第3話 吉哉

 温厚な玉村吉哉にも血気盛んな時代があった。吉哉は空手道場の稽古帰りに近道の川崎の繁華街を歩いて人探しをしていた。通りかかった路地裏の奥から、女の悲鳴が聞こえた気がした。何気なく振り向くと、暗がりで蠢く人影が目に入った。路地に入って行く吉哉に気付いた男が、奥からこっちに向かって来た。目の前に立ち塞がったその男は、どこかで見覚えのある顔だが思い出せない。


「何か用か?」

「ここ通るんで…」

「別の道があんだろ」

「この道通るんで…」

「てめえ!」


 怒鳴った瞬間、吉哉の一撃を喰らってその男は気絶した。徒ならぬ様子に、奥に居た地元のワルどもが駆け寄って来た。


「何だてめえは!」

「オレの道塞ぐとこうなるよ」


 立ち塞がる二人にどんどん近付いて行く吉哉の威圧に、気絶した仲間を放ってワルどもは逃げ去った。怯えて座り込んでいた女は、通り過ぎようとする吉哉を見ながら、ゆっくりと立ち上がって声を掛けて来た。


「吉哉くん?」


 吉哉は振り返った。


「吉哉くんでしょ?」


 吉哉はその女に見覚えがあるような気がした。ただ、よく似てはいるが吉哉が思い出す人物は男だ。


 二人は川崎の川べりに居た。女はやはり吉哉の知っている人物だった。中学時代の仲間・真田蘭丸だった。そして今は白鳥桜子として新しい人生を歩んでいることを知った。


「さっきのやつらは?」

「芝橋の仲間…」

「やはりそうか…見覚えのある顔だった。おまえも探し続けていたのか?」

「吉哉との約束だもの」

「…そうか」

「吉哉くんも?」

「ああ…忘れることなんてできない」

「そうよね」

「芝橋の居所は突き止めたのか?」

「消えたのよ…出所後の足取りがぷっつりと。検察庁に出向いて出所日や服役刑務所などの記録を閲覧したんだけど、既に出所後だった。出所が早まったみたい」

「…おまえも行ったのか」

「興信所にも頼んで足跡を追ったんだけど、芝橋の警戒心が半端なくていつも後手後手。終いに調査費用が追い付かなくなっちゃった」

「…やつらはどうして現れたんだ?」

「このところ、ずっと付き纏われている」

「このところ?」

「最後の足跡は芝橋の実家のある埼玉だった。そこでバイトしながら張って見たんだけど、全然気配がないんで、もう一度、川崎に戻ってあいつのことを嗅ぎ回ってたの。そしたら、やつらが脅しに来たのよ」

「なるほど…じゃ、やつはここに戻ってるな」

「吉哉はどうしてここに居るの? 東京に就職したんじゃなかった?」

「東京で偶然にやつの両親を見つけたんだ」

「東京で!」

「神村くんのお母さんのために、芝橋とやつの両親に民事で損害賠償請求を起こしてやろうと、弁護士に相談したんだ。でも逃げられた」

「どこへ?」

「いや、両親は息子は成人してるから自分たちには一切関与しないと言って逃げ切ったんだよ。芝橋のやつも定職に就いてない上、財産があるわけでもないので、裁判を起こしても取り立て困難だから訴訟費用を負担するだけ無駄だと弁護士は言うんだ」

「どうにもならないのかな」

「いや…やれることはひとつだけ残ってる」


 川べりの二人は、中学時代の仲間の凄惨な死の事件を思い出していた。


 かつて、この川べりで中学生の凄惨なリンチ事件が起こった。吉哉と蘭丸の親友・神村健太がその犠牲となった。加害者は同校中三の芝橋勲という不良グループの頭だ。バレーボール部のエースだった健太は、登下校時に芝橋ら仲間から執拗ないじめに遭っていた。そのことを知った吉哉と蘭丸は成るべく健太と行動を共にしていた。

 ある日、一緒に下校しているとクラブの先輩が緊急ミーティングがあると言って健太を呼びに来た。吉哉と蘭丸は、そこで健太と別れたことを一生後悔することになった。健太は先輩の後を付いて河川敷に行くと、芝橋以下、不良グループらが待っていた。それまで執拗にグループに入ることを強いられていた健太は、その日も拒んだ。そのため、リンチを受けることになった。全裸で川に投げ込まれ、泳いで岸に戻るとまた投げ込まれた。何度目かでふらふらになって河川敷に上がって来ると、芝橋の指示で健太の部活の先輩がカッターナイフで切り付けて来た。まさかのことに健太は無防備だった。凶器が頸動脈をスライドして、血が噴き出した。その血を見て芝橋が興奮した。


「川に入れ! 陸にてめえの居場所なんかねえ!」


 芝橋は、構わず帰ろうとする血だらけの健太の髪を掴んで、強引に川に投げ込もうとすると、健太に押し返されて逆に自分が川べりの泥に頭から突っ込んでいった。泥だらけになって激高した芝橋が仲間に怒鳴った。


