第2話

 帰りの会で「今日、嫌なことをされたひとぉー」と日直が尋ねたとき、竹夫は美津子についてはまず心配はないと高をくくっていた。しかし、房子なら聡のことを訴えるのではないかと、ドキドキしながら何度も振り返っては彼女の顔を見ていた。遠慮なくじろじろ見られると、房子は廊下のほうを向いてしまい、結局手を挙げることはなかった。聡は後方の席で、竹夫の様子にも気づいていたが、全く動じる気配もなく、ただつまらなさそうに、日直や黒板をすり抜けて、もっと遠くを眺めているような視線を前方に送っていた。

 そのとき、「はい」とか細いが良く通る声がした。教室の全員がその方向を見た。

 そこには手を挙げている美津子がいた。しかし、それが何を意味しているのかしばらくは誰にも分からなかった。男女一人ずついる日直もぼーっと見ていたが、やがて女子のほうがやっと自分の役割に気づいたように「藤沢さん」と指名した。

「わたし、嫌なことを……しました」

 日直が「は?」と顔に疑問符を浮かべた。

「わたし、鳥がもう飲みたくないのを知ってて、飲み物をやろうとしました。それで、須崎君と清岡さんに迷惑をかけました」

「全然違うだろ。わけ分かんないこと言うなよ!」 聡は顔を赤くして大きな声を出した。

「あら、須崎君、発言は手を挙げてからじゃないとだめじゃない?」磯生が鼻を啜りつつ、「一応私先生だし」という雰囲気を醸しながら注意した。

 房子が挙手の後、発言した。

「須崎君と私が鳥の水やりのことでけんかしたのは本当ですが、藤沢さんのせいではありません」

 聡も冷静さを取り戻して言った。

「ヒナの世話のことで、清岡さんと意見が食い違い、そのことで言い合いをしました。でも、それは藤沢さんが何かしたからということではありません。藤沢さんが自分のせいで僕たちがけんかしたと言うのは心外です」

「“しんがい”と…」竹夫がいつも離さず持っている“聡ノート”にメモした。後で、「聡君はすごいなあ」と眺めながらニヤニヤしたり、自分の知らない言葉を調べるためだ。

 美津子は少しうつむき加減でじっとしていた。特に反論もしない。何かを言い返すつもりならば、長過ぎる時間が経った。


 竹夫は聡の言葉をメモし、聡語録のコレクションが増えて少し悦に入りながらも混乱していた。めったに自分からものを言わない美津子が、よりによってこんな場面で発言したことに面食らったし、言ってることも理解を越えていた。だって、そもそも日直は嫌なことを「された」ひとを尋ねたのに、美津子は嫌なことを「した」という。美津子は今、的外れでとんでもないことをしているのではないだろうか。それとも、自分が知らないだけで、彼女が言ったことは犯人が自首するのと同じで、良いことなのだろうか。それなら、罪が軽くなるはずだが、聡は美津子の発言に怒っているようだ。やっぱり、訳が分からない。とにかく竹夫はとんだ伏兵の存在に度肝を抜かれ、塾の四字熟語のテストで出た“油断大敵”という言葉を思い出していた。


 日直が途方に暮れるほど長すぎる沈黙の後、美津子は「やっぱり、私のせいです」と前を向いて言った。そして、今度こそ二度と口を開こうとしなかった。再びうつむき、机の上を見ながら、手を膝の上で硬く握っていた。

 教室の空気が張りつめていた。唾を飲み込んだら、その音が教室じゅうに響きわたりそうだった。

 数分にも感じられた間の後、隣の女子に突かれてハッとした男子の日直が言葉を発した。

「他に何かありませんかぁ」

 この間の抜けた一言で、やっと時間が流れ出した。そのあと会では、小鳥を飼っている者が、翌日ヒナのための「すり餌」を持ってくることが決まった。ヒナのことを話し合っているときでも、教室のほとんどの連中は“ヒナをどうするか”より、“美津子をどうするか”のほうにまだ気を取られていた。



 竹夫は静かな教室でただ一人待ち続けていた。

 ヒナは磯生が獣医に診せると言って「スズメ! 取り扱い注意!」の箱ごと連れて行った。聡はいつものことだが、トイレからなかなか出てこない。今日はいつもよりも長くかかっていた。竹夫は勝手に待っているのだから文句を言うつもりはなかったし、聡を待つことをむしろ楽しんでいた。帰るときも竹夫が一方的についていくような格好で、それを一緒に帰っていると思っているのは竹夫の方だけかもしれなかった。それを考えると少し寂しかったが、それでも聡の後をついていくその時間は、竹夫が一日のうちで最も好きな時間だった。

 しかし、その日は様子が違っていた。

「俺、おかしいか?」帰り道で聡が突然、竹夫に尋ねた。聡から話しかけられたこと自体は嬉しかったが、いつもの聡ではないようで、なんだか不安になった。

「聡君は、おかしく……ないよ」竹夫は言葉を絞り出した。「今の聡君はちょっと、おかしいけど……」その一言を飲み込みながら、聡が言っている「おかしい」が何についての「おかしい」なのか考えていた。いつもなら、もっと考えずに何でも思ったことを話してしまうのだが、今日は原始的な部分で、「しゃべるな、危険」という気がしていたのかもしれない。

