第9話

 美津子はよく学校を休んだ。

 房子はいつものようにプリントを届けたり、様子を見に行ったりしているようだった。たまに学校に出てきた時の美津子は、死体を埋めた翌日と同じように特に変わった様子もないように見えた。しかし、クラスに溶け込んでいるというのではなく、集団の中で特殊な位置づけが割り当てられているから、独特の空気を放っていても誰も気にとめなくなっているだけだった。

 ある時、房子に美津子の家へもう一度集まるように言われた。何か問題があったのか尋ねても、房子はとにかく来るように恐い顔で言うだけで、詳しく話そうとしない。

 あのこと以来、聡は美津子と距離を取るようにしていた。

「絶対、来なさいよ」

 と房子が有無を言わさぬ調子で告げても、聡は直前までどんな理由で断ろうかと考えていた。しかし、竹夫があっさりと休日の塾のテストや聡の参加する特訓講座の予定を漏らして、その終了に合わせて待ち合わせの時間を決められてしまったので、逃げることができなくなった。竹夫には、パグ犬の眉間の皺より深い失望を感じたが、本人を責めても「え、だめだった?」という反応で、どうして黙っていて欲しいのか、その理由を説明するのにさらに疲れそうだったので、追求するのを断念した。

 死体のことは気になるが、美津子が毎日様子を見ているのだから、わざわざ自分たちが集まって確認する必要もないだろう。他に困ったことがあるのかもしれないし、できるだけ助けてはやりたいが、最近の美津子には正直ついていけない。また、おかしなことを言われないよう、二人きりになるのだけは避けたかった。


「えっと、単刀直入に言います。今度、磯生先生がここに家庭訪問します。みんなで対策を考えましょう」

 議長役の房子が、そんな風に切り出した。隣で美津子は目を伏せている。

「何で、今の時期に?」

 聡は訊いた後に、自分でも間抜けな質問をしてしまったと気づいた。美津子ぐらい欠席してたら、担任としては、家庭環境を確認したり、保護者と直接会って話をしたくなるのが当然だろう。

「電話には美津子が出て、ずっと訪問は断ってたんだけど、もう限界なのよ」

「だったら、学校に出てくりゃいいじゃないか」

「水無子ちゃんが学校に行けないのよ。一人で置いとくわけにもいかないでしょ?」

 妹は最近、精神的に不安定らしい。新しい学年になってクラスに馴染めないでいることもあるらしいが、今までも姉が母親代わりだったとはいえ、やはり祖母の不在は影響しているのかもしれない。

 磯生先生の訪問を阻止する方法はないものか、もう一度話し合った。病気などの思いつく言い訳は使いきっている。不自然な断り方を繰り返しているので、今度は磯生もかなり強引になっているらしい。担任教師の不登校への対応として、家庭を訪問できないことが評価的にまずいのかもしれないが、かなり焦っている様子が伺える。訪問日として明日の放課後の時間帯を指定しており、「中止や延期は不可」の強い姿勢を見せている、ということだった。

「いいんじゃないの? 家の中に入れて、適当に相手して帰せば。お婆ちゃんは出かけていて、今日は遅くまで帰りませんとか言って」

「おそらくいつまでも居座るわよ。美津子から聞いた感じだと、とにかく保護者と会わなきゃ話にならないっていう態度らしいし」

 結局、普通に考えられる方法は、全て上手く行きそうにないということになって、房子が考えた「普通じゃない方法」が披露された。まずは聡が布団に寝てお婆ちゃんのフリをする……以上だった。

「却下、だろ。だいたい何でお婆ちゃんの役が俺なの?」

「他に良い考えがあるなら聞かせてよ。私も無理があると思って、そのためにあんたに来てもらったんだから」役割分担に関する異議については聞き流されてしまった。

 他の案についてはすでに考え尽くされていて、聡がそれ以上いくら考えても、仮装を試みる馬鹿らしいやり方以外、他にひねり出すことはできなかった。もし、白旗を上げてすべての状況を洗いざらい暴露するという選択肢がないのなら、どんなに馬鹿らしいことでもやってみるより他仕方がないかもしれない。それに、房子の話では、まともとは思えないこの方法も、まんざら非現実的ではないらしい。実際、そうやって役所の職員をたぶらかし、手当金をせしめていた例があったのだと言う。仕方なく、方法自体には同意したが、なぜ祖母の役を聡がしなければならないのか、どうしてもその点が納得がいかなかった。

 聡は竹夫のほうをちらっと見た。目を輝かせ、身を乗り出すようにして聞いている。ワクワクしてる様子が明らかだった。

「タケ、やらない?」

 聡が言うと、竹夫が待ってましたとばかりに「やるやる!」と飛びついてきた。房子は難色を示したが、竹夫があまりに積極的なのと、聡の強い抵抗にあって、結局、その役は竹夫がすることになった。

