第13話 脱出ばあちゃんの脱出!
ついに小次郎のK‐1リーグ戦ファイナルの夜がやって来た。リーグ戦ファイナルに残った強者は八名。二試合勝ち抜けば決勝となる。小次郎の第一試合の相手は平成の人斬り以蔵と呼ばれる優勝候補で、K‐1ファンには最も人気のある柳生竜二だ。彼の右ストレートで多くの対戦相手がテンプルに刃物で斬られたような傷跡を残して来た。もし、第1試合でその傷を受けてしまった場合は致命的なダメージとなる。大方の予想は一ラウンド瞬殺で柳生の勝利と見られているとおり、これまで無名の小次郎が柳生に勝利するのは、かなり困難なことだった。
そうした状況にありながら、セコンドを務める法無郎も小次郎本人も、至って落ち着いた表情をしていた。開始のゴングが鳴った。
介護管理室には夜勤の5名が揃っていた。門馬施設長、門脇医師、看護師の早乙女、介護士の八田と桧垣である。門脇医師が桧垣を促した。
「それじゃ、桧垣くん…」
「ドジるなよ」
八田がダメ押しをした。
「おまえこそな」
「どういう意味だ!」
桧垣は八田を鼻で笑って介護管理室を出た。
「あいつ、何か感付いてんじゃないですか?」
桧垣は脱出ばあちゃんの部屋にゆっくりと近付いて行った。ベッドで休んでいた脱出ばあちゃんがむっくりと起き上がった。
いきなり柳生の鋭い右ストレートが飛んで来て小次郎のテンプルを掠った。だが柳生のパンチに合わせて放った左脇腹を抉るパンチには重い手応えがあった。柳生は重ねて右ストレートを放って来た。小次郎も合わせて同じ脇腹を抉る右パンチを見舞った。柳生の体が大きくくねった。セコンドの法無郎がほくそ笑んだ。
「…折れたな…甘く見るからだ」
柳生は軽いフットワークで態勢を整えてはいるが、動きが鈍くなっている。小次郎も柳生の仮骨9~10番あたりが骨折しただろうことは感付いていた。深追いせずに前蹴りで柳生との距離を保ちながら、1ラウンド終了まで時間を稼いだ。じんわりと脇腹の痛みを味わってもらうためだ。
第1ラウンド終了のゴングが鳴った。法無郎は小次郎がコーナーに戻るとすぐに左テンプルを確認した。無傷にホッとした。
「やつは折れたな」
「ああ、手応えがあった」
「油断するなよ。このあと背水の陣で右ストレートを連発してくる。足を使いながら左ガードをしっかり保て。隙を狙ってもう片側も折ってやれ」
ノーダメージの小次郎には必要ないインターバルだった。第2ラウンド開始のゴングが鳴った。
桧垣が明かりの消えている脱出ばあちゃんの部屋に入って来た。ベッドは空だった。トイレのカーテンをゆっくりと開けたが中にはいなかった。ベッドの下をライトで照らして覗いたが、そこにもいなかった。部屋の衣装ロッカーの中から小さなもの音がした。桧垣は目をやって静かに近付いて行った。ロッカーの前でポケットから注射器を出した。ロッカーの中には座ったまま無表情の脱出ばあちゃんが震えていた。
法無郎の指摘どおり、柳生は右ストレートを乱発してきた。その都度、小次郎は柳生の軸足に強烈な膝蹴りを見舞った。小次郎の強烈な右パンチが柳生のボディを捉えた。くノ字に前のめりになった柳生の顎に、小次郎の膝蹴りがヒットした。柳生の膝がマットに落ちる寸前で2ラウンド終了のゴングが鳴った。小次郎がコーナーに座って敵陣を見ると、柳生はセコンドの手を借りて立ち上がり、抱えられてコーナーの椅子に座らされた。
「次のラウンドは、やつが苦し紛れのスパートを掛けて来るぞ。前半は躱して躱して奴の体力を消耗させろ。勝負はラスト一分だ。一分間は攻撃の手を休めんじゃねえぞ。二戦目の対戦相手をビビらせろ」
脱出ばあちゃんの隠れているロッカーが開いた。
「ここでしたか、徳子さん。お注射の時間ですよ」
脱出ばあちゃんは蛇に睨まれた蛙のように身動きできないまま小刻みに震えていた。桧垣は注射針のカバーを取り、脱出ばあちゃんの腕を掴んだ。
「肩が痛いんだよ!」
桧垣の後ろで、棟梁が大声を上げた。深夜に背後から居るはずのない人間に大きな声を掛けられて桧垣は飛び退いて驚いた。振り向くと棟梁だけではなく、施設の入居者が部屋に次々と入って来た。部屋の外にもまだまだ入居者たちが集まって来ていた。
