第2話 華子

 玉村華子は高齢になり、長寿と引き換えに認知症を発症した。厚生労働省の予測では、認知症の罹患率は80歳を超えると5年毎に倍々に増え、95歳を超えると10人のうち8人以上が認知症になるという。


 華子は80歳を越えると認知症による見当識障害が甚だしくなっていた。華子の夫・吉哉は6歳年上で、心臓に持病を持っていた。最初の変化は、味覚がおかしくなったことだ。それまで献身的に夫の健康管理をしていた料理上手な華子が、たびたび冷蔵庫内の物を腐らせるようになった。そのうち一人で買い物が出来なくなり、日増しに吉哉の負担が増えるようになっていた。それに拍車をかける事故が起こった。華子が台所洗剤を飲んでしまったのだ。そのことがあって、吉哉は張りつめていた忍耐の糸が切れ、己の無力に自虐的になり、自力介護の手を諦める結果となってしまった。日を追ってゴミ屋敷同然となる実家の生活環境を取り戻そうと、離れて暮らす息子の亘夫婦が、定期的に通いながら両親の世話をするようになっていた。吉哉はホッとしたのか、持病が悪化し、間もなく他界した。吉哉の死で、自宅介護の道は完全に絶たれ、引き取る生活環境を持ち合わせていない亘は、華子を介護施設に入れるしかなかった。


 亘は華子を入れる特別養護老人ホーム(特養)を探した。そしてすぐに介護施設の現状を知り、甘く見ていたことに気付いた。贅沢さえ言わなければ介護施設のどこかにはすぐに入れると思っていた。ところが華子の年金で賄える特別養護老人ホームは入所待ちが多く、かと言って有料老人ホームは亘の経済力ではとても無理な話だった。「高齢者下宿」「老人下宿」と称される無届けの老人ホームにも行ってみたが、なんとも言えない違和感に華子を入れる気にはなれなかった。生前、施設の件で父に聞いていた近くの介護老人保健施設(老健)のことを思い出した。運よく、そこには空きがあった。しかし、亘は不審に思った。父がなぜこの老健のことだけを言っていたんだろうと。


 全国に五~六十万人の待機者がいる特養より、老健のほうは若干割高だ。そして老健は本来、在宅復帰を目的とし、入居期間は原則として3~6ヶ月の期間限定となっている。厚労省が促す幻想の理想論の結果、自宅にも特養にも行く場所を失った認知症高齢者が、老健から別の老健に渡り歩く「老健わたり」現象が起こっていた。空きが出たとすれば、誰かが追い出された空きなのだ。介護報酬の改定で在宅復帰率の高い老健には介護保険の報酬がより高く支払われるしくみになっている。老健のたらい回しでも施設は数字上の在宅復帰率は高くなる。老健は特養の入居待ちの仮住まいでしかなく、早い者勝ちの不公平感は否めない。


 亘は施設に入れることができてホッとしたが、同時に6ヶ月が過ぎれば、母にも「老健わたり」をさせることになるのかもしれないという不安と苛立ちを覚えた。しかし、亘はまだ甘かった。華子が施設に移ったばかりの数日間、環境の急変による幻視、幻聴に翻弄され続けることになった。そうした中で亘は施設長の門馬に、このまま症状が治まらない場合は精神病院に移ってもらわなければならないと杭を打たれた。

 亘は絶句した。母が認知症になっただけでもショックなのに、精神病院…母が精神病院…亘は祈る思いで母を預けた施設をあとにした。福祉への信頼が崩れ孤独だった。帰途、心配を掛けたくないとは思ったが、気が付いたら妹の一瑠いちるに連絡していた。


「どうしたの?」

「お母ちゃんを施設に入れて来た」

「…そう」


 一瑠はそれ以上何も言わなかった。過去に、華子が一瑠のことを想うばかりに、彼女の姑への抗議の電話が元で、親戚双方で一波乱が起こり修復不可能な事態に陥ったままだった。一瑠は、そうした母のことを許せず絶縁状態のままだった。そして母娘関係の修復も出来ないうちに、華子は認知症になってしまった。さらに、年明けに父・吉哉の他界。一瑠は、母への苛立ちと後悔の念が整理の付かないまま、父の急死にショックを受け、思考停止に陥ってしまった。