「タケ、頼んだぞ。一蓮托生だ」

 竹夫がササッと聡ノートをポケットから出し、「いち、れん、たくしょう」と声を出してメモしながら頷いた。聡は心から重荷を下ろし、やっと晴れやかな気持ちになって帰途についた。


「聡、もうちょっと年寄りらしく咳できない?」

 聡は布団で寝ている自分の状況が未だに信じられずにいた。

 竹夫は昨日はあんなに元気だったのに、昨日の晩から熱を出したらしく、学校を休んだ。休み時間に人目につかぬよう携帯電話で連絡したが、「聡君、ごめん」の一点張りで、どうも要領を得ない。とにかくどうしても学校はもちろん、美津子の家に行くこともできないのだと言った。房子は当然のような言い方で、聡に代役を要求した。「おまえがやればいいだろ」という言葉には「監督が役者やると作品のクオリティが下がるのよ」と言って相手にされなかった。そんなわけあるか、と映画に詳しくない聡でも知っている例を挙げて抗弁しても何の効果もなかった。実際には、水無子を先生の前に晒すと余計に面倒なことになりそうなので、面談の間は遊びに行っていることにして、房子のところで預かるのだという。継ぎ接ぎだらけの計画で危なっかしいことこの上ない。もう実行は目の前に迫っているし、「布団を被って寝ているだけ」という条件で、嫌々ながら引き受けることにした。

 

 まず、房子が考えた段取りを確認した後、美津子の祖母の帽子を被り、布団で横になって先生の来訪を待っていた。美津子と二人きりになった。嫌な予感がした。

「聡君、あれから大丈夫?」

 聡は、何のことか分からないふりをして、話を躱そうとした。それでも美津子はほとんど一方的に、例の「分かってしまう」ことを語った。今、担任の面談という一大事を乗り切ろうという間際のところで、とらえどころのない空想的な「危険」の話を延々とする美津子のことを薄気味悪く感じた。聡は意識のシャッターを下ろして、美津子という聡にとっての具体的な「危険」を乗り切ろうとした。しかし、美津子が父親の死についての真相を匂わせると、ぐっと圧縮していた拒絶の意志が吹き出してしまった。

「おまえが何を知ってようが、そんなことはどうでも良い。とにかく、俺の家族のことを詮索するのはもうやめろ。今がどういうときか分かってんのか? これは、おまえのことなんだぞ。もっと、集中しろ。それから、これが終わったらもう俺には話しかけるな」

 美津子の言うことをどうしてもやり過ごすことができなかった。それにタイミングも良くない。今は、他ならぬ美津子のためにやりたくもない役をこなすために緊張にさらされている最中なのだ。美津子本人がそれを理解せずに、得体の知れない空想話で水をさすということは、あまりに真剣さに欠けているように思えた。自分の語気の強さに聡自身も(いけない)と感じたが、最後まで言い切らずにはいられなかった。美津子を傷つけたかったわけではない。むしろ、それを避けるために、ずっと距離をとっていたのだ。

 

 高学年になり疎遠になりはしたが、美津子は、幼稚園から友達ができにくかった聡にとって、竹夫と会うまでほとんど唯一の気の置けない友達だった。美津子がクラスから何となく浮き始めてからも、なるべく声を掛けるようにしていたし、時々意味の分からないことを言っても、できるかぎり意図を汲み、美津子のことを自分にとって訳が分からない存在にしないようにしてきた。はっきりと意識していなかったが、祖母のことも、相手が美津子だから深く関わることにしたのだ。

 しかし、どうしてもここ最近の美津子の言動にはついていけない。幼い頃より感じてきた親しみの感情もすり切れてしまいそうだった。変化の原因は分からないが、美津子は変わった。もともと空想癖はあったが、内容はもっと明るく、決して他人を傷つけるようなものではなかったし、それを他人に押しつけるようなことはしなかった。それに、物静かではあったが、暗くはなかったし、顔立ちが整っていたこともあって男子にも人気があった。一人でいることは多かったが、それは蔑ろにされているということではなく、むしろ尊重されていることを意味した。それが、いつからか自分の殻に閉じこもるようになり、わけもなく他者を拒絶する空気を纏うようになった。そして、口を開いたかと思えば、聡への忠告にみられたような突飛でねじくれたことを言うのである。まだその発言の「被害」に会っていない者たちと当たり障りのないつき合いは続いていたが、もとは親しかった者ほど徐々に彼女のことを敬遠するようになっていた。聡や房子はその中で残ったつきあいの長い友人だった。

 

 聡の怒気を含んだ言葉の余韻がまだ残っているとき、玄関の呼び鈴が鳴った。聡は自分の言葉が美津子を傷つけたのではないかと後悔し始めるのと同時に、磯生に自分の声が聞かれてしまったのではないかと心配した。

 とにかく今は美津子と力を合わせてこの場面を乗り切らなければならない。

 美津子の目を見た。

 このときだけは、彼女と気持ちが通じた気がした。

 

