第6話

 後片付けを終え、聡が「じゃ、オレ帰る。明日は学校来いよ」と言って帰ろうとすると、美津子が振り向いて「あの、もう少しだけ話してもいい?」と言った。

「ごめん、今日はやめとこう。疲れたし、遅いし……」実際、頭も体もこれ以上働きそうにない。

「でも、今日じゃないとできない話なの」美津子の口調が強くて、聡は押され気味になった。

「そうなの?」「そうなの」「どうしても?」「どうしても」

 美津子が譲ろうとしないので、聡は仕方なく従うことにした。抵抗する気力も無くしていたのである。

 美津子の部屋では妹が眠っていたので、美津子と聡は先ほどまでお婆ちゃんが寝ていた布団の横で話すことにした。

「話って……何?」

「どうしても言わなくちゃいけないことなんだけど……聡君にとっては空想とか、妄想とか、そんなことになってしまうかもしれない。私、これから起こることが分かってても、上手く話せないって言ったでしょ? それを、聡君が理解できないとか、そういうことはあり得ないとか、そういうことは今言わないで。お願い。それは私にとっては現実だから、もう仕様がないことなの。普通のことなのよ。私、怖いの。本当に怖いの。自分の知っていることを全部話して相手からどう思われるのか……それよりもっと、相手の人生に踏み込んで行くのがすごく怖いの」

「それってオレに関係のある話? 怖いなら言わなくてもいいんじゃない? 俺も聞きたくないし」

「でも、これは話すべきことなの。話して聡君に恨まれることになったとしても、話しておかなければいけないことなの。私、聡君のお父さんが死ぬって、知ってた」

 一瞬で、高圧の電流を流されたように全身が熱くなった。

「……ちょっと、待て。おまえ、何言ってんだ」

「聡君のお父さんが、薬を飲んで、死ぬって知ってた」

「おまえ、どうしてそんなこと。なんで、今、そんなこと」

「私、分かってしまうの……だから遠足の日、聡君のお父さんが死ぬって、知ってた。それで、私、聡君に帰った方が良いって言おうとしたけど、聡君があんまり楽しそうで、言えなかった。それに、あんまりひどいことだったから……どんな風に思われるのか、聡君の人生がそれで変わってしまうんじゃないのか、そんなことが頭の中でぐじゃぐじゃになって、何も言えなくなってしまった」

「それ以上言うな。……それは違う。そんなことあり得ない」

「これを話して聡君が私と二度と口をきいてくれなくなっても良い。でも、本当に言わなくちゃいけないのはここからなの。聡君、お父さんは本当は自殺じゃない。殺されたのよ」

「違う! おまえ、頭がおかしいんだ。どうして、そんなこと言うんだ」

「だって、このままじゃ、また死んでしまう。私が、何も言わず、怖がって黙っていたら、聡君が死んでしまう」

「おまえおかしいよ。婆ちゃん埋めて、疲れてるんだ。今日はもう、早く寝ろ」

「そう言われるって分かってた。でも、聞いて。おかしなヤツの狂った言葉かもしれないけど、……このままだと聡君は死んでしまう」

「おまえ、思い込みにしても、激しすぎるぞ。頼む、もうやめてくれ。おかしいヤツの相手はしたくない」

「おかしくてもいい。聡君が行けって言うなら病院でも何処でも行くから、ちゃんと聞いて。聡君だけじゃない。聡君のお母さんも、このままだと、きっと……殺されるわ。先生に」

「先生?」

「私たちの担任の、磯生先生に」

「……何言ってんだ? どうして、先生がオレたちを殺さなくちゃならないんだ。おまえ、言ってることが無茶苦茶だぞ」

「聡君のお父さんも、先生に殺されたのよ」

「あ、そう。次のターゲットはきっと総理大臣だね」

「茶化さないで。私は真剣に言ってるの」

「おまえが先生のことをどう思おうと勝手だけど、オレまで巻き込むな。それに……おれの父親のことをあれこれ言うのは許さない。どうして、自殺とか、薬とかいうのか知らないけど、オレの父親は心臓発作で死んだんだ。勝手なことを言うな。他のやつにも、へんなことを言いふらしたりするな」

「私、そんなことしない。聡君のために話してるだけ。ただ、分かってしまうだけ……」

「また、それか……おまえも飽きないな。できれば、次のテストの問題でも教えてくれよ。だいたい、先生と俺の父親は、なんの関係もないだろ? 会ったこともないはずだ。思い込みにしても、もうちょっとマシなこと言えよ」

