第11話 『任侠ゆたかな家政婦紹介所』

 貴子と獅狼は『任侠ゆたかな家政婦紹介所』の前に立っていた。


「来ちゃったわね」

「…ああ」

「ここ、本当に家政婦紹介所なのかな?」


 手入れの行き届いた蔦が一面に絡んだ古い建物だ。階段の上り口に『任侠ゆたかな家政婦紹介所』の看板があり、下り口には『姥桜院トレーニングジム』の看板があった。


「うばざくらいん? お婆ちゃんのトレーニングジムなのかな? リハビリとかのさ」

「一階が両方の受付みたいね」


 考えがまとまらないまま、獅狼は思い切ってドアホンを押した。すぐにドアが開き、大柄な強面の男が立っていた。


「あ…あの…私がなぜここに…と言いますか、今日お伺いしましたのは…どうしてかと申しますと…」

「夢を観ましたね?」

「え!」


 貴子と獅狼は驚いた。


「私は、華子さんと同じ介護施設に入所している舟島節子の息子です。あなたたちが今日お越しになることは、夢で母が伝えてくれました」


 そんなことが起こるはずはない…獅狼は今起こっていることは、もしかしたらまだ夢かもしれない…夢の中で、夢から覚めた夢を観ているに違いないと思った。小次郎は貴子と獅狼を応接室に案内した。


「お待ちしてました」


 上品な白髪の老婆が奥の席で丁寧にお辞儀をして出迎えた。


「白鳥桜子と申します。私はかつて、華子さんのお義父さま・徳太郎さんに命を助けていただいた白鳥桜子と申します」

「義父が?」

「貴子さんが、まだ吉哉さんとご結婚なさる前のことなのでご存じないと思います。社長の姥桜院もおういんさんとご縁があって、ここで働かせていただいております」

「もおういん?」

「ああ、地下のジムですね。ここは元々、格闘技のトレーニングジムでしたので、建物譲渡契約の条件で社長がそのまま引き継いでおります」

「私はまた、お婆ちゃんのトレーニングジムかと思いまして…凄い斬新だなと…」

「ええ、ゆくゆくはそういったことも考えております。多くの方は、筋トレは若い人がやるものと思ってらっしゃいますが、高齢になってからこそ筋トレは必要なんです。農家のお年寄りが元気なのは、農作業が筋力の衰えを保ってくれているからなんです…まあ、私ったら、余計なお喋りをしてしまいました」

「いえ、私ら夫婦も足腰立たなくなって子どもたちに迷惑掛けたくないので、ジムに通って少しばかりの抵抗をしています」

「それはようございました! 是非、続けてください! 私どものジムにも遊びにいらしてください!」

「ありがとうございます、是非!」


 社長の代行兼デスクを務めている楠本吟子がお茶を運んで来た。


「楠本吟子と申します」


 吟子の本業は弁護士だ。『任侠ゆたかな家政婦紹介所』からの弁護の以来で出入りするようになり、今ではすっかりこの会社の仕事が気に入って顧問弁護士兼従業員になっていた。


「伺うところによれば、貴子さんのお姉さまも、社長の徳子さんも、小次郎さんのお母さんの節子さんも、同じ介護施設におられるとのこと…今日ここでお会いできたのもそうしたご縁に導かれてのことだと思います」

「あの…施設の状況はどの程度把握なさっておられるのでしょうか?」

「夢の中の母は、二週間後に自分の身に危険が及ぶだろうと…敵のリーダーは門脇ちひろという女医で、こちら側のリーダーは自念勘蔵さんという方だと聞いています」

「そ、そうです!」


 貴子と獅狼は、小次郎が本当に共通の夢を見ていたと確信できた。


「ひどい話じゃありませんか、入居者の寿命を勝手に決める施設がどこにありますか! って怒ったら、楠本さんに、殆どの施設なんてそんなもんだよって云われてしまいましたよ」

