3-7

 そこは小さなバーだった。

 店内にはごく一般的な木製のカウンターテーブルが備え付けられており、その後ろには、同じく木製の大きな戸棚が置かれている。

 照明は、落ち着いた暖色の間接照明。空間の演出に一役買う調度品は、華美すぎず、質素すぎないものがチョイスされており、店の隅に置かれた音盤再生機レコードプレーヤーからは、少し陽気なアコーディオン・ミュゼットが静かに流れていた。

 今、店の中にいるのは店主であるバーキーパーと客、その二人だけ。他に人気はない。

 しかし、ヴェストシティで夜の酒場が繁盛しなくなって久しいので、こんな光景自体、稀有なものではあった。


「……よくあることだろう」


 カウンターテーブルの中に立つ老年の男が口を開く。

 年相応に痩せたというか、枯れたような細身。後ろになでつけた真っ白な頭髪と、銀縁の丸眼鏡から覗く、深い皺の刻まれた温厚そうな眼差しが特徴的な男である。服装はラフな白のカラーシャツと黒のベスト、スラックスで、その立ち姿は、いかにも紳士然としている。

 彼の発した一言は、目の前に座る客の話を受けての一言だった。当然、相手が答える。


「そうね、かもしれない」


 どこか翳りのある女の声が、静かに場の空気に溶けてゆく。


「儂だってそうだ。街歩いてりゃ、死んだカミさんの面影のある女に出会うこともある」

「…………」

「個人的な意見を言うなら、気にしすぎだと思うがな」


 言って男は、彼女から視線を外し、後ろにある戸棚の中を整理しだした。

 時折、腰を労わりつつ屈んで、足元の棚にある酒瓶を一つ一つ丁寧に確認していく。

 しかし男はその作業中でも、たまに客の女の方を盗み見て、彼女の様子を気に掛けていた。


「…………」


 女は無言だった。

 艶やかな黒髪に隠れて表情は読めないが、彼女の発する空気は、重い。

 何か迷っているようでもあるが、それがなんであるか、男はあえて聞かなかった。

 カウンターに座る者の事情を詮索するのは自分の仕事ではない――これはバーキーパーとしての彼のポリシーであり、礼儀であった。そしてそれは、たとえ親密な間柄の者であっても同じである。

 するとしばらくして、女は沈んだ空気を払拭するように、言った。


「ごめんね、くだらない話して」


 女は立ち上がり、氷だけが残ったグラスの横に紙幣を置く。


「謝るこたない。今も昔も、酒場ってのは酒飲んで、くだらない話をする場だ」


 男は戸棚を整理する手を止めず、肩越しに女を見て言葉を放る。

 そしてその後、女は無言で店を出て行った。

 ドアベルの音とともに、店内をわずかな風が躍る。


「……ゆっくりしてけばいいもんを」


 男が呟いた後、グラスの氷が、小さく鳴った。

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