カワル

紅萄 椿

短編 カワル

 世の中では、価値観がひしめき合っている。

 価値観は人それぞれだけれど、晴れやかな空を見て、きれいだなと思ったり、路地裏のゴミ箱を見て、汚いなと思ったりしたことが誰にでもあると思う。

 忘れちゃいけないのは人それぞれの価値観があって、多数派と少数派がいるということだ。それを忘れると、取り返しのつかないことになる。僕はそのことを、二年前に思い知らされた。

「僕、ケンジのことが好きだ」

 同じ高校に行こうと笑う笑顔が、ふにゃっと細められる目が、好きだった。中学二年の夏、いつもの帰り道。僕は人生で初めて愛の告白をした。勇気を振り絞った僕に向けられた親友の目は、汚らわしいものを見るように歪んでいた。

「気持ち悪い」

 吐き捨てられて、僕は鈍器で殴られたように頭がぐらぐらした。僕らはあんなに仲良しだったのに、どうして。

「男のくせに男が好きとか、気持ち悪い」

 ああ、そういうことか。




 高校のチャイムの音は、中学よりきれいな音だから好きだ。

 数学の授業の始まりに、僕はそんなことを考えている。数学の先生の汚い板書を見るよりも、チャイムのことを考えるほうがましだ。それで、広いグラウンドを走っている生徒を眺められれば、言うことはなかった。

 窓からふと外を見ると、二年生がサッカーをしていた。

青春の汗は、きれいだと思う。


 きれいなものが好き。これは多数派だろう。でも、何がきれいでなにが汚いか、それは人それぞれだ。

 僕が告白した後、ケンジは僕と一緒に居ることはなくなり、尻軽と評判の派手な女子と交際を始めた。今まで一人にしか告白していない僕と、ケンジと付き合いながら彼以外の男とキスする女。どうして僕を選んでくれないのかと憤慨したものだが、今となってはケンジが多数派だと思う。

 僕はといえば、「オカマ野郎」といじめられるようになった。いじめの中心にいたのはケンジの彼女で、ケンジもいじめに加わったのは悲しかった。

 でも、悲しいという思いはすぐに消えた。僕にとって、ケンジがきれいなものじゃなくなったからだ、と僕は思った。

僕はせめて、きれいだと思うものをきれいだと言えるようになろうと思った。

 そう思えてからは、吹っ切れたのだろう。机の落書きはさっさと拭いて、女性用のファッション雑誌を読むようになった。教室がざわざわしたのを見て、少し気分が良かった。雑誌は先生に取り上げられたので、今度は化粧をして学校に行った。生徒指導室に呼び出されたが、事情を正直に話すと、先生はううんと唸って、「戻っていい」と言った。面倒を避けたかったのだろう。

 スカートを履きはしなかったが、あだ名の通り僕の見た目はだんだん「オカマ野郎」になっていった。けれど、不思議と話しかけてくるクラスメイトが増えた。最初に話しかけてきたのはケンジの彼女と仲の悪いグループの女子で、居心地は正直微妙だったけれど、気持ちが楽になったのを覚えている。

 ちなみに家族会議も開かれた。母には泣かれ、父にはあまり興味がなさそうに「好きにしろ」と言われた。それからはさらに化粧が上手くなって、オネエ言葉を習得した。

 卒業式の翌日にスマホが水没したのは事故ということにしている。

心機一転、高校生。遠くの学校を受験した。

 自己紹介では「彼氏募集中よ」とツカミはバッチリだった。


 ポケットが短く震えて、はっと我に返る。真白な機体に被せたピンクの手帳式カバーを開くと、スマホにメッセージが届いていた。

『サチ:アキちゃん、カッコいい人いた?』

 トリップしていて一瞬意味がわからなかったので、教室の端にいる差出人を見やる。そこにはツインテールを茶色に染め、バッチリ化粧をしたギャルが居た。友人のサチだ。彼女は窓の外を指差して、悪戯っぽく歯をのぞかせる。僕はもう慣れた手つきで、フリック操作する。

『アキラ:ここからじゃ見えないわよ。おバカ』

『サチ:彼氏探しに真剣さが足りない!』

 冗談らしい怒った顔文字を文末に添え、サチは瞬時に返信してきた。授業中だというのに、何に真剣になれというのか。そもそも、彼氏探しなんかしていない。

「コラァ!」

 返信しようとした手がこわばり、手汗が吹き出した。恐る恐る顔を上げるも、覚悟していた数学教師のバーコード頭はなかった。そろりとスマホをポケットに入れ、首を回す。バーコードはサチの席にいた。