 華子の妹・貴子が甥の亘から介護施設入りの連絡をもらったのは、華子が施設に入ってやっと落ち着いた桜の芽吹く頃だった。落ち着き先が精神病院だったら、亘は貴子に連絡しなかったかもしれない。老健だけで貴子は充分動揺した。いつになく夫の獅狼しろうに同行を懇願した。獅狼は、認知症になった義姉の姿を見る気にはなれなかったが、貴子にとっては実の姉であり、自分以上に会うのが不安なんだろうと思い、仕方なく応じた。


 貴子たちが乗った施設3階の介護棟のエレベーターの扉が開くと、入居者と思われる高齢女性が二人の婦警に付き添われて立っていた。獅狼はVIP待遇のお婆さんなのかなと思ったが、擦れ違う時にその高齢女性の上着の袖から手にかけて、今付いたばかりの血のような汚れに気付いた。無関心を装ってエレベーターを出た獅狼は、背中で扉が閉まるのを確認して華子に勢い発した。


「何かあったのかな!」

「何が?」

「施設に婦人警官は居ないでしょ、普通」

「警備の人じゃないの?」

「婦人警官だよ」

「じゃ、巡回サービスじゃないの?」


 師狼はピンポン球を空振りしたような気分になった。貴子の楽観はいつも筋金入りだった。

 エレベーター前のフロアの左手には、ガラス戸越しに散歩エリアに通じる庭園が広がっていた。そしてそのガラス戸を必死に開けようとするおばあちゃんがいた。入居者の安全のために普段は鍵が掛かっているのだろう。おばあちゃんは力任せにガタガタと頑張っている。獅狼はそのおばあちゃんに脱出ばあちゃんという愛称を付けた。恐らくこれから義姉の面会のたびに貴子に付き合わされるであろうことを思えば、その度に進行していく姉の認知症状を受け止め難いだろうことは想像が付く。他の入居者の症状を把握すれば、華子のこの先の症状の予測が付くかもしれないと思い、獅狼は出来るだけ他の入居者の行動パターンを観察しておきたいと思った。


 華子の部屋はエレベーターのすぐ側の二人部屋で、ドアが開け放たれていた。前以てある程度は亘から症状を聞いてはいたが、いざ面会となるとどこかで緊張する。


 子供が独立して夫婦二人暮らしだった華子は、老いて痴呆が進み始めた頃、夫が他界して一軒家で一人ぽっちになってしまった。受け入れがたい現実が痴呆を更に進めたのかもしれない。長男の亘によれば、華子は3分前の記憶がなくなってしまったという。毎日、少しづつ認知機能が失われていく病気になってしまった。亘はやむなく養護老人ホームに緊急避難させるしかなかった。彼から聞いた面会の注意事項がふたつあった。ひとつは3分前の記憶がなくなるということ。もう一つは、帰る時は “トイレに行くから ”と言わないと、 “一緒に帰る ”と言って聞かなくなるという事だった。認知症について知識が殆どない獅狼にとって、介護施設はある種のレッドゾーンだ。それは実の姉が待つ貴子にとっても “似て非なるお姉ちゃん ”との再会に恐怖すら伴った緊張を覚えていた。


 名札を確認して部屋に入ると、患者不在のベッドと、人の気配のするカーテンの閉まったベッドがあった。カーテンの奥が華子なのか…貴子と獅狼は入口でウロウロしていた。


「いらっしゃらないようですね」


 後ろから介護士の橘冴子が声を掛けて来た。


「玉村華子の妹ですが…」

「やはり、妹さんでしたか? そっくりですね」

「姉はどんな様子なんでしょうか?」

「お姉さん、お元気なんですよ」


 橘の説明によると、体力が有り余っている華子は、隔離された3階フロアを頻繁に歩き回るのが日課だそうだ。入所して数日間、幻視と幻聴に悩まされ、このところやっと落ち着いたのだという。亘の話していたとおりだった。環境の急変で不安に襲われたものの、華子なりに努力して今の生活サイクルを手に入れることで何とか心の平安を保っているのだろう…と、獅狼は思ったが、実際の華子は吉哉を探し続けていた。


