サソリ姉さんは認知症
伊東へいざん
第1話 拉致
正月の喪中の朝、庭木の手入れをしている老婆のところに中年夫婦が訪ねて来た。
「そんな枯れ木なんか手入れしてないで中に入ろうよ。風邪引くよ」
随分と馴れ馴れしい二人だった。老婆は中年夫婦の名前までは思い出せなかったが、前に見たことがあるような気がする顔だったので、取り敢えずお茶でも出してあげようと思い、一緒に家の中に入った。入るなり中年夫婦は勝手に奥の部屋に入り、箪笥を開け、上着を出した。
「なにするのよ、勝手に…」
「出掛けるから、これ着て」
「私は出掛けませんよ、もうすぐ主人が帰って来ますから」
「とにかく着てね。外は寒いから」
「主人が帰って来たら、出掛けるか相談します」
「・・・・・」
「どんな御用でいらしたんですか?」
「お父ちゃんと約束したことを覚えてる?」
「・・・・・」
「これからそこに行かなければならないでしょ? それとも、お父ちゃんとの約束は無しにする?」
「・・・・」
「お父ちゃんとの約束、忘れちゃったの?」
「…忘れてないです」
「じゃ、早く行きましょ?」
老婆は仕方なく中年夫婦に言われるまま、車に乗った。
「どこに行くんですか?」
「お父ちゃんと約束したところだよ」
「・・・・・」
「どこに行くんですか?」
「だから、お父ちゃんと約束したところだよ」
「私は自分の家が一番安心です。主人が帰ってきますからやっぱり家に戻ってください」
「もう先方に行くって言ってあるから…これからしばらくはそこで暮らすんだから」
「暮らすって、どうしてですか? 私には家があります!」
「お父ちゃんとの約束を守らなくていいの?」
「・・・・・」
老婆が中年夫婦の煮え切らない返答に怒りを覚える頃、車はある建物の前で停まった。中年夫婦に伴われて老婆は中に入った。エレベーターで三階に上がると、恰幅のいい男性と痩せぎすの初老と白衣の女性二人が待っていた。痩せぎすの初老が言葉を掛けて来た。
「お待ちしてました。玉村華子さんですね。私はここの責任者の門馬です。こちらが理事長の巴山です。理事長は多忙で殆どいらっしゃらないんですが、今日は施設での全体会議がありまして…」
「理事長の巴山です。華子さんの明日が、今日より幸せであるよう一所懸命サポートさせていただきますので、私どものスタッフを信頼して、これからここで素晴らしい毎日を送ってくださいね」
華子が聞き返した。
「あなたの名前は何て言いました?」
「巴山です」
「ト…モ…エ…ヤ…マ…」
「はい、巴山です。よろしくお願いしますね」
華子は亘の背中にしがみ付いた。
「吉哉! 巴山だよ!」
「どうかしましたか?」
巴山が一歩近づくと、華子は叫んだ。
「来ないで! 来ないでください!」
「嫌われてしまったようですね。では、会議がありますので私はこれで…」
巴山はバツが悪そうに苦笑いをして去って行った。
「すみません、失礼なことを…」
「いえいえ、御気になさらないで…えーと、こちらは看護師の早乙女さんで、こちらが担当介護士の橘さんです」
「早乙女です。よろしく」
「橘です。これからお部屋を案内しますね」
華子は思い出していた。それは吉哉が初めて心臓の発作を起こして倒れた時のことだ。一命を取り留めてICUから病室に落ち着いた吉哉は、華子を枕元に呼び寄せて話した事がある。華子の記憶はその一部分をリフレインしていた。
「…今は巴山…」
華子は身の危険を感じて、エレベーターに駆け戻り、ボタンを押した。
「私は帰ります!」
しかし、エレベーターは全く反応しなかった。さっき、巴山が返る時は開いたのに…そう思って愈々華子は恐怖を覚えた。
「ここを開けて! 家に帰るからここを開けて!」
華子がどれだけ懇願しても、中年夫婦も責任者の男も白衣の女たちも黙っていた。得体のしれない彼らを前に、不安と疑心で華子も緊張感の中で対峙するしかなかった。橘が優しく話し掛けて来た。
「華子さん…お部屋で少し休んでから考えましょうね。大丈夫よ。落ち着けば不安もなくなるから。ここにいる人はみんなあなたの味方だから」
華子は橘の付き添いで部屋に向かった…かに見えたが、その手を振り解き、出口を探して廊下を走り出した。早乙女が追い駆けた。廊下を曲がると行き止まりになってしまった。
「みんなを困らせないでね、華子さん」