「授業中になにをしとるんだ! 川島ァ!」

「ひいっ!? な、なにも」

「スマートホォンをしていたんだろうが! 誰とメッセンジャーしとったか!」

「あ、ええと」

 一寸古風な先生の追及に、サチは遠慮がちに首を動かす。仕方がない、二人で職員室に行くしかないか。僕は観念したのだが、サチの動きが止まった。

「ゲームしてました!」

「元気に言うやつがあるか! 廊下に立っとれ! スマートホォンは没収だ!」

 クラスにどっと笑いが起きた。バーコードはまばらな髪を振り乱し、サチのスマホを持ってどすどす教卓へと戻っていく。サチは振り返って舌をと出すと、クラスメイトたちの笑い声に見送られ、余裕げに手を振り振り、教室を後にした。

 いつもより雑になった板書に顔だけ向けながら、僕はサチのことを考えていた。職員室には一緒に行くのがいいだろうか。それとも、帰りにコンビニのスイーツでもおごろうか。

 スイーツにしよう、と決めたところで、誰かが窓を開けた。夏の、湿気をはらんだ生暖かい風が一迅。クラスからはまた笑いが起こった。きっと、いつものようにバーコードが散らばったのだろう。先生の怒声も聞こえた気がした。

 けれど、そのときの僕はきらきらと靡く長い黒髪に目を奪われ、呆けていた。その主は、手で口を隠しながら、控えめに笑っている。

 斜め前の席のクラスメイト、白井ミキ。


 ねえサチ、内緒だけど、僕はいま、気になっている人がいるんだ。




 ミキと初めて出逢ったのは、五月の終わり。プレハブの体育倉庫に用具を運んでいたときだった。もちろんクラスメイトとしては認識していたが、白井ミキという人間として彼女を認識したのがその時だ。

 彼女は中腰で倉庫の外壁を見つめていた。最初は気に留めず、用具を仕舞うため倉庫に入り、一分ほどして出たのだが、彼女は微動だにしていなかった。そろりと近づき、何を見ているのだろうと少し離れて彼女の後ろに回る。

「カマキリ?」

「わ、びっくりした」

 彼女の視線の先には外壁をゆっくり歩くカマキリが居た。びっくりしたと言いながら、彼女は振り向きもしない。そんなに珍しいものなのかと、つられて覗き込む。よく見ると、カマキリは小さな羽虫の背後に迫っていた。

 瞬間、カマキリが羽虫を捕食する。

「おお」彼女は感嘆し、「やるじゃないか、カマキリくん」賛辞を述べた。

 彼女はくるりと振り返ると、撥条仕掛けのように立ち上がった。僕との距離は五十センチほど。身長は僕より少し低かったが、クラスの女子の中では一番か二番目に高いのではなかろうか。

「ええと、同じクラスの、佐藤くん? なにしてるの?」

「あ、体育の、片付け、よ」

 きょと、と首をかしげる仕草と、名前を呼ばれた驚きに、僕の返事はしどろもどろになる。僕は心の中で深呼吸した。

「白井さんこそ、なにしてたのよ?」

「あ、名前覚えられてた。嬉しいね。私はね、カマキリを見てた」

「どうして?」

「きれいだったから」

 迷いなく言い切られた彼女の言葉に、真っ直ぐな彼女の眼差しに、僕はぎょっとした。喉が渇いて声が出ないのに、胸まで水に浸かっているような感覚。

ミキは僕を見て、ははっと笑う。

「変なの、って言っていいのに」

「変じゃないわ」

 急き立てられるように否定した。顔が火照っているのがわかる。

「変じゃないよ」

 僕は余程可笑しい顔だったのだろうか。

「変なの」

 ミキはそう言って笑った。




 それから、僕はミキのことを目で追いかけるようになった。窓から見える体育の様子は相変わらずきれいだと思うけれど、それよりも彼女を追いかけてしまう。

 そのお陰でミキについて色々知ることが出来た。幼稚園から今まで彼氏が居たことがないばかりか、好きな人がいるという話すら誰も聞いたことがない。友だちはそれなりにいて、特にクラス委員長のメガネ女子、葉月ナナを中心とするグループと一緒にいることが多い。男子と軽口を叩き合っているのも何度か見た。葉月は「雲みたいな子だよ」と言う。中学からの付き合いらしいが、時々ふらっと姿を見なくなったと思うと、飛行機雲をひたすら見つめていたりするらしい。