「他の施設のことは知りませんが、姉が現在お世話になっている施設は、どうも信頼できなくなってきました」

「信頼できないどころか、一刻も早く手を打たないと取り返しの付かないことになりそうですね」

「何か打つ手はあるのでしょうか?」

「合法的にとなると、退所しかありません。しかし、それだと私どもの場合、この事務所の権利があちらの施設に渡ってしまいます」

「どうしてですか?」

「お恥ずかしい話ですが、社長の徳子の入所の際、補償金を用意できる状況ではなかったんです。つまり、この事務所の権利を担保に入所させました。早急な退所となれば、ここを明け渡さなければならなくなります。かと言って、もし施設で死亡となれば、その時点でも明け渡さなければならなくなります。どちらにしても行き詰まりです」

「先方には二重に都合の良い状況ということですね」


 重苦しい空気を貴子が破った。


「どうにもならないんですか? 向こうで寿命を決めるなら、その前にこっちが向こうの寿命をもっと短くするとか…」


 吟子は場の雰囲気に不釣り合いな大笑いをした。


「そうだったわ! どうしてそこに気付かなかったのかしら、私ったら!」


 小次郎が徐に呟いた。


「…貴子さんの仰るとおりです」

「え?」

「母の寿命を決められる前に、こっちが向こうの寿命を短くすればいいんです」


 貴子は焦った。これはひょっとしたら大変な発言をしてしまったのではないかと…いや、ひょっとしなくても完全に殺人の打ち合わせになっていると思った。


「あの、私はそういうつもりで言ったんじゃなくてですね。これはあくまでも例えばの冗談のつもりで…」

「ええ、貴子さんには無関係のお話ですからご心配なさらないでください。私の母の問題ですから、私の全責任で母を守るだけです。皆さんにご迷惑が及ぶようなことには絶対なりませんのでご安心ください」

「ちょっと待ちなさいよ。小次郎のお母さんの問題だけじゃなくなるよ、これから。入居者全員の命に関わることなのよ」

「そうかもしれないが、今回は私の母からのSOSだ。私個人の問題として処理させてもらいたい。松橋さんご夫妻にお越しいただいたことで、施設の企みは事実だということが分かった。まず母の命を狙う者を私の手で葬る。それから先の事は、その後で考えてもらいたい」

「それは駄目だ」


 法無郎が現れた。彼は『任侠ゆたかな家政婦紹介所』の戦略家の役割を担っていた。依頼後のトラブルの事後処理や証拠隠滅には欠くことのできない存在だった。客の依頼があっても慎重な法無郎が首を縦に振らない事案は危険と判断し、受けない慣例になっていた。依頼受理前の調査に予算を割く慎重さのお蔭で、細々ながら事務所の運営は赤字を回避できていた。


「あの施設のセキュリティは一年ほど前に、門脇という女医が勤務した後で強化されている。数多く設置された暗視カメラなどは、介護士の暴力を管理するというのが表向きの理由だが、実際はその逆の認知症患者の暴力の証拠記録のためだ。度重なる患者の暴力をその家族に見せて退所を迫り、入居継続の代償として某かの利益を得ているのだろう。今回、徳子社長がターゲットにされたのは、入居の担保に入っているこの『任侠ゆたかな家政婦紹介所』の買収を急ぎたいのだろう。ここを拠点に出張介護とリハビリ・ヘルスケア産業に手を伸ばそうとしているようだ。徳子社長にはもう少し生きていてもらわないと、この家政婦紹介所を引き渡さなければならなくなる」

「だから私が…」

「それは駄目だ! おまえはそれで気が済むかもしれないが、会社としては万が一にも戦力としてのおまえを失うのは、会社を引き渡す以前に致命的だ」

「ドジは踏まない」

「犯罪の危険リスクが高過ぎる。他の方法を考える」

「あの…」


 獅狼が口を挟んだ。


「これは本当におかしな話なんですが、私が介護施設を訪れると必ずあの人たちの “世界 ”に入れられるんです。その “世界 ”というのは、現実とは違うあの人たちの頭の中の本音の “世界 ”なんですが…」


