第12話 四日前

 各地の介護施設を舞台にした介護士虐待事件が頻発する中、施設内のトイレで起こった辰蔵の自殺事件の憶測が憶測を呼び、報道関係者が殺到した。ところが、事情が明らかになって十日ほど経過すると、取材はぴたりと止んだ。施設の体裁も何とか保たれ、門脇らは寧ろほくそ笑んでいた。


 脱出ばあちゃん殺害期日は四日後の8月10日の深夜のはずである。この日は、小次郎のK‐1リーグ・ファイナル戦が行われる日でもあった。そんなことを知る由もない施設居住者の隊長らは、今日も夕食前の作戦会議を開いていた。いつになく棟梁が痺れを切らした。


「オレたちはいつまで考えるんだ! 徳子さんがやられるまであと四日しかないんだぞ!」

「隊長さんには何か取って置きの考えでもあるんじゃないのかね?」

「あるわけねえだろ! 現実を見ろ! 自分のことも面倒見きれないオレたちに、人を助けられると思うのか!」

「随分とエネルギーが溜まってるわね、棟梁。あたしが現役ならすぐに治してあげられるんだけどねえ」

「オレは娼婦の世話になるほど狂っちゃいない」

「悪うございましたね、うちの亭主が狂ってて」

「ほらほら、メアリーさんの悪いジョークが八重さんに災いを齎すじゃないか…やめなさいよ、あんたたち!」

「 “あんたたち ”じゃねえだろ! メアリーが災いの元なんだよ! こんな所で毒なんか吐いてないでさっさとてめえの祖国に帰りやがれ!」

「棟梁、それはあかんよ。ヘイトだって言われちゃうよ」

「ここは日本だ! 日本人が日本に住んでて、なんでよその国のやつらに気を遣って生きにゃならんのだ! 大体に於いておまえらはな…」

「まあまあまあ…そういう話は今じゃなくてもね」

「そうそう、さっき棟梁も言ってたじゃないか…あと四日しかないって…あたしたちに出来ることって、やっぱり、徳子さんの “あの世界 ”からのSOSを待って、みんなで駆け付けるしかないのよ」