 聞くほど、僕は彼女に惹かれていった。

「あれ、アキちゃん?」

「やっほー、ミキ」

 僕はひらひらと手を振る。この一、二ヶ月で僕やサチともそれなりに仲良くなり、ミキは僕のことをアキちゃんと呼ぶようになっていた。

「手紙くれたの、アキちゃん?」

 ミキが怪訝な顔をする。

「そうよ」

 放課後。

 サチは職員室にスマホを取りに行って、きっとすぐには解放されないだろう。

 その前に僕は、僕たちが初めて出逢った場所にミキを呼び出していた。

「聞いて欲しい話があるの」

 長い睫毛を瞬かせながら、ミキは「いいけど」と言う。長話になると思ったのか、近くのベンチに腰掛けた。隣の座面を手で叩くので、僕も腰掛ける。

「あのね」

 自分の心臓の音が聞こえるのに、手足は冷え切っている。

「アタシ、ミキのこと、きれいだと思うの」

 自分でも突拍子のないことだとわかっていた。ミキも「へ」と気の抜けた返事をして、「ありがと?」と付け足した。どうしてそんなこと、とは聞かないところがミキらしい。

「ミキは、きれいなものをきれいだと言えるから」

「きれいなもの」

 ミキがくり返す。そして、まだ落ちていない日を反射して強い光を放つ目で僕を見据えた。野球部のバッティング音も、水泳部の掛け声も、耳が詰まったように聞こえにくくなる。

 全身が粟立った。僕の言葉を待っているのか、もう喋るなと言っているのか。僕は喉をごくりと鳴らす。

「ミキがきれいだと思うものはアタシのそれとは違うけれど、素直に、きれいだと言い切れるところが、素敵だと思うわ。そういうところにアタシは惹かれているの」

 もう一度、唾を飲み込む。

「だから」

 言いかけて、言葉が千切れる。その先は分かりきった台詞のはずなのに。

 汗だくの手を握り込む。ミキは困ったように眉をひそめていた。

「好きとか?」

 そうだ。と、言ってしまえば終わるだろうか。

 晴れてミキとお付き合い出来るかもしれない。「男が好きみたいな顔をして女の子に取り入って、気持ち悪い」と言われるかもしれない。

 そうなるのが嫌で、言葉に出来ないのだろうか。そもそも、僕はミキのことが好きなのだろうか。二年前は男に告白した僕が。

 男だったのに、男に告白して、女みたいになったのに、女に告白しようとしているのか。きれいだと思うものをきれいだと言って、自分もきれいになったつもりだったけれど、違ったのか。

 身体と心が違和感だらけで、虫が這い回っているようで、自分の身体を引き裂きたい気分だ。

 こんなのは、「汚い」。

 途端、視界がぼやけた。光が乱反射して、色すらよくわからなくなる。

「汚くないよ」

 聞いたこともない優しい声色。

 溢れる涙はとめどなく、溢れる言葉は無秩序に。

 アタシは僕の心の内を、全部吐き出した。


 過去から何から全部吐き出したつもりでも、時計の長針は六十度も回っていなかった。瞼は重いけど視界は晴れて、ミキの手を握っているのが見えた。

「落ち着いた?」

 息は切れ切れだが、心臓は先刻より落ち着きを取り戻していた。ミキの顔を窺うが、ひりりとする眼光はどこへやら、柔和な笑みを浮かべている。

「言い残したことはある?」

「ええ」

「愛の告白は?」

「ないわよ。したらどうするの」

「ごめんなさいする」

「なんなのよ、もう」

 アタシは長い息を吐く。ミキは顔を伏せた。

ミキの手を握っていても、アタシの鼓動は早まらない。それは何よりの答えで、詰まるところ、舞い上がっていただけだったのだ。きれいなものを求めて、眩しい光が見えたものだから、混乱して錯乱した。

 ケンジへの思いも恋ではなかったかもしれない。だが、告白までしておいて勘違いでしたでは浮かばれないので、恋だったということにしよう。

 どちらともなく手を離す。

「私には、他に好きな人がいるから」

 自分の世界に入り込んでいて、「へ」と気の抜けた返事をした。聞き間違いでなければ、カミングアウトのお返しだろうか。そんなつもりで話したわけではなかったのだけれど。

 下唇を噛んで、頬なんか赤らんでいるように見えた。話し方も、少し変なの。

 そこにいたのは、アタシが焦がれたきれいな白井ミキではなかった。

 同じ口の動きで、たった二文字、絞り出す。

 白井ミキは、どこにでもいる、思うままに生きられない、恋する可愛い女の子。




「おまたせぇ。もう、バーコードしつこすぎかよぉ」

 ミキと別れ、昇降口でサチと待ち合わせる。両腕をだらりと垂らし、幽霊やゾンビのよう。ツインテールは解かれ、丁寧に梳かれたセミロングになっている。

「糖分補給しましょ。おごるわよ」

「マジで!? アキちゃん神!」

 子供のようにはしゃぐサチを見て、自然と頬が緩む。

 靴を履き替えて、校舎を出た。まだ部活中のグラウンドを横目に、体育倉庫の近くを通りかかると、砂利を踏む二人分の足音が一人分減って、振り返る。

 何故か顔を伏せて、下唇を噛むサチ。

 価値観はひしめき合う。世の中で、人の中で。


 泣いて笑って恥かいて、アタシはアタシでいいと思えた。

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カワル 紅萄 椿 @tsubaki-k

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