「ここで待ってていただけますか? 探してお連れしますので」

「あの…」

「何でしょう?」

「さっき、婦警さんと擦れ違ったんですけど、何かあったんですか?」

「いえ…ちょっとバタバタしてまして…」


 獅狼は橘介護士の戸惑いを見て、その件はこれ以上聞かないほうがいいような気がした。橘介護士は棟内のどこかに居るであろう華子を探しに行ってくれた。二人は部屋の前で待った。


「やはり何かあったみたいだね。お婆さんの手に血みたいなのが付いてたよ」

「怪我したのかしら…じゃ、婦警さんじゃなくて救急隊員じゃない?」

「あんな制服の救急隊員を見たことある?」

「じゃ婦警さんよね。お姉ちゃん、関わってないといいね」

「関わっていたら脱獄を手伝うしかないよね」

「脱獄だなんて、ここに居る人たちに失礼でしょ」


 獅狼が脱獄をイメージするのには訳があった。いつか玉村家へお邪魔した時に見せてもらった若かりし頃の華子の写真だ。獅狼が大好きな「女囚サソリ」という女子刑務所映画の主演女優の梶芽衣子に実によく似ていたのだ。獅狼はホームに隔離された義姉に迷わず “サソリ姉さん ” という愛称を付けた。


「認知症ってさ、言ってみれば無実の罪でしょ」

「罪じゃないでしょ」

「本人には何の落ち度もないのに、ある日突然、周囲の事情で施設に強制的に入れられて、幻覚に襲われるんだよ。本人にとっては恐怖と不安以外のなにものでもないよ」

「幻覚に襲われたら怖いわよね。私、夢で蟻に襲われたことがある。凄く怖かった」

「蟻に何したんだよ」

「…なにも」

「あ、そう…ところでさ、お義姉さんは認知症だっていう自覚はあるのかな」

「自覚はあまりないんじゃないかな?」

「貴子はさ、ある日突然、全く知らないところに放り出されたらどうする?」

「取り敢えず、自分の家に帰って…」

「そうそう、さっきの脱出ばあちゃんのように…」

「脱出ばあちゃん?」

「エレベーターを降りたらガラス戸を開けようとしてたお婆ちゃんが居たでしょ」

「ああ、あの人ね」

「あのお婆ちゃんは家に帰ろうとしてたんじゃないかな? とにかくここから出て家に帰らなければならないと思うのは当然だよ」


  “そうか! ”と獅狼は思った。サソリ姉さんも脱出ばあちゃんのように、出口を探して施設内を彷徨っている…そうに違いないと勝手に納得した。


 突然、相部屋の入居者のカーテンが開いた。白髪の上品な高齢女性である。貴子たちはお辞儀をすると、その高齢女性もお辞儀をした。そしてキョロキョロと入口ドアのほうに目をやって誰かを探しているようだったが、あきらめたのかカーテンがまた閉まった。一間あって女性が尋ねて来た 。“ お母さん ”と呼んでいるので娘さんのようだ。


 間もなくして橘介護士が華子を連れて戻って来た。


「華子さん、さあ、誰でしょう!」


 介護士がそう言うと、華子は貴子をじっと見ていた。


「お姉ちゃん、私が分かるよね?」

「あらあ!」


 と言ったが、どこかおかしい…分かっていないかもしれない。サソリ姉さんから貴子の名前が出て来ない。見た事がある人レベルなのかもしれないと二人で思った。橘介護士はすかさず疑問の空気を解いた。


