不完全飼育日記

@mutuiw02

第1話

 その年の五月は異常だった。

 最高気温が三十度を越すいわゆる真夏日が続き、気象観測史だけでなく人々の五月に対する生ぬるいイメージを、星一徹のちゃぶ台のように覆していた。連日、太陽の恵みの大盤振る舞いが、人間の需要とは全く無関係に行われた。その日も人間の活動時刻よりも遙かに先行して、太陽光線の情け容赦ない照射が開始され、地上のあらゆる生物に無形の挑戦状を叩きつけていた。

 小学六年生の須崎聡が、学校に続く道のりの残り数百メートル付近を、眉に皺を寄せ、ロボットのように正確な歩調で歩いていた。

 道に落ちている、灰色のフワリとした物体が目に入った。

 そのフワリとした物と比べると、下敷きのアスファルトは硬質で、あまりにも無慈悲に見えた。それはひどく申し訳なさそうに、硬いベッドの上に横たわっていた。最近目が悪くなってきた聡が、その物体を顕微鏡を覗くような姿勢でにじり寄り、長い前髪をかき分け、凝視した。

 それは、親指ほどの頭を持ち、裸の部分の目立つヒナ鳥だった。

 あまり鳥に詳しくない聡だったが、それがスズメの幼少の姿であることは大きさや色・形からかろうじて分かった。野鳥のヒナをむやみに拾ってはいけないことは聞いたことがある。周囲を見回しても、鳥の巣はなく、親らしき鳥の姿も見あたらなかった。聡は、ギャング役に擬人化されたカラスが、このヒナを巣からさらって落とすところを、思い描いた。自分で丹念にアイロンがけしたハンカチを、皺一つない灰色のズボンのポケットから取り出し、少しの躊躇の後、そっとくるんで持ち上げてみた。まだ、息はあるが、体に力が入っていない。このまま放置すれば、数時間もしないうちに無尽蔵な精力を発揮している太陽に焼かれてしまうか、ギャングとまではいかなくてもチンピラなみに素行の悪いカラスや猫の餌食になるのが落ちだろう。

 聡は両手でハンカチの上に置かれたヒナを包むようにして支え、じっと見つめながら、どうしようかと算数の難問を解くときよりも真剣に考えた。中学受験の合否判定テストでは常に全国百番以内に入るのに、ごちゃごちゃ考えてるうちに思考が膠着し、路上にしゃがんだまま固まってしまった。通学途中の女子数人が露骨に聡と一線を画するべく大きく半円を描きながら避けて行く。

 聡が、そのままアスファルトに生えた雑草として周囲と同化しそうになったとき、突然、耳を突く高音の声が降ってきた。

「あらどうしたのそれ、まあ、かわいそうに。聡君が拾ったの?」

 顔を上げると、教室担任の磯生が聡の手元を覗くようにして身をかがめていた。

 聡はただ曖昧に頷いた。

「あらやさしいのねえ、助けようと思ったの? でもどうしたらいいかしら?」

 今度のは聡への質問でなく、自問であるらしかった。磯生はウーンと唸り、長くて艶のある黒髪をバサリと垂らしたまま固まってしまった。結局、雑草が二本に増えただけになった。

「あの、先生……」聡が話しかけても、磯生は、口を半開きにしたままニヤついていた。

「あの、センセイ!」ハッとして思索的世界から手ぶらで現実に帰還した彼女は、時計を見てから急にオロオロし始めた。そして、「須崎君、もう学校に行かなきゃ!」と叫んだかと思うと、しゃがんだ姿勢からのクラウチング・スータートをきめた。やっと聡の思考の速さが追いついたときには、既に二十メートル以上離れた地点をさらに加速度をつけながらハイヒールで疾走していた。

(あの先生、陸上部の顧問だったな……)と現象のほんの一部を説明する感想を抱きながら、残された聡は途方にくれていた。手の中に収まったヒナはやはりぴくりとも動かない。ただ、ハンカチ越しにも温かさが伝わってきて、それがまだ命を持っていることが分かった。このままここにじっとしていても仕方がないと、ヒナを揺らさないようにしながら立ち上がったときだった。さっき背中を見送ったばかりの磯生が、彗星のごとく猛烈な勢いで舞い戻ってきた。面食らった聡は、口を開けたまま、何も言うことができずに磯生の顔を見つめた。

「この子のこと、私に一任されたし!」

 磯生は変な日本語を吐いて、有無を言わさず聡の手からハンカチごとヒナを拉致し、今度こそ視界から消えて行った。


(もっと抵抗するべきだったか……)聡はヒナを磯生に託してしまったことで、悪事の一端を担ったような取り返しのつかない気持ちに苛まれていた。

「聡君、どうしたの?」

「どうもしない。絶対にどうもしない。言うとよけいに話がややこしくなる」

 聡が自分の机で頭を抱えていると、クラスの連中から聡の付属品と目されるほど、いつも聡についてまわっている竹夫が、丸いつるりとした顔を近づけて話しかけてきた。

「僕は、どんなことになっても聡君の味方だよ」

「何を言ってるんだ、おまえは。人を犯罪者みたいに」

「だってさっきから、『あーやってしまった』とか、『俺は終わりだー』とかぶつぶつ、世界の滅亡前みたいな顔で言ってるからさ……僕に告白したいことがあるなら、どんな恥ずかしい罪でも聞いて上げるよ。笑うとしても、ちゃんと聡君がいなくなってからにするし」 