 獅狼は自分が不思議そうに見られている一同の視線に違和感を覚えて言葉が途切れた。


「これ…あくまでも私の妄想かも知れませんから、関係なかったですね。すみません」

「いや、聞かせてください」


 法無郎が獅狼を促した。獅狼は単なる自分一人の妄想かも知れないという違和感と闘いながら説明を始めた。


「その “世界 ”の中の会話では、彼らも彼らなりの作戦を立てているんです。脱出ばあちゃんが…あ、いや…姥桜院徳子もおういんとくこさんが狙われた時、入居者たちの “その世界 ”で緊急連絡をし合って全員現場に急行しようという作戦です。小学校の連絡網みたいなものですね。作戦のリーダーは桜子さんが先程仰った自念勘蔵さんです。入居者の皆さんは彼の事を隊長と呼んでいます」

「その隊長さんは、犯行現場がどこになるか言ってましたか?」

「いえ、そこまでは…ただ犯行時間は夜勤シフトになってからだろうと…」

「成程。暗視カメラだ。暗視カメラに映らない場所が三ヶ所ある。介護用バスルームとストックルームと調理場だ。多分、犯行現場はそのうちの何れかだろう」

「暗視カメラをオフにされたら、犯行現場の特定は難しくなりませんか?」


 そこに祁注連 衝太郎けじめ つけたろうが遅番を更に遅れて出勤してきた。衝太郎は元スタントマンだった。『任侠ゆたかな家政婦紹介所』でも危険な作業を一手に引き受けていた。


「どうだった?」

「終わりました」

「そうか、ご苦労さま!」


 小次郎は、法無郎と衝太郎の秘密めいた会話に違和感を持った。


「衝太郎、どっかに行ってたのか?」

「火遊びで夜更かし」

「火遊び?」

「法無郎さん、隠し事は無しにしてくださいよ」

「そんなものはない。どれ、小次郎が大事なリーグ戦を前に、お母さんのことで暴走しないよう、神棚に手を合わせるか」


 衝太郎はそのままロビーの奥にある神棚の前に立った。小次郎は、K‐1の全日本チャンプを競うリーグ戦出場権をやっとのことで手に入れていた。もうすぐ三十路に手の届く小次郎にとって、最後のチャンスだった。衝太郎は小次郎の善きスパーリングパートナーであり、その指導が奇跡を起こすかもしれない段階に来ていた。小次郎も衝太郎の後ろに立った。


「何してんだ、おまえ?」

「オレも…」

「おまえは、チャンプになってからにしろ」


 獅狼は気配を察して席を立った。


「では、私どもはこれで失礼します」

「そうですか、何のお構いもできませんで。でもお越しいただいて本当に助かりました。できれば、今後もその彼らの “世界 ”の情報を教えていただけないでしょうか?」

「もちろん、そのつもりです。信じがたい話を信じていただいて、私も胸につっかえていたものが取れて楽になりました」


 桜子が、用意していた小さなケースを出した。


「これ、吉哉さんにお渡しいただけないでしょうか?」

「何ですか?」

「吉哉さんのお父さまからいただいた万年筆です。私がお父さまの元に引き取っていただいた時に、“夢を持ちなさい ”とこの万年筆をいただいたんです。これは徳太郎さんがご自分のお父さまからいただいたものだそうです。でも、これは今は吉哉さんに持っていてほしいのです」