「み、皆さん、今夜はどうしたんですか?」
慌てふためく桧垣を一同はじっと見つめたままだった。隊長が出て来て難なく桧垣の “世界 ”に入った。
「徳子さんを殺したら、おまえは八田に殺されると華子さんに教えてもらったろ。犬死したくなかったら殺る相手を間違えんじゃないよ」
「・・・!」
桧垣は、集まった入居者たちに圧倒されて部屋を出て行った。
「隊長、オレのアイデアはこんなもんだ」
「多々良さん、惚れ直したわ!」
「一同解散!」
棟梁らが解散しようとするので、隊長が慌てて制した。
「徳子さんをこのまま放っておけないだろ」
「大丈夫、すぐに救援隊が来るから…というか、もう来てるわよ。ほら、あそこに!」
華子の言葉に一同が振り向くと、三階の散歩エリアのガラス戸から衝太郎が現れた。脱出ばあちゃんの訓練のたまものなのだろう。鍵が壊れて開いていた。
「よし、施設の連中が来る前に我々は急いで徘徊モードで部屋に戻るぞ!」
威勢のいい掛け声の割には、精一杯の “俊敏さ ”でもたもたと散会する入居者たちを後目に、衝太郎はロッカーの脱出ばあちゃんを背負い、ガラス戸から再び散歩エリアに出て、施設裏の非常階段を伝い一階へと脱出した。
第3ラウンド2分が経過し、小次郎のスパートが始まった。次々に小次郎の攻撃がヒットし、柳生は棒立ちになった。レフリーストップが掛かった。柳生はまだ戦意があるとレフリーに激しく抗議したが、レフリーは柳生にセコンドを指し示した。柳生がセコンドに目をやると、コーナーにタオルが投げ込まれていた。柳生は思い切りロープを叩いて悔しがった。優勝候補だった柳生は、大番狂わせのリーグ戦一回戦でテクニカルノックアウトを喫した。
夜勤の門脇らが一斉に介護管理室を飛び出して徳子の居室に向かった。廊下では徘徊の入居者たちが障害物のように門脇らに纏わり付いた。やっとのことで桧垣が一番に脱出ばあちゃんの部屋に辿り着くなり、ロッカーを開けた。脱出ばあちゃんの姿がないことに一同は桧垣への疑いの眼差しになった。
「寝惚けてんじゃねえのか、おまえ」
「ここに居たんすけどね」
「おまえ、わざとミスったな!」
八田が毒吐いた。
「ミスったら予定が狂いますよね、八田大先輩」
「何言ってんだ、おまえ」
「知ってんだよ。徳子さんを殺ったら、その後でオレを殺ることになってんでしょ」
一同の顔色が変わった。
「門脇センセの計画なんですってね。八田さんが殺す役割だったんでしょ? 凄い怖い人ですよね、センセ」
「あら、誰がそんなこと言ったのかしら? 桧垣さん、被害妄想よ。しっかりしてちょうだい」
「失敗しちゃってごめんなさい、門脇センセ。お蔭でボクは八田さんに殺されないで済んじゃったかな」
「何をバカなこと言ってるのよ。兎に角、徳子さんを探しましょ」
一同は徳子を探しにそれぞれ施設内に散った。
徳子を乗せた車が電気の消えた『任侠ゆたかな家政婦紹介所』に到着した。衝太郎は徳子を車椅子に載せて応接室に入って行った。中では楠本吟子らが待機していた。
「思ったより早かったわね」
「こっちの予測した時間が少し遅かった」
「面会者が引けるのがいつもより早かったんだろ」
「施設はとっくに就寝後のはずなのに、徳子さんの部屋の前に何人か居住者の方々が集まってたんだ。入るタイミングを窺ってると、中から慌てた介護士が一人出て来たので、遅かったかと一瞬ヒヤリとしたよ」
「そいつは徳子さんに何をしたかだ」
「居住者の中の華子さんと目が合った時、頭の中で華子さんの声がしたような気がしたんだ」
「なんと?」
「 “急いで! 今よ! ”って言われたような…」
「なるほど…危なかったな」
「もうすぐ施設から連絡が来るわね」
「営業時間外だから留守電のままでいいだろ」
「来たら出るわ。なあに、問題ないわよ。管理はどうなってんのって責めれば済むことよ。警察に捜索願を出すって脅せば黙るわよ」
事務所の電話が鳴った。
「ほら、お出でなすった…はい、任侠ゆたかな家政婦紹介所でございます!」
電話は獅狼からだった。
「あら、松橋さん! 先日はどうも。どうしました?」
