第4話

ヒナが教室に来てから、三日が経った。ほとんど丸裸で未確認生物みたいだったのが、毛が生え始めて鳥らしくなった。聡は他の班が当番の日でも、何かと口をはさむので、煩さがられてもいたが、図鑑やインターネットで調べて知識を蓄え、今では教頭よりも鳥の飼育に詳しくなっていたから、頼りにされてもいた。当番が休み時間ごとに餌を与えるときも、聡がヒナの首の付け根が膨らむのを確認し、餌やりを止めるタイミングを指示した。

 元気になったヒナは授業中でもガサガサとよく動き、よく鳴いた。そして、いつのまにかそれが当たり前になり、声が聞こえないと心配そうに巣箱の方をみる者も多かった。交代で観察日記をつけることになり、毎日少しずつ変化するヒナの様子に、クラスじゅうが一喜一憂した。


 美津子はあの日以来、学校を“風邪”で休んでいる。

 毎日、帰りの会では日直がいつもと同じように「今日、嫌なことされたひとぉー」と尋ねていた。ただ、あの日から変わったのは、その後の奇妙な沈黙だけだった。その沈黙の中で多くの者があのときの美津子の様子を思い出しているようだった。

 美津子の机の中には、授業で使った資料や家庭への知らせのプリントが溜まっていた。それらを房子が家まで届けることを申し出て、その日の帰りに自宅に行くことになった。


「あんたも来なさいよ」

 房子が、聡を強引に誘った。

「どうして? 理由がないだろ?」

「ちょっとは悪いと思わないの?……あの日から美津子来てないのよ」

「勝手に勘違いしてんだから、ほっときゃいいだろ?」

「あんた鳥に優しくするより、もっと人間を大事にしなさいよ。美津子と幼稚園から一緒なんでしょ? そんなんじゃ、いつかあんたのイソギンチャクからも見捨てられるわよ」

「……あの、それ、腰巾着のこと?」

 房子もすぐに気づいたらしく、顔を真っ赤にして黙っている。

「ふふ……イソギンチャクですか?」

「そうよ。イソギンチャクよ! 岩に貼り付くみたいにあんたにいっつもくっついてるから、イソギンチャク! 何か、悪い?」

「おまえ……ある意味、すげえな」

 竹夫は聡ノートを広げ、“いそぎんちゃく”の上に大きく×印をつけ、矢印の後、“こしぎんちゃく”と書いた。そして、落ち着かない様子で話の成り行きを見守っていた。



 房子は軍隊パレードのように背中を真っ直ぐ伸ばし、迷うことなく道を進んでいく。

 その後ろ姿を見失わない程度のところを不機嫌そうな顔をした聡が背中を丸めてついていった。そして、そのすぐ後ろを竹夫が続いた。

 聡はなぜ自分が美津子のうちに行かなくてはならないのか、納得していない部分もあった。でも、モヤモヤしたものをはっきりさせるために、結局房子についてきたのだ。

 美津子は、広い庭のある平屋の一軒家に、祖母と妹と三人で暮らしている。

 房子は、前にも何度か美津子が休んだときにプリントを届けに来たことがあるらしい。前に来たときには、優しそうな老女が、丁寧に礼を言いながら出迎えてくれたという話だが、その日は何度呼び鈴を押しても誰も出てこなかった。中で大きく、チャイムが鳴っているのが聞こえる。さらに何度もしつこく呼び鈴を押しても何の反応もない。玄関の引き戸を引いてみたが、鍵が掛かっていた。

「いないんじゃねえの?」聡がうんざりした調子で言うと、

「そんなわけないでしょ。家の人がいなくても、美津子は学校休んでどっか行ったりする子じゃないから」

「もうやめようよ」竹夫が不安そうに言った。

 房子は気に留める様子もなく庭の方に向かった。玄関前から庭へは特に門があるわけではない。土がむき出しの庭に入っていくと美津子と妹の自転車が置いてあった。房子はさらに奥に進んで、カーテンの閉まったアルミサッシのガラス戸を叩いた。

「みつこー、わたしー、開けてー」

 聡が少し離れた所に立ち、「あんなんが来たら絶対開けないよな?」と竹夫に言っていたら、カーテンが少し開いて、美津子が顔をのぞかせた。

「房子、どうしたの? 聡くんまで……」いかにも困惑した表情の美津子が言った。後ろから、妹の水無子が顔だけ見せていた。その顔には生気が無く、売っていても絶対買う気にならないヌイグルミのようだった。

