豆を煎る
「今度はどこの豆?」
でかい紙袋を代引きで受け取ってくれた女房が、重そうにそいつをリビングに運んできた。
「ガテマラ、コロンビア、ルワンダ、マラウィかな」
「ふうん。全部、新しいところの?」
「いや、コロンビアは前と同じ農園のやつ。ただ、処理が違うみたいだけどね」
「おいしけりゃ、どうでもいいけど」
はいはい。その通りでございます。
ばりばりばりっ!
紙袋を閉じてあったガムテープを力任せにちぎり取り、中から豆を引っ張り出す。
「うーん、どれもきれいだなあ。さすが
「どれから炒るの?」
「ルワンダ。初入荷だってさ。煎り加減で相当個性が変わるらしいから、楽しみだ」
「おいしけりゃ、どうでもいいけど」
はいはい。その通りでございます。
当たり前だが、最初の一発目だけは時間を短め設定にして煎りの入り具合いを確かめながらやらないと、生臭くなったり真っ黒焦げになったりする憂き目にあう。
「まあ、無難に18分で行ってみるか」
「あ、ちょっと待って! ベランダの洗濯物片付けてから!」
「へいへい」
室内ならともかく、戸外に排煙された焙煎香なんざあっという間に散ると思うんだけどな。だが、余計なことを言って女房がへそを曲げると後が厄介だ。おとなしく、段取りが整うのを待つことにする。
手持ち無沙汰な待ち時間。俺はロースターの筒にグリーンビーンをざらざらと計り入れながら、女房と暮らし始めた頃のことを思い返していた。
◇ ◇ ◇
女房は紅茶派で、コーヒーは一切飲まなかった。苦手ではなく、嫌い。取りつく島もない。嗜好は人間の欲に直結しているから、後から第三者がそれをひん曲げるのはほぼ不可能だろう。当然俺には、女房をコーヒー好きにしてやろうなどという魂胆は一切なかった。
俺自身はコーヒー党だが、昔からというわけではない。大学進学後にコーヒー好きの友人に付き合わされているうちに、なんとなく飲めるようになったという口だ。動機がその程度のものだから、俺が言う『うまいまずい』なんてのは、せいぜいその程度のレベルでしかない。
俺がコーヒーを自家焙煎しようと思い立ったのは、大して味の違いが分からない俺でもうまいと思えるコーヒーを味わったからだ。ロースターを持ち込んでその場で豆を焙煎する移動販売の業者が職場に出入りしていて、そこのコーヒーはお世辞抜きにうまかった。こだわりのコーヒーがどうのこうのという気取った業者ではなく、豆ってのはその都度煎った方がおいしいんですよというレベルだったけどな。その業者が来ると棟内にぷんと焙煎香が漂い、無性にコーヒーが飲みたくなった。煙で客寄せする鰻屋みたいなもんだよ。それで、自分でもやってみようかと思ったんだ。
自家焙煎のために俺が用意したのは、生豆とアルミ製の厚手の雪平鍋。それだけだ。鍋をやや強火にかけて熱しておき、そこに豆を放り込んでひたすら揺する。薄緑色だった豆が徐々に淡い褐色に変わり始めるまでは、熱さとの戦いだ。豆の水分が抜けてくるとその先一気に焙煎が進むので、今度は鍋をコンロの火から少し離して温度を下げ、慎重に色づきを確かめながら焙煎を進める。
ごつい焙煎機がないと出来ないと思っていたが、なんだ鍋一丁で行けるじゃないか。上出来の煎り上がりに満足した俺はすぐにそいつを味見したかったが、一晩くらいは寝かせた方がうまくなるらしい。
翌日の夜。俺が前日焙煎した豆をミルでがりがりと挽くと、それだけでぷんといい匂いが漂った。俺が鍋を振っている時には臭い臭いと鼻をつまんでいた女房だったが、ミルを回している時に漂う香りは、それとは別物だったらしい。
挽いた粉を、ごく普通にペーパードリップで落とす。
「おおお、膨らむ膨らむ!」
「すごおい!」
市販されている焙煎済みの豆じゃ、なかなかこうはいかんだろ。芳しいコーヒーの香りが湯気とともに立ち登り、キッチンをふわりと満たした。
「わ。いい匂いだー」
「だろ? 初めて自家焙煎した割にはうまく出来たんちゃうかな」