 何のつもりか知らないが、竹夫は「いつでもおいで」というように大きく手を広げ、坊主頭を後ろに傾け、焦点の定まらない向こう岸を眺めるようなゆったりとした目をした。そして、聡の反応を待っているようだった。竹夫はいつまでも待っていた。



「今日からこの子はみんなの友達になります。はい、それじゃ自己紹介から! クシュッ」

 アレルギー持ちの磯生がくしゃみをしながら、教壇に置かれたヒナの入った箱に向かって促すような身振りをした。

 もちろん、誰も何の反応もしない。元気のないヒナも音さえ立てない。新しい担任になってから一ヶ月だが、既に磯生をどのように扱えばいいのか、みんなだいたい分かっている。ヒナの入れられた箱は、磯生が鼻をかむためにいつも手放さないティッシュの箱で、その横には黒板で見慣れた乱雑な文字で「スズメ! 取り扱い注意!」と書かれていた。

 磯生の導入に対する反応は薄かったが、ヒナの登場には歓声が湧いた。世の中の何もかもが気に入らないという顔をした隣のベテラン教師がうるさくて注意に来たほどだった。

「誰か、この子の面倒をみてくれるひとぉ」

 クラスのほとんどの者が手を挙げた。磯生もここまでの反応は意外だったらしく、大きな瞳をさらに見開いて驚いていた。結局、一限目に予定されていた、社会常識に欠ける担任による社会の授業を削って話し合いを行い、各班ごとに曜日を決めて世話をすることになった。その日は聡の班が担当になった。

 磯生は理科の専科教員を兼ねている教頭から、鳥の飼育に関する知識を仕入れてきたらしい。ヒナは新聞紙をちぎって箱に詰めた即席の巣の中におさめられ、上からタオルを被せて、教室の前方、良く日の当たる窓際の机の上に居場所を与えられた。箱には理科室から借りてきた温度計がさされ、保温のために電気スタンドの白熱球で照らすことも忘れなかった。

 磯生の世間に対するグチとくしゃみを聞くことを主とする社会の授業が小学生の関心をひく理由もなく、授業中も児童たちの視線は、ヒナのいる窓際に向けられていた。先ほどまでの後悔の念からは一応解放された聡は、関心を他の者に悟られぬよう冷淡を装っていたが、気がつくと吸いつけられるようにヒナの入った箱を凝視していた。その箱からガサッと音がする度に、教室がどよめいた。磯生は自分の授業兼グチを聞くようにたしなめながらも半分は黙認し、生き物の一挙手一投足に反応するクラスの様子を内心微笑ましく思っているらしかった。

 休み時間、教頭の勧めで、温めたスポーツドリンクを与えることになった。教頭が割り箸を準備していたが、今日の担当班長である聡が硬いものを使うとヒナがけがをするのではないかと申し出た。聡はあまりヒナのことに深入りしないよう自分に言い聞かせていたが、心配を抑えられなかったのだ。それほどヒナはやわらかく、少しのことで傷ついてしまうように見えた。聡が習字の時に使うプラスチックのスポイトを良く洗ってから使うことを思いつき、なま暖かいスポーツドリンクの入ったスポイトの先で、恐る恐るヒナのくちばしをつついた。ヒナは「そんなもん飲めるか」と言わんばかりのしかめっ面でなかなか口を開けてくれなかった。何度やってみてもうまくいかない。聡はくちばしの間にスポイトを無理に差し込もうとしたが、それを止めて「ちょっと、かしてみ」と教頭が代わった。くちばしの端に一滴落として息を殺して待つ。ヒナがくちばしを開けて、今にも落ちそうになっていた滴を乾いた舌で舐めとった。

「飲んだぁ!」

 ヒナの周囲に集まっていた者たちがそろって声を上げたが、中でも一番大声を出したのが聡だった。

 教室の後ろの方にいた連中も、その声を聞いて机を囲むように集まった。

 聡が教頭を真似て、手の震えを抑えながらクチバシの端に滴をそっと落とすと、また、ヒナがそれを舐めとった。いつも気むずかしい顔をしている聡の表情がパアッと明るくなった。

「さ、聡君、代わって!代わって!」

 竹夫が、先ほど見せたまがい物の鷹揚さとは打って変わって、落ち着かない様子で待ちかまえていた。さっきから密着した竹夫の温かい鼻息が頬に当たり、だんだんつらくなってきていた。

 聡は、まだスポイトを手放したくないという単純な気持ちとは別に、幼稚園の頃から竹夫がしでかしてきた数々のとんでもないことを思いだし、スポイトを渡すのを躊躇していた。しかし、ここで交代しなかったら、もっと大騒ぎになる。泥だらけの難路を突き進んで来たような長い付き合いから、それも良く分かっていた。

