第4話 棟梁

 貴子たちが介護棟のエレベーターを出ると、ロビーの一角に華子が見えた。華子の隣に棟梁が居た。初めての面会の時、獅狼に肩の痛みを訴えた老紳士だ。棟梁は華子の隣で車椅子に腰掛け、一点を見つめていた。貴子は華子に駆け寄った。


「お姉ちゃん、お友達ができたの?」

「知らないけど、ここに居るのよ」


 確かに、三分前が記憶に定かでなければ、そういう返事になるだろうなと獅狼は納得した。貴子は、棟梁が華子の隣にいることが気になった。


「こんにちは!」


 貴子が声を掛けても、棟梁は一点を見つめたままだった。獅狼がその視線の先に目をやると、施設看護師の早乙女晴美が棟梁の視線に心地悪そうに立っていた。棟梁は早乙女を睨み付けていたのだ。獅狼が軽く会釈をすると、早乙女は反作用の如く寄って来た。


「多々良さんはお姉さんのお隣だと落ち着くみたいなんです」

「多々良さんと仰るんですか…姉がいつもお世話になっております」

「私が華子さんを連れて行こうとすると、いつもこうして睨みつけるんですよ」

「そうなんですか!」

「華子さんを連れて行こうとすると、多々良さんはなぜか情緒が不安定になるもんで…せっかくのご面会なのに何ですが、多々良さんをもう少しこのまま華子さんのお隣にご一緒させていただいても宜しいでしょうか?」

「ええ、どうぞ。私たちこそ勝手に面会に来させていただいてるわけですから、入居されてる方には自由にしていただければ…」

「そう言っていただくと助かります。ではごゆっくり」

「姉に何か御用があったんじゃないですか?」

「いえ、そろそろ爪を切って差し上げようかと思っただけですから」

「そんなことまでしていただいてるんですか? 本当にすみません」

「いえいえ、次の機会にしますので」


 早乙女は去っていった。棟梁のきつい表情が消えた。そこに相部屋の入居者の娘・奈津子が小走りで近付いて来た。


「松橋さん、どうも!」

「あら、安藤さん! あなたもお見えでしたか!」

「今日もお会い出来るなんて!」

「私こそ! お母様はお元気ですか?」

「いつもと同じです。先日は重い話になってしまってごめんなさい。でもね、お蔭さまで少しすっきりさせてもらいました」

「それなら良かったんですが、私たちは介護の未経験者なものでお役に立てる話なんて何も出来なくて…」

「いいえ、お話出来て本当に良かったです。あの時は、友達に虚勢を張ってるって言ったんですけど、本当は友達のいい加減な言葉にむかついていたんです」

「お友達に何かひどいことでも言われたんですね」

「いえ、逆なんです」

「逆?」

「優しい言葉を掛けていただいたんです」

「・・・?」

「本音を言うと、友人に優しい言葉を掛けていただいても、どうなるものでもありません。それは相手も分かっていることなんです。でも、こっちは、優しい言葉を掛けられれば掛けられるほど孤独に襲われるってことを、親しい友人にも目の前にいる誰にも気付いてもらえない。優しい言葉って、誰のためのなんだろうって」

「そうなのよ、言うほうは自己満足でしょうけど、社交辞令の励ましなんて実は何の足しにもならないわよね」

「そうなんです! 私の苦しみなんて何も分からないのに…そう思ったら腹が立って来たんです。私に掛けていただいた折角の優しい言葉が、私にとっては孤独という痛みとして残ってしまうんです」

「言葉だけなら何とでも言えるものね。確かにそうよ。安藤さんの仰るとおりだわ!」


 奈津子は貴子に同調されて我に返った。


「ごめんなさい! また重い話になっちゃったわ。これだから乳母車には程遠くなるのよね」


 安藤は笑ってから急に真顔になって声を潜めた。


「それより、あの早乙女さんっていう看護師…気を付けた方がいいですよ」

「どういうこと?」

「うちの母が怖がるんです。痛くされるって何度も私に訴えるんです」

「痛くされる?」

「お姉さんはどうか知りませんが…母は時々、腕とかに紫斑が残っている時があったんです。 “どうしたの? ”って聞くと、 “看護師さんが怖い、怖い、怖いよーっ ”って。認知症の母が言うことだから事の真相は分からないけど、でも看護師に恐怖感を抱く理由があるんだと思うんです。それで私、早乙女さんにわざと聞いてみたんです」