「義兄は…」


 貴子は声を詰まらせた。獅狼が説明した。


「義兄の吉哉は今年の初めに他界しました」

「え!」

「その後、義姉の認知症が急に進んでしまって現在の施設に入りました」

「そうでしたか…」

「持っていてください」


 貴子が声を絞り出した。


「桜子さん、あなたが持っていてください」


 桜子はゆっくりと頷いた。


 貴子たちは『任侠ゆたかな家政婦紹介所』を出た足で予定どおり華子の施設に向かうことにした。


「白鳥桜子さんって、どういう人なんだろうね」

「・・・・・」

「吉哉さんの昔のことで、お義姉さんから何か聞いてる?」

「何も聞いてない…というか、お姉ちゃん、桜子さんのこと知ってんのかしら」

「・・・・・」

「お義祖父じいちゃんの徳太郎さんに引き取られたと仰ってたから、吉哉の義理の兄妹ということになるんだろうね。でも、今まで一度もお会いしたこともないし、何か深い事情があるのかもね」

「吉哉さんはそういう類のことは云わない人だったもんね」

「知ってたとしても、お姉ちゃんの過去はどんどん消えてってる。特に、辛かった過去は一番先に消えてる。今はもう別の世界で一所懸命闘ってる人だから…」

「そうだね。でも、記憶にないかもしれないオレたちって、どう役に立てばいいんだろ」

「今まではそう思っていたけど、施設が恐ろしい事態になった今は、お姉ちゃんの命をどうやって守るかじゃない?」

「夢のこととか、 “あの世界 ”のこととかって、本当なんだろうか? 何か、妖怪・馬鹿うましかにでも惑わされてるんじゃないのかな?」

「しっかりしてよ、獅狼! お腹空いてんじゃないの?」


 今日の貴子の食事要求は変化球で来た。獅狼は平和のために話を合わせた。


「空いてる、相当にお腹空いてる」


 そう言ってから獅狼は “オレって本当にお腹空いてるか? ”と無意味な自問をしてみた。最寄りの駅に下りると、結局いつもの会話が始まった。


「どこに入る?」

「どっか、その辺の適当なお店に入ろうか?」

「何系が食べたい?」

「お腹空いてるからオレは何系でもいいよ」

「何にしようかな…」

「お店探すのは貴子のほうがうまいから任せるよ」


 そして結局、前に入ったリーズナブルな店に決まった。貴子は店に入ってメニューを見るなり、即座に品物を決めて獅狼に頼み、お手洗いに向かった。今日は順調だと獅狼は妙な達成感を覚えた。


 施設に到着すると、いつもと雰囲気が違っていた。いつも殆どひと気のない一階受付フロアが妙に騒々しい。貴子は相変わらずマイペースでお手洗いに向かった。獅狼はいつもの長椅子に掛けて待つことにした。座りかけた途端、貴子が小走りに戻って来た。


「大変よ! お手洗いが使えない!」

「掃除中なの?」

「籠城中よ!」

「え?」

「誰かが中に籠城中なのよ!」

「なんで?」


 二人はほぼ同時に青褪めた。門脇らの二週間先の計画が早まったのではないかと思ったからだ。


「どんな様子だったの?」

「施設のスタッフが中の人に呼び掛けてた。 “大丈夫ですか! ”とか言って」

「男? 女?」

「分からない。女子トイレだから、女? でも、中から返事がなかったから…」

「じゃ、なんで籠城だって分かるんだよ」

「スタッフの人が “以前にも籠城されちゃったもんで…もうすぐ済みますから ”って言ってたから」


 そこに華子を主に担当している介護士の橘冴子が通った。


「橘さん!」

「あら、松橋さん!」

「まさか、トイレに入っているのは…」

「ご心配なく。お姉さんじゃありませんから」


 貴子はホッとして尿意を思い出した。


「最近、入居してきたおじいちゃんなんですけどね。ずっとお家で引きこもっていた方なので、急な環境変化に驚いちゃったんでしょうね。認知症もまだ比較的軽度だということなので…」