貴子と獅狼はまた同時に同じ夢をみていた…というより、間違いなくさそり姉さんからのSOSだった。夢見を通じた “あの世界 ”の華子からの通信では、小次郎の母・節子にも危険が迫っているという緊急連絡だった。貴子と獅狼はほぼ同時に目を覚ました。この不思議な現象は二度目だった。目覚めて二人の頭に浮かんだのは『任侠ゆたかな家政婦紹介所』だった。華子からは徳子が救出されたことも知らされた。そのことを知っているのは、救出した人間と入居者だけのはずだ。貴子たちが知っていることが夢の信憑性を証明してくれると思い、迷うことなく連絡を入れたのだ。
小次郎はベスト4に進出し、二回戦目の第1ラウンドを終えたインターバル中だった。対戦相手は空手出身で強力で早いキックの持ち主・虎丸という選手だった。小次郎は怒涛のキックを交わしながら時に軸足を払って相手の体力の消耗を図っていた。
「やつはキックがヒットしなくて苛立っている。2ラウンド目は、やつにキックの下手さをあからさまに煽って隙を作らせろ。顎だ、キックの蹴り上げのタイミングで顎を狙え」
第2ラウンド開始のゴングと同時に、虎丸は小次郎めがけて走って来た。その勢いで来た右飛び膝蹴りを交わして、虎丸の落ち際に右アッパーを合わせ、防御で出した鳩尾への強力な左前蹴りが派手にヒットした。背中からマットに叩き付けられた虎丸は、すぐに立ち上がったが、足が縺れてリングを背にやっと立っている状態だった。レフェリーのテンカウントが始まった。虎丸のセコンドはノーダウンをアピールしたが、虎丸はリングを背に寄りかかったままガッツポーズをしてそのまま膝からずり落ちてしまった。
門脇の表情が険しくなった。
「逃げられたんだわ!」
「ひとりでこの施設を出られるはずが…」
「そうね…ひとりではないということよね」
「じゃ、誰が?」
「患者の保証人…つまり、『任侠ゆたかな家政婦紹介所』の誰かということにならないかしら?」
「どうします?」
「こっちにはもう一人、人質が居るじゃないの」
獅狼からの電話の受話器を置いた楠本吟子は呟いた。
「節子さんが危ない…」
「え?」
「徳子さんから節子さんにターゲットが移ったのよ」
準決勝を突破した小次郎は、控室で白鳥桜子のマッサージを受けていた。白鳥のマッサージの腕は、かつて身を隠しながら温泉街を転々としていた頃に培われた超一流のものだった。桜子は、「炎症」は治癒に必要な修復過程なので、それを阻害する過度の冷却は逆効果として氷を使わなかった。小次郎の打撃ダメージを回復させるために、27度の水道水によるアイシングと圧迫マッサージを施していた。其のお蔭で、小次郎は後遺症もなく今日を迎えられていた。
法無郎は控室の外で吟子からの電話を受けていた。吟子は衝太郎が小次郎の祖母・節子救出のために再び施設に向かったことを告げて来た。
「わかった。そうするしかないだろうな。おまえだけに危ない橋を渡らせてすまん。小次郎には試合が終わってから知らせる」
八田は看護師の早乙女と一緒に、拘束衣を持って節子の部屋に向かった。徳子の時のようなことが起こらないように、各部屋の入居者らの所在を確認しながら廊下を進むと、トイレの前の廊下に蹲っている人影を発見した。
「誰ですか?」
人影の反応がない。警戒しなから近付くと、玉村華子だった。
「どうしたんですか、玉村さん!」
「トイレの順番を待ってます」
「中に誰か居るんですか? ここじゃなく、お部屋のトイレを使いましょ」
「お部屋のトイレに知らない人が居る」
「知らない人が居るのね。じゃ、一緒に行ってみましょ」
「ここで順番を待ってます」
早乙女は廊下のトイレの中を確認して出て来た。
「玉村さん、中には誰もいませんよ。ここでもいいですからトイレに入りましょ」
「中に誰か居る。大勢居る」
「困ったな…」
「玉村さんは私が看てるから」
「分かった」
玉村を早乙女に任せて、八田はひとりで節子の部屋に向かった。
目尻から流血した小次郎がロープに手を掛けて膝を付いてもがいていた。決勝第1ラウンド開始直後に相手のバッテングを受けた後、ローブローへのキックを受けたため、回復のためのインターバルが取られていた。この対戦相手・吉良大作は法無郎を罠に嵌めた男だった。法無郎は格闘家だったがために、日常に於ける防衛のための一発のパンチで実刑となってしまった。法無郎は小次郎の耳元で囁いた。