「駆け付けたところで、どうにも出来ないだろ」

「でも、みんなに見られてたら、桧垣さんだって殺しはできないでしょ」

「そもそもだ、介添えなしで徳子さんの殺害現場まで辿り着けるやつは何人いるというんだ?」

「そう言われると、今までの作戦会議は何だったのって感じになるわね。隊長さん、その辺のところはどうするの?」

「確かにオレとしても自分が認知症患者だということを忘れて調子こいてたようだ。棟梁が怒るのは無理もない」

「あんたに怒ってるわけじゃねえよ」

「あたしによね」

「そうだ、おめえだ!」

「まあまあまあ…というわけで、何とかして桧垣の “あの世界 ”に入って、殺害を阻止するしかないんだが…」

「あんたの入り方、おかしくない?」

「入れたとしても、阻止する手立てがないんじゃしょうがねえだろ」

「ないこともない」

「あるのか!」

「ある作戦を実行できる人間がいれば…」

「どういう作戦なんだよ!」


 棟梁の質問に、隊長は答えるのを躊躇した。


「その作戦を実行できる人間が居たら、桧垣を阻止できるのか?」

「五分五分だな。」

「あんたの話は雲を掴むようで好かん!」


 一同に重い空気が淀んだところに華子が現れた。


「あら、華子さん!」

「あんたが会議に顔出すなんて、めずらしいじゃねえの」

「棟梁、あたしにもそういう優しい言い方をして頂戴よ」

「できん!」

「今日はどうしたの、華子さん?」


 華子は昨夜の話を始めた。桧垣がまた華子を襲おうと部屋に忍び込んだのだ。華子は桧垣の “世界 ”に入った。


「桧垣さん、あなた、私を襲ってる場合じゃないでしょ」

「何だと!」


 いつにない華子の様子に桧垣は一瞬怯んだが、強引に華子の上に跨った。華子は構わず言葉を続けた。


「あなたが八田さんに鼻を折られて帰った後、あの人たちがあなたのことに関わる重大な話をしてたのを知りたくはないの?」

「何を話してたんだ!」

「何かしらね」

「勿体ぶってねえで早く言えよ、ばばあ!」

「これからレイプする女にババアはないでしょ」


 華子は軽蔑の高笑いを桧垣に投げた。


「やつらが何を話してたんだ!」

「ばばあを襲うような人に教えたくはないんだけど…」

「なら黙ってろよ。別に興味はない。オレは今夜こそ目的を果たせればそれでいいんだ」

「あなた、殺されるのよ」


 桧垣の動きが止まった。


「今、何て言った?」

「あなたはやつらに殺されると言ったのよ」

「何!」

「私に乱暴しようとする人が殺されるわけだから、言う義理もないんだけどね」

「どうせ苦しまぎれに、でたらめ言ってるだけだろ」

「あなた、徳子さんを殺すのよね」

「・・・!」

「あなたは徳子さんを殺したらお払い箱よ。そのあとすぐに殺されるのよ」

「誰がオレを殺すんだ!」

「・・・・・」

「八田か!」

「・・・・・」


 華子は桧垣を笑顔で睨み据えた。


「なぜそんなことを知ってるんだ、おまえ」

「もっと知ってるわよ。この施設にはあなたに不都合なあなたの知らないことがたくさんあるのよ。あなたは単なる使い捨てよ」

「・・・・・」

「今後、私に乱暴しないなら、これからあなたがどうなるのか教えてやらないでもないわ」

「・・・・・」

「重いんだけど…」

「…わかった。約束する」


 桧垣は華子から降りた。


「誰なんだ! 教えろ!」


 華子はベッドから起き上がり、表情が冷徹になった。見たこともない華子の突き刺すような視線に桧垣は低姿勢になった。


「…教えてくれ」

「門馬施設長よ」

「門馬さんが!」

「それから、門脇医師」

「門脇先生も!」

「彼女の計画よ」

「何だって!」

「それから…」

「八田だろ!」

「そうよ。それから…」

「まだいるのか?」

「早乙女さん」

「あの女…クソッ! クソッ、クソッ、クソッ!」


 桧垣は怒りが込み上げてきた。


「他には!」

「たったそれだけよ」

「たったそれだけ? 四人もいるじゃないか! 四人だぞ!」

「取り乱しても危険を回避できるわけじゃないわよ、桧垣さん」

「クソッ!」

「徳子さんを殺したら、すぐにあなたはこういうことになるのよ」


 桧垣の目が凍り付いた。サバイバルナイフを持った華子が真っ直ぐ近付いて来たからだ。


「・・・!」


 華子のサバイバルナイフが桧垣の頚窩けいかを貫いた。瞬間移動の華子は更に桧垣の右椎骨動脈の辺りを貫いた。桧垣が右を向こうとした時には既に華子は桧垣の左椎骨動脈の辺りを貫いていた。桧垣から昭和の噴水ジュース自販機状態で血が噴き出した。桧垣は激痛の喉を押さえてのたうち回った。


「桧垣さん! 桧垣さん!」


 夜勤で巡回の野田聖が華子の部屋でのたうち回っている桧垣に声を掛けた。


「桧垣さん、あなた、転んで怪我をして帰ったんじゃなかったの?」

「首が! 首が!」

「首がどうしたの?」

「刺された!」

「何ですって! どこを?」

「前と、右と、左と…」

「何ともなってないけど?」


 桧垣はべっとりと血の付いた手を出した。


「手がどうしたの?」

「血だらけ…」


 血だらけどころか、血は一滴も付いていなかった。慌てて首を確認してみたが、なんともなかった。


「あれ?」

「桧垣さん、大丈夫なの?」

「あ、はい…」


 腑に落ちない桧垣は華子を探した。華子はベッドでスヤスヤと眠っていた。


「桧垣さん、兎に角、休んだほうがいいわ。何をしに出て来たのか知らないけど、お家に帰って休みなさいよ」


 野田に促されて桧垣は華子の部屋を出て行った。野田は華子の様子を見てから巡回に戻った。野田たちが去って、ベッドの華子は目を開けた。桧垣は家に帰ろうと、介護管理室を通り過ぎて玄関に続く廊下を歩いていた。


