第16話 八重開眼!

 桧垣は小次郎らの出現でストレスがマックスになった。今まで悉く未遂に終わってしまった華子のレイプを、次は何としても達成しなければならないという強迫観念に捉われ、強い征服欲に支配されていた。


 桧垣は幼い頃、好きな子に「直樹くんはカッコ悪いから嫌い」と、他愛もない言葉を掛けられた。運悪くその一言が、桧垣の童心に解毒不可能な突き刺さり方をした。中学・高校時代も、片思いは桧垣の純粋な心に残酷な時間を強要した。ところが、大学に入って公認サークルのメンバーになると、その活動が桧垣に天国を齎した。しかし、その常軌を逸した活動が社会的波紋を起こし、桧垣はサークル仲間共々、準強姦罪で実刑判決を受けることになってしまった。

 出所後、失業の上、女性に相手にされない中高時代の悪夢が復活した。そうした中、荒んだ就職活動の末、人手不足の無届老人ホームに流れ着いた。「老人下宿」といわれる施設の介護ヘルパーの仕事だった。一般に介護施設は高齢者を住まわせ食事を出す場合、都道府県などへの届け出をしなければならないが、賃貸住宅扱いで入居者が訪問介護を受けるという形を取れば、届け出の有無のチェックも甘くなり、介護保険も適用される。介護経験不要で、重労働と低賃金さえ我慢すれば、人手不足の折から桧垣のような若者は前科など問われることもなく大歓迎される。しかし、桧垣にとっては不運な結果だったかもしれない。この「老人下宿」でも桧垣の病気が頭をもたげたのだ。性衝動の対象がヘルパーに従順な高齢者の女性に向けられた。実態の見え難い無届ホームは、桧垣の完全犯罪を謳歌させた。

 セックス依存は、所謂アルコールや薬物などへの依存症と同じように、性衝動のコントロールができない心の病だ。自制しようとすればするほど欲求が強くなる一方で、行為の後には強い罪悪感を覚える。しかし、行為がないと底無しの空虚や焦りを覚え、それを消すために、また性衝動が起こるという悪循環だ。桧垣は性衝動の捌け口が、より自分好みの対象の居る施設に移ろうと、介護職員初任者の資格を取って、今の施設に就職することができた。そして餌食を見つけたのだ。


 桧垣の激しい衝動が本能に伝わり、華子は胸騒ぎで震えが止まらない状態になっていた。管理上、ドアが開いたままの部屋の入口を凝視し、華子はこれからやって来る悪夢に呼吸を乱し、部屋のベッドに腰掛けて震えていた。


「…やばい」


 隊長が “世界 ”をサーフィンしているうち、華子の異常を感知した。不自由でもたつく体を鞭打って車椅子に乗り、華子の部屋に向かいながら “世界 ”から入居仲間数人を選抜して華子の部屋への集合を掛けた。


 桧垣は既に、華子の部屋の前に立っていた。中に入りドアを閉めて鍵を掛けた。華子は震えが痙攣のように激しくなった。


「少女のように震えてるじゃないか…今日は逃げられないからね。あんまり暴れたら殺してからでもやっちゃうよ」


 桧垣は下半身の衣類を全て脱いだ。どこからともなく鈴の音がすると、華子の震えは少し治まった。桧垣は鈴の音など気にも留めずに華子に近付いて来た。


「華子さんはひとりではもう脱げないんだよね。私が脱がしてやるから大丈夫だよ」


 そう言ってベッドに腰掛けて、震える華子に襲い掛かった。突然、華子の後ろから八重がヌッと現れた。桧垣が仰け反って驚いた。


「なんだ、おまえは!」


 八重は桧垣をじっと見ていた。


「へ、部屋に! 自分の部屋に戻りなさい!」


 そう言われたところで、八重がひとりで部屋に戻れないことは桧垣もよく知っていることだ。桧垣はどうするか迷った。八重を衣装ロッカーに入れることにした桧垣は、下半身裸の情けない姿でロッカーの前に引き摺り出した。


「ここでおとなしくしてろ!」


 ロッカーを開けた桧垣は仰天した。立て掛けた棺桶の中の死体のように脱出ばあちゃんが立っていた。


「おまえは! こんなところで何してんだ!」

「うるさいわね!」


 カーテン越しから相部屋の安藤喜代の怒鳴る声がした。鈴の音とともにカーテンが開いた。喜代の傍にジュリアン鈴子が立っていた。鈴子は元・軟体曲芸師で鈴が大好きだった。このところ交流室ではいつも華子と一緒に居るようになった新人入居者だ。いつも鈴を身に着けているので、介護士たちには “リンちゃん ”の愛称で呼ばれていた。そのリンちゃんの鈴の音が恐怖に耐える華子を励ましていた。八重と脱出ばあちゃんとリンちゃんの三人は華子の居室に近かった。隊長の集合で桧垣より早く華子の部屋に入った第一陣だった。


