんな仲間たちの様子をヒナは入り口から遠い隅の方で畏れるように縮まって見ていた。まだ慣れていないだけだろうと、そっと見守ることにしたが、何日経ってもヒナの様子は変わらなかった。
聡は焦り始めた。自分のやり方の何が悪いのか、どうしてヒナが外の鳥に興味を示さないのか、いくら調べてもこれという瑕疵を見いだすことができない。カゴを外に出さないときにも、窓際に撒き餌で鳥を集めて近くに置き、外の鳥を意識させるようにした。鳥が近くにいないときでも、レコーダーで録音した仲間の声を聞かせて興味を引き出せないか試みた。(やり方は合ってるはずだ)基本的には同じことを繰り返すしかない自分に苛立った。ヒナはそんなことに構わず聡にまとわりついてくる。人間との接触を多くすれば、ヒナが鳥である認識を持つことを邪魔してしまう。かといって、カゴの中に入れたままでは良くないので、別の部屋に放してみた。離れていても聡を求めて盛んに鳴き声を上げているのが聞こえる。胸の奥のところで疼きを覚えながら、聞かぬふりをしてヒナとの接触をできるだけ避けるようにした。
強引にカゴから外に出して、群の中に入れてみようかとも思ったが、自分から仲間に入れないヒナを無理に野に放てば、集団に馴染めず、危険にさらすことになる。
その時も、いつものように外の鳥を集め、カゴの入り口を開けてヒナが自分から外に出ようとするのを待っていた。いくら周囲で仲間たちが餌をついばんでいても、ヒナは出口から遠く離れた隅で身を縮め、近寄ろうとさえしない。
気がつくと家から飛び出し、鳥たちが驚いて四方に飛び去って行くのも構わず、カゴを鷲掴みして叫んでいた。
「どうしたんだ! オマエの仲間じゃないか! どうして、出て行かないんだ? どうして、出て行って一緒に飛ばないんだ!」
ヒナが突然の天変地異に耳に突き刺さるような鋭い声を上げて助けを求めている。その声は明らかに聡に向けられていた。ヒナは聡自身がそんなことをするとは思っていないようだった。こんなひどいことから救ってくれるよう聡に向かって悲鳴を上げ続けていた。
「どうして…、オマエは鳥なのに、どうして、行かないんだ。なんで、そんなに、オレの言うことをきかないんだ!」
聡の声はヒナに届かない。ヒナの声も聡に届かない。
聡はカゴを揺すりながら声を絞り出し、ヒナは聡に助けを求め続けた。
声が涸れ、疲れきって後ろを見ると、母親がパジャマにサンダル履きで立っていた。さらに周囲を見ると、道を挟んで向かいのおばさんも垣根越しに怪訝な表情で自分の方を眺めていた。
震える手でカゴを持ち上げ、家の中へ入ろうとした。
「……どうしたの?」
聡が玄関の扉に手をかけたとき、背中に向かって母がたずねた。
「……どうもしない」
それだけ答えるのが精一杯だった。
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