「・・・?」

「腕とかに紫斑が残っている時があるんですけど、どうしてなんでしょうか? …ってね。それから紫斑はなくなったんですが…母はそれまで以上に早乙女さんを怖がるんです」

「…どうしてなのかしら」

「介護の現場は…特に夜は、一般の人が想像できないくらい介護の側が追い詰められることばかりだとは分かってるんだけど…」

「人手が足りないと気の毒よね…介護する側も、される側も…」

「お姉さんの体もよく見てあげた方がいいと思います。痛いと言わなくても紫斑とかが残っていたら早めに手当てしないと…」

「ええ、確かめてみます」


 貴子はそう答えるしかなかった。奈津子がそそくさと去って行ったのを見送りながら不安になった。気配を感じて多々良を見ると、縦に激しく首を振っていた。


「多々良さん、どうされました?」


 獅狼が言い終わらないうちに全身に衝撃が走った。獅狼の脳裏に多々良の生活が広がり、見る見る獅狼はその “世界 ”に立っていた。


 多々良貞八は日の出を見ていた。壁に掛かったハンガーの軍服に朝日が差した。多々良の父の唯一の形見の軍服だった。七十歳になった多々良は、撮影所での仕事の時には何故か決まってこの軍服を着て出掛けるようになっていた。夜明け前に目覚めた多々良は、今日の撮影にはどうしても気が進まず、縁側に座って虚しい空間に漂っていた。


 夜も白々と明け、出掛けなければならない時間が刻一刻と迫っていた。5歳の孫娘が息子の公平に抱かれて部屋に入って来た。


「おじいクン、おでかけ」


 孫娘の催促に多々良は微笑んだ。孫娘の杏ちゃんは、 “おじいクン ”の名付け親だ。公平は妻・沙都に “公クン ”と呼ばれている。杏ちゃんも公平の事をそう読んでいた。多々良と仲良しになった時、何と呼んでいいか分からなかったが、みんなは “杏のおじいちゃんだよ ”と言っていたのを思い出し、公クンと同じように “おじいクン ”と呼ぶことにしたのだ。その “おじいクン ”は公平に呟いた。


「恰好いいと言われたことがある」

「お父さんは今でもカッコいいよ」

「俳優以外のおまえが格好いいと言われた。その言葉の意味が、おまえを見て今気が付いた。おまえは奥さんと子供を大切にしている。それが恰好いいんだ。俳優が恰好いいんじゃない。人間が恰好よくなければ何の意味もない。もう過去に乗っかってこの仕事をするのは嫌になった」

「おじいクン、お仕事嫌なの?」

「ああ、行きたくない」

「健クンと同じ」

「健クンがどうした?」

「健クンも学校に行きたくないって」

「どうして…」


 多々良が振り向くと公平が口を挟んだ。


「健はさっき出掛けたから…大丈夫」

「…そう」


 阿輝子からの電話が鳴った。多々良の妻・阿輝子は撮影中の夫の身の回りの世話をしていた。今日は荷物が多いので一足早く撮影所に向かっていた。


「まだ家なの? すぐ出ないと撮影に間に合わないわよ!」

「今日は気が進まない」

「分かったわ。そのお悩みは撮影所で聞いてあげる。とにかく、今すぐ家を出てね。それじゃ、あとでね」


 阿輝子は事務的に電話を切った。


 やっと立ち上がった多々良は、ハンガーの軍服を外して身に着けた。途端に、覇気のある渋い四十代の頑健な風体に戻った。


「出掛ける」


 玄関から猛進する多々良を、愛犬の “ブッパ ” が追った。


「いってらっしゃい!」


 杏はおじいクンの背中に叫んだが、多々良はそのまま全速力で走って見えなくなった。


「おじいクンに聞こえたかな」

「おじいクンはお仕事になると変身するんだよ」


 近道を通らなければ撮影に間に合わなくなった。


「ここを突破する!」


 ここは地域で最も危険地帯である。


「ここを通らなければ間に合わん! 突破する!」


 狭い道路に乱立する不法営業の店を体当たりで破壊しながら進んだ。大勢の店主らが追いかけて来た。愛犬ブッパが地下通路の入口を見つけて多々良に吠えた。多々良は雑多に浮浪者が住むその地下通路に滑り込むように入って行った。通路の奥に入ると、壁沿いに妖しげな屋台が林立していた。声を掛ける的屋を無視して走り抜けようとする多々良の前に、施設長の門馬に酷似した頑健なヤクザが立ちはだかった。