追い付いた早乙女がゆっくりと華子の腕を抑えた。華子はその手を引き寄せて思い切り噛んだ。早乙女は慣れた所作で痛みを堪えながら華子を壁に叩き付けた。怯んだ華子の腹部に膝蹴りを入れると、華子は息も絶え絶えに壁をずり落ちた。橘たちの足音が近付いて来た。早乙女は強引に華子を立たせ、早口で捲し立てた。
「ここに来たら、あなたの身勝手は許されないのよ。よく覚えておいてね。鳩尾、苦しくて痛いでしょ? でも安心して。私は看護師だから加減はしたのよ」
橘たちが追い付いた。早乙女の表情が一変して笑顔になった。
「華子さんは走るのが早くて…それにお元気過ぎて噛まれちゃった」
そう言って早乙女は、華子に噛まれて出血した手を橘たちに見せて笑った。中年夫婦は驚いて早乙女に頭を下げた。
「申し訳ありません! 来て早々に大変なご迷惑を…」
「いやいや、これが私どもの仕事ですから。ここに来られた当初はみなさん、こんな感じですから。まあ一~二週間もすれば落ち着くと思いますので、そんなにご心配なさらないでください。あとはお任せください」
「そ…そうですか…」
中年夫婦は居場所に困っていると、門馬が促した。
「橘が出口までお送りしますので…」
「あ、はい…では、よろしくお願いします」
橘は中年夫婦を先導してエレベーターのロックを解除した。華子は、自分を置き去りにして帰って行く中年夫婦に叫んだ。
「あんたは誰なの! 私を掠って、こんなところに連れて来て…あんたは誰なの! うちの人に話して、ただじゃ置かないからね!」
中年の男は振り返って叫んだ。
「ぼくは…あなたの息子だよ! お父ちゃんは、もう死んだんだ! お母ちゃんは認知症になってそんなことも分からなくなってしまったんだよ! お父ちゃんに、この施設に入れるように頼まれたんだ! こうするしか仕方がないんだよ! ぼくが息子だってことすら…」
「あなた、もうやめて…お母さんにそんなことを言っても…」
妻に制されて華子の息子・
「吉哉が…死んだ? …いつ?」
華子はその場にへたり込んだ。
「私は認知症になってしまった? 認知症なら何も分からなくなるんじゃないの? こんなに悲しい、つらい気持ちでも認知症なの? 認知症はなんでも忘れてしまうんじゃなかったの? …きっと…きっともうすぐ何も分からなくなるのね。そのほうがいい。きっともう少ししたら何もかも忘れちゃう…私は、吉哉が死んだことさえ忘れられればそれでいい。すぐに忘れるんだから…全部忘れるんだから…」
門馬と早乙女は華子を両側から抱き起こそうとしたが、華子は激しく拒んだ。
「触らないでください! …ひとりで立てます」
「…優しい息子さんですね。きっと、おつらいんですよ」
「優しい? つらいですって? 私を無理矢理こんなところに放り出すことが優しいんですか? 私には家があります。そこで暮らすことが一番幸せなんです! こんなところには居たくありません! 帰ります! 帰してください!」
華子は再びエレベーターに走った。すぐに早乙女が追い駆けた。華子が辿り着いたエレベーターのドアが開いた。女医の門脇が立っていた。華子は女医に助けを求めて縋った。
「助けてください!」
「早乙女さん、ちゃんと押さえて!」
早乙女が強引に華子の首と肩を押さえると、門脇が針キャップを外して華子の肩口にレボトミン筋注を施した。その間にも華子は助けを求めて叫び、早乙女から逃れようともがき、門脇を蹴って必死に抵抗を試みたが、急に脱力感に襲われて立っているのもままならなくなってしまった。
薄れる意識の中に吉哉が蘇った。さっきの病室の枕元に居た。
「このままでは死ねない。万が一の時には…」
「そんなことにはならない! 私も手伝うから、あなたが元気になったら一緒に!」
「華子…」
「…大丈夫よ」
筋注が効いた華子は、今までに経験したこともない感覚で世界が消えて行った。
「華子さん、おやすみなさい」
門脇は華子をベッドに寝かせて部屋を出ると、理事長の巴山が待っていた。
「理事長、会議は?」
「玉村華子さんの面会者には十分注意してくれ」
「どういうこと?」
「…とにかく注意してくれ」
「分かったわ」
門脇はいつにない巴山を不審に思って見送った。
〈第2話「華子」につづく〉
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