1-2

「なんだと!?」


 静かだった寝室に、中年男の怒鳴り声が響いた。

 壁にかかった振子時計の針が示す現在の時刻は、午前三時過ぎ。男は最初、寝ぼけた頭で電話を受けていたが、その内容が頭を巡るにつれ、彼の意識は覚醒した。

 そして先の罵声である。男は、同じ寝室で寝ている妻の機嫌を損ねるかとも思ったが、今はそんなことには構っていられなかった。


『現在目標はロスト。逃げたのはおそらくイースト方面ですが、詳しい居場所は未だ不明です』


 電話口の男が伝える状況は、控えめに言って最悪だった。


「なぜそんなことが起きたんだ! 何があった!」

『事故の詳細は判明次第、報告致します』

「施設被害は!?」

『崩落した土砂と、破裂した水道管のおかげで火災は軽微ですが、被害は小さくはありません』


 やけに淡々とした彼の口調に苛立ちが募らないでもなかったが、ここで彼にそれをぶつけてもどうしようもない。気持ちを静めつつ、尋ねる。


「……逃げた個体の討伐は可能か?」

『中枢に現れた時に、私の方で小型発信機を撃ち込みましたので、個体識別と討伐自体は可能です。ただ、発信機は強力なものではないので、電波さえ拾えればの話ですが』

「……逃げたのはイースト方面と言ったな?」

『はい。崩落個所から逃げ出した際、目視と発信電波の双方から方角を確認済みです。今現在もそうである保証はないですが、可能性は高いかと』

「……わかった。逃げた個体は公安に討たせる。お前はまず地下施設の被害状況を把握しろ。上には私が直接向かう」

『承知しました』


 正直、あまり大事にはしたくなかったが、こうなってしまっては隠しようもないだろう。公安に協力してもらうより他に選択肢はなかった。


「地上の旧研究所付近は、イースト一番署の連中に封鎖させておく。事態に動きがあればまた連絡する」


 それだけ言って、男は半ば強引に電話を切る。そして彼は立ったまま傍のテーブルに力なく両手をついた。男がふと部屋を見ると、二つ並んでいるベッドは、そのどちらも空になっていた。寝ていた妻の姿はどこにもなく、寝室の扉は小さく開きっぱなしになっていた。


「くそっ!」


 行き場のない怒りを乗せた男の拳がテーブルを叩く。

 もし逃げた個体によってさらなる被害が出るようなことがあれば、自分の立場は一気に危うくなるだろう。市議会や内閣からそれぞれ責任追及を受けることになるだろうし、最悪、今の立場からの更迭もありうる。所長の椅子に収まって『彼』を監視するだけの役職だと思っていたのに、就任して数か月でこれとは、まったく運が悪い。

 自身の悲惨な未来を想像した男の顔には、汗の滴がひとすじ流れた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る