一章 寂寥たる街

1-1

「――あ、やべ」


 深夜のイースト三番街。月明かりも届かぬ裏路地で男は顔を引きつらせた。

 直後、彼の目の前に積んであった空き樽の山が崩れ、盛大に音を立てる。

 男はごく軽く手をついただけだったのだが、樽は想像以上に不安定だったらしい。そして、男の視線の先にいた生物は物音に反応して、男の存在に気付いてしまう。


「……逃げるか」


 男は即座に判断を下すと、身を翻して一目散に駆け出した。

 こちらを認識し、追ってくるであろう相手のことはひとまず無視して、彼は振り返ることなく一気に路地を抜ける。しばらくして人気のない広めの通りへと出るが、男は止まらない。ぽつぽつと設置されたガス灯の明かりの中、寒い夜の空気をかき乱し、石畳の街路と濃い地霧を踏みつけるようにしてさらに走る。

 ――男の年齢は二十歳過ぎぐらいだろうか。目じりの垂れた濃い緑の瞳と、中途半端な長さの黒髪。体形はやや細身だが、顔立ちも背丈もこの年代の男性としては至って平均的であり、言ってしまえば平凡な男だ。

 しかしその服装はお世辞にも平均的とは言えず、一目で彼の生活レベルが伺えるほどに貧相なものであった。上は色もくすんでよれた白のカラーシャツ一枚、下は擦れた黒のスラックス。

 防寒具としては一応、灰色のロングコートを身に着けているが、各所の解れ具合や、彼の動きに合わせて軽やかにはためく様を見れば、生地が薄手の安物であることは一目瞭然であった。しかもボタンがほぼ全て取れてしまっているために、男は袖を通してコートを羽織っているだけという状態であり、寒さを凌げているかは実に怪しいところだった。

 そして彼の足下、カジュアルな茶色の革靴に至っては徹底的に履き潰されていて、彼が石畳の地面を踏みつける度に、実にやる気のない音を周囲に吐き出していた。


(……さーて、どうすっかな……)


 白くなる息を周囲に躍らせて走りながら、男――ノインは後の行動を検討した。

 今姿は見えないが、先の生物は確実にこちらを追ってきているだろう。自分の目的はあの生物を殺すことなので、それ自体に問題はないが……戦いにくい場所で追いつかれても面倒だ。おまけに、あれの感覚器官の鋭さや身体能力は人間のそれをはるかに凌駕するので、こちらに許された猶予は、たぶん短い。


「どっかいい場所ねぇかな……」


 有利を取れる場所がないかと、ノインは周囲に視線を巡らせる。

 だがここは、木や石材で作られた家が並ぶ一般的な住宅街だ。道幅は五メートルほどで、無駄な遮蔽物がないため射線は通るが、三番街であるため、霧の隙間から見える石畳はところどころガタついている。


(こんなとこじゃ有利も糞もねーか……)


 上手く隠れられる場所――たとえば空き家でもあれば不意打ちに使えるかもしれないが、そんなものは都合よく見つからない。

 とはいえ、まさか人のいる家を使うわけにもいかないので、ノインはその戦略を即却下した。というかそもそも、今宵は人のいる家など、容易には侵入できないだろう。

 現に、今左右を見ても、各戸の窓は木製の雨戸で強固に閉ざされており、玄関の扉もぴったりと締められていた。たぶん裏には二重三重に鋼鉄製の鍵がついているのだろう。その在り様は断固としていて、来訪者を完全に拒絶する意思が見て取れた。

 加えて、家々からは物音すらも聞こえないため、街は異様に静かだ。

 外を出歩く住民の姿も、全く見当たらなかった。


(ま、流れ弾気にしなくていーのは助かるよな)


 数ある都市街シティの中でも、ことさらこのヴェストシティの夜は、静かだ。

 そうでない日もあるのだが、この街の住民は基本的に夜間に外を出歩かず、断固として家に引きこもる。山間にあり、地理的には孤立気味なシティだが、鉄道も通っている中規模のシティであることを考慮すると少し異常だろう。