「華子さん! あなたの妹さんですよ! 良かったですね! 今日は妹さんご夫婦で面会に来てくれましたよ! ではごゆっくりね」


 元気な介護士である。尤も、そうしなければ重苦しさが認知症患者を不安にしてしまうのだろう。介護士の対応に貴子は安堵した。


「脱獄の必要なんかなさそうよ。さあ、お姉ちゃん、部屋に入ろうよ」


 華子は部屋に入るとベッドに腰掛けた。椅子がない。貴子と獅狼は突っ立ったまま居場所に困った。そこに橘介護士が椅子を持って来てくれた。二人は恐縮しつつ、なぜ椅子がないのかは分からないが、漠然とここは病院ではなく認知症患者の部屋なのだと自覚させられた。椅子に座って落ち着くと、貴子は獅狼のことが分かるか聞いてみた。


「なんとなく…あった事があるような気がする」


 と華子は答えた。無理をしていることは一目瞭然だった。華子は面識に記憶のない二人に悟られないように警戒している…そう思った獅狼は、義姉の言葉を遮るように昔の思い出話を話題に出してみた。家族の亘や一瑠の話題はどうも反応が薄かった。子供の独立の件ではそれだけ寂しい思いをしてきたのかもしれない。記憶は近いことから徐々に消え、嫌なことは無意識に記憶から葬り去るらしい。絶え間なく飼っていたペットたちの話をしてみた。これはヒットした。かなりの記憶が蘇り、華子は別人のように、いや、昔のようにペットの話題では多弁になった。連動して、貴子のことも獅狼のことも思い出したようだ。貴子の第一子のことも聞いて来た。細い糸で繋がっていた記憶がまだ生きていた。


 相部屋の面会の娘さんがご挨拶に来た。


「お隣同士ですね。何かとご迷惑をお掛けしております」

「いえ、こちらこそ…とは言っても、私どもは今日が初めての面会なので、病院とは違って勝手が分かりません」

「お察しします。うちは一年ちょっとになります。自宅介護をしていましたが私も限界になりまして…」

「そうでしたか…」


 掛ける言葉が見つからないほど、貴子と獅狼にとっては未知の世界と言えた。自宅介護で限界を迎えるということがどんなものか想像もつかなかった。


「 “背中が痛くて眠れないんだよ! ”って母に怒鳴られた時、その言葉の中に言い知れない周囲とか私への憎しみが感じられたんです。その言葉を聞いて、もう限界だなあと思いました」

「おつらかったのね。私は介護の経験がないので何も役に立つお話はできないけれど…でもね、あなたが今一番大事にしなきゃいけないのは、ご自分のことじゃないかしら?」

「…はい」

「きっとこの施設を頼るまでには随分葛藤なさったと思います。この姉の息子も、ここに入れることに罪悪感のようなものを感じてるみたいです。でも、姉は彼の生活を犠牲にしてまでの同居は望まなかったと思うの。過去形なのは、今はもうそうした判断ができないし…」

「自宅介護の頃は友達に会っても弱音を吐きたくないから虚勢を張っていたんです。乳母車を押す前に車椅子を押すことになっちゃったって笑って…家に帰ってから泣いて…」

「あなたはご立派よ。でもこれからは乳母車を押せるようにならないとね」

「この年じゃもう…あら、申し遅れました。私、安藤奈津子と申します! 初めてお会いした方にこんなお話をしてしまって…」

「いいんです。嬉しいですよ、お話していただいて。松橋です。相部屋でご迷惑をお掛けするかもしれませんが、よろしくお願いします」

「こちらこそよろしくお願いします」


 突然、脱出ばあちゃんが部屋に入って来た。まっすぐ奥のガラス戸に行き、鍵をこじ開けようとするが動かないので、強引にガラス戸を開けようとガタガタと引き続けた。貴子は獅狼の顔を覗いた。完全に “なんとかしてよ ”の合図だった。獅狼は何て言おうか迷った。そういえば、さっきスタッフが華子を探してくれている間に掲示板の注意書きを読んだ。そこには「個人に対する尊厳を」とあった。このホームの人たちはそれぞれ自分の世界に生きているはずだ。徘徊は、目的なく歩き回っているわけではない。健常者が過ごす世界のルールとは違って当然だ。その行動に対して、世間一般常識で頭ごなしに善悪を押し付けるより、肯定が基本にあったほうがコンタクトが取り易いのかもしれない。こんなことなら、もっと早く認知症について学んでおくべきだった。獅狼が施設訪問の貴子の誘いを躊躇したのは、起こり得る解決し難い状況をぼんやりとではあるが予感したからかもしれない。獅狼は脱出ばあちゃんに恐る恐る選んだ言葉を掛けた。