「ここを通るなら何か買ってくれよ」

「邪魔だ、どけ!」


 そのヤクザは白鞘から日本刀を抜いて袈裟懸けに斬り付けて来た。寸でで交わした多々良は、柄を握ったヤクザの拳を左手で鷲掴みにした。素早く柄ごと刀身を返し、平手で刀背みねを押さえて勢いヤクザの喉元を貫いた。その巨漢が倒れるのも待ち切れず、多々良は走った。

 突然、愛犬ブッパがトラバサミの罠に掛かってしまった。犬の甲高い鳴き声で胤を返した多々良は、その罠を解くなり報復に罠を仕掛けていた店を破壊し、店主には半死半生の手傷を負わせた。生憎、ブッパの傷は大事に至らず、多々良は再び先を急いだ。


 出口付近に雑貨屋があって、随分と旧式の自転車が置いてあった。


「店主、これ、いくらだ?」


 人の好さそうな店主が値札より安く答えた。


「じゃ、これで売ってくれ」


 多々良は店主に法外の金を渡した。


「日本刀はないか?」


 店主は雑多に置かれた刀剣類の中から一口の脇差を多々良に差し出した。


「いくらだ?」

「いただけません。これはあなた様を待っていた刀です」


 何やら伝説話にでもあるような店主の言葉に引きながら、多々良は刀を受け取った。握った瞬間、店主の言ったとおりの不思議な感触を受けた。


「借りていく!」


 多々良は自転車で先を急いだ。途中、孫の健が通う中学校が見えてきた。杏の言葉が蘇った。多々良は急に胸騒ぎを覚えて、中学校に立ち寄ることにした。校門の前に着くとプッパが吠え出した。その指し示す先は屋上だった。授業中だというのに屋上に人影が見える。ブッパがまた吠えた。健が手すりを背にして不自然に立っている。


「行くぞ、ブッパ!」


 多々良は屋上に上がる階段に一番近い校舎の裏に回った。


 健は屋上で三人の生徒に取り囲まれていた。


「飛び降りろよ、アクション俳優の孫だろ」

「ボクは俳優じゃないから」

「ビビってんじゃねえよ」

「女生徒にちやほやされていい気になってんじゃねえよ」

「いい気になってません」

「飛び降りたくねえんなら裸になれ」

「お断りします」

「おまえの喋り方はいちいちムカつくんだよ!」

「・・・・・」

「飛び降りるか脱ぐか早く決めろ!」

「どっちもお断りします」


 リーダー格の生徒が初めて口を出した。


「脱がせて落とせ」


 子分格の一人が健に出した手を、ブッパが襲って弾き飛ばした。


「おじいちゃん!」


 健の言葉に三人の生徒が振り向いた。多々良は速攻で三人の生徒の鳩尾に暴力的制裁を加えた。息苦しそうにリーダー格が抗議した。


「大人がそれでいいのか!」

「てめえのようなクソガキに言われたくはねえな」

「こんなことをして問題になるぞ! ただでは済まねえぞ!」

「同感だ。ただでは済まねえんだよ。てめえらはここで飛び降り自殺をするんだ。さあ、飛び降りろ。嫌なら裸になれ」


 三人の生徒らは黙った。いよいよ多々良の凄みが弾けた。


「時間切れだ。大人は未成年者に対して何もできないってか? 笑わせんな」


 そう言って、多々良は三人の生徒を丸裸にして次々と屋上から投げ落とした。多々良は地面に叩き付けられて醜く変形したクソ餓鬼どもの死体を確認して胤を返した。


「ブッパ、行くぞ!」

「おじいちゃん!」

「やるべき時にやらなきゃバカは増長するんだ。出来損ないどもと話し合いで解決することなんか何もない。クズは殺るしかねえんだ。よく覚えとけ、健。騒ぎになる前に早くここから離れろ!」


