第14話 虐待
華子は廊下のトイレの前から頑として動かなかった。
「華子さん、また私を困らせるの?」
早乙女の優しい顔が無表情になった。華子の顔が、また自分の母親に見えた瞬間だった。早乙女は幼少の頃、母親の虐待を受けて育った。そんな母親を嫌悪して成長した彼女は、周囲の女児虐待の衝動に苛まれた。解離性障害とでもいうのだろうか…その闇から立ち直ろうと看護師になった。しかし、彼女の心は劣悪な職場環境で、児童への衝動から弱者への虐待に向かい、そのストレスを患者に発散するようになった。ついにはその行為に何の疑問も持たない常態化に陥った。母親への嫌悪は憎悪に変わり、その標的は自分の意にそぐわない周囲の全ての弱者に向かうようになっていった。
華子に恐怖が蘇った。入所当初は比較的認知の軽かった華子は、勤務して間もない桧垣の担当になった。そしてその夜、華子は桧垣に襲われた。華子は暴れてなんとか未遂に終わったが、華子の抵抗する騒ぎで他の部屋の入居者らに意識障害が連動した。巡回中の早乙女が異変に気付いて華子の部屋に駆け付けた。
「どうしたの!」
「・・・・・!」
瞬時に状況を把握した早乙女は、桧垣を睨みつけた。桧垣は目を逸らした。早乙女の視線は華子に移った。衣類がはだけた華子の姿が一瞬自分の母親に見えて、早乙女は激しく動揺した。
「桧垣くん! これはどういうこと!」
「玉村さんが勝手に脱ごうとするので止めたんですが…」
桧垣はその場を取り繕おうとしたが、早乙女のほうが一枚上手だった。
「へえー、あなたって認知症患者にとって、随分とセクシーに見えるんだね」
「・・・・・」
「桧垣くん」
「はい」
「今回は目を瞑ってやるわ。これはあなたへの貸しよ。何れ、その貸しは返してもらうからね」
「・・・・・」
「それと…私の夜勤の時には、事故を起こさないでちょうだい。分かったわね」
「・・・・・」
早乙女の態度は豹変した。
「何か言ったらどうなんだよ、てめえ!」
「分かりました」
「女だと思って私をなめんじゃないよ。ふざけた真似しやがったら殺処分にするよ」
「・・・・・」
「いいわね!」
「はい」
早乙女の矛先が華子に向いた。
「あなたがいけないのよ! あなたに隙があるから男が狂うのよ!」
早乙女は華子をベッドに俯せ、桧垣に怒鳴った。
「何をボーっと突っ立ってるの! タオルでこのババアに猿轡させなさい!」
「さ、猿? く、靴ですか?」
「あほ! 口にタオルを噛ませろって言ってんだよ!」
「あ、はい!」
桧垣は慌てて洗面台に掛かったフェイスタオルを華子の口に噛ませた。早乙女は押し殺した声で、暴れる華子の尻を何度も何度も叩き続けた。
「これがいけないの! これがいけないのよ!」
華子が暴れなくなった。不安になった桧垣は早乙女を止めに入った。意外にも早乙女はすぐにやめた。鬼のような顔が無表情に戻った。
「玉村華子さん、この介護施設でのあなたの我儘は100%認めません。理解するまでこんなふうに体で覚えてもらいますからね。ここでの生活が快適になるか地獄になるかは…あなた次第です」
そう嘯いて早乙女は部屋を出た。桧垣は動揺しながら早乙女の後を追った。事態が理解できない華子は無言の涙を流して震えた。これが華子の介護施設に於ける入所初日の出来事だった。恐怖の始まりである。
桧垣はその後も華子に性的虐待を試みたが、華子は無言の激しい抵抗で拒み続けた。何度目かの桧垣の試みの時、華子は桧垣の顎を噛んで深い裂傷を負わせた。桧垣は施設長の門馬には近所の犬に咬まれたと説明してその場を繕ったが、早乙女までは誤魔化せなかった。以後、桧垣は職場に残っていたければ早乙女の言いなりになるしかなくなっていた。早乙女の華子への虐待も加速していった。早乙女は華子に忌まわしい母親の影を重ねてしまった。常に嫌悪を覚え、何かの拍子にそれは憎悪に変わって、華子への虐待が常態化し過激になって行った。
厚労省の調査では、虐待された高齢者のうち認知症の人が八割以上とされるが、虐待であると言えない疑わしいケースも多い。虐待事例は特別養護老人ホームが約3割を占めるといわれる。以下、有料老人ホーム、グループホーム、介護老人保健施設などの順に続くそうだが、表面化しにくい類の調査のランク付けは信用性に欠けると思われる。特に利益優先の介護施設では、本来の在るべきケアマネージャーの姿から程遠い「ひもつきケアマネ」として、施設の犬同然に飼い慣らす業者が蔓延っている。飼い慣らしたケアマネージャーには、利用者への過剰な押し付けサービスを提供するケアプランを立てさせる。それは、形を変えた虐待と言えなくもない。
この介護施設の巴山理事長は、『任侠ゆたかな家政婦紹介所』を起点に新規事業を拡げようとしていた。病院の場合、入院が長引くと診療報酬が低くなる仕組みになっている。それを防ぐ策として、病床の回転効率を上げるために、病院は認可、または無認可の介護施設への入所要請を必要悪として行っている。病院の営利主義のお蔭で、認可、または無認可の介護施設は、漁夫の利を得られる仕組みの中で増殖しているのが現状だ。介護で生活崩壊の危機に瀕している利用者側は、残念ながらその必要悪に依存するしか選択肢はない。