「開かないですか…困りましたね」


 しかし脱出ばあちゃんは何も答えず “作業 ” を続けた。作戦失敗である。もう掛ける言葉も見つからないまま、脱出ばあちゃんの作業を見守るしかなかった。ところが、獅狼の言葉に時間差で反応したのか、それとも疲れたのかは定かでないが、脱出ばあちゃんはあきらめた。次の瞬間、まったく想定外の行動を取った。華子のベッドに横になった。華子は平然としているが、貴子が叫んだ。


「そこは駄目よ!」


 脱出ばあちゃんは無反応で横になったままだった。自由な世界にあるのだろう。


「お姉ちゃん、どうするの?」

「仕方ないのよ」


 獅狼は華子のあきらめたような返答が気になった。こうしたことが頻繁に起こっているとしたら、施設の管理体制はこうしたことを容認しているか、手が回らないかだ。潔癖症の貴子の不快な気持ちをこのままにもしておけないと、獅狼は取り敢えず再び搾り出した言葉を掛けてみた。


「外に出たいんですよね。外は気持ちよさそうだ。向こうのドアなら何とかなるかな?」


 そう言うと、脱出婆ちゃんは即反応した。なんと、ベッドから降り立って私を見た。作戦成功だ。もう一度話し掛けた。


「探しに行ってみましょうか!」


 奈津子が救いの手を差し伸べた。


「私はこれで帰りますので、私が介護士さんのところまで連れて行きます。おばあちゃん、一緒に行きましょ」


 その声に脱出婆ちゃんはとことこと奈津子の手を取り、華子の部屋から出て行った。きっと “脱出口 ”を探しに出て行ったに違いない。脱出ばあちゃんはこれからもおうちに帰れる出口を探し続けるんだろう…などと、脱出ばあちゃんの世界に通じた感に獅狼は感動すら覚えた。華子に聞いた。


「あのおばあちゃんはいつも来るの?」

「なんか知らないね」


 しまった、野暮な質問をしてしまったと獅狼は思った。華子には3分前のことは知る由もなかったのだ。


 華子と昔話をしていると、今度はどこぞのおじいさんがやって来て、カーテンの閉まっている隣のベッドの前をウロウロし始めた。


「どうしました?」

「肩の調子が悪いんだ。医者に言っても何でもないって言うんだ。でも肩の調子が悪いんだ」


 新しい世界だ。おじいさんの雰囲気は腕利きの職人風だったので、獅狼は心の中で “棟梁 ”という愛称を付けさせてもらった。棟梁は肩の調子が悪いので、医者を探しているのかもしれない。カーテンの閉まった奥が診察室に見えても不思議はない。


「それは大変ですね。どれどれ…」


 獅狼は棟梁の肩を優しく摩ってみた。


「あー、これは大分調子が悪そうですね。向こうで診てもらいましょうか?」


 そう言って促すと、棟梁は機嫌よく獅狼と一緒に部屋を出た。棟梁と廊下を歩いていると介護士さんが棟梁を迎えに来てくれた。獅狼はホッとして部屋に戻ると、また脱出ばあちゃんがやって来た。今度はまっすぐ部屋のトイレに入ってカーテンを閉めた。貴子がまた獅狼を窺った。しかし、このケースは獅狼には手も足も出ない。静かだ。妙に長く感じられる。仕方なく貴子は腰が引けた恰好で声を掛けた。