 聡は「そっと、するんだぞ」と何度も言い含めて、スカイツリーの展望台から飛び降りるような気持ちで竹夫にスポイトを渡した。竹夫は卒業証書を受け取るように両手でそれを持つと、まだ液体の残っているスポイトをそのままヒナのくちばしに近づけた。手だけでなく腕ごとぶるぶる震え、スポイトの先が大きく上下している。聡は実際には声に出さないものの、「あちゃー、やっぱスカイツリーだったか」と、アイアンクローの手つきで自分の頭を押さえた。その時、教頭が「ちょっと待ってな。もう、中身が冷えてるかも知れない」と、中身の液体を入れ替えるよう指示した。竹夫は今時幼児でもしないフグみたいに頬を膨らませる反応で不満を表したが、指示には従い、湯煎で温めたペットボトルから新しいスポーツドリンクを吸い取った。

 竹夫は、みんなの注目を浴びるという本人にとってはめったにあり得ない状態にも少し慣れた様子で、教頭が「この辺に」と示すと、聡がしたよりもずっと優しく滴をくちばしに置くことができた。そして、さっきと同じようにヒナがそれを舐めとると、竹夫は満足そうに頷いた。聡は吐きそうなほど緊張して見守っていたが、心配した類のとんでもないことが起きずに済んだことにほっとし、このときだけは教頭を、場末の小学校に降臨した救世主だと思った。


 その後は、聡の指示で、リレーのバトンを渡すように班でスポイトを回した。最初のときのような驚きこそ少なくなったが、それでもヒナがくちばしにのせられたスポーツドリンクを舐めとるたびに喜びの声があがった。

 気が強くクラスの女子のなかではリーダー的存在の清岡房子も、自分の与えた滴をヒナが飲んだときには、普段つり上がっている太い眉を下げ、嬉しさを隠さなかった。そのまま、班の全員が飼育当番のささやかな役目を果たし、満足が得られたら何の問題もないはずだった。しかし、房子から、隅のほうで待っていた藤沢美津子にスポイトを渡そうというところで、突然聡が遮断機を下ろすようにそれを制止した。

「ヒナがお腹を壊すから、もう止めよう」

 美津子は既にスポイトを受け取ろうと手を差し出していた。その白くて長い指が空しく宙に浮いている。

「今やめなくてもいいじゃない! 美津子、ずっと待ってたのに!」房子が猛烈に抗議した。

「鳥が死んでもいいのか?」

 注意していれば、確かに最初に比べると飲みが悪くなっており、実際は要らないのに、くちばしに置かれて嫌々飲んでいるようにも見えた。そろそろ「もういらないのではないか」という予感を持っていたのは聡だけではなかったが、死ぬというのは極端だし、何もあと一人のところで止めなくてもいいのではないか、というのが場の雰囲気だった。昔から美津子と仲の良い房子が、代弁して怒るのも無理はないところがあったが、当の美津子は整った顔立ちをわずかに歪め、そんな房子を済まなそうに眺めながらも、どこか他人事のような冷めた表情をしていた。

「死ぬってどうして分かるの?」房子が食ってかかった。

「死なないって、どうして分かる? 水でも飲み過ぎたら死ぬぞ」

「飲み過ぎじゃないでしょ? まだ口開けてるんだから」

「コイツはまだアホなんだから口は開けちゃうんだ。様子をみて加減してやらないとダメだろ?」

「アホかどうか分かんないじゃない!」

「分かってからじゃ、遅い! 死んでから、『あーアホだったね』って言うのか?」

「そんな問題? ちょっと水やるくらい良いじゃない!」

「人生には、その“ちょっと”がいけないときがあるということだ」

「何が、人生よ。あんた、バッカじゃないの!」

「もういいよ……」

 ずっと黙っていた美津子が静かに言った。

「わたし、いいよ。鳥、具合悪くなったら可哀想だから……」

 美津子本人にそう言われると、房子も黙るしかなかった。その強い意志を感じさせる目には悔し涙が浮かんでいた。美津子は長い髪を垂らして少しうつむき、淡々とヒナのほうを見つめていた。

 竹夫が美津子と房子を見比べた。そして、口をギュッと結び、聡のほうを向いて言った。

「聡くん、美津子ちゃんにさせてあげようよ」

「タケ……おまえは、百万年黙っとけ」

 そう言うと聡は耐えかねたように急に向きを変え、教室から出ていった。竹夫が「どこ行くの?」と声をかけても、ぶっきらぼうに「関係ないだろ」と吐き捨て、そのまま振り返りもせず行ってしまった。竹夫が後から追ってきても、無視して廊下をトイレに向かってずんずん歩いて行った。途中、障害物も何もないところでいきなり派手に転んでしまった。死ぬほど恥ずかしかったが、何事も無かったかのようにクールに歩き続けた。諦めた竹夫が教室で「聡君、ウンコだと思う。転んでもただじゃ起きないくらい急いでた」と間違った日本語で、音量の調節もせずに言うのが聞こえたときは、本気で竹夫の不幸を願った。

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