 聡は磯生が座るはずの位置から顔が確認できないように反対を向き、帽子と布団で皮膚を覆った。

 美津子が小走りに玄関へと向かい、磯生の対応をしているのが聞こえた。「お婆ちゃんは肺炎で、この前病院から帰ったばかりで……」ちゃんと房子が決めた筋書き通りに、台詞を言えているのを聞いてほっとした。(今はこれを乗り切る)と何度も自分に言い聞かせた。鼻まで持ち上げた布団が埃臭くてむせそうになった。頭に被った帽子は六月も近いのに毛糸の帽子で、耳を覆ったところがチクチク当たって辛かった。布団は実際に美津子の祖母が寝ていたものではないが、やはり死んだ人間になりきって代役をするというのは良い気持ちがするものではない。気味が悪いのと同時に、罰当たりな感じもして、体の内側からぞわぞわと居心地の悪さが湧いてくる。すべての嫌な感覚を封じ込めるよう気合いを入れながら、これを乗り切ることに集中した。

 古い板張りの廊下がミシミシと割れそうな音を立てて、二人分の体重の移動を伝えてくる。耳を枕につけているとその振動が直に伝わってきて、どんな恐怖映画のBGMよりも聡の背中を寒くさせた。

「お婆ちゃんはずっと寝たきりで。今日は特に喉の調子が悪くて声も出ません」

 美津子が説明しながら磯生を招き入れた。磯生は部屋に入るか入らないかのところからくしゃみを連続した後、予定通り、座布団を敷いた離れた場所に座ってくれたようだった。聡は布団の中で半分は演技ではなく、本当に苦しくて咳をした。アレルギー持ちの磯生にはこの部屋の空気がつらいに違いない。続いて、磯生も咳を連続した。それがやむと苦しそうに息をしながら「お加減悪いのに申し訳ない」などの口上を述べ、来意を告げた。聡は返事の代わりにゴホゴホと咳込んだ。

(本当にこんなんで大丈夫なのか)、(もうばれてるんじゃないのか)疑問の声が止んでくれない。こんなバカみたいなことをした上で正体を暴かれる恥ずかしい場面が、頭の中で何度も再生される。磯生が咳払いをしたり、座り直したりして体重の移動を耳元で感じるたびに何度も鳥肌が立った。

 磯生は「本人の前ですが」と前置きした後で、美津子の学校での様子や学校に継続して通学することの意義を普通の教師みたいに説いていた。その調子はなんとなく、とりあえずこういうふうに言うようになってるということを無難にこなそうという調子に思えなくもなかったが、実際そつなく不登校の児童宅を訪問した教師の役割をこなすことができていた。その所々で相づちの代わりに聡がせき込み、磯生もだんだんと具合が悪くなっていく様子で、咳やくしゃみを繰り返し、落ち着くとまた話し続けた。聡は磯生の咳が落ち着くまでの不自然な間隔が、こちらを訝しんでいるためではないかと考え、毎回冷や汗が流れた。磯生の一方的説明と咳やくしゃみのやり取りが続いた後、さすがに埒があかないと思ったのか、磯生が座布団が敷かれた位置からさっと立ち上がって、聡の方に近づこうとした。

「近寄らないで!」

 美津子が鋭い声で叫んだ。

 背中越しに磯生の動きがピタっと止まったのを感じた。緊張感がひりひりと伝わってくる。

 咳もなく、物音さえしなかった。


「……お婆ちゃん、結核だったので」

 美津子の掠れた声がした。

 結核?……そんなことが設定にあったとは聞いていない。

「えっ、……そ、そう、なんですか? ズーッ」

 磯生は鼻をすすりながら、その言葉をどのように受け止めて良いか思案しているようだった。しかし、結局得体の知れないものに対して安全策をとることにしたらしく、それ以上の追求はせず、元の場所に座り直した。ゴソゴソと衣擦れの音がして、磯生が再び何度もくしゃみをした。聡は演技ではなくそろそろ臭い布団に顔を埋めておくのが限界で、磯生につられたようにひどく咳込んだ。アレルギー症状での具合の悪さに加えて、あまり聞き慣れない病名を聞き、磯生が動揺している様子が見て取れた。その後さらに激しく何度も咳とくしゃみをして、やっと落ち着いたところで、

「それじゃ、具合が悪いときに本当に申し訳ありませんでした。色々事情はおありのこととは思いますが、美津子さんが登校できるよう援助していきたいと思いますので、今後ともよろしくお願い致します」

と苦しそうに言うと、そそくさと立ち上がって部屋から出ていった。そして、手短に美津子に別れを告げ、玄関の引き戸を開けて出ていった。

 一難が去った安堵感よりも、息苦しさと背中に食い込むような疲労感が残った。

 

 その夜、磯尾を突然の災厄が襲った。家が全焼し、一緒に住んでいた両親が逃げ遅れ、二人とも焼け死んだのである。火元は不明だった。


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