「大丈夫ですか?」


 無言だ。貴子がそーっとトイレのカーテンを開けると、ズボンを上げる途中の脱出ばあちゃんの動きが止まった。


「あ、ごめんなさい!」


 貴子は焦ったが、脱出ばあちゃんは何事もなかったように無言でズボンを上げ、スーッと出て行った。貴子は脱出ばあちゃんの作業後のトイレを恐る恐る覗いた。


「…流してない」


 流せばいいだけなのに、この部屋での短時間の未知との遭遇に、貴子は完全に金縛り気味になっている。


「流せばいいじゃない」


 そう言いながら獅狼は、貴子は脱出ばあちゃんの排泄物の大を見て金縛りに遭ったのか、小を見てなのか少し気になった。大なら自分も金縛りになったかもしれないと思いつつ、水を流す音で少しだけ心のリセットができた感があった。


「いつもこうなの?」


 獅狼は華子に聞いた。


「んー…どうなのかな」


 と答えた。そうなのだ。華子は三分前のことは覚えていないのだから難しい質問をしてしまったとまた後悔した。


「私…男の子が可愛そうだと思ったの」


 突然そう言い出すと、華子の視線はどこか遠くを泳いだ。貴子は怪訝そうに華子を見たが、小さな溜息を吐いて俯いた。獅狼の目は華子に釘付けになっていた。華子の泳いでいた眼が何かに凍り付いている。その視線の先を見ても壁があるだけだが、義姉は確かに何かを見ている。その時、獅狼の全身を強い衝撃が走った。


 獅狼はどこかに居た。さそり姉さんの乗った車椅子を押している。サソリ姉さんの視線の先には男の子が俯いて立っていた。その子の横を通り過ぎた。


「私…あの男の子の横を通り過ぎたのよ。通り過ぎて角を曲がろうとしたら物凄く胸騒ぎがしたの。後ろで男の子の叫ぶ声がしたの。 “これでもう終わりにしてくれよ! ”て。次の日の新聞でご近所が大騒ぎになっていた。男の子が自殺したのよ。私が見過ごした男の子だったのよ」


 車椅子を押して角を曲がると、男の子の声がした。


「これでもう終わりにしてくれよ!」


 獅狼はハッとなった。サソリ姉さんが車椅子から飛び出して、通り過ぎた男の子のほうに駆け出した。一瞬だった。男の子は数人の中高生に囲まれ、罵倒されながら暴力を受けていた。サソリ姉さんは同級生の持っていたバットを奪い取って、神業のような反撃を繰り返した。背後から中高生のリーダー格がサソリ姉さんを襲った。しかし寸でのところで何者かの影がリーダー格を弾き飛ばした。


「後ろから襲うとは臆病者だな」


 影はそう言いながらリーダー格の脳天を一撃すると、泡を吹いて卒倒して動かなくなった。獅狼は驚いた。影はあの棟梁だった。逃げようとする残りの中高生らがサソリ姉さんと棟梁の容赦ない攻撃でバタバタ倒れ、鼻や口から血を吐いて絶命した。サソリ姉さんは男の子に優しく言葉を掛けた。


「つらかったでしょ…でも、もう大丈夫。あなたは何も見なかったのよ。おうちに帰りなさい」


 中高生らに怪我を負わされた男の子は痛々しく立ち上がった。


「負けないのよ…あなたの味方だっているんだから!」

「今ここで起こった事は誰にも言うんじゃねえぞ」

「はい!」


 男の子はぺこりとお辞儀をして、絶命している中高生らの死体の隙間を縫って去って行った。


「こいつらはどうしようもない連中なのよ。親からして性質の悪い町の迷惑者なの。獅狼、帰ろう」


 棟梁はいつの間にか消えていた。次の瞬間、また獅狼を強い衝撃が襲った。元の施設に居た。華子の表情は穏やかで施設の部屋の窓から見える空を眺めていた。いったい今、何が起こったのだろう。施設からの帰り、獅狼はずっとそのことを考えていた。