「おめえら突っ立てねえで早くそいつを殺せ!」


 グループの集団リンチが始まった。そして芝橋は、動かなくなった健太をカッターナイフで何度も何度もメッタ刺しにした。


 健太の葬儀の帰り、吉哉と桜子は事件現場の川べりに立ち寄った。献花や健太の好きだったイチゴミルクのパックが添えられてあった。


「オレ、一生を掛けても健太の復讐をする」


 そう呟く吉哉の言葉に、蘭丸も強く頷いた。健太の死で、蘭丸は幼い頃の恐怖の残像が断片的にフラッシュバックしていた。


「この子をこのまま置いておくわけにはいかない」


 3歳の一人息子・蘭丸の母親・涼香は不機嫌になっていく交際相手の男・木村勇俊の様子を見てそんな気持ちになっていった。蘭丸は、別れた元夫との子ども。同居を始めた男は、徐々に蘭丸の存在をうざがるようになっていた。この朝も木村は不機嫌になってトイレに閉じ籠ると、突然、中からドアを殴って壊した。

 その日の夕方、涼香は保育所に蘭丸を迎えに行った後、まっすぐ帰宅せず、近所にある実家に寄った。母に預かってもらいたかったが、蘭丸が風邪気味だという理由で断られた。どうしようかと街をうろつき、仕方なく午後8時頃、同居男・木村の居る自宅アパートに戻った。食器を片付けようと台所に行くと、蘭丸は風邪が悪化したらしく泣き始めた。眉間にしわを寄せ、大きなため息をつく木村を見て、涼香は蘭丸を自家用車に載せて再びアパートを出た。これまでにも、子どもを預けられそうな施設をネットで探したが、見つからなかった。


「この子がいなくなるしかない」


 涼香はそう思い詰めながら、気が付くと午後10時を回っていた。近くの川に架かる橋が近付いて来た。涼香は橋の袂に車を停めた。


「おいで」


 涼香がそう言うと、蘭丸は両手を差し伸べた。蘭丸を抱っこした涼香は、橋の中央まで歩き、両腕で支えた蘭丸を橋の欄干に立たせた。蘭丸を支えた涼香の手が欄干の外まで伸びた。宙に浮いた蘭丸の足下には川面が黒光りして流れていた。涼香は一瞬、自分が何をしようとしているのか恐怖に駆られた。その時、蘭丸はにこっと笑って右手でバイバイした。涼香は思わず手を離してしまった。ハッとして急いで見下ろすと、蘭丸は笑顔のまま黒い川面に吸い込まれ、小さな波しぶきを上げて消えた。


 蘭丸を助けたのは、たまたま夜釣りをしてる途中でその一部始終を見ていた吉哉の父・徳太郎だった。


「あなたのお父さんに助けてもらった命なの」

「・・・・・」


 幼い蘭丸が眠っていた。涼香が厳しい表情の徳太郎の家に呼び出されていた。


「あなたも刑務所には入りたくないだろ」

「・・・・」

「蘭丸は私が引き取る。私の養子にする。そこに判を押しなさい」


 涼香は判を押した。眠る蘭丸の傍でじっと見ている幼い吉哉の目が痛かった。


 新しい人生を歩いている桜子の髪がなびいた。


「どうして出て行ったんだ?」

「高校の進路指導の先生に…養子だということを聞かされてから居辛くなった」

「・・・・・」

「その数日後に、お母さんとのことも知ってしまった…」

「誰が言ったんだ!」


 中学生の蘭丸が涼香の情夫に呼び出されていた。そこはかつて蘭丸が涼香に落とされた橋だった。


「涼香は今どこにいる?」

「知りません」

「知らないことはないだろ、おまえの本当の母親なんだから」

「・・・・・」

「驚かないのか?」

「・・・・・」

「そうか、知ってたか。じゃ、おまえがこの橋から本当の母親に落とされたことも知ってるよな」

「・・・・・!」

「あれ、そのことは知らなかったみたいだな。余計なことを言っちまったかな、悪い、悪い、気にすんな、人間生きてりゃいろんなことが起こる」

「じゃ、失礼します」

「待て、こら! 涼香はどこに居るか聞いてんだろ」


 蘭丸に手を掛けようとした情夫の背中から声がした。


「蘭丸、帰ろう」


 徳太郎が立っていた。


 少し風が出て来た。真っ黒な川面に対岸の街の明かりが揺れた。


「父さんは必死に探したんだ」

「だから死にたくても死ねなかった…この命は、あなたのお父さんから頂いた命だから…」


 桜子が声を詰まらせた。


「遅いからうち来るか?」

「・・・・・」

「父さんに線香上げてやってくれよ」

「・・・・・!」


 桜子が堰を切ったように泣き崩れた。


〈第3話「棟梁」につづく〉

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