「桧垣さん、こんな夜中に “お注射 ”ですの? あらまあ、随分と情けなくて卑怯でグロテスクなお注射ですこと」


 華子の部屋の外には、遅れ組の第二陣の選抜メンバーが集まって来た。隊長とメアリーおばさんと棟梁だ。メアリーおばさんは “世界 ”から八重に通信を始めた。


「出遅れちゃったけど仕方がないわ。いいこと? あたしがあんたの世界からあんたに乗り移るからね」

「え? 乗り移ったらどうなるのよ?」

「一時、あたしがあんたになるの」

「そしたら、わたしはどうなるの?」

「あたしになるの」

「え? じゃ本当のわたしは?」

「一回お休みって感じかな」

「休み? どこで休んでるの?」

「じゃ、とにかく入るよ」

「待って、待って!」


 そう言いながら、八重は急に艶っぽい表情になった。誘うような目で桧垣を睨みながら、しなしなと前に立ち、ゆっくりとしゃがんだかと思うと、飛び出した桧垣の “お注射 ”をガブリと銜えて、獣のように髪振り乱してアッという間に桧垣を欲望から脱出させた。桧垣は目の前で起こった惨事と、本能の快楽に混乱し、力が抜けてその場にへたり込んで呟いた。


「…何すんだよ、ババア」

「ババアに逝かされたてめえは何なんだよ、このエロ下僕!」


 八重は爆風を受けたような乱髪で立ち上がった。半泣きの桧垣とは対照的に、八重は勝ち誇ったかの態で大股に歩き、鍵の掛かっている出口の戸をガタガタと音を立てて開けようとした。桧垣は慌てた。騒ぎになる前に鍵を開けて逃げようとドアに向かった。その背中に、華子が体当たりした。桧垣はドアに頭を強打したものの、必死で鍵を開けてドアの外で気を失った。メアリーおばさんは、倒れた桧垣を踏み付けて仁王立ちした八重を確認して、八重の “世界 ”から抜け出した。桧垣の上にている八重に対して取り囲んだ隊長以下から拍手が沸いた。


「あなたね、わたしに何させんのよ!」

「あんたがしたんじゃなく、あたしがしたことだから、あんたは気にしなくていいのよ」

「でも、わたしの嫌悪感はどうしてくれるのよ!」

「それは気のせいでしかないわよ」

「割り切れないわ!」

「そんなことより、あんたの口腔内の構造はすばらしい! その年まで男性のための使用頻度が無いに等しいのは本当に勿体なかったと思う。宝の持ち腐れだったわね」

「どういうことよ?」

「少なくとも人助けになったわ。あなたの優れた口腔構造が華子さんの窮地を救ったのよ」

「そうなの?」

「大丈夫! 作戦成功!」


 八重の下にいた桧垣が激臭で我に返った。


「八重さん、おむつ替えないと…私から降りなさい!」


 桧垣は、この無様を認知症の連中の記憶からは数分後には消えるんだからと自分に言い聞かせながら、部屋に脱いだ下半身セットをすごすご掻き集めてその場を去った。


 この一件を契機に、桧垣は股間に起こった惨事の快楽を思い出すたびに、吐き気を催すようになった。八重を見るたびに擽られる己の邪悪な性欲に悪寒が走った。八重と無関係でも、何かの拍子に訪れる性衝動の発作のたびに、条件反射的に八重のテクニカルな感覚のフラッシュバックに悩まされるようになった。華子を見ると性欲が反応し、同時に八重の髪振り乱した口腔ショーの共演が記憶に拡がり、華子をすらまともに見れなくなった。華子にとっては不幸中の幸いな桧垣の思考連鎖だった。


 数日後、夜勤の桧垣は性懲りもなく、またしても華子の部屋に忍び込んだ。ぐっすり眠っている華子の首に静かにロープが巻かれた。


「こうするしか、ないんだ…認知症患者は自殺できる…これが数日後の新聞の見出しに…」


 桧垣は不敵な笑みを歪めた。ロープが絞まっていくと華子の目が開いた。いや、よく見るとその顔は八重だ。どうして八重が華子の部屋で寝ているのだ…八重は物凄い力で態勢を入れ替えながら、即座に桧垣のズボンをずり下した。そしてあの忌まわしい惨事と本能の快楽が再び桧垣を襲い、混乱と吐き気の中で力が抜け、首のロープが緩んでいった。地獄の快楽の間、桧垣の本能は動きたくなかった。 “仕事 ”を終えた八重は、爆風を受けたようなあの乱髪で起き上がり、メアリーを越えたという満足感に酔った。

 八重は娼婦気取りを演じながら、気怠くベッドを離れて部屋の戸を開けた。ベッドで放心状態の桧垣に振り向き、俄か仕立ての牝ぶりで妖艶な手招きをした。その指がイメージした動きとは程遠いぎこちなさに八重はムキになった。