「聡君のお父さんは先生と関係があったのよ。聡君、一度お母さんに、お父さんと先生のことを聞いてみて。本当に気をつけないと大変なことになるから」

「もう、やめてくれ!」

 聡の叫び声が響いた。

 その直後、ミシッという床が軋む音がして、引き戸が小さく開けられた。

 水無子が立っていた。その姿には生きた人間の子どもらしい存在感が無く、道端に打ち捨てられた地蔵のようだった。

「起きたの? お姉ちゃんすぐ行くから。ごめんね、水無子」

 トイレに起きたらしい妹をなだめた後、美津子はもう一度聡に向かってこう言った。

「……聡君、怒らせてごめんなさい。でも、本当に気をつけて」

「分かったから、もういい。おまえ、ずっと家にいて、わけの分からないことを考え過ぎなんだよ。とにかく、明日は学校に出てこいよ」聡は、声の震えを抑えることができなかった。

 美津子はしばらく黙っていたが、最後には「うん」と返事をして、水無子をトイレに連れて行った。


 次の日、美津子は学校にやって来た。

 後ろから二番目の廊下側の席に俯き加減で座り、授業中はもちろん、休み時間を含めて自分の存在を消すかのように控えめに振る舞っていた。最近、昨日以外にも時々突飛な言動のみられる美津子だったが、その日は少なくとも見た目には以前の落ち着いた姿をみせていた。聡は昨晩の美津子の様子を思い出し、違和感を感じずにはいられなかった。

(あれは一体何だったんだ?)

 直接そう美津子に訊けばいいのかも知れないが、そんなことをして、また訳の分からないことを言われたら困るという気持ちのほうが勝った。

 訳の分からないこと……昨日は訳の分からないことだらけだった。自分から言い出したことではあるが、美津子の祖母の死体を埋めたということについても、まだ現実感が湧かない。聡は美津子の置かれた状況について考え、自分で判断して自分のやるべきことをやった、と思っていた。今も、そのことについては後悔していない。しかし、自分のしたことが本当に気持ちにしっくりきているかというと、そうではなかった。座っていても、尻が浮いているような、どこか間違った場所にいるような気がしていた。

 美津子の話。「私、分かってしまうの……」その声が、まだ耳に残っている。

 父親の死について、美津子が、自分が伝えた以外のことを知っているのは本当らしかったが、今さらあれこれ言われるのはとにかく不快だった。そして、それを担任の教師と結びつけるのは妄想としても突飛の度合いが過ぎた。さらに、どうして先生が自分と母親を殺さなければいけないのかも全く理解できない。

 別に、磯生のことを特に信頼しているわけではない。あの教師が自分を殺さなければいけない理由を具体的に思い浮かべることはできなかったが、考えてみれば、自分を嫌っているかもしれないと思える点はいくらでもある。自分でも自覚しているが、聡は磯生のような、いわゆる教師らしくない教師は嫌いだし、授業の間違いに敏感で、それを指摘することにも躊躇しなかった。(嫌なガキだと思われてるんだろうな)そう思うこともしばしばだったし、あるいは憎まれてさえいるかも知れない。だからといって、あんな教師でも、そんな理由で人を殺すはずはない。聡が現在持っている磯生についての情報からは、自分に危害を及ぼす可能性をイメージすることがどうしてもできなかった。

 一日中、父親のこと、磯生のこと、そしてどうして自分と母親が殺されなければならないか、考えの中心は漂ってはいても、それらのことを漠然と考えてしまっていた。頭の中から追い出そうとしてもうまくいかない。もともとこだわりの強い性格が災いして、考えないようにすればするほど、思考の空白を埋めるように、美津子の着想の根拠を探し続けていた。普段から持っている磯生に対するネガティブな印象に拍車がかかり、気がつくと、磯生へのあたりもいつもより厳しくなっていた。いつもだったら許せることが許せなくなっている。聡は学級委員なので、どうしても他の児童よりは教師との接触が多くなる。(ああ、なるほど、この教師はこういうときに自分のことを憎むのだろうな)と思い当たることが増えていった。

「あら聡君、今日怖い顔してるわね。クシュッ」

 そんな磯生のくしゃみまじりの一言がさらに聡を苛立たせた。

 皆が自分を何となく避けているように感じた。竹夫を含めて、クラスの連中の聡への接し方も、いつもより気を使っているようで、余計にムカついてしまう。

 休み時間にはいつもより長く手を洗った。手を洗っているときは気持ちが落ち着く。何とか、様々なものを洗い落とさなくてはならない。

 このままでは、絶対に、良くない。

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