第9話 隊長

 貴子と獅狼は施設の最寄り駅に着いてバスの時間を見ていた。


「ちょっと早く着いたわね。どうする?」


 どうすると言われた時は、貴子がどうしたいかということになる。獅狼はこの「どうする?」を貴子語に翻訳すると「食事したい」という意味であることは承知していた。しかし、それは獅狼の希望として言葉に出すのが夫婦の儀式として定着していた。「お腹空いたんだろ?」なんて獅狼が言おうものなら、貴子主催の恐ろしい緊急ミーティングが開かれる。それを避けるには獅狼自ら「お腹空いたな」と発言しなければならない。


「お腹すいたな」

「えーっ、そうなの? しょうがないわね。じゃ、駅前のどっかに入りましょう」


 儀式はまだ終わったわけではない。店を探す儀式がある。


「どこにする?」

「貴子のほうが探すのうまいだろ。任せるよ」

「あら、そう?」


 そう言って貴子は駅前で最もリーズナブルな店に入った。儀式は無事に終わった。時間調整の食事タイムを済ませ、二人はバスに乗って施設に向かった。


 この施設には介護士らに “隊長 ”と呼ばれている入居者がいた。彼がロビーに現れると入居者が回りに集まって来た。何がどうというわけではなかったが、不思議とそういう現象が起こっていた。彼の名は自念勘蔵。過去に統合失調症がひどくなり、精神病院への入退院歴があった。症状が安定し、自傷他害の怖れなしということで退院したが…いや、退院したという表現は正確ではなく、退院させられたのだ。その後しばらくして幾度目かの帰院の門を叩いたが、認知症と診断されて今の施設に入るに至った。この施設では問題も起こさず、快適な “隊長 ”生活を送っていた。獅狼はその隊長に指を差されていた。そのことで自分がまた “あの世界 ”…といっても、獅狼自身にもどの世界か分からない世界に入っていることに気付いた。


「おまえさんは鉄格子の中に入ったことがあるかい?」

「鉄格子?」

「精神病院の鉄格子だよ」

「ああ、そっちの方ですか…ありません」

「そりゃそうだろ。おまえさんの世界はクリーンなものだ。オレは統合失調症というやつで入れられた。そこでオレは自分が見えたり聞こえたりするものを全否定された。病気のせいで存在しないものが見えているし、有りもしない音が聞こえているんだと。そう言われ続けているうちに、自分が普通じゃないかもしれないと思うようになった。普通って何だろうとも考えた。おまえさん、獅狼さんとか言ったな」

「はい」

「獅狼さんは普通って何だと思う?」

「普通…ですか…多くの人が当たり前だと思っていることでしょうか?」

「そう、云わば多数決だな。普通は多数決。オレは極々少数派。たったひとりかもしれない。だから普通の人には認められない…そう思うようになった」


 統合失調症は妄想や幻覚が十人十色といわれる。患者の妄想の壁の奥には、おどろおどろしい世界があるといわれている。統合失調症の治療では、その世界から連れ出す試みがなされる。患者自身がその世界から自力で抜け出せるためのサポートが治療だ。自力脱出ができるようになるまではかなりの時間を必要とする。隊長は自身をコントロールできるまでになったため退院できた。その後、日常生活のストレスからか、再び妄想や幻覚の症状が出るようになり、再入院となるはずだったが、認知症の症状であると診断されてこの施設に入ることになった。自念勘蔵にとっては、精神病院よりはまだ人間扱いされていると感じていた。


「初めて鉄格子に入れられた時、自分は終わったなと思ったよ。それでも外の世界に出たい。どうすれば外の世界に出してもらえるかと、必死で普通の人を演じるんだ。しかし、幻覚には勝てない。精神病院だと、周りは同類だらけ。自分こそはより普通の人だとお互いに偏見の目で見合う。滑稽だろ。そういう行き詰まりの中でもがく毎日だったよ」

「お薬とかは…」

「薬か…飲んでる。飲んで治るわけでもないが、必要な薬は飲まないと幻覚の苦痛が襲ってくるから、普通の人ではいられなくなる。薬と人の力を借りて、幻覚に引きづり込まれないようにするしかない。自分がそこまでして生きる価値があるか迷うし、絶望的にもなるけど…もう一人の自分が、オレを気の毒に思って殺さないんだ」

「私も時々、もう一人の自分がいます」

「おまえさんは優しい」

「・・・・・?」

「こんな話をしても、誰もこのオレと共通性があることを認めようとしないのに」

「精神病患者と共通していることが怖いんじゃないでしょうか」

「そう…精神病と診断された時の心細さはなかった。気持ちは分からないわけじゃない」

「どうやって克服したんですか?」

「母を責めた。こんなオレを生んで…」

「お母ささまはお辛かったでしょうね」

「どうかな…母はオレに必要なもののはずだって、訳の分からんことを言うんだ」

「必要なもの…」

「その意味がこの頃になってやっと分かるような気がしてきた。生きて、何を得て、そして死ぬかなんだよ。人はもがかないと何も得られない…オレは怠け者だからサボらないでもがくように、この病気を与えられたんだろうと」