 そう言って、多々良は足早に去って行った。非現実的なことを見てしまった健もトイレ目指してその後に従うしかなかった。


 多々良は校舎の裏の飼育小屋の横から出て来た。そこに停めてあった自転車に跨って健に怒鳴った。


「おまえは早く家に帰れ! しっかり勉強しろ! 早く行け!」


 健は走った。


「おい、そこのおまえ! 早く乗れ!」


 俯瞰で見ていたはずの獅狼は、何故か多々良の自転車の後ろに乗る羽目になった。凄い脚力で自転車の速度は見る見る加速していった。油断すると振り落とされそうな状態で飛ばし続けた。多々良は刀を抜いてビュッと振り回した。道端に立っていた女の首が飛んだ。獅狼はあまりの非現実感に声も出ないまま息を飲み損ねて咳き込んだ。


「かまやしねえ、あいつは売春婦の女衒ぜげんだ!」

「ぜげん?」

「買春の客引きだ。梅毒やらエイズを撒き散らしやがるクズどもだ」


 自転車の先に、狂気を振り回して暴れている若者がいた。多々良は構わず突進していった。


「殺されたくなかったらオレの陰に隠れてろ!」


 そう言って多々良は若者の首に刀を突き刺した。数メートルも刺したまま引き摺ったろうか…息絶えた若者から刀を引き抜くとそのまま自転車を加速させた。


「かまやしねえ、無差別殺人鬼はてめえこそ殺してほしいんだ! やつは殺されて本望なんだ」


 多々良は走っていた自転車を急に止めた。獅狼は多々良の背中に嫌というほど吸い付けられた。


「ちょっと待ってろ」


 そう言って多々良は通り過ぎた路地に入って行った。中々出て来ないので獅狼は心配になって後を追った。路地を覗くと二人の男に乱暴されている女がいた。その間に入った多々良が二人の男の脳天を割っているのが目に入った。一人の男が路地から必死に抜け出そうと出口に向かって這って来た。獅狼に気付いたその男は助けを求めて近付いて来たので、思わず蹴飛ばした。


「かまやしねえ、そこに落ちているブロックでそいつの頭をかち割れ!」


 獅狼は躊躇した。


「何をもたもたしてんだ! そいつはレイプ魔だぞ!」

「し、しかし、どんな人間でも裁判で…」

「時間の無駄だ!」


 そういって多々良はその男の背中から心臓一突きで止めを刺した。


「これでいいんだ。次の犠牲者を無くせる。てめえ、使えねえ男だな。行くぞ!」


 多々良は路地の奥で震えている女に見向きもせずに自転車に乗った。獅狼は一瞬だけ女と目が合った。女は獅狼に気怠く手を振ると、その薬指に結ばれた鈴が哀しく鳴った。どこかで会った事があるかもしれないと漠然と思いながら急いで多々良の自転車の後ろに乗った。多々良は自転車を加速させながら、さりげなく刀を振り回している。いや、さりげなくではない。歩きタバコをしている通行人に絞って手首を斬り落としているのだ。落ちた手首の指にはどれも吸いかけの煙草が挟まっていた。


「オレはタバコが嫌いなんだ。それ以上に無神経な迷惑人間が嫌いだ」


 多々良は強靭な脚力で自転車の速度をどんどん急加速していった。


「確か、撮影所に行くんでしたよね?」


 多々良は答えなかった。10分ほど走るとローカル線の駅に着いた。


「集団就職って言葉を知ってるか?」


 団塊の世代が小学生に上がる頃、20年以上に渡って走り続けた列車がある。中学を卒業したばかりの就職者を青森から上野まで送った集団就職列車である。故郷を想いながら必死に働き、家庭を持ち、還暦を迎え、愈々年金暮らしとなった彼らは、メディアの情報を妄信する絶好の洗脳対象となっていた。政治家にとっても彼らこそが当落を分ける票田となり、メディアの扇動次第でその足下すら危ういものとなっていた。メディアは事実の是非より「報道しない自由」を巧みに操り、団塊世代を思うままに転がしていた。

