第7話 メアリーおばさん
獅狼はいつも気になっていた。介護棟のロビーで談笑していると、いつも獅狼をじっと見ている入居者のおばさんが居た。ロビーの同じ場所に居て、獅狼を発見すると視線が定まってしまう。そのおばさんは左手に包帯を巻いていた。最初の訪問の時は偶然だろうと思っていた。獅狼は遠くから一~二度は小さく挨拶したが、反応がないので認知症の影響なのかもしれないと気にしないことにしたが、気になるおばさんだった。四度目の訪問の今日も、三階の介護棟に出ると、そのおばさんはロビーの同じ場所に座っていた。そしておばさんは既に、エレベーターから出て来る獅狼を捉えていた。
「お姉ちゃんを呼んで来るね」
貴子は華子の部屋で話したがらない。面会の場所は必ずロビーに移した。介護棟の居室がいつも
華子を連れて部屋を出ると、あのおばさんの視線がまた獅狼の目に入った。獅狼は敢えて気付かぬ態で、ロビーから少し離れた廊下沿いに設置されたいつもの椅子に陣取った。ここは外の明るさが程好く入る場所だ。そこに座った瞬間、獅狼の全身に衝撃が走った。
あのおばさんがロビーの椅子に座ったまま、一気に獅狼の前に現れた。周囲が一変し、瀟洒な一室に居た。これが現実ではないことも獅狼には分かっていた。また認知症患者の世界に入ってしまったんだという獅狼なりの認識はあった。
「いい男ね」
「…どうも」
「メアリーよ…知ってるわよね。あたしを摘発に来たんでしょ?」
「摘発?」
「あたしは病気持ちじゃないよ。摘発する前に遊んでってよ。年を取ったって女よ」
「私は義姉に面会に来ただけなんで…」
「日本にはね、昔からあたしらの仲間が5000人はいるのよ。みんな強制連行されたわけじゃないよ。お金が欲しいから自分で売春婦になったの。汗水も垂らさずに自分は慰安婦だと叫んでお金の無心している女たちとは違うの。何が慰安婦よ。あいつらは偽物よ。あたしらより性質の悪いただの売春婦だよ」
「慰安婦の問題は新聞やテレビで知ってるくらいですが、その時代に生きてたわけじゃないので真実がどうかなど私には分かりません」
「あたしたちはね、テレビとか新聞に守られてるのよ」
メアリーおばさんはそう言って笑った。獅狼はメアリーおばさんの言ってる意味が分からなかった。
「守られてるんですか?」
「あたしのお母さんも売春婦だったの。あたしと違って、お母さんは立派な売春婦よ」
「・・・・・」
「だからお母さんから聞いて知ってる真実もあるわ」
何かが違う。いつもと違う可笑しな状況になってきたと獅狼は思っていた。そうだ…メアリーおばさんが変化してきたことに獅狼は気付いた。
「失礼ですが、メアリーさんはおいくつですか?」
「失礼ね、でもいい男だから教えてあげる。あたしはもうすぐ四十路よ」
そんなはずはないと獅狼は思った。確かメアリーと名乗った時までは歴としたおばあちゃんだったはずだ。この変化は何だろうと気になった。
「あたしらの国はね、日本統治下で人口も寿命も倍になったってお母さんが言ってたわ。いくら日本が嫌いだと叫んでも、その結果を理路整然と否定できる人なんていないわ。お母さんは統治下の日本で公娼をしてたの」
公娼とは、売春が公認されたわけではなく、公認された売春を指す。従って非公認の私娼は摘発の対象となった。メアリーおばさんが “母は立派な売春婦 ”というのには歴史的根拠があった。
日本は終戦後すぐにRAA『特殊慰安施設協会』を設置した。敗戦によって国内に進駐してくる戦勝国の兵士による日本女性の性被害を危惧し、政府は花柳界などに協力要請をして、国家予算によるRAAを発足したのだ。愛国というより、逼迫した家族の生活を支えるために身を投じた女性たちは、国の管理によるエリートサラリーマンの十数倍の報酬と諸々の好待遇に驚いた。メアリーおばさんの言う “母は立派な売春婦 ”の根拠だ。後にRAAはアメリカ世論の批判が高まり、GHQの方針で廃止となった。発足から半年足らずの活動期間だった。
「お母さんは一番好きな人の子を身籠ったの。それがあたし」
メアリーのお母さんはRAAが廃止になることを知った時、心を寄せていた米軍兵士がいた。RAA廃止後、公娼から私娼になる女性が多かった中、メアリーを身籠ったお母さんは祖国に帰り、それまでの蓄えでひっそりと暮らす道を選んだ。そんな話をしているメアリーおばさんがまた変化していることに獅狼は驚いた。
「あの…メアリーさんは何歳でしたっけ?」
「あなたは何度年を聞けば気が済むの? いい男だからいいけど…三十路って言ったでしょ」
さっきより10歳若くなっている。確かに見た目もそのとおりだ。獅狼の混乱を余所に、メアリーは身の上話を続けた。
「お母さんは、日本はいいところだから自分が死んだら日本に行きなさいって言ってたの」
日本統治下時代の韓国は、第二次大戦後に独立国となったが間もなく朝鮮戦争が勃発し、半島で600万人が命を落としたとされる。戦火で焦土となった国を復興するために莫大な予算が必要となった。そこで韓国は、駐留米軍への売春で莫大な利益を上げていた非合法の犯罪組織「ヤクザ」を一斉に摘発し、国営の娼館制度「国営妓生」を据えて復興の外貨を獲得した歴史がある。韓国内では現在も40万人近い売春婦が存在し、飲食と売春がセットになっている店も多いという。「バッカスハルモニ」と呼ばれる高齢者売春女性の約半数が、若い頃には売春経験のない女性だということが、韓国に於ける高齢者女性の貧困の深刻さを物語っている。国民年金制度や退職年金制度が施行されてはいるが、受給資格のあるはずの半数近くの高齢者は、国民年金も退職年金も受給できていないのが現状だ。
「あたしは、お母さんが死んだので日本に来た。日本はいい国よ。でも、あたしはお母さんのように日本語が得意じゃなかったから…」
メアリーおばさんは結局、お母さんと同じ道に入った。何度か摘発されながらも逞しく生き、認知症を発症して路頭に迷った時、日本政府の計らいでこの施設に辿り着けたのだ。
「売春婦はいけない仕事。でもね、需要があればなくならない。若い娘だけじゃないのよ。日本でだってバッカスハルモニは沢山需要があるのよ」
「バッカス?」
「バッカスDっていう韓国で売ってる元気になるドリンク剤よ。あたしの国では高齢の売春婦がそれを持ってお客さんに声を掛けることから、バッカスお婆さんって呼ばれたの」
メアリーおばさんは屈託なく笑った。生々しい話なのにメアリーおばさんが言うと、獅狼には健全な話に聞こえた。
「ナンバーワンにだっていろいろあるのよ。売上が1位とか、問い合わせだけは1位とか。でも、何と言っても本物のナンバーワンは本指名ね。あたしがお母さんの時代に立派な売春婦をやっていたら、お母さんを越えられるか試してみたかったわ」
さまざまな客を相手にしてきただけあって、メアリーの話し方には魅力があった。獅狼は思い切って気になっていたことを聞いてみた。
「左手の包帯はいつ取れたんですか?」
メアリーおばさんは一瞬獅狼の顔を見た。そして力なく微笑んだ。
「罰が当たったのよ」
「・・・・・」
「常連の奥さんに刺されたの」
「そうでしたか…傷はもう…」
「あたしのは治る傷だけどね…やっぱり、あたしはお母さんのような立派な売春婦にはなれなかった。これはお母さんに怒られた傷なの。八重さんには早くここに戻って来てほしい」
「八重さんって方なんですね…どうなるんでしょう?」
「あたしは訴えない。食事中に八重さんが煮物の人参にフォークを刺そうとしたところに、あたしが間違って手を出してしまっただけだから…八重さんは悪くない」
「そういうことになさったんですね」
「偶然って神様の暇潰しなのよ。常連さんの奥さんと同じ施設に入ったのも偶然。フォークが刺さったのも偶然。神様の暇潰しなのよ」
その瞬間だ。三十路よりももっと若くなりつつあったメアリーおばさんが、見る見る元のおばあさんに戻りながら椅子ごと後退し、いつものロビーの一角に戻って行った。
「どうしたの、獅狼?」
貴子の声に我に返った獅狼はロビーの時計を見た。ここに座ってまだ5分と経っていなかった。時計の下には丁度メアリーおばさんが座って、いつものように獅狼をじっと見ていた。獅狼は微笑んで小さく一礼したが、メアリーおばさんの表情には何の変化もなかった。しかし獅狼には、何やら訳の分からない爽快感があった。
〈第8話「それぞれの地獄」につづく〉
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