第8話

竹夫は塾に行ってからも、ずっと聡のことを考えていた。

「聡君は、今日もおかしかった」

 最近の聡は妙にイライラして、尖り方が以前よりずっと激しくなっている。ヒナに対しては優しいが、その優しさも妥協がないというか、すごく尖って世話をしている感じなのだ。あれでは、ヒナの方も疲れてしまうのではないかと竹夫は想像した。

 塾では学力別のクラス編成のため、聡と竹夫は同じクラスではない。クラス間の行き来は禁止されていて、どんなに気になっても、様子を見に行くことはできない。張り出された成績からは相変わらず好調な様子が伺えたが、だいたい聡の場合は万年トップで塾内では敵のない状態だったから、それこそ、そんなところで違いが分かるようなら、一大事と言えた。

「聡君は、大丈夫」

 授業中、何度も心の中で唱えた。心の中のつもりだったが、実際に口に出していたらしく、隣の奴が「気味悪りぃ」と言って、消しゴムのカスを投げてきた。

 通常の授業が終わってからも、聡は補習を受けていた。もちろん、できない部分を補う補習ではなく、聡だけ特にレベルの高い問題を解かせるために、塾長が直々に個人教授をしているのだった。竹夫は、いつもなら受付のおばさんの厳しい視線に耐えながら塾の本棚にある『まんが日本の歴史』を読みながら聡を待つのだが、昨日“殺すメール”をもらうほど遅くなった翌日ということもあり、今日は必ず九時半までに帰るように言われていた。(そんなこと言われても無理)と思っていたのだが、竹夫の気持ちを見ぬいたように「今すぐ帰らないとほんとうに殺す 母より」という脅迫メールが来た。


 最近竹夫は、塾の講師や聡にも言っていない、あることを考えていた。

 それは、もしかしたら、ほんの少しでも、自分が聡と同じ中学に行ける可能性があるのではないか、ということだった。もちろん、今のままでは無理なことは分かっている。でも、頑張れば、本当に死ぬほど努力すれば、何とかなるんじゃないかと、ぼんやりと思うことが増えていて、その考えは竹夫の頭をいっぱいにした。

「僕が聡君と同じ中学に行く」そう考えるだけで、未来が広がり気持ちが晴れ晴れとする。おまえには無理だ、という弱気な声には耳を貸さないようにして、今日の授業の復習から始めた。

 眠る前に聡の部屋の窓をチェックすると、必ず明かりが点いている。でも、これからは明かりが点いている間は眠らない。きっと、自分は聡の二倍も三倍も勉強しないと話にもならないだろう。同じ学校を受験したいと言っても誰も相手にしてくれないかもしれない。バカにされること自体はつらくはないが、本当に望むことのために頑張れない自分と、これからも一緒に生きていかなければいけないことは、かなりつらいような気がした。

 午前一時半、「もう大丈夫だろう」と思って明かりをチェックした。

 いつもよりもその明かりを眩しく感じた。いきなり挫折するわけにもいかない。竹夫は顔を洗って目を覚まし、もう一度机に向かった。「きっと何とかなる」と何度も自分に言い聞かせた。