「今日、俺おかしかったか?」

「聡君がおかしいと思うなら、おかしいのかもしれない」

「何だ、それは?」

「だって、僕は聡君が思ってることは正しいと思うし……」

「おまえ、今日、美津子に水やりさせてやれって言っただろ?……おまえが何を考えてそう言ったのかは知らないけど、俺は自分が正しいと思って止めさせたんだ。本当に、もうやったらいけないと思った。これ以上ちょっとでもやったらヒナが死んでしまう気がした。ぎりぎりの時は、誰かが責任を持って決めないとだめだと思う。だって誰かが真剣に考えてやらないと、ぎりぎりのところでこちら側に止まってるもんが、向こうにいってしまう」

 聡は、竹夫の方を見ずに、噛みしめるような強い口調で話した。竹夫はその横顔をじっと見ていた。

「ごめん、そこまで……真剣に考えてなかった」

「真剣に、考えないとだめだ」

 それきり、聡はいつもの聡に戻って、何も言わなくなってしまった。

 竹夫は聡ノートに「真剣」と大きく書いておいた。


 今日はめずらしく塾がない。

 竹夫は帰ってから、好きなマンガを読みながらも、今日の聡の様子が気になって仕方がなかった。きっと聡は、自分がこうしてマンガを読んでいる間も、勉強しているに違いない。聡は常に前に行こうとしている。

「聡君はすごい」

 聡について考えるとき、まずはその言葉が浮かぶ。きっと、一緒にいられるのも今のうちだけだろう。自分はすごくないからだ。聡はこの前の全国テストで二万二千人中八位だった。全国で八位というのが、どれくらいすごいのか、実感としてつかめない。竹夫は五千から一万くらいの順位を行ったり来たりしている。

 自分でも思う。

「聡とはレベルが違う」

 マンガを読みながら言えたことではないかも知れないが、これでも努力しているほうなのだ。親に頼んで聡と同じ塾に行き始めた当初は、自分も頑張れば聡と同じ中学に行けるかも知れない、そんなふうに思っていた。実際に勉強を始めてすぐに、学校の勉強ではそれほど目立たなかった学力の差が、竹夫にもはっきりと分かるようになった。たとえば、算数の問題が提示される。まず、知識をそのままの形で使えるような問題は、最初から検討の対象にならない。どのように自分の知識を使ったら良いのか、提示された情報の整理や解釈から、つまずいてしまう。個々の数字の情報がどのように結びつくのか分からない。図示された図形が実際にどのようなものなのか視覚的に想像することすらできない。まずは、概念としての把握がそもそもできないことが多い。要するに何が分からないのかすら分からない。だから、答えをひたすら丸覚えすることで対処するようになった。そのような対処でその場だけは、くぐり抜けることができた。

 竹夫が何とか、機械的な反応の仕方を積み重ねて、その問題を答えを見ずに解けるようになったころには、聡はその応用の応用くらいのことをやっているか、次の単元に移っている。そして、解けるようになったとは言っても、聡の「解ける」と竹夫の「解ける」ということの意味が異なることも、演習やテストでさらに応用問題をやってみるとすぐに明らかになる。聡は分かって「解ける」が、自分の場合は、「分からないけど解けるように見せる」という表面的な技術を積み重ねているに過ぎないから、少しでも問われ方や条件の提示のされ方が変わると対応できなくなってしまう。しかし、この積み重ねさえ、できないことがある。いくら繰り返しても定着しない知識や技術が多くなっていた。竹夫がどうあがいても分からないことを、聡は当たり前のように理解する。竹夫にとって向こう側への扉は、数え切れないほど叩いて叩き壊すしかないのに、聡はその扉の鍵を束にして持っているように思えた。

 それと、粘り強さだ。

 聡が一体どれだけの時間、家で勉強しているのか、尋ねたことがある。聡はなんでそんなことを尋ねるのか、いかにもつまらなさそうにして「できるだけ」と答えた。そうなのだ。聡にとっては、なんでそんなことを疑問に思うのかすら分からないだろう。そして、聡が「できるだけ」というとき、それは本当に「できるだけ」なのだ。

 竹夫は今ここで、自分に足りないものを実感しながらも、マンガを読んでいる。自分の欠けている部分を真っ直ぐ見続けることができないのだ。たとえ目標があっでも、それに対する代償として自分の楽しみを差し出す覚悟もない。聡だったら、どうだろう。竹夫には、聡の足りないところなど、それはもう本来的に足りなくても仕方のないものではないかと思えるのだが、聡はそうは思わないだろう。満点に一点でも欠けていれば、それを満たすための努力を惜しまないはずだ。そして、本当に「できるだけ」の努力をするだろう。竹夫の目には、聡の在り方は一点に向けて妥協なく集中していく鉛筆の芯のように見えた。ずっと尖り続けていって、現実を刺し抜いていく。貫けない目標があれば、さらに尖っていく。それがとても怖い気がした。

「どうしようもない」

 竹夫は夏休みが終わるのを待っている子どもの気持ちだった。“これ”は、いつか終わってしまう。

 竹夫はマンガを読むのを止めて、塾の宿題を始めた。

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