 あの頃は…みんなが輝いていた…


 獅狼と貴子はその週末も姉夫婦の家を訪れた。大学生の亘は15歳も離れた叔父にあたる獅狼を友達のように近しく思っていた。


「買い物行こうよ、獅狼!」


 亘は獅狼をいつも敬語なしに呼ぶ。獅狼も亘には兄弟のように接した。獅狼たちが来ると一緒に近所の酒屋に今夜の宴会のもとを買いに行くのが習慣になっていた。華子の夫・吉哉は、華子に猛アタックの末、結婚に至っていた。吉哉は往年の名俳優の市川雷蔵似だった。雷蔵ファンだった華子はそんな吉哉を好きになった。亘の妹である高校生の一瑠は、義叔父になった獅狼がお気に入りだった。彼女が将来、獅狼と同県出身の男性と結婚することになるなんて、この時は想像もしなかったし、一瑠が結婚して子供を儲けたのちに何があったのか、華子と絶縁状態になるなど思ってもみなかった。あの頃は和気藹々でみんながお互いを思いやっていた。玉村家は貴子たちの訪問をいつも暖かく迎えてくれた。


 貴子が最初の子を身籠った時、華子は母親のように喜んだ。出産が間近になったある日、吉哉はふらりと松橋宅をお見舞いに訪れた。吉哉が訪ねて来るなんて珍しいことなので、料理の得意な獅狼は早速おもてなしの支度を始めたところだった。貴子が急に産気付いたのだ。不意なことだったので、獅狼は恐縮しながら吉哉に留守を頼み、掛かり付けの産婦人科に向かった。スピードを出したいところだが安全運転に焦れながら、やっと病院への交差点に差し掛かった。あの立ち食いうどん屋の角を左折すれば病院だ。その時、貴子が呟いた。


「お腹空いた」


 獅狼は聞き間違いかと思い、もう一度聞き返した。案の定、信じられない言葉が返ってきた。


「うどんが食べたい」

「生まれそうなのに?」

「少しくらい食べてからでも大丈夫だと思う」

「…そういうものなの?」


 獅狼は混乱した。仕方なく交差点を直行して立ち食いうどん屋の前に停車した。


「獅狼もお腹空いたでしょ」


 このシチュエーションで空くわけがない。


「オレはいいよ。それより、やめといたほうがいいんじゃない?」


 と言っている獅狼の言葉を背に、貴子はもう店の中に入ってワカメうどんを注文していた。獅狼にとって、貴子の注文したワカメうどんが危険な食べ物に思えた。貴子がうどんを食っている姿に、獅狼はこれほど緊張したことはなかった。結局、貴子はワカメうどん一杯を完食してから病院に入った。案の定、貴子は出産前にそのうどんを吐くことになる。


 出産当日、華子が病院に駆け付けていた。待合室でその瞬間を待ちながら、華子は妹・貴子の誕生から幸薄い幼少期を思い出していた。貴子が産まれたのは華子が中学に上がった夏休みだった。未熟児で生まれた貴子を、中学生の華子は病弱な母の代わりに一所懸命世話をした。貴子が小学校に上がった頃、華子は痩せの貴子が近所の店でアルバイトをしている姿を目撃して母に泣いて抗議した。


「なんで貴子にあんなことさせるのよ! 貴子はまだ小学生だよ!」


 華子が社会人になって吉哉と出会い、結婚することになった。貧しい生活の母と貴子を残して嫁いでいく華子の頬を涙が伝った。


 分娩室の中が急に騒がしくなった。貴子が未熟児で生まれた時のことを思い出し、胸騒ぎを覚えた華子は待合室の椅子から立ち上がった。病院の空気が止まった。暫くして、奥から元気な産声が聞こえて来た。途端に華子はしゃくりあげて号泣した。獅狼にとって、気丈な華子のイメージとは一致しない姿だった。同時に、ワカメうどんを食べさせなければ良かったのにと後悔していた。


 獅狼は義姉の華子が号泣する姿はこれまで二度しか見たことがない。貴子の出産の時と夫・吉哉の葬儀の棺が閉じられる時だ。読経から故人とのお別れのご焼香の間、華子はその意味を理解しているのか、その視線は空を彷徨っていた。最後のお別れで華子は棺の中の夫の顔をじっと眺めていた。肩を抱えて寄り添う息子の亘が囁いた。


