第7話

スズメのヒナは毎日確実に大きくなっていた。お腹とお尻にはまだ地肌が見えていたが、羽毛は大方生え揃い、誰が見てもスズメの子どもと分かる姿となった。このまま順調に行けば、来週か再来週には巣立ちの訓練ができるかもしれないと聡は思っていた。

 当初はクラスのほぼ全員が夢中になっていたヒナの世話も、当番制はいつの間にかうやむやとなり、今は比較的熱心な限られた者が行うようになっていた。聡は、一つ一つの世話について細かく助言・指導した。そして、そのような聡の干渉を嫌がるものも多く、さらに世話を行う者を少なくしていた。面と向かって言う者こそいなかったが、クラスの中にはヒナの飼育に関して(あいつ一人で勝手にすれば良い)という雰囲気が生まれていた。一人で勝手にやりたい聡にとって、それは好都合だった。餌をやるにしても、すり餌だけやっていたのではいけない。青菜を混ぜたり、柔らかい昆虫が手に入れば、それを与えたり、時にはドッグフードを与えるなど、バリエーションを広くして、栄養のバランスを取ることが必要だった。餌のことだけにしても、考えなくてはいけないことは多い。ヒナの世話をいい加減な者たちに任せることはできなかった。誰かが、責任をもって一人で全体を取り仕切ってしまうことが必要だと考えた。銘々が勝手なことをしたのでは全体の統合がとれず、ヒナの健康を損なうことになりかねない。聡にとって、ヒナは誰かがしっかりとつなぎ止めておかないと容易に「向こう側」に行ってしまう庇護すべき存在だった。

 ヒナのほうでも、聡のことを分かっている様子があり、聡が親の鳴き声を真似ると、それに応えて声を上げ、口を開けた。そのようなことは、他の者がいくら真似をしたところで起こらなかった。皆も聡がヒナから特別な存在と認識されていることは認めざるを得なかった。

 聡はヒナの世話をしているとき、普段とは異なる充足した気持ちを感じることができた。それは、勉強で結果を出したときや手を洗っているときとも異なる満ち足りた感覚だった。他のことで勉強時間が削られたり、集中が削がれると無性にイライラする自分が、ヒナの世話に関してはむしろ満たされた気持ちになることを聡自身も不思議に思った。他の何もかもにおいて、自分の心の揺らぎのようなものを許さないように律していた聡は、ヒナとの関係において、初めてそうした揺らぎも含めて自分の存在を許されたように感じていた。


 皆が帰ってから、聡はヒナの巣箱の掃除をしていた。以前の聡であれば少しでも早く帰って、塾の予習をしていただろう。でも、今はヒナの様子が気になって仕方がない。巣箱が汚れ、ヒナが病気になるかもしれないと考えるだけで鳥肌が立つ。

 竹夫が特に手伝いもせず、近くで聡を見ながら、んー、んんー♪と聴いたことのない曲の鼻歌を歌っている。実際は知ってる曲なのかもしれないが、どちらにしろ音痴なので元の曲は分からない。

「なあ、タケ、おまえ最近美津子おかしいと思わないか?」

「んー、思ったり、思わなかったり……いろいろ」

「おまえ、はっきりしないな」

「ごめん、でもほんとうにはっきりしないんだよ……いつもの美津子ちゃんかと思ってたら、急にキリキリっとしてスゴいこと言ったり、昨日みたいにビックリさせたり、良く分かんないや。でも、どうして? 聡君、美津子ちゃんのこと好きなの?」

「おまえ、冗談は顔だけにしとかないと、ぶっとばすよ?」

「うん、分かった! どんな感じか、ぶってみて」

 竹夫は目をつぶって、身構えて待った。

「……もう、いいや。おまえと話すとなんか徒労感がすごい」

「えっ、何それ? ……えっとぉ、トロウカン、と」

 竹夫はまた聡ノートを出して書き写している。聡は、何だかどうでも良くなって、再びティッシュを裂いて巣箱に敷き詰める作業に集中するようにした。


 巣箱内はいつも清潔にした。今の状態のヒナには当初ほど高い温度や湿度が必要ではない。保温も片側から電気スタンドを当て、位置を適温の三十度前後になるように調整するだけで良かった。

 聡が帰った後は担任の磯生に世話を頼むため、磯生に帰宅を告げることにしていた。ヒナは起きている間、三十分から一時間おきの餌やりが必要なので、塾のある聡にはその間の面倒がみられない。不本意ながらも、聡は夕方からのヒナの世話を磯生に頼らざるを得なかった。

 

 帰りに職員室に寄って、磯生に声をかけた。

「それじゃ、ヒナのことお願いします。十分前に餌はやってますから」

「……聡君、今日調子悪いの?」磯生が相変わらず頭のてっぺんから出ているような声で唐突に尋ねた。

「調子なんか、悪くないです! どういう意味ですか?」

 頭に血が上って、つい大きな声を出してしまった。他の教師たちが何事かと二人の様子を見ている。

 磯生としては、苛立っている様子の児童を気遣っての言葉かも知れないが、聡には(おまえなんかに言われたくない)という気持ちがあり、怒りのポイントを突くかたちになった。

「大した意味はないんだけどね、今日はイライラしてるみたいだからさ……」

「大した意味がないなら言わないでください。意味の分からないことを言われなければ、イライラなんかしませんから!」

「あら、そう? なら良いんだけどね。ズーッ」

 磯生は、鼻をかみながら、聡のきつい言い方を気にする様子もなく応えた。その様子がさらに聡を苛つかせた。

「失礼します!」

 そう言うと、聡は踵を返して職員室から出ていった。

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