 そこに棟梁とメアリーが来て隊長と同じテーブルに付いた。少し遅れて八重もやって来て離れたテーブルに付いた。


「ここに来るまで、人とは話もできなかった。ここに来てから、オレにしか分からないと思っていた世界が、皆にもあることに気付いた。ひとりひとりの世界があって、それが相手との壁になっているんだが、思い切って相手の壁の中を覗いてみたら、見たこともない世界が見えたんだ。相手の喜びや苦しみが見える。感動したね」


 棟梁が会話に参加してきた。


「あんたの世界は化け物屋敷だ。入ったはいいが、あまりの恐ろしさに入口で引き返したよ。よくもまあ、あんな化け物だらけのところで堪えているなと思ってね。感心したよ」


 棟梁は言葉だけではなく表情でもその時の恐怖を物語っていた。


「まあ、オレは生まれて物心がついた時からの世界なんで、他人の世界を見て初めてオレのはひどい世界なんだなと思ったね。そのうちに慣れて化け物と話せるようになってね。実は、やつらも話せば分かってくれる連中なんだよ。どこかオレとも似ているようで以心伝心の時も多々あってね」

「あんたのような世界を持っている人を他に知ってんのかい?」

「鉄格子の中の連中は皆、オレと大差ない。自分の中で化け物に攻撃されたら、外の連中、特に病院側の連中になんか悟られないように耐えるのが最も賢明なんだ。連中にばれないように自分の中でそいつに懸命に頼むんだ。そうすれば大概は治まる。化け物に攻撃されて暴れたら病院側には薬を打たれておしまいだ。見てくれはおとなしくなるが、オレの中の化け物の攻撃が鎮まるわけじゃない。薬が効いている間、無抵抗の状態で攻撃を受けて苦しんでいるんだよ。だからオレは暴れるのを必死に堪えて、勇気を振り絞って化け物と話すことを覚えた。そうしている間に化け物をコントロールできるようになったから退院できたんだ」

「ところでよ、誰かここのスタッフの世界を覗き込んだことがあるか?」


 棟梁の言葉にメアリーが大きく反応した。


「あるわよ! こんなお婆さんの体でも欲しくなる介護士がいるわね」

「あんたも他人の世界に入れるのかい?」

「あたしの場合は職業病かもね」

「誰だい、その色吉は?」

「桧垣という新人のガキだよ。介添えする時にやたらと胸や股間を触りやがるのよ。だから触られるたびに奴の世界に入って何度もキン玉ちょん切ってやったよ。奴の世界は実におどろおどろしい性欲の塊なのよ。真っ黒いタールの中で何十人という女がごった煮状態。そのうちあいつは何かとんでもないことをやらかすよ」

「もうあんたにやらかしてんじゃねえか」

「そういう化け物が棲むのはオレたちより、健常者といわれているやつらのほうがグロいぞ」


 その言葉に八重が反応した。


「そうよね。健常者と云われてたって精神失禁がないだけよね。腹の中なんて真っ黒い健常者は五万といるわ。日頃抑えていれば抑えているほど真っ黒くなっていくのよ」

「だけど幻視を見るオレたちは不利だ。見たままを人前で話したら入院だ。下手をすりゃ薬が増える。黙ってアホ面してるしかねえんだ」

「病院は “あの世界 ”の存在を知ってんだろ、当然」

「鉄格子の連中は一切無視だったね。化け物の存在は病気による幻覚で、もしその存在を認めようものなら、患者の症状が悪化すると思っている。患者に耳を傾けるどころか、主張が強ければその分、強い薬で抑え込まれるだけだ」

「桧垣の色吉は分かったけどよ、他の連中はどうなんだ?」

「このごろ、八田がやべえな」


 八田の名前が出て、獅狼にも思い当たる節があった。八重への度を越した暴力願望の “世界 ”を見てしまったからだ。


 介護施設の3K「きつい、汚い、給料が安い」の職に就く者の中には、福祉対象外の貧困世代の若者が多い。彼らが介護する対象は、比較的福祉でも手厚く遇されている高齢者層だ。本来であれば、手の掛かる認知症患者には一人に対し一人、重度であれば1人に対し複数付く必要がある重労働だ。況してや夜勤の場合、徘徊の激しい重複障害者は暴言や暴力が伴い、介護士には更に相当な負担が掛かっているのが現状だ。そうした人員不足によるストレス過多で、介護士は常に精神的に自己崩壊を来す危険を伴っている。もし仮に介護士による虐待が起こったとしても、認知症の入居者が理路整然と説明できるわけもなく、証拠となる日誌に “虐待 ”の報告をする介護士が存在するわけもなく、調査の結果、限りなく黒に近くても区役所の担当職員に出来ることは、日誌に対する “文書指導 ”程度であろう…となれば、認知症の入居者は自分の身は自分で守るしかなくなる。普通に考えれば不可能なことだ。