 そう言ってから、橘の顔が青褪めた。


「そうですか! …で、姉は?」

「華子さんは今3階のロビーでテレビを観てますよ。ごめんなさいね、こんな状態で」


 橘介護士はそそくさと “籠城現場 ”に向かった。橘の顔が一瞬青褪めたのが気にはなったが、貴子たちは取り敢えず胸を撫で下ろした。同時に、脱出ばあちゃんにその日が近付いていることが、リアル感を持って心に突き刺さって来た。


 三階に上がると、脱出ばあちゃんがいつものガラス戸を必死に開けようとする姿が目に入った。獅狼は何故かホッとした。ところが今日の脱出ばあちゃんは “作業 ”の手を止めて話し掛けて来た。


「私はね、今日も脱出訓練してるのよ。うちの連中にも困ったものだわ」

「ご苦労様!」


 貴子は反射的に答えた。獅狼は一瞬、脱出ばあちゃんが認知症を脱したのかなと思った。しかし、認知症は根治不可能な不治の心の病だ。それにしても “うちの連中にも困った ”とはどういうことなのかと疑問に思いつつ、ロビーに目をやって、やっと “あの世界 ”に入っていることに気付いた。しかも、今回は貴子も “あの世界 ”に入っている。初めてのケースだ。メアリーおばさんがロビーから派手派手しい歓迎ムードで二人に近寄って来た。


「遅かったじゃないの、獅~クン。焼けるわね、奥様とお食事なんて」


 貴子と食事して来たことを何でメアリーは知ってるんだろうと驚いた。それに、自分がいつから “獅~クン ”と呼ばれるようになったのか戸惑った。貴子までがメアリーおばさんに歩調を合わせた。


「獅~クンがお腹空いたって言うもんだから…こんな大事な時にしょうがない人よね」


 そう言って貴子は獅狼に舌を出しておどけて見せた。貴子の悪乗りは取り敢えず無視して隊長ら入居者自衛軍の待つロビーに向かった。隊長は待ちかねたように挨拶もそこそこに話し掛けて来た。


「騒動のことは知ってると思うが…」

「いえ、詳しくは知りません。一階のロビーに入ったら施設のスタッフが忙しなく右往左往していたので、何かあったのかな程度で…」

「入居者が自殺したんだよ」

「・・・・・!」

「彼は認知症の初期でね。俗に言う “まだら ”だったようだね。判断力が残っていたのが災いしたのさ。この施設に入れられたことで、捨てられたと思ったのかもしれない」


 一般に認知症患者の自殺は、ほぼ不可能とされる。しかし、認知症初期の場合、実は最も危険な時期といわれている。不完全ながら認知の機能が完全に失われているわけではない。大きな環境の変化で弱った心が無残に捻り潰されたと受け取り、常に傍にいてくれた家族にも見放されたとなれば、前途を憂えるには充分だ。


 若者の場合の引きこもりは主に挫折にある。親に対する不満など責任転嫁の理由は種々だが、結局、理想とする自分を描く夢が破れた結果、その現実を受け入れられない状態だ。一方、高齢者の引きこもりの原因は身体機能の低下や後遺障害だ。若者の引きこもりと共通しているのは、自分の現状を他者に見られたくないことだ。何れもその先には破滅しかないが、自分を受け入れさえ出来ればその先が拓ける。しかし、認知症に因る引きこもりは解決し難い要素がある。認知症患者を支えきれなくなった家族まで引きこもり当事者になるケースが増加しているという。


トイレに閉じこもった高齢者の男性・山本辰蔵は、そんな状況から脱してこの施設に入って来たばかりの、言わば幸運なはずの入居者だった。しかし、青褪めた橘介護士の不安は的中していた。

 橘が青褪めたのには訳があった。貴子が “以前にも籠城された ”と言った言葉が橘に“ある老人 ”のことを思い出させた。その老人は施設に入るために息子に連れられて下見に来ていた。そこで初めて入所の話を聞かされた老人は、息子に激しく抗議した。その場は治まったものの、施設の帰り際に息子が目を離した一瞬の隙を突いてトイレに閉じ籠ってしまった。息子は、施設には入りたくないという父親の意を汲み、どうにか何事もなく帰宅した経緯があった。