 別に、住民に夜間外出の習慣がないとか、特別治安が悪いというわけではない。

 この街は二十五年ほど前から、夜を――それも霧の夜を恐れるようになってしまったのだ。


「…………」


 その時、ノインは背後の気配に気づいた。

 ――いる。

 微かだが、背後に気配がある。どうやら追いつかれたらしい。

 これ以上は体力を無駄に消耗するだけだ。ここで迎え撃つしかないだろう。

 ノインはその場で翻身すると、『仕事』を始めるべく、腰に着けた革製のホルスターから黒い自動式拳銃オートマチックを取り出し、遊底スライドを引いて薬室チャンバーに弾を送った。安全装置セイフティも当然解除する。

 するとその直後、先の路地からノインを追跡してきていた『追手』が姿を現した。

 ノインから十メートルほど離れた位置にある家屋の屋根の上、僅かに届いている街灯の光でその生物の姿が浮かび上がる。

 それの見た目を端的に表わすならば、人影である。

 体格は人間より二回り以上大きいが、形そのものは人間に酷似している。丸い頭部が首を介して細身の胴体と繋がり、胴体から生えるのは人と同じような手足。各所に毛髪や性別を分けるような凹凸はなく、少々頭でっかちでのっぺりとしているが、そのシルエットはやはり人だ。

 しかし闇より暗い漆黒の表皮と、顔の半分を占める、人間のものと似た『口』が、この生命体が人ならざる化け物であることを如実に示していた。目や耳といった感覚器官は外見的に見て取れないが、彼らの場合、頭部内に埋まるような形でそれらは存在している。

 そして黒い化け物は屋根から身一つで飛び降りると、四つん這いの姿勢で平然と着地を決めた。霧のたちこめる街路で低く喉を唸らせ、首の動きだけで頭をもたげる。

 この化け物こそ、この街の人々が夜を恐れる原因である。

 今から二十五年前、ヴェストシティには突如としてこの化け物が出現した。

 彼らは地を這うような霧の出る夜に街の外縁より出現し、人を探し、人を食らう。

 朝になるとどこかへ帰っていくが、霧の夜が来れば再び出現する。

 最近はほぼ毎日だが、今日がその霧の夜だ。

 街の多くの人間は、この人食いの化け物から逃れるため、ひたすら家に閉じこもり、可能な限り気配を殺して、夜明けを待っているのだった。

 そしてノインの生業は、この街で化け物を狩る『討伐屋とうばつや』と呼ばれるものである。


「当たってくれよ……」


 相手の着地した隙を狙うべく、ノインはすでに照準を合わせていた。

 この化け物との戦闘における基本は不意打ちだ。彼らは感覚器官と合わせて身体能力も高いので、真っ向から素直に攻撃するだけでは、たとえ銃弾でも回避される可能性が高い。

 ノインは風向きを考慮して照準を微調整しつつ、愛用のオートマチック、〈ギムレット〉の引き金トリガーを引く。

 直後、九ミリのホローポイント弾が乾いた発射音を引き連れて弾き出された。弾丸が向かう先は、化け物の急所。頭部内にある脳だ。

 一応、胸部にある心臓も弱点ではあるのだが、驚異的な自己再生能力を持つこの化け物に対して、心臓は有効打になりにくい。そのため、生命活動を司る脳を潰すのが一番確実な攻略法となる。しかも、体の司令塔である脳が損傷すれば、たとえ一度のチャンスで殺しきれなくとも、再生含めた後の行動は必ず鈍ってくる。

 ノインの撃った弾は、的確に化け物の弱点を撃ち抜いた。

 着地の姿勢から二足歩行の姿勢に移行しようとしていた化け物の頭部が、弾頭の直径より大きく弾け、黒い血が噴き出す。

 だが急所とはいえ、たった一発の通常弾で倒れてくれるほどこの化け物は脆くない。再生能力も考慮すると、この化け物を殺すには、脳を一気に半分以上破壊しなければならないのだ。

 ノインは確実に化け物の息の根を止めるために、間髪入れず銃を連射する。

 二発、三発、四発。

 着弾の度に黒い血と黒い脳液と黒い脳髄をぶちまけ、化け物は呻く。

 そして最終的には立っていることもできなくなり、自身の血だまりの中にくずおれた。

 ノインはとどめを刺すべく、弾倉に残った最後の一発を化け物の頭部に向かって撃ち出す。

 しかしその時、化け物の周囲に黒い電流のようなものが走った。そして次の瞬間には、化け物の前に黒い『壁』が生まれ、ノインの撃った弾丸は、容易くその『壁』に弾かれてしまう。


(……ち)