コーヒーが飲めるのは俺だけだから、俺一人だけの贅沢だ。でかいマグカップになみなみと注いで、黒褐色の液体をそっと口に含む。その味は、業者が売りにくるものとほとんど遜色がなかった。
「こらあ、煎り加減を好きなように調節出来る分、自分でやった方がいいな」
俺が満足感にどっぷり浸っている間、女房が恨めしげにコーヒーポットを睨みつけていたが……。
「ねえ、ちょっと味見してもいい?」
「ん? コーヒー嫌いじゃなかったのか?」
「ちょっとだけ」
「それじゃあ、オレにしてみたらいいよ」
「そだね」
俺とお揃いのマグカップに牛乳を入れて電子レンジで温めた女房は、ポットに残っていたコーヒーを恐る恐る注いで、スプーンでかき混ぜた。それから、げてものでも口にするかのような悲愴な表情で、マグに口をつけた。
「どうだ?」
「!!」
俺は、その時の女房の驚愕の表情を今でも鮮明に覚えている。
「これ……ほんとにコーヒー?」
「そうだが。紅茶に見えるか?」
「めっちゃめちゃおいしい!」
「まあな。これだけ輪郭がはっきりしてりゃあ、牛乳に負けんだろ」
「うん! そっかあ……コーヒーが嫌なんじゃなくて、おいしくないコーヒーばっか飲んだってことなのかなあ」
「そうかもな。俺も一度こういうのを飲んじまうと、もう他のが飲めなくなるんだよ」
◇ ◇ ◇
爾来、俺は二十年以上コーヒーの自家焙煎を続けてきた。
その間、俺の転勤に伴って巡回販売の業者から買い付けていた生豆が入手出来なくなり、通販でスペシャルティコーヒーなるものに手を出すことになった。いや、スペシャルと言ってもそんな御大層なものではない。野菜などの農産物で生産者明記のもの、なんとかさんちの大根とか人参とか、そういうのがあるだろう? それのコーヒー版だ。
農園の所在地、栽培方法、品種、収穫後の処理……そういう情報が明記されている豆。それは、生産者の顔が見える豆だ。コーヒー農園の農民が汗水垂らして作った豆を、俺が汗水垂らして焙煎し、うまいうまいと飲む。川上と川下が直につながっているという感覚……それに痺れたんだ。もっとも、うまけりゃおっけー派の女房には、そんなのどうでもいいらしいが。ははは。
焙煎後の豆はあっという間に風味が落ちていくが、保存性の高い生豆は焙煎するまでほとんど味が変わらない。加えて、いい豆でありながら価格がリーズナブルだ。なので、生豆を三ヶ月から半年間隔で何種類かキロ買いし、それを毎週末に焙煎して一週間以内に飲みきることにした。煎りの深いコーヒーはカフェインの影響が小さくなるから、うちでは夜遅くに夫婦でコーヒーを飲む。それが、我が家オリジナルのゴールデンタイムだ。
ただ。二十年の間に、一つだけ変わってしまったことがある。焙煎方法だ。俺はずっと雪平鍋を振っていたかったんだが、今住んでいるマンションはオール電化で、炎の出るコンロが使えない。IHじゃ出力を最大にしても火力が全然足らず、うまく焙煎出来ないんだ。
泣く泣く鍋振りを諦めて、焙煎機に移行した。今使っている焙煎機はすでに三代目になる。機械任せは楽なんだが、どうにも達成感がなくて物足りない。それが本当に『自家』焙煎なのか、という点でね。
それでも。一度うまいコーヒーを飲んじまうと市販の豆にはもう戻れない。すっかりコーヒーに慣れた女房も、喜んで飲むのは牛乳入りの自家焙煎コーヒーだけだ。
「始めていいよー」
ベランダから女房の声が聞こえて、はっと我に返る。洗濯物が取り込まれて準備が整ったようだ。
「ほいな」
ロースターに焙煎筒をセットしてスイッチオン! 送風音が強くなって、かしゃかしゃと軽快に豆が回り始めた。十分もしないうちに、部屋中に強い焙煎香が広がるだろう。その匂いが嫌いな息子は、今からもう顔をしかめている。
まあ……おまえも、そのうちコーヒーの旨さが分かるようになるさ。俺も女房もそうだったからね。
【 了 】
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