 ベビーブームの団塊世代は全国で700万人といわれ、この世代が消滅するのは2040年代後半とも予測されている。多々良は待てなかった。


 無人駅に単線の車両が到着すると、どこからともなく多々良の仲間が姿を現した。獅狼はアッとなった。その中に華子がいた。


「お義姉さん!」

「獅狼、あなたも覚悟を決めなさい」

「覚悟?」


 多々良が詰め寄って来た。


「あの列車には、素直過ぎるがゆえに、将来、国を滅ぼす老害となる連中が乗っている。生かしちゃおけない。抹殺する。おまえも手伝え」

「そ、そんなこと出来ませんよ」

「メディアに洗脳されたあいつらのお花畑がゆえに、我々の住む国家の一大事になるんだぞ! 」

「できません!」

「無差別に殺すわけではない。これを見ろ」


 多々良が差し出したノートには、世間を騒がした人物の一覧が記録されていた。何れも獅狼にも記憶のある事件の首謀者の名前だ。


「こいつらを抹殺するチャンスなんだ」

「・・・・・」

「おまえの心に正義はないのか?」


 獅狼は自問していた。自分に良心はあるのだろうか…確かなことは、殺さなければならない人間がいるという事。罰せられる覚悟があれば、殺さない理由はなくなる。しかし、今の彼らには善意しかないはずだ。無意識に他人を不幸にするのと、意識的に他人を不幸にするのは違うが、結果に於いて不幸になる人間を生むことは同じだ。彼らを抹殺することが正義なのか…彼らを失う家族にもこの行為が正義だといえるのか…獅狼は躊躇した。


「おまえとて斬るぞ!」

「私はこの世界に居ない人間です。それでも殺せるんですか?」

「元の世界で心臓発作で死ぬだけだ。試してみるか?」


 獅狼は挑戦的に黙った。多々良は獅狼からノートを奪い取った。


「うせろ、このお花畑野郎が! オレの邪魔はするな!」


 多々良の仲間は車両に入ってノートの人物ら中学を卒業したばかりの十一人をホームに出した。運転士は多々良の指示で列車を発車させた。ホームの十一人は目隠しをされ、一列に並べられた。


「全員座れ! おまえらよく聞け! お前らが信じるか信じないかなどどうでもいい。我々は未来から来た。おまえらがなぜ選ばれたかというと、将来、国家の平和にとって邪魔な存在になるからだ。ここでチャンスを与える。このまま上京せずにこの土地に残り、この土地のために尽力する者はここで解放する。それでも上京するという者は立て!」


 男が1名だけが立った。華子がその前に立った。


「チャンスを無駄にするの?」

「僕が上京して働かなければ家族共々飢え死にです」

「そう…残念だわ」


 華子は多々良が投げ渡した刀を掴み、素早く抜刀し、迷わずその男の首を刎ねた。獅狼は、 “これは現実じゃない、これは現実じゃない”と呟き続けた。多々良の仲間が速やかに噴出する血に毛布を被せ、体をくるみ遺体収納シートに収めた。


「いいか、約束を破って上京しようとした時は覚悟しておけ! では解放する! 次の列車で家に帰れ!」


 多々良が自転車に乗ると、近付いて来た優しそうな中年女性が話し掛けた。その声で獅狼の全身に衝撃が走った。目の前には車椅子の多々良がいた。


「多々良さん、お夕飯ですよ」


 ベテラン介護士の野田聖だった。


「夕飯なんか食ってる暇はないよ」

「今日はどちらまでお出掛けですか?」

「撮影所に決まってるじゃないか」

「それなら丁度よかったわ。お夕飯は撮影所で食べるんだから。もう、さそり姉さんも向こうで待ってますよ」

「誰だ、そいつは?」

「あらあら、大好きなお友だちの名前をお忘れになったんですか?」

「ブッパは?」

「ワンちゃんね。もう撮影所でお夕飯食べてますよ」


 多々良は無表情になった。野田は多々良の扱いに慣れている。多々良の世界を把握していて凄いなと獅狼は思った。そんな獅狼を多々良は見ていた。その無表情の顔がニヤッと微笑み、再び無表情になって施設の野田の押す車椅子でゆっくりと食堂に向かっって行った。


〈第5話「脱出ばあちゃん」につづく〉

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る