 ノインはコートのポケットから素早く予備の弾倉を取り出し、換装すると、壁の裏へ回り込むように動く。だがその壁は有機的に流動し、化け物を中心にして、まるで繭のようにその周囲をすっぽりと囲ってしまった。


「クソッタレ……」


 繭に守られた化け物を見て立ち止まり、ノインは悪態をつく。

 繭は、化け物の足元にあった血溜まりから生えるように発生している。形はごつごつと歪で不格好なものだったが、それが化け物の『能力』で作り出されたものならば、その強度は砲弾でも破壊できないほどに高い。


 ――魔法。


 それは黒い化け物、『魔法使い』らがもつ力。彼らが自らの血を使って起こす奇跡である。

 この魔法使いと名付けられた化け物どもは、周囲にある自分の血液を自在に増幅、凝固、流動させることができる。効果範囲や持続時間には制限があるようだが、原理などの詳細はほぼ不明な謎の力だ。


「……めんどくせぇな」


 先ほどノインが攻撃を畳み掛けたのには、自己再生の阻止という目的の他に、この『魔法』を使う隙を与えないためという理由もあった。

 魔法使いには自傷して魔法を発動させる個体もいるが、どちらかといえば傷を受けてから魔法を発動させる個体の方が多い。故に、中途半端な攻撃は相手の攻撃の手を増やしてしまうことになってしまうのである。今回はあと一歩、間に合わなかった。

 それにしても、防御の態勢を取る魔法使いというのは何とも珍しいものだった。

 魔法使いというのは大抵やたらと攻撃的であり、闘争本能が強いのだ。そのため、再生能力を頼みに捨て身で攻撃してくるような個体が多い。

 よって、魔法使いとの戦闘においては不意打ちとともに、その薄い防御を突いて立ち回るのがセオリーとなるわけであるが、逆に言えばこうして防御に重点を置かれると、切れるカードが極端に減るということにもなってしまう。現にノインは全く手出しができないでいた。

 一応、この化け物に特効となる切り札も持ってはいるのだが、あの特殊弾丸はあくまで本体に有用なもので、この状態の魔法使いに使っても効果は薄い。それにあれは貴重品で残弾が心もとなく、できればあまり消費したくはないものだった。


(どーしたもんか……)


 ノインは胸中で独りごちる。

 追加の武器など持ち合わせていないし、予備弾倉もその特殊弾のものを除けば今装填しているものが最後だ。あとポケットに入っているものといえば自宅の鍵と、大して使うこともない身分証。探せば空薬莢ぐらいは出てくるだろうが、そのくらいだ。閃光発音筒フラッシュバンのような高級品も、当然持ち合わせてはいない。

 この状況ではいっそ逃げてしまうのも手だが……せっかく見つけた獲物であるし、少々もったいなくも思う。


(……にしても最近しぶといの多いよなぁ……)


 近頃ノインは、やたらと生命力の強い個体とばかり出くわしていた。

 繭の中にいる魔法使いの様子はわからないが、魔法を使い、また維持できるところを見ると、少なくとも生きてはいるのだろう。頭部を狙って攻撃はしたものの、再生能力も残っているのかもしれない。この繭も、再生の時間稼ぎといったところか。


(もうちょい脆いやつなら楽に狩れるってのに……)


 魔法使いは基本的にはどれも同じ見た目をしているが、生命力に関しては個体によって明らかな違いがある。一口に生命力といっても単純なタフさであったり、再生の早さであったりといろいろなのだが、当然、それらが強力な個体の討伐は困難だ。そしてそうした個体に対しては必然、特殊弾を使わなければならなくなることが多いので、生命力が強い個体との戦闘が多いと、特殊弾の残弾は一気に減っていくことになる。

 ――と、その時、眼前の魔法使いの姿に変化があった。


「お?」


 血の繭が黒い電流を伴って上部から液状化し始め、魔法の発動段階で一部増幅された大量の黒い血が、石畳を濡らしてゆく。

 だがノインは中から現れた魔法使いを見て、これでもかと苦い顔をした。


「また御大層な……」


 ノインの言葉は、予想通り傷を回復していた魔法使いに対してではなく、その右手に握られたあるものに向けられたものだった。

 そこにあったのは、黒い血の塊。それが二メートルほどの長さに凝固し、まるで長剣のようになっている。

 通常、魔法使いは氷柱のような血の杭を得物とするが、しばしばこうして人間の使うような武器を魔法で模倣することがある。複雑な機構のあるものは作れず、形も単純なