第15話 解約
K‐1のリーグ戦での優勝賞金を手にした小次郎は、楠本吟子と共に施設に向かっていた。
施設の理事長室では、普段めったに現れない理事長の巴山勲が苦虫を噛む中、緊急会議が開かれていた。
「どうしてこういうことになったのかね。入居者が行方不明になるなんて前代未聞だろ! なぜすぐに私に連絡しないんだ! 夜勤は誰だったんだ!」
「八田さんと桧垣さんと…」
「あとは?」
「・・・・・」
「あとは誰なんだ!」
施設長の門馬が言い淀んだので、施設では最も古株の介護士・野田聖が補足した。
「二人だけです」
「三人常駐するはずだろ!」
「彼らが言うには、門脇先生は急な電話が入って重要な用事が出来たということで…途中で…そうでしたね、門脇先生」
門脇は答えなかった。その電話の主は巴山だった。巴山は狼狽えて話題を変えた。
「そうか…二人の入居者は今どこに居るか心当たりはあるのか?」
「確証はありませんが、二人には共通点があります」
「なんだ?」
「二人とも『任侠ゆたかな家政婦紹介所』の人間です」
「何だと!」
「その『任侠ゆたかな家政婦紹介所』の引受人が、二人一緒に迎えに来るというのは何か釈然としないものがあります」
「監視カメラは確認したのか?」
「・・・・・」
「映っていただろう」
「…映っていません」
「なぜ映っていないんだ!」
「計画の遂行日でしたので…」
「切ってたのか?」
「…はい」
巴山は憮然とするしかなかった。
「入居者の保護者は何時に来るんだ?」
「そろそろです」
施設の屈強な警備員が、楠本らを理事長室に案内してきた。対応策が見出せないまま緊急会議は時間切れとなった。
「任侠ゆたかな家政婦紹介所の方が見えま…」
“ 強面 ” 警備員の言葉を無視して、楠本は理事長の前に立った。
「顧問弁護士及び身元引受人の代理人・楠本吟子です」
楠本と一緒に来た小次郎を見て、巴山理事長が驚いた。
「君は!」
巴山が驚くはずだ。巴山は小次郎の決勝相手・吉良大作のジムのオーナーでもあった。巴山はK‐1のリーグ戦決勝の試合を苦々しく思い出していた。
「いい試合だったよ、小次郎くん。うちのジムに移って来んかい? 君にあんなジムは似合わんよ」
「あんなジムで申し訳ありません。私どもの “あんな ”ジムにではありますが、小次郎以外にも優れた選手が何人もおります」
「そうでしたか、これは失礼。『任侠ゆたかな家政婦紹介所』ではジム運営もなさってたとは知りませんでした」
「このビルに入っている四社全てのオーナーが巴山理事長さんだということから見れば、私どもの事務所など、ほんの細やかなものです」
「それは何かの間違いでしょう。私が経営するのは、この社福だけです」
楠本は巴山の言い訳を打ち切って事務的な話に入った。
「本日、姥桜院徳子及び、舟島節子の解約手続きに参りました」
「ご希望に沿うに致しましても、当施設の中途解約及び契約解除は、契約書第十六条、第十七条に該当しませんと、人道上に於いても私どもとしましては…」
「第十六条第二項の “契約者の入院 ”に該当します」
「あ…入院ですか、えーと…そうしますと、急な途中解約となりますので当初納めていただいた入居金は当施設の約款をご確認頂いたと思うのですが、全額ご返還致しかねますが…」
「ええ、承知しております」
「ただ、姥桜院徳子さまの場合は特例として、御社『任侠ゆたかな家政婦紹介所』さまの権利書が担保になっておりますので、解約となれば別途、入居金を新たに全額お支払いただかなければ担保をお返しできなくなりますが…つまり、御社が私どもの運営下になるということに…」
「それも承知しております。全額お支払い致します」
「…そうですか? でも一週間お待ちいただければ半額返金されますよ」
「二名の分、全額用意してまいりました。あなた主催のK‐1リーグ戦の優勝賞金のおかげです」
「なるほど…小次郎くんが頑張った結果というわけですね。そういうことなら仕方ありませんな」
小次郎が分厚い札束の入った茶封筒を出した。
「二人とも大変お世話になっていたようですから、お礼の額も添えさせていただきました」
「いやはや、せっかく嫁に出した娘がすぐに出戻って来た感じで残念だね」
「では、姥桜院徳子と舟島節子の入居解約手続きをお願いします」
「急にまたどうして解約なさるのか…お二人の症状から鑑みて、現時点での環境の変化は決してお勧めできることではないのですが…」
「いえ、二人を入院させて家族付添いの元で、徹底的な機能回復を図るのつもりですので、理事長様のご心配には及びません」
「そうですか」
巴山は仕方なく門脇に解約手続きの書類を出させた。不穏な空気の中で書類が記入され、解約の契印と割印が押され、担保の権利書が返された。
「では、二人を引き取って帰ります」
「それは、もう済んでるんじゃありませんか?」
門脇が口を挟んだ。楠本は誠実に恍けて質問を返した。
「それはどういうことですか?」
「姥桜院徳子さんと舟島節子さんは、昨夜、そちらで引き取って行かれたんじゃありませんか?」
「どういう意味でしょう? 私どもはこれから引き取ろうと思っておりますが、昨夜、どなたかが既に引き取って行かれて、二人はこの施設にはもう居ないということですか? 誰が引き取って行ったんですか?」
「そちらでご存じでしょ」
「おかしなことを仰いますね。門脇先生はご自分が何を仰っているかお判りですか? 解約手続きもしない正体不明の相手に二人の認知症患者を引き渡したんですか?」
「・・・・・」
「信じられません! なぜすぐにご連絡いただけなかったんでしょうか!」
「そちらでご承知のことですから連絡の必要はないでしょう?」
「なぜ私どもと決めつけるのですか? 監視カメラを見せていただいてよろしいですか?」
「・・・!」
「悪質な介護施設では、特に夜間の監視カメラは切ってあると聞いております。それはなぜか…認知症患者への不当な虐待の証拠が残るかもしれないからです。御社はそういう理由で監視カメラの作動を切ってあるわけじゃありませんよね。監視カメラの映像を確認なさった上で仰ってるならば、昨夜、どなたが引き取って行ったか分かるはずです」
「監視カメラの開示は、個人情報保護の観点から…」
「私の母が行方不明になったんですよ! 楠本さん、警察に頼んで監視カメラの開示をしてもらいましょうよ。そしたら行方不明になってる徳子さんも母も早く見つけてもらえるかもしれない」
「介護施設の監視カメラがもしオフになってたなんてことになったらマスコミが大はしゃぎでしょうね。巴山理事長、それは大丈夫なんですね?」
「開示命令があれば勿論開示いたします」
「楠本さん、急いで警察に行きましょう!」
「そうね、私どもが連れ出したなんて、あらぬ嫌疑を掛けられては堪ったものではありません。それより何より、私どもの身内が何者かに誘拐されたとあっては緊急事態です。急いで警察に捜索願を提出するしかありません。これで失礼させていただきます」
「・・・!」
「ちょっと待ってくださいよ。捜索願は私どもに出させていただけませんかね」
「理事長はおかしなことを仰いますね。解約手続きが成立してますから二人はもうここの入居者ではありませんよ」
「・・・・・!」
「縁も所縁もない人間の捜索願が受理されるとは思えませんが? 2009年の家出人発見活動要綱の改訂に於いて届出する人の範囲が広げられたとは言え、 “親族以外の恋人や知人、勤務先の関係者など行方不明者本人と密接な関係を持つ人 ”とあります。あなたがたはどれに該当しますか?」
「…知人…」
「認知症患者ですよ。患者本人はあなた方を知人と識別できてましたか?」
「楠本さん、一刻も早く警察に捜索願を出さないと…」
「そうね!」
楠本は権利書と解約書類を手に、門脇を睨みつけて立った。部屋の出口の前に八田と桧垣が立ち塞がったので、小次郎はゆっくりと二人に歩を進めた。
「昨日、てっぺんを獲って疲れてんだけど、おめえらのキン玉潰すぐれえの余裕は残ってんだ」
小次郎の言葉に桧垣は真っ先に退いた。その桧垣を見下しながら八田も退いた。楠本と小次郎は無愛想にその場を退出した足で、本当に警察に捜索願の届け出に向かった。それは予定どおりの行動だった。警察での届出中に “徘徊中の二人が見つかった ”という連絡を受け取るというシナリオだった。計画どおりに運び、楠本と小次郎は事務所への帰途に就く頃、華子に危険が迫っていた。
〈第16話「八重開眼!」につづく〉
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