 トイレに閉じこもった辰蔵は、駆け付けたレスキュー隊がドアを突き破った時、既に舌を噛んで果てていた。辰蔵の遺体は入居者の目を避けて施設の裏口から検死のために救急車で静かに搬送されて行った。


 ロビーでは入居者自衛軍の “あの世界 ”会議が続いていた。


「トイレに閉じこもった彼の “世界 ”に入ろうとすると、固く拒絶された。必死に説得して中に入ったら、荒んだ薄闇があった。そこに他界した彼の妻が居たんだ。その妻はオレに “この人の思うようにさせてくれ ”と懇願してきた」

「好きなようにって、自殺ですか?」

「彼らは、介護独身になって苦しんでいる息子のために、今何が出来るか話し合った結果だと言うんだ」

「・・・・・」

「止められるわけがない」

「息子さんは悲しむでしょうに」

「悲しみを乗り越えれば、息子の未来は拓ける」

「…そうね」

「そうか?」

「そうよ!」

「どんな状態になっても長生きすることが善だとされて来たが、それは自分だけの器で収まるならの話だ。掛け替えのない者を窮地に立たせてまで長生きするのが善だとは…オレは思わない」

「でも、息子さんの中で、お父さんに生きててほしいという強い気持ちがあったとしたら?」


 その言葉に棟梁が、いつものように不調な肩を揉みながら呟いた。


「親離れの時期を教えてやれない親は、親失格だ」

「お亡くなりになったお年寄りは、ご自分の前途ではなく、息子さんの前途を悲観して、親としてのケジメを付けたつもりだったんでしょうね」

「オレが、彼の “世界 ”を立ち去ろうとした時、彼が言ったんだ。自分の出した答えが正しいか間違っているか…今は分からない。でも、それはこれから先、息子が決めてくれる。私の息子は、この判断が正しかったことを証明してくれると信じている…と」


 八重が反論した。


「でも、お父さんの介護でいっぱいいっぱいだった息子さんは、この施設に入れば、自分の至らない介護よりは安心だと思ってホッとしてたでしょうにね」

「谷底に突き落とされた獅子の子が、親を恨んでる間は見込みねえな」

「あなたは自殺に賛成なんですか!」

「オレはあんたの亭主じゃない。狭量な八つ当たりなら、そこに居る亭主だけにしてくれ」


 八重が棟梁の指す自分の後ろを振り返った。


「あらあら、お二人さん! 恋でも芽生えそうですね」


 メアリーおばさんが間に入ったが、八重は更に棟梁に噛み付いた。


「うちの夫が後ろに居るって? あなたは “この世界 ”に居ても幻視が起こるんですか、お気の毒です事!」

「居るだろ、後ろに。あんたには見えないのか?」


 八重がもう一度後ろを確認して激怒した。


「人を馬鹿にするにも程があります! 子供じみた悪ふざけをするような人となんか行動を共になんてしたくありません! 私はこの作戦から外させてもらいます!」


 その場を去ろうとする八重に、隊長が声を掛けた。


「八重さん、あなたには本当に見えないんですか?」

「隊長まで一緒になって私を侮辱するんですか!」

「そうじゃない! 居るんだよ、そこにご亭主が!」


 真剣な隊長の表情に、八重はもう一度、後ろや周囲を見て不安になった。


「私には…見えません」


 一同の視線の先には、八重の夫・作太郎が立っていた。介護士の橘が通ったので、獅狼は一同の “世界 ”を一先ず抜け出した。


「橘さん、先程はどうも」

「あら松橋さん、お姉さん嬉しそうですね!」

「ええ…ところで、八重さんのご主人は今日は面会にお越しですか?」

「どうしてです?」

「気のせいかしれませんが、八重さんが傍から拝見していて寂しそうなので…」

「今日はご主人の面会はまだですね」

「そうですか、どうも」

「いえいえ」


 橘は怪訝そうに去って行った。獅狼と橘のやりとりを聞いていた一同が青褪めた。


「ご主人の身に何かあったんじゃないの?」

「隊長さん、そこに立っているご主人の “世界 ” に入れないの? 入って聞いてみたら?」

「死人には入れないよ」

「あんたね! 冗談も時と場合を考えろよ! 本人の前でショックなことをのたまうんじゃねえぞ」

「急に八重さんの肩を持つなんてどうしたのよ、棟梁。自分の肩は痛いのにさ」

「主人は死んだんですか!」

「とにかく、そこに立っているご亭主には “世界 ”がないんだ。生きてるか死んでるかは知らんけど、少なくともオレは死人の “世界 ”には入れないんだよ」

「皆さんにはうちの主人が見えるんですか? なぜ私にだけ見えないんですか? あなた、どうして私を避けてばかりなの!」


 八重は席を離れて行った。八重の夫は丁寧にお辞儀をして、妻の後に付いて行った。その姿が哀れだった。


「八重さんにだけ何故ご主人の姿が見えないんでしょうね?」

「お迎えに来たのなら見えるはずだわよね」


 終末期に近い人が、既に亡くなった家族や親戚・友人を視るということは普通に知られている。「お迎え」を視て穏やかに亡くなる人は四割以上と云われ、その極一部の生還した人が「お迎え」の体験を話すようだ。八重の夫も「お迎え」が来て最期の挨拶回りをしていたのだろうか…


「あなた縁起でもないわね。まだ亡くなったと決まったわけじゃないんだから」

「そう言うけど、なら、メアリーさんは八重さんのご主人が生きてると思ってんの?」

「思ってないよ」

「明るく即答かい!」


 貴子は娘の話を思い出していた。貴子の長女・蘭子は、都内の大学病院でICUの看護師をしていた。人が他界する姿を親より見て来た蘭子は、患者の死の際に起こる不思議な現象に何度も遭遇していた。


「今、丁度、亡くなるところじゃないかしら」

「おい、貴子、なんてこと言うんだよ」

「蘭子が話してた臨死共有体験のことを思い出したのよ」

「あら、どんな体験かしら?」


 メアリーおばさんは、なぜか体験という言葉に反応した。


「亡くなる方が逝くときにはね、あの世からのお迎えを見るらしいの。娘が言ってたの。意識レベルが低下した患者さんにお声掛けした時に、その視線が看護師の自分にじゃなく、確実に周囲に何かを見ているっていうのよ。その時に、もし患者さんが見ているであろう光景を、家族の人たちも同時に見てしまうことを臨死共有体験って言うらしいの」

