第8話 それぞれの地獄

 前回の面会から随分日数が経ってしまった。帰る時にはいつも次は日にちを空けないで来なければと思うのだが、中々心配と行動が伴わない。日々の生活サイクルに追われているのも理由の一つではあるが、認知症という壁が、更に面会への緊張感を高めてしまう。


「あたし、お手洗いに寄って行くから、先に上がってて」

「ここで待ってるよ」

「いいから先に行ってて…時間掛かるから」


 貴子の腸が所嫌わず健康に作動しているようだ。そう察して獅狼は仕方なく先に介護病棟に上がった。施設のエレベーターに一人で乗るのは初めてだ。上昇する機械音が重苦しい。ドアが開くと目の前に入居者が一列に並んでいた。十数人は居るだろうか…その列の途中に、サソリ姉さんも棟梁も、そしてメアリーおばさんや脱出おばさんも並んでいた。食堂にでも下りるのだろうか…でもとっくに昼食は済んでるはずだし、夕食には早過ぎる時間だ。いつになく無愛想な介護士たちを不審に思いながら、獅狼はエレベーターを出た。列がエレベーターに入るのを見ていると、介護士の桧垣がロビーの奥から声を掛けて走って来た。


「遅かったじゃないすか!」


 随分馴れ馴れしいと思った。何となくこの空気に違和感を覚えた獅狼は、貴子にメールを送ろうと携帯を探して自分の服装に驚いた。施設の介護士の制服になっている。いつ着替えたんだろう…いや、もう別の世界に入ってしまったとすぐに覚った。しかし、今回はあの特殊な衝撃が走らなかった。慣れるとそうなるのだろうかと思いつつ、獅狼は今居る場所をもう一度確認した。介護棟に間違いない。


「松橋さん、会議の時間ですよ!」

「会議?」

「早く部屋に入ってくださいよ」


 今回は何が起こるんだろうと可笑しな期待をしながら桧垣に着いていくと、部屋には施設長の門馬と、介護士の八田が居た。そして老婆が不様に床に座り込んでいる。よく見ると、メアリーを刺した八重さんだ。八田がその場をしきっているようだ。


「八重さん…とんだ騒ぎを起こしてくれたな。おまえらは、ここでは誰もが優しく介護してもらえるとでも思ってんのか? 身のほど知ってる年寄りならいざ知らず、さんざん勝手やるババアのケツの世話まで誰が好き好んでやってると思ってんだ! 何でも彼でも他人任せにしやがって、世の中に迷惑掛けた挙句の果てに、最後の砦のはずの施設で殺傷沙汰かよ、甘ったれやがって! おばあちゃん…もう、死になさいね」

「ああ、結構なお言葉ですこと。誰が好き好んで認知症になんかなるものか! 一思いに殺して頂戴よ。こっちだってね、こんなになってまで生きていたいとは思っていませんよ。私は死ねれば本望。あんたは私を殺して殺人犯になって刑務所暮らし。一石二鳥じゃありませんか? いつもいつも、あんたの暴力に苦しめられてきた仕返しができるってものですよ。嬉しくて嬉しくて、さあ早く殺れよ!」

「減らず口を叩くな! おまえらの狂気で毎晩職場は地獄だよ。徘徊して物は壊すは、クソを塗りたくるは、やめさせようとすると咬むは叩くは暴れるは、こっちのほうが余程あんたらの暴力に苦しめられているんだよ!」

「怖いんだよ、怖いから暴れて身を守るしかないんだよ! 言うこと聞かせようと、無言で轢き摺り回されてごらんよ! 殺されると思うしかないだろ!」

「お望みどおり、殺してやるから死になさい」


 八田が八重の首を絞めた。獅狼は何とかしなければと脳を搾った。


「滑稽だな」


 獅狼がそう呟いて笑うと、八田は八重を放って獅狼に噛み付いた。


「何だと?」

「滑稽だと言ったんだ。熱くなり過ぎて聞こえなかったか?」

「何言ってんだ、てめえ」

「オレはてめえじゃねえ。松橋だ」

「何が滑稽なんだ。言ってみろ」

「滑稽だろ。おまえ、自分で気付かねえのか? 放っておいても死ぬ人間を、必死になって殺そうとしてるんだ」

「身勝手なババアの下の世話はもうご免なんだよ!」

「じゃなぜこんなところでグダグダしてるんだ?」

「金のために決まってんだろ!」

「ここの安給料で金のためか…足りない分は年寄りいじめのレクリエーションで穴埋めってわけか?」

「ここのボケ老人どもには一切の誠意は通じねえんだよ!」

「なら、誠意の通じる仕事に就けば済む事だろ。この世にそんな甘ちゃんの職場があるならな」

「・・・・・」

「おたくも世間からあぶれたんだよ。ここの年寄りと同じだ。弱い者いじめで手を汚して刑務所に入るより、同類相哀れんだほうがいいんじゃないの?」

「オレがこのババアと同類だと?」

「同類じゃないのか?」

「違うに決まってんだろ! 訂正しろ!」

「しない。オレが正しい」

「口の減らねえやつだな、おまえも。このババアの前にてめえを殺したろか」

「二言目には殺す殺すと、おたくは何様のつもりなんだ」

「気に入らねえ野郎だな」

「オレを殺す前に、おまえは逮捕される」

「もう何もほざくな!」

「ここの入居者をレイプしただろ、八田!」

「・・・・・!」


 獅狼が口から出任せに吐いた言葉に、八田は想定外の動揺を見せた。獅狼は “それ、有りかよ ”と、残念な気持ちと当てずっぽうのラッキー感が交錯した。


「やはり、おたくには刑務所のほうが向いてるな。衣食住は無料。医療費も光熱費も無料。どうせ友達もいないようだから、他の受刑者との共同生活は1人で暮らすよりも楽しいだろ。衣食住の保証された刑務所は、軽犯罪を重ねて何度も入りたくなる競争率の激しさだそうだ」

「…もうやめろ」


 門馬が止めた。


「その言葉は、過去に私を地獄に落とした言葉だ。ある受刑者が、自慢げに私に浴びせた言葉だ。虫唾が走る。私の前でその言葉は二度と言わんでくれ」


 八田がいきなり獅狼に飛び付こうと向かって来た体が、激しく床に叩き付けられた。八重が八田の足を引っ掛けたのだ。


「何すんだ、このババア!」


 すると八重が毅然と凄んだ。


「いい加減にしなさい! 自分の母親を満足に看れなかった後悔を、関係ない人たちに八つ当たりするんじゃありません!」


 八重の言葉が八田の心に刺さった。


「松橋さん、この三人はね。入居者の身体検査の日に決まって誰かをリンチするんですよ。日頃のストレスを、私らの誰かを生贄にして気を晴らしているんです。今日は私の番だったけど、松橋さんのお蔭で助かったわ。でも、明日からまた誰かが生贄になるのよ。私らは少し前の事なんて忘れてしまうから、この人たちにとってはお手軽な完全犯罪なのよね。最近は皆さん上手になったわよ、どこにも跡を残さないように虐待するのが…」


 そう言って八重は笑った。


「門馬さん、八重さんの言ってる事は本当ですか?」

「八重さんって誰?」

「えっ?」


 振り向くと、獅狼の隣に貴子が来て座った。


「ごめん、遅くなって」


 獅狼は雲行きの悪くなった部屋に居ると思っていたが、衣服が元に戻っていた。周りを見て廊下のいつもの窓際の椅子コーナーに座っているので、現実の世界に戻ったんだと安堵した。


「八重さんって誰?」

「八重さん?」

「今、言ってたでしょ?」

「ああ、八重さんね。 えーと、八重さんというのは…そうそう、ほら、この間、婦警に連れて行かれた人が居たでしょ」

「あの人、八重さんっていうんだ」

「そう、そうらしいよ」

「誰から聞いたの?」

「メアリー…」

「メアリー? 誰? メアリーって?」

「メアリ…めあり…障子に目あり」

「なにそれ?」

「壁に耳あり、障子に目ありっていうじゃない。介護の人があの人を呼んでるのが聞こえてきたんだよ」

「逮捕されないで帰って来れたんだ!」

「偶然の事故だったみたいだよ」

「そうなの! 良かったわね! お姉ちゃんの施設で警察沙汰なんて嫌だもの」


 施設長の門馬が声を掛けて来た。


「お待たせしました。玉村華子さんの健康診断が終わりましたので…」


 そう言って華子を連れて来てくれた。獅狼は華子に駆け寄った。


「お義姉さん、大丈夫だった? どっか、痛いとこない?」

「大丈夫よ」

「…そう」

「どうしたの、獅狼?」

「いや、ほら、健康診断の途中で転んだりとかさ」

「介護士さんたちが付いてるんだから有り得ないでしょ」

「お義姉さん思いですね! では、ごゆっくり」


 門馬が笑顔で去っていった。門馬はこの施設に来る前は女性刑務所の看守部長に就いていたが、定年を待たずに退官してこの施設長になった。


 法務省によると、男性受刑者の減少に比して、女性受刑者の数は急増しているという。女性受刑者は再犯率が高く、薬物や窃盗が男性の割合より高いためとされる。刑務官の負担を重くしているのが高齢者の増加である。数分前の指導や日々の刑務作業を忘れるため、その繰り返しが延々続くことで刑務に支障を来している。高齢受刑者は刑務官にとって介助負担が重く圧し掛かっている。特に女性受刑者の場合には女性刑務官を付けなければならない。しかしこうした厳しい職務のせいか女性刑務官の採用が離職率に追いつかぬまま、更に受刑者の過剰収容に拍車が掛かり、職場環境を急激に悪化させている。


 門馬は高齢者の更生は不可能と考えるようになっていた。門馬に決定的な決断をさせたのは、再犯を繰り返して何度も刑務所に戻ってくる一人の古老受刑者の言葉だった。


「ここ来たら不便なことなんてないわよ。ここを出れば、どうせ遅かれ早かれ電気も水もガスも全部止められて、ろくに飯も食えない。体が壊れたって病院にも行けやしない。死ぬしかなくなるのよ。ここは天国だ。1人で暮らすより楽しいから、みんな何度だって戻って来るのよ。ここで死刑になるなら本望だわ」


 正に獅狼が八田に言った言葉どおりの現実があった。門馬はこの言葉が自分の刑務官人生を全否定するものと捉え、永い積憤の念が一気に崩壊し、この古老受刑者に殺意すら覚えた。自分の老いる場所を刑務所の中にしか見出せない人生とは生きる価値があるのか…税金を掛けてまで生かしておく必要があるのか…危険思考に傾く自分に危機感を覚えた門馬は、刑務官としての職務遂行は最早これまでと、退官を決意したのだった。


 退官した門馬はセルフネグレクトに陥った。生活意欲が低下し、何も手に付かなくなった。既に妻が他界していた門馬は、子供も儲けなかったので一気に外界から隔離された独居老人となってしまった。思えば結婚以来、妻の幸せを考えた事があったろうか…受刑者の更生だけに奔走した刑務官人生は一体何だったのだろう…古老受刑者の言葉を思い出し、深い脱力感に襲われる日々を送るようになった。そんな折、刑務官時代の上司に現在の施設への勤務を薦められた。迷っていたある日、承諾殺人罪に問われた高齢受刑者の篠塚富雄の事件を思い出した。

 富雄の妻・珠代に認知症の症状が出始めたのは犯行の約2年前だった。「強盗が入って来る」「お金を盗られた」と激高し、家中を掻き回すなど、珠代の被害妄想はエスカレートし、深夜になると近所の家に怒鳴り込むようになった。結局、認知症と診断されて施設に入れたが、富雄が面会に行くたびに珠代は「一緒に帰る」と激しく抵抗した。仕方なく自宅介護に切り替えた富雄は、案の定、頼る人のない老老介護の蟻地獄に堕ちていった。老いに駄目押しの睡眠不足と体力の限界を強いられ、中々慣れない介護の隙を突くように、珠代が転んで骨折してしまった。珠代の入院によって富雄の心に一瞬だけ穴が開いた事件の前日、珠代が「死にたい」と富雄に呟いた。「オレも同じだよ」と富雄が返すと、「一緒に行ってくれるの」と珠代は嬉しそうに囁いた。富雄は珠代を見つめて大きく頷いた。

 事件当日、富雄は珠代を車椅子に乗せて病院を出た。珠代とよく遊びに来た海辺でお互いの腰を紐で結んでから睡眠薬を飲み、海岸に横になった二人は安堵の表情で遠く暗い空を見ながら満潮を待った。潮が徐々に満ちて来た。


「お漏らししたかもしれない」


それが珠代の最期の言葉だった。目を瞑った富雄の目尻から涙が流れ続けた。


 発見後、救急搬送されて息を吹き返したのは富雄だけだった。富雄は殺人未遂容疑で逮捕され、承諾殺人罪で起訴された。刑務所の中で富雄は「どうすればよかったのか」と苦しみ続けた。出所後、珠代と病室で約束したことを守るために、富雄は件の現場で服毒自殺を遂げた。


 介護中に犯行に至る半数以上が親族間である。肉体的限界、金銭的困窮、その殆どが将来に絶望した結果である。日頃、認知症に目を背け、認知症になったら施設に入る、入れるという安易な考えは悪魔の囁きである。殆どの人は手遅れになって初めて気付く。


 この施設の入居者たちは、刑務所が天国だと居直る古老受刑者とは違う。更生に無駄な期待を掛ける必要はない。ここの入居者たちは、自分の居場所はここではないと常に帰る道を探し、時に激しい拒絶反応で訴えて解決のない苦しみにもがいている。そう思った門馬は上司の薦めを受け入れた。しかし、勤務して見るとどうだろう。病気のせいとは言え、入居者は男女問わず、理解できない環境に怯え、介護士を傷付けてはその報復を受けるという、毎夜の地獄絵図が繰り広げられている。

自分はと言えば、ただそれを鎮めるしかない。静かな死を、そう、周囲にとって静かな死を認知症患者に強いている。不治の世界に入ってしまった入居者にとって、自分は温厚な死神の刑務官なのだという嫌悪の疑念が募っていった。


「死神!」


 門馬がドキリとした。監視室を飛び出した門馬の目に入ったのは、介護士の八田が激高した八重に掴み掛られている姿だった。


「あんたが死神だってことは分かってる! 私をここに閉じ込めて殺す気だろ!」

「八重さん、落ち着いて…おうちに帰る前に夕ご飯を食べましょ」

「毒を入れたご飯なんか食べたくない!」


 門馬が間に入った。


「八重さん、おうちに帰りましょ。迎えが来るまで椅子に掛けてましょ」


 八重は八田を睨みつけながら、門馬に誘導されてロビーの椅子に座った。


「私は八重さんが羨ましい。立派な息子さんと娘さんがいるものね」

「塾に迎えに行かないと…」

「塾が終わって、息子さんも娘さんももうこっちに向かってますよ」

「あら、そう…」

「ここでのんびり待ってましょ?」

「・・・・・」

「用があったら呼んでくださいね」


 そう言って門馬はゆっくりその場を離れた。八重はそのままおとなしくなった。門馬が監視室に戻ると、八田が待っていた。


「門馬さん、自分はもう限界です」

「八重さんには手こずっているようだね。この仕事はほんと難しいね。馬が合わない患者さんだと余計にね」

「あの人たちは生きたいんでしょうか?」

「え?」

「生きているのがつらくはないんでしょうか…生きる意味が分かってないんじゃないでしょうか…いっそのこと…」

「それ以上言うのはやめなさい」

「・・・・・」

「八田さんの生きる意味は何かな?」

「自分は介護をしたくてしているわけではありません。でも、母親が介護が必要になった時、知識がなくて何もしてやれませんでした。その後悔が後を引いて会社勤めを辞めてこの仕事に就いたんですが…ここの人たちは母親じゃない」

「八田さんのお母さんは喜んでくれていると思うんだが?」

「・・・・・」

「私は自信がない。ここの入居者さんたちより一所懸命に生きてない自分にね。私はここの入居者さんたちより生き方が不誠実だ」

「自分にはそういう見方はできません。ここでいくら入居者の下のお世話までしたところで、あの人たちは自分の母親じゃない。いくらあの人たちの身勝手を我慢してお世話をしても届かない。5分後にはなかったことになる。況してや死んでしまった母親には何も届くはずなんてないです」

「感謝をされたいというわけじゃないけど、届かないのはつらいものだよね」

「前の職場を離れてこの仕事に就いて、年に一度の墓参りすらできない経済状態になってしまいました。一時の感情に流されて、自分は施設内で見たくはなかった地獄絵図を見てしまいました。異食、弄便、感情失禁…居住者の家族は、日々の地獄絵図に耐えられずに、この施設に放り込んで高見の見物を決め込んでる。他人の自分に何が出来ると思ったのか、自分の甘さに腹が立ちます。でも、ひとつだけ救いがある。母との思い出にはなかった風景で良かった。自分は浅はかでした。あの風景を毎日見せられて、今自分は危険思考の道に迷ってしまいました」


 八田の魂のSOSだった。門馬は、涙が止まらない八田に掛ける言葉が見つからなかった。このままでは近いうちに事故が起こる…そう思いながら、門馬は刑務所の古老受刑者の言葉をまた思い出していた。


〈第9話「隊長」につづく〉

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