 その日、聡が塾の復習を終えて、模試の過去問を解いていた時、めずらしく母が午前になる前に帰宅した。

「ただいま!」「うん、おかえり」

 聡の薄い反応に落胆の色を浮かべた母は、少しの間の後、勉強の邪魔にならぬよう、そっとドアを閉めようとした。

「今、ちょっといい?」

 ドアが完全に閉まってしまう直前、聡は今思いついたようなふりをして声を掛けた。

「うん、いいわよ!」

 母が嬉しそうに声を弾ませ、首をニョキッと部屋の中に入れて応えた。

「あの、ほんと心あたりが無かったら、聞き流して欲しいんだけど、今の担任、知ってるよね?……磯生先生って言うんだけど、あの人とお父さんって、何かの知り合い?」

「し、知り合い?」

 母の声が裏返っている。明らかに動揺していて、聡は何だか申し訳ない気持ちになった。

「どうしたの、突然? どこでそんな話聞いたの?」

 聡は我ながら不自然だと思いながら、準備していた通りに答えた。

「学校でたまたま先生と家族の話になって、お父さんのこと、ぼくが思ってるより詳しかったから、どっかで面識とかあるのかなと思って……」

「さっちゃん……面識とか難しい言葉を使うのね」

 いつもなら、いい加減「さっちゃん」を止めて欲しいと注意するところだが、今日はむしろ子ども扱いしてくれることを有り難く思った。

「そうねえ。……面識、めんしき、あー、うん」

 まるで「面識」という言葉の意味を噛みしめるように何度も呟いてから、母は答えた。

「面識は、あると思う。お仕事の上でかもしれないけど、お母さんも詳しくは分からない。……ごめんね」

 答えながら母の顔が硬くなるのが分かった。(いけない、母が父の話に反応して、扉を閉ざそうとしている。)そう感じた聡は前置きなく、核心の質問をした。

「お父さんが死んだことって先生に関係ある?」

 母の目が見開かれた。しばらく返事が返ってこない。

「どうしてそんなこと言うの! そんなこと、先生が言ったの?」

 顔を赤らめ、目に涙を溜めた母が大きな声を出した。ある程度反応は予測できていたものの、聡は自分の無神経さを後悔した。父の死は、二人の間でめったに口にしてはならない領域に属する話題だ。普段は箱の中に入れ、そちらに目を向けないようにして暮らしていた。そうでないと母も聡も、普通に起きて学校や仕事に行き、夜は当たり前のように眠るということができなかった。それに向き合って、向き合い続けて生活することなど、とてもできないことだった。

 しかし、美津子が播いた父の死に関する暗示の種子は聡の頭の中で大きく成長し、出口を求めていた。真実として、実ったものを収穫するか、虚偽として、根絶やしにするか、何らかの解決を求めていた。母と自分にとってはあまりにも辛すぎる話題だからこそ、どのように持ち出して良いか迷った末、何気なく唐突に尋ねてみたのだった。

「いや、先生が言った訳じゃない。僕もどうしてこんなことが気になるのか分からない。でも、バカバカしいとは思っても、どうしても頭から離れてくれなくて……きいてみたくなったんだ。ごめん」

 聡は、なるべく思ったままを語るようにしながら、それでもなお美津子のことだけは持ち出さないようにしていた。この場所で美津子の名を口にすることは、家の中に不吉を招き、彼女の示唆に対する全面降伏を意味するような気がしたのだ。

「さっちゃん……聡、本当にどうしてそんなこときくの? お父さんは病気で死んだのよ。悲しいことだけど……そういう病気なの。そうとしか言えない」

 母は父が死んでから、聡に何度となく繰り返してきた話をした。そうだ、父は病気で死んだのだ、そういう病気がこの世にはあって、仕方のないことなのだ。そういうふうに納得しようと、母に繰り返された何倍も自分に言い聞かせてきた。そして、それがうまくいっているようなふりだけはできるようになった。

 父の死について尋ねることが無駄であること、母を傷つけること、もしかしたら生きている人間の世界から父が行った側に半分足をつっこむ行為であることを知っているからこそ、目を背けて生きるようにしてきた。それは、そうすることがうまく生きることであると信じていたからだ。

 しかし、いくら潰しても潰し切れないほど、疑問を唱える虫が湧いてしまう。「本当は」どうしてなのか、知りたかった。どんなことに関係があるのか、一体誰のせいなのか、……誰かに何とか説明して欲しいとうめいていた。少しでも納得のいく説明をつけてくれるなら、どんな説にでも飛びついて良い気がした。だから、美津子のことを否定しながら、根本のところで拒絶できずにいるのだ。

「ごめん、お母さん。もういいから……分かった」

 母は聡の様子を見て、悲しげに目を伏せた。そして、父の死について、誰のせいでもないことを、おとぎ話のおわりに付け加える決まり文句のように繰り返して、聡の部屋を出ていった。

 母が出て行った後には、やる瀬無さと後悔が残った。無用に母を傷つけ、得られたのは父と磯生に面識があり、それ以外にも自分の知らないことがありそうだということだけだった。

 母に父の死について尋ねるのは残酷なことだ。父と磯生との関係をきいて、一体どうするつもりだったのか。結局、自分は美津子の言うことを完全に否定できない。彼女の放った言葉が線虫のように体にまとわりついて離れない。美津子は何か、知っている。

「分かってしまうの……」あの声がまた、頭の中で響いた。

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