「でも、今回は奥さんである八重さんには見えなくて、他人の私たち全員に見えたのよ。どういうこと?」

「ご主人は八重さんが怖いのよ。だからあたしたちにだけ姿を見せて、妻のことを頼んでから逝こうと思ったんじゃないの?」

「それだけかしら?」

「何かあるの?」

「八重さんも死ぬんじゃないかしら? ご主人は挨拶じゃなく、お迎えに来たのよ」

「はっきり言うね、メアリーさんは」

「あたしたちは八重さんの臨時…臨時体験?」

「臨死共有体験ね」

「そうそう、その体験をしたのよ! なんか凄くない、あたしたちって!」

「凄くねえよ、ちっとも。勝手に人を死人にして盛り上がってんじゃねえよ。ていうか…どうするんだよ、徳子さんの件は!」


 そう言って、棟梁は不調な肩をまた揉み始めた。


「午前中の自殺騒動で世間の関心を引いてしまったわけだから、それが収まるまで、やつらの計画が延期になるんじゃないかと思うんだよ」

「甘いわよ、隊長」

「甘いかな」

「私は不審死で死ぬんじゃないよ。門脇は私を自然死させるわ。介護施設で高齢認知症患者が亡くなるのは当たり前のことよ。計画は予定どおり行われるに違いないわ」

「オレもそう思うな」

「棟梁の恋のお相手が八重さんから徳子さんに移ったのね」

「メアリー、どうしておまえは何でも色恋中心で判断するんだよ」

「経験上、そこを起点にすれば全てのことは解明されるのよ」

「うるさいよ」

「そろそろ飯の時間だな。食えば気持ちも落ち着く。食ってから徳子さんの話をしよう」

「皆さん、私のために申し訳ないですね」

「いや、あんただけのためじゃないよ。次はオレたちの誰かがターゲットとして狙われるんだから」


 夕食の時間になって入居者たちはスタッフの介添えなどでそれぞれテーブルに着いた。獅狼は、一足遅く “世界 ”から脱した貴子を待って、いつものタイミングで施設を後にしようとエレベーターに向かったが、貴子は真っ直ぐ華子の居室に向かった。 “世界 ” から脱した貴子は、入館時のトイレの籠城騒ぎで止まっていた尿意が再び激しく襲っていたからだ。


 隊長の隣になったメアリーが囁いた。


「さっき、自殺した人の奥さんに “この人の思うようにさせてくれ ”と懇願されたと言ったわよね」

「ああ」

「奥さんは、ただ思うようにさせてほしいと言っただけなの?」

「…ああ」

「隠してるでしょ」

「何をだ」

「それを聞いてるのよ。あたしの感は誤魔化せないわよ。思うようにさせてほしいと言った理由があったでしょ?」

「・・・・・」

「恍けるつもりなら、あんたの奥の隠し扉を開けるわよ」

「やめろ! 息子に…交際相手ができたんだ」

「やはりね」

「そんなことを聞いたって、もうどうなるわけでもないだろ」

「どうなるわけでもないなら、話したっていいんじゃないのよ」

「・・・・・」

「じゃ、あたしが当てましょうか?」

「勝手にしろ」

「自殺の原因は、そのご主人の性欲でしょ」

「・・・・・」

「息子さんの交際相手にあってはならない粗相をしてしまった…」


 隊長は口元をへの字にしたまま目を瞑ってしまった。


「図星ね…認知症患者の性欲の話ってタブーよね。患者がいかがわしい行為に出たら、マニュアルではその対処法として、精々 “背中をさすってやる ”とか、“手を握ってやる ”とか、“抱きしめてやる ”とか云われているようだけど、そんな行為なんかをしたら認知症患者は容認と捉えて、性器を見たがる、見せたがるといった行動にまでエスカレートしちゃうわよ。それが現実なのよ。認知症患者の自慰だってさ、見ざる・言わざる・聞かざるにすりゃいいって言ったってさ、介護してる身内にしたら嫌悪感を抱くでしょ。それだけじゃないわ。嫌悪感を抱く自分にも嫌悪感を抱いちゃう。そんなことが余計に身内の介護を面倒臭くしてるのが現実のタブーなのよ。それが息子さんの彼女となったら、事は深刻でしょ」


 介護士の桧垣が近付いて来た。


「自念さーん、起きてくださいね~! お夕飯ですよ~! 斎藤さんもスプーンを持って食べましょうね!」


 気が付いたら入居者たちは二人をよそに食事を始めていた。隊長は目を開け、徐に食事を始めた。メアリーも食べようと思ったが、スプーンで食事をするやり方が思い出せなかった。


「斎藤さん、ちょっとだけお手伝いしますね」


 そう言って桧垣はメアリーに一口だけ介添えして食べさせてくれた。メアリーは、こんなことを忘れるなんてと腹立ちまぎれに桧垣からスプーンを毟り取って自力で食べ始めた。


〈第12話「四日前」につづく〉

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る