介護に於ける悲しい落とし穴として虐待がある。自宅介護の虐待では、息子が約四割を占めるそうだ。以下、夫、娘と続き、虐待者との二人暮らしが約半数で、家族と同居しているのが約四割とみられるそうだ。介護が他人事であれば、尚驚きの哀しい現状がある。虐待されても自覚のない高齢者は約三割、一方、虐待する側に “自分は虐待している ”という自覚のない人は約6割。つまり、当事者ら双方が虐待を認識しているとは限らないことも深刻な事態と言える。
虐待は「五つの虐待」に分類されている。華子の場合のような性行為を強要する「性的虐待」、殴る・蹴るの「身体的虐待」、脅しや罵倒、侮辱、無視などによる「心理的虐待」、財産など金銭管理を強要する「経済的虐待」、そして不衛生な環境に放置したまま機能低下を黙認する「介護放棄」だ。
その中でも、最も多いケースが身体的虐待である。患者の抵抗次第ではベッドや車椅子に拘束したり、過剰な投薬で黙らせるなどが挙げられる。虐待が日常化すると、患者は抵抗する意欲を失っていくという。更に患者は虐待を甘んじて受けるようになってしまう「被虐待症候群」状態になるそうだ。想像しただけでも悲しくおどろおどろしい話だ。とても日常と背中合わせに存在する世界だなどとは思いたくない現状だ。
認知障害の知識のある専門職の介護士ですら、なぜ虐待に向くのだろうか…せん妄などの行動障害が起きやすい夜勤などで、認知症患者の症状として暴言、暴力がある。それに対して、職員は認知症状による患者の異常行動を制するために、暴言を浴びせたり、暴力をし返すということが起きてしまう。介護職員の人手不足によるストレスやノウハウ不足から来る悲劇だ。さらにエンドレスに繰り返される認知症患者の暴言・暴力・介護拒否は、介護者の忍耐の限界を越えさせる。
慢性的な介護士不足は一朝一夕には解決し難い問題である。介護経験不足の新人ひとりの存在が、既存職員の負担を増やすのだ。介護現場に欠員が生じた場合も同様である。山積された介護作業のストレスによって、介護士間の人間関係も不安定になり、そのストレスが物言えない認知症患者にぶつけられてしまうという悪循環が起こっている。
華子の息子・亘が、介護担当の桧垣に手土産を持って久々の面会に来た。
「大分、落ち着いたみたいだね」
「・・・・・」
「食事、ちゃんと出来てる?」
「そんなに食べられない」
「そうなんだ」
「わたしはいつまでここに居るの?」
「まだお家が片付いてないから…片付くまで待ってよ」
「・・・・・」
ここまでが華子と亘の毎回の会話だ。しかし、この日は華子が新しい言葉を口にした。
「わたし、あきらめたの」
「え?」
「何を言っても仕方がないから…」
亘は自分の煮え切らない返事のせいだと思った。同時に、三分後には今の会話だって忘れてしまうからという打算があって、真剣に華子との会話に向き合う気持ちが薄れていた。
「がんばってるから、もうちょっと待ってね」
「・・・・・」
急に華子の顔が強張った。廊下の先に桧垣の姿を確認したからだ。桧垣は満面の笑みを浮かべて亘たちに近付いて来た。亘が立ち上がって桧垣を迎えた。
「良かったですね、華子さん! 息子さんが来てくれて!」
華子は桧垣と目を合わせないまま固まっていた。亘は桧垣に手土産を差し出した。
「いつもお世話になっております。これ、つまらないものですが…」
「いつも申し訳ありません。もうお気遣いなさらないで…」
「この頃、母はどんな様子でしょうか?」
「施設で一番お元気ですし、一番の優等生ですからご安心ください」
そう言いながら桧垣の目が一カ所に凝視したままになった。華子が手首を摩っている。顎に残った裂創のことなど忘れ、桧垣は昨夜また華子にレイプを試みて失敗していた。いつも以上の激しい抵抗に遭い、思わず強く掴みあげた華子の手首が紫色の痣になっていた。桧垣に手土産を渡す亘は、華子のSOSにも、桧垣の表情の変化にも気付くことはなかった。
「仕事の途中なもので…」
「そうですか! お忙しいんですね。少しの時間で結構ですから、こうしてお顔を見せてやってください」
亘は母の異常に気付かずに、いつものように短時間の面会でそそくさと帰って行ってしまった。亘が貴子に母の介護施設入りを伝えたのはその頃である。母の妹の貴子なら、自分が忙しくて面会にいけない分を補ってくれると思ったのかもしれない。
「華子さん? その手首、どうしました? どっかにぶつけちゃいました? 気を付けてくださいね」
桧垣は華子の息子の手土産にふて笑いを浮かべ、華子から離れて行った。その後ろ姿を睨む華子の目は恐怖から殺意へと変わっていった。
レイプ被害経験者の心情は、苦しい・怖い・辛い・悲しい・憎いという言葉など何の役にも立たないといわれる。一旦レイプ被害に遭ってしまった人の闇は、底がなく、終わりがないのだ。貞操観念の強い華子にとって、性的虐待に対する反発心は認知症が進んでも消えなかった。認知症患者の華子とて、もしこの先、桧垣の毒牙に落ちてしまったら、その底なしの闇に葬られることに変わりはなかろう。頻繁な桧垣のレイプ未遂に、精神の奥底を裂かれ続ける華子の闇は、凶器に変わろうとしていた。
〈第14話「解約」につづく〉
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