「お父ちゃんは市川雷蔵に似てたんだよね、お母ちゃん…お別れしようね」


 華子は無表情のまま吉哉の顔を見つめているだけだった。そして棺が閉じられようとしたその時、華子は全身で叫んだ。


「お父さん、ありがとう! 約束、忘れないからね!」


 参列した誰もが、華子の搾り出すような叫びに胸が塞がった。ぽつりと華子の弟・清が呟いた。


「オレも…叫んでもらえるのかな…」


 隣で清の言葉を聞いた貴子は、せつなくて涙がこぼれた。ゆっくりと獅狼の顔を覗き込んだ。獅狼は俯いていた。清と同じことを考えていたのかもしれない

清は夫婦関係が破綻していた。自分の母親の介護を何年も妻に任せっきりだった。目を背け続けた嫁姑の確執の末、介護に行き詰って施設に入れた。100歳を越えても認知症にはならなかったが、大腸癌が原因で他界した。吉哉の他界もその一年後になるなどとは思いもしなかった。華子は認知症による不安の中で、母と夫を相次いで送ることになってしまったのだ。


 貴子は、葬儀の帰り、華子の言葉を思い出していた。華子は “約束、忘れないからね! ”と棺の吉哉に叫んだ。約束とは一体なんなのだろうと気になった。


「お姉さんの約束って何だろうね」


 獅狼が唐突に貴子に聞いた。


「獅狼もそう思った?」

「ああ…なんか気になるんだよね」


 とは言え、華子は認知症である。現実的な意味合いは特になかったのかもしれない。二人は認知症がどんなものか詳しくは知らなかったし、これまで関心もなかった。まさか華子が認知症になるなどとは考えもしなかった。それが極近い身内に起こってしまったことで、明日は我が身として受け止めざるを得なくなった。


「お母さん、凄かったんだね。 “百歳越え ”でも認知症にならなかったものね」

「死ぬまでお嫁さんと闘ってたからね」

「貴子も百歳越えかな?」

「私、死んで自分が居なくなることは怖い…でも、必ずしも長生きすることが幸せなのか分からない。認知症にもなりたくない」

「誰だってなりたくないよ」

「お姉ちゃんが認知症になるなんて全く予想しなかった」

「だよね! 絶対に理由があるはずだよ」

「骨折で入院したのがいけなかったかな」

「入院したの?」

「一回目は自転車で転んで…」

「一回だけじゃないの!」

「二回目は庭で植木の手入れをしてて梯子を踏み外したの」

「…知らなかった」

「私も…認知症で施設に入ることになったっていう亘からの連絡の時に初めて聞いたの」

「認知症の兆候とかあったのかな?」

「梯子から落ちて骨折したのがいけなかったのかも。ひと月ぐらい入院して帰ってきたら、ちょっと変だったって亘が言ってた」

「骨折自体より、外界から遮断された病室で会話がなくなったのが影響したのかな」

「そうかもしれない。吉哉さんは心臓に病気があるから、あまりお見舞いに行けなかっただろうしね」

「亘や一瑠たちはお見舞いに行かなかったんだろうか?」

「亘は仕事が忙しい時期だったようだし、一瑠とはお姉ちゃんとぎくしゃくした状態だったこともあってね」

「何があったのかな?」

「よく分からない。でも、吉哉さんのお葬式が始まる前に、お手洗いで一緒になった一瑠に言われたことが気になる」

「なんて言われたの?」

「 “おばちゃん…お母さんは今は落ち着いてるけど、感情がコントロールできなくなると手が付けられない状態になるから… ”って言ってたのよ。一瑠なりに介護のことで迷っていたかもしれない」

「自分には手に負えないと思ったんだろうけど、親を介護できないことにも後ろめたさを覚えて、亘と二人で悩んだかもね」

「認知症がどういうのか分からないけど…そうなったら、子供に迷惑は掛けたくない」

「・・・・・」


 帰途、二人はこれから先の漠然とした闇を感じて気が重くなった。取り敢えず、姉と接する時のために、認知症のことを知っておく必要があると思った。


〈第3話「吉哉」につづく〉

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