「よし、輪島のカエルで行け!」
“輪島のカエル ” とは、1969年から78年ごろまで活躍した不死鳥伝説のチャンプボクサーの独特のパンチだ。高低差の大きな屈伸から繰り出すパンチは対戦相手には見え難く、カウンターも合わせ難い。法無郎は吉良大作の反則は予測していた。試合経験の少ない選手に戦意を喪失させるにはバッティングやローブローが最も効果的だ。吉良大作が小次郎にそうした反則を用いたということは、実力での勝利は無理と判断した証拠だと法無郎は確信した。 “輪島のカエル ”は、小次郎の膝の屈伸力を鍛え上げて特訓した吉良大作の反則対策の秘密兵器だった。
小次郎が立ち上がると会場から大きな声援が上がった。偶然のバッティングとローブローの判断だが、観戦者の殆どは作為的だったと感じていた。吉良は小次郎の回復不完全と読んで猛進してきた。明らかにバッティングやローブローを狙っている。その都度、吉良に対する観客のブーイングが起こったが、吉良はお構いなしで反則を繰り返した。
一発目に繰り出した “輪島のカエル ”が吉良の顎にヒットした。観客が静まり返った。吉良がノーダメージをアピールして猛進してきた。小次郎は吉良の前から消えたかと思うと、今度は吉良のボディに抉るような膝蹴りが食い込んだ。高低差の大きな屈伸から繰り出す輪島のカエル戦法は、パンチだけでなくキックにも応用できる戦法だった。吉良は次第に劣勢となり、防戦一方のままゴングに救われて第一ラウンドが終わった。
八田が部屋に入ると、節子は眠れないのか暗がりの中、車椅子に座って窓の外を眺めていた。八田は静かに節子の後ろに立ち、ポケットから注射器を出した。そして針をゆっくりと節子の首に近付けて行った。脇からその腕が掴まれた。窓に映った八田が大きく反転して床に叩き付けられ、手に持った注射器の針が八田の首に刺さって行った。
「お、おまえは…」
第2ラウンド開始のゴングが鳴った。吉良は “輪島のカエル ”を警戒して低い体勢でフットワークを使って来た。そのことが法無郎の術中に嵌った。小次郎は高い姿勢から捻じ伏せるようなキックを炸裂させると、低い体勢で動きの鈍った吉良に面白いようにヒットした。吉良は小次郎の懐に入ろうとバッテイング態勢で躍起になって近付いて来た。強引に頭から入って来て、小次郎はほぼ同じ部位に2回目のバッティングを受けてしまった。
吉良はしつこい反則行為としてレフェリーからイエローカードが出された。小次郎の傷口が拡がり、かなりの流血があったが、何とか試合が再開されて大きな歓声が巻き起こった。小次郎はバッティング覚悟で吉良のアバラ折りの猛攻に出た。吉良はロープに追い詰められて小次郎のアバラ折りの連打を受けると、あからさまな頭突き行為を繰り返した。小次郎の顔は真っ赤な血に染まったが、構わずにアバラ折りの連打を繰り返した。会場は歓声とブーイングでヒートアップした。
吉良がロープ際で動かなくなったが、小次郎の連打は止まなかった。レフェリーが止めに入っても小次郎の連打は続いた。歓声の中で鳴っていたゴングが聞こえなかったのと、流血で小次郎の目は見えなくなっていたからだ。レフリーに吉良から引き剥がされた攻撃の手がやっと止まった。吉良はそのままマットに倒れて動かなかった。既に試合の決着はついていた。
衝太郎は八田に拘束衣を着せて車椅子に座らせて窓際に置いた。部屋のトイレのカーテンを開けると節子が座っていた。
「舟島さん、衝太郎です。迎えに来ました。お家に帰りましょ」
節子は “お家 ” という言葉に大きく反応して立ち上がった。衝太郎は節子をおぶって部屋を出た。廊下の向こうのトイレでは、華子が早乙女を困らせている声がする。そのお蔭で徳子と同じ救出ルートを辿って脱出することに成功した。
〈第14話「虐待」につづく〉
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