「桧垣さん!」

「・・・!」


 振り向いたが誰もいなかった。桧垣は再び歩き出した。


「桧垣さん…」


 非常灯の明かりだけの廊下には誰もいないのに、抑えた声だけがする。


「桧垣さん、気を付けて! 殺されるわよ。あなたの命を、すぐそこで八田さんが狙ってる!」

「八田が!」


 薄明かりに漂う見えない相手に、桧垣は声を殺して答えた。


「あんた、玉村華子さんか?」

「違うわよ」

「誰だ!」

「あなたは徳子さんを確実に殺せるの?」

「あんたの顔を見せろ」

「あなたは徳子さん殺しに失敗したって、どっちみち殺されるよ。あなたが殺されたって自業自得だから仕方ないけどね」

「オレが何をしたっていうんだ! 使いっ走りさせられてるだけだろ!」

「あなたは入居者に手当たり次第に猥褻行為の限りを尽くして来たことが、彼らに人間のクズだと思わせる原因になったんじゃないの?」

「・・・!」

「気付かれていなかったとでも思っていたの?」

「早乙女か…早乙女が言いふらしてるんだろ」

「早乙女さんだけじゃないでしょ。ここの介護士の殆どの人があなたの愚かな行為を目撃したことがあって、あなたは陰でみんなに笑われていたのよ」

「・・・!」

「我々は使い捨てに出来るあなたのようなカモを待っていたのよ」

「カモ?」

「あなたはとんだエロピエロだったってことよ」

「もう言うな! それで充分だろ」

「この施設を全部敵に回しているようなものだわ。殺られる前に殺らないと、いつまでも命を狙われることになるんじゃないの?」

「おまえら…全員殺してやる」

「そんな危険な発言をしたら、理事長が怖―い人を差し向けるでしょうね」

「理事長が!」

「やるなら全員一気にやらないと、あなたはずーっと命を狙われ続けるのよ」

「クソッ!」

「徳子さんを殺しても、殺しにミスっても…」


 声が聞き覚えのある男の声になった。


「…すぐにてめえはこういうことになるんだよ!」


 桧垣の目が凍り付いた。サバイバルナイフを持った八田が真っ直ぐ近付いて来る。


「・・・!」


 八田のサバイバルナイフがまた桧垣の頚窩けいかを貫いた。瞬間移動で八田に右椎骨動脈と左椎骨動脈を貫かれ、血が噴き出した。桧垣はまたしても激痛の喉を押さえてのたうち回った。


「桧垣さん! 桧垣さん!」


 巡回を終えて戻って来た野田が、玄関近くで再びのたうち回っている桧垣を発見した。


「桧垣さん、まだ居たの?」


 野田の声で桧垣は正気に戻った。居室のベッドの中で華子は微笑んだ。


 入居者一同は華子の話に聞き入っていた。メアリーがニヤニヤと華子に話し掛けた。


「なるほど…華子さんは相手の “世界 ”に入って八田の幻覚を見せるという高等テクニックを使ったわけね。あんた、やるじゃないのよ。桧垣のチンポの縮み具合が手に取るようだわ」

「目に見えるようだ…じゃねえのか?」

「手に取るようでいいのよ」

「相変わらず、ひでえ喩だな」

「華子さんのお蔭で、少しは希望が見えて来たんじゃねえのか?」

「さすが華子さんだな…恐れ入ったよ」

「これからどうするんだ?」

「そうだな、あとはどうやって仲間割れに拍車を掛けるかだが…」

「ああ、仲間割れね」

「華子さん、何か、いい方法はないかね?」

「ないわ」

「ないかー…」

「隊長! あんたがしっかりしないと!」

「ここまで出掛ってるんだがね」

「ほんとかよ」

「ほんとかよってなんだよ! 少しはあんたもアイデアを出したらどうなんだ」

「なんだと!」

「ふたりとも! あのね…あたしたちが仲間割れしてどうすんのよ」


 一同を再び重い空気が覆った。華子は思っていた。徳子の命を守ることは居住者には不可能なことだと。桧垣の “世界 ”に入って幻覚を見せる作戦にしても、そう何度も通用するとは思えない。徳子殺害の日にちは刻一刻と近付いて来る。華子は、自分に何が出来るのか一所懸命考えていた。


〈第13話「脱出ばあちゃんの脱出!」につづく〉

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