 隊長は、八田の危険度を既に察知していた。


「やつはオレたちに恐怖感すら持っているぞ」

「どうして?」

「介護をしていると、常にその人間を殺したい衝動に駆られるようになったからだよ」

「殺す側の人間が恐怖かよ」

「殺してしまうかもしれないという恐怖だよ」

「そういうことか…じゃ、まだ良心はあるんだな」

「良心なんてすぐに吹っ飛んじまう代物よ。良心が吹っ飛んで心神喪失すれば不法行為は罰せられないし、心神耗弱であれば刑が軽くなる。刑法39条とかが加害者を守ってくれるんだ。どっちにしたってオレらは殺され損だよ」

「死人が出る前に何とかしないと…」

「何とかするって言っても、どうするのよ」

「狙われたら終わりだよ。オレたちの頭はコレだよ。自力で助かるなんて不可能だろ」

「方法はある」


 隊長が即答した。


「八田にだってオレたちと同じように “あの世界 ”がある。やつがマンツーマンで誰かの介護を始めたら、やつの世界に入るんだ」

「入ったことのない人は勇気を出して入る努力だけでもしてくれ。難しいのは一回目だけだ。二回目からはもっと入り易くなる。現に今のオレたちはお互いの世界に入っているじゃねえか」

「あ、そう言えばそうだわ!」

「スタッフを見てみろ。こうしてオレたちが “この世界 ”で会話してることなんて、誰一人感付いていない。やつらに見えているのは、オレたちがこのテーブルを囲んでボーっとアホ面して座っている風景だ」


 獅狼は聞くなら今だと思った。彼にとって重要な疑問だった。


「私はなぜこうして皆さんのお仲間でいるんでしょうか?」

「あんたはわれらのマドンナ・華子さんの義理の弟さんということもあって、最初に来た時からここの入居者のお気に入りでね。すまんが付き合ってくれ」

「私もボーっとしている状態なんでしょうか?」

「大丈夫。今あたしらが居る “この世界 ”は、日常に比べたら時間の流れが物凄い速さなの。多分、まだ数十秒しか経ってないわよ。ボーっとする暇もない時間よ」

「奥さんにとってはその数十秒がつらいのよ。早く獅狼さんを元の日常に帰してあげなさいよ」


 八重はメアリーに皮肉たっぷりに言った。


「根に持たれちゃったわね。でもお宅のご亭主、面会に来た時の様子では、あたしのことなんて全然分からなかったみたいよ」

「冗談よ。手遅れだけど気付いたのよ。あなたには何の責任もないことに。亭主がクソ亭主で、そのクソ亭主にすら愛想を尽かされてた私が間抜けだったのよ」

「そんなふうに思っちゃだめよ。男は魔が差す生き物なのよ」

「私も魔が差してあのクソ亭主を呪い殺したいわ」

「ちょくちょく面会に来てくれてるじゃないの」

「生死を確認に来てるんでしょうよ。保険金が下りるのが楽しみでしょうから。でも私は亭主より先には死なないわよ」


 痺れを切らした棟梁が二人の会話を切った。


「お二人さんが仲直りしたのは結構なことだけどよ、肝心の作戦はどうなる?」

「兎に角、奴の世界に入る」

「誰が?」

「全員だ」

「だけどよ、八田の動きを全員気付くのは難しいぞ」

「八田と二人っきりになった者がまずオレの世界に入ってくれ。そしたらオレが媒介してみんなの世界に報告に行く。報告を受けた者はそれぞれに八田の介護現場に駆け付けるんだ」

「寝てたらどうしよう?」

「寝てたって “あの世界 ”は二十四時間営業だろ」

「そうだった」


 棟梁は今更ながらと笑って誤魔化した。


「あらー、多々良さん! 今日はご機嫌のようですね! 何かいいことでも思い出してるのかしら?」


 そう言って、施設看護師の早乙女が通り過ぎて行った。


「オレ…どんな顔してた?」

「にやけてたわ」

「そうか…気持ち悪かったろ。済まなかった」

「笑顔もいい男よ」

「よしてくれ、所内恋愛は禁止だろ」

「禁止だった?」

「恋愛は介護保険の適用外なんじゃないかしら?」

「そもそも認知症患者同士の恋愛についてなど、介護の上では考え付きもしないことだろうし、認知症患者の性欲などというものが世間一般常識ではあってはならないものにされてるんじゃないか?」

「話逸れてんだよ」

「メアリーが余計なことを言うから…」

「あら、ご免遊ばせ」


 気が付くと、隊長の周りには十数人の入所者が集まって賛同していた。


「皆さん! それでは今日はこの辺で散会と致しましょう!」


 隊長の閉会の辞で入所者がひとり、またひとりと自室に戻って行った。自室に戻るといっても、自力で自室まで辿り着けるのはほんの僅かだ。結局、スタッフが入所者の身振り素振りを察して介助し、自室まで連れて行ってくれるのがいつものことだった。


 獅狼が日常に戻った時、すぐに時計を見た。一分も経っていなかった。メアリーの言ったことは本当だった。それにしても、あの作戦会議にサソリ姉さんが居なかったのはなぜだろう。今は目の前に居て貴子と話している。貴子との時間を優先したのかもしれないと獅狼は思った。


〈第10話「女医・門脇」につづく〉

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