「ああ! 歳は取りたくないわね! 早く出てけよ、エロ下僕!」


 桧垣はずり下がったズボンを押さえながらベッドを降りた。抜け殻のように入口に向かって歩く桧垣を見て、八重は毒吐いた。


「ああ、そのノロさが苛突く! そんな不様は私ら年寄りだけにしとくれよ!」


 桧垣が部屋を出て来ると、今夜も過日の居住者が観客となって拍手が沸いた。隊長がそれを制した。


「静かに! 夜勤どもに気付かれるぞ!」


 隊長の一言で一同は拍手の手を合掌に変えて桧垣の哀れを拝んだ。桧垣はそんな彼らに無反応で去るしかなかった。


「八重さん、今夜も見事だったわ。あたしたちが何もする必要がなかった。華子さんは本当に危なかったけど、あんたの口腔の勝利よ! 羨ましい!」

「いいえ、あなたのお蔭でわたしは自分の新たな価値に目覚めたの。感謝してるわ。今度はこの指がスムーズに動くようにリハビリに励むわ」

「とにかく、隊長の立てた入れ替わり作戦で、今夜も犠牲者が出ないで済んだわ」

「まだ分からん。今夜は八田も夜勤だぞ」

「そうだな、油断出来んな。どれ一先ず次の看回りが来る前に部屋に戻ろうぜ」


 暗がりから選抜メンバーらが部屋に戻る様子を暗がりから窺う目があった。早乙女だ。早乙女は彼らが部屋に入るのを確認し、華子の部屋に向かった。


 早乙女は、華子に拘束帯を纏わせ車椅子に載せて出て来た。そして浴室に向かった。


「お母さん…きれいにしてあげるね、その腐り切った心を」


 早乙女は車椅子ごと華子を浴室に入れ、頭からシャワーの水を浴びせたまま、飛沫の及ばない対面に椅子を置いて腰掛けた。


「あなたは認知症のババアのくせに、どうして男に色目を使って傷付けるの? 桧垣くんがかわいそうじゃないの。このままだと、死ぬ時に歪んだ顔でこの世を去ることになるわよ。そのけがれた根性を私は洗い流してあげたいの。ちゃんと生きた人はね、死ぬ数日前になると顔がほころぶのよ。周囲のことになんかすっかり無関心になって、最期の時を迎える瞬間に、まるで別のすてきな世界にいるような感じで、顔がほころぶの。華子さんもそうなりたいでしょ? でも今のあなたには無理。あなたは邪念が強過ぎる」


 早乙女は急にヒステリックになって、シャワーの温度を少しづつ上げていった。華子は熱湯になっていくシャワーに体を震わせて耐えた。


「熱い? じゃ、冷やしてあげるね」


 早乙女は水温を元の水に戻したまま、やけどの証拠が残らないように暫く流し続けた。それを何度となく繰り返され、華子は温度差にショック症状を起こしかけて気を失いそうになったが、早乙女はお構いなしに椅子に座ったままスマホゲームに興じた。

 30分以上経ったろうか…早乙女はぐったりした華子を全裸にして立たせた。華子は今にも倒れそうだった。


「お母さん…お酒の飲み過ぎよ。私を放っておいて男を追いかけてばっかり…」


 そう言って、華子の全身に火傷用の軟膏を塗り始めた。


「私はお母さんとは違うわ。自分の子が出来たら、私はいっぱい優しくしてあげるの」


 それから延々言葉の暴力が続き、午前2時過ぎ頃になって、華子はやっと早乙女の虐待から解放された。ベッドに横になっても寒気が治まらず、朝方になってやっとうとうとし始めた。


 人は死の際が近付くと水分を受け付けなくなり脱水症状になる。そんな時に、人によっては幻覚を体験していると言われる。そうした幻覚を見ることを俗に「お迎え現象」といわれているそうだ。生前に未解決のまま悔いが残った出来事を解決するために、人それぞれの幻覚の世界を彷徨うのだ。夢の中で過去に戻り、その時に躓いた悔いに出会い、相手を赦し、自分を赦す過程を体験しているという。「お迎え現象」は、死の際に自分が生きた人生を肯定して旅立つために必要な儀式なのだ。

 医学的には薬の過剰投与や、機能低下による脳への酸素不足などと言われるが、人の心が作り出す不思議な世界があることも否定できない。


 華子は、うとうとした夢の中で、他界した夫の吉哉に会っていた。吉哉は出会った頃の若さで華子を見て微笑んだ。華子は自分だけがこんなおばあちゃんになって吉哉に恥ずかしいと思った。なぜか華子はその時、早乙女の虐待に遭ったことも記憶していた。華子はこれは夢だと思った。夢で吉哉が迎えに来てくれたと思った。吉哉がそこに居ることがとても快かった。このまま吉哉に連れて行ってほしいと思った。


「お母ちゃん、ボクが先だよ」


 息子の亘が出て来た。


「今、何て言ったの?」


 華子は亘に聞き返した。


「ボクが先にお父ちゃんのところに行くんだよ」


 華子は、亘の言葉に衝撃を受けて目を覚ました。急に涙が溢れて来た。吉哉に連れて行ってもらえなかったことだけではない。亘の言葉が強く心に刺さって胸騒ぎがした。それに自分には子供がもう一人居たはずだということを思い出した。それが男か女かも思い出せない。華子はもう一度、夫の吉哉に会いたくなった。夢の続きを観ようと必死に眠ろうとしたが、亘の言葉が気になって眠れなかった。


〈第17話「怨」につづく〉

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