 部屋は真っ暗だった。

「プリント持ってきた。ごめんね、変なの連れてきて」

「ううん。あ、ありがとう」

「具合、どんな感じ? 少し、話せる?」

 房子が尋ねると、こわばった表情でかぶりを振りながら応えた。

「だめ、今日は。ほんと、ごめん」

「どうしたの、美津子、最近本当におかしいよ。この前も変だったもん……わたし、美津子の友だちだよね。わたしは、そのつもり。美津子は違うの?」

 後ろから聡が「あれ、ほとんど脅迫だぜ。あの粘り、イソギンチャクって言うんじゃないか?」わざと聞こえるように言うと、房子が鬼の形相で睨んできた。

「わたしも、房子は友だちだと思ってるけど、でも、今日はだめなの。明日から、学校行くから……ごめん」

「じゃ、ここでもいいから、この前のことがあって学校だとみんなが注目してるし……少しだけ話させて。それに、もう、だいぶ話してるし、いいでしょ?」

 結局、房子のイソギンチャクなみの粘着力に負けて、玄関からじゃなく美津子の部屋だけならということで、入れてもらえることになった。


「何か、臭いよ?」少し遅れて入ってきた竹夫が言った。

「バカだな、年寄り臭いっていうんだ、こういうのは」

「あんたたち、ひとんちに入って、何失礼なこと言ってんの。やっぱりこんなバカ連れてくるんじゃなかった。本当に年寄りがいるんだからしょうがないでしょ……あ、ごめん。わたしも失礼だった」

「だいじょうぶ、お婆ちゃん、寝てるから……」

 そう言うと美津子が堪えきれなくなったように泣き出した。泣いている美津子の服を、水無子が引っ張っている。

「大丈夫だから……水無子は向こう行ってなさい。お婆ちゃんの部屋に入ったらだめよ」

 泣きながら美津子がそう言っても、水無子は得体の知れない幼虫のようにもじもじ体をくねらせるだけで動こうとしなかった。

「お願い! 水無子」美津子が少し声を大きくして言った。

 房子と聡は顔を見合わせた。

「タケ、水無子ちゃんとと一緒にちょっと向こうに行っててくれ」「え、ボク?……」「房子は美津子と話がある。おまえに頼む」「聡君は?」「これはおまえにしかできない。頼む」「え、そうなの?」


 廊下から竹夫の「オジさんは怪しい者じゃないからね~」という声がした。

 妹が出て行くと、それまで我慢していたのか、美津子の嗚咽が激しくなった。房子が肩に手をやりながら語りかけた。

「ねー、美津子、どうしたの……何悩んでんの? 言ってごらんよ」

「そうだ、吐いたら楽になるぞ」バシッ! 房子が聡を叩いた。

「わたし、お婆ちゃんが死ぬって分かってたのに、今度も何にもできなかった……」

「何言ってんの、美津子。ちょっと、しっかりして!」房子が肩に当てていた手を若干掴むようにして言った。

「私ね、この前、聡君が鳥に飲み物あげるのを止めてくれて、本当はほっとしてたの。私も、鳥の具合が悪くなるって分かってた。本当に分かってたのに、危ない目にあわせるところだった。ああいうとき、分かってても、言えないの。どうしても、言えなかった。自分からやめるって言えば良かったのに、房子と聡君が言い合うのを黙って見てた。だから、二人に何とか謝りたかったの」

「ごめん、美津子、全然分かんない。どうして、お婆ちゃんの話とこの前の話が一緒に出てきちゃうの?」

「だから、私、分かってても何もできないの。分かってて、いつも何にもできなくて、結局その通りになってしまうの」

「だから、何が?」聡が少しうんざりしたように尋ねた。

「人が死ぬとか、とても嫌なことが起こるとか、これからそういうことが起こると知ってても、それを止めることができない」

「おまえ、分かってるとか、知ってるとか、何言ってんの?」

「美津子、ねえ、もう少し分かるように言ってくれる?」房子も心底困った様子だった。

「分かるようには……言えない。私にも、本当は良く分からない。でも、私はあのとき、自分が次に水をやったら小鳥にとても悪いことが起こるのを知ってて、黙ってた。だから、どうしても二人に謝りたくて、ちゃんと私が悪いことを伝えたくて……」

「ちょっと、待て。おまえ、考え過ぎ。分かるとか知ってるとか。……ネ、整理して考えようよ。きっと、キミとボクが理解し合える方法があるハズだ」

「あんた、美津子に無理に言わしといて、そんなふざけた言い方はないでしょ?」そういう房子にも、さっきまでの勢いがなく、困惑が滲んでいた。

「美津子が、鳥のことをどうしても謝りたかったってことだけは分かったけど……それより、お婆さん、どうしたの? お婆ちゃんが死ぬって……本当に、死んじゃったの?」

 美津子が黙って頷いた。

「どうして、そんな大事なこと、学校に連絡しないの? 先生だって、何も知らなかったし、私たちだって、分かってたら、美津子が大変な時に来なかったのに」

「言えないの」

「言えないって、どうして?」

「まだ、誰にも知らせてないの」

「知らせてないって、どういうこと?……死んだまま? ほんと?」

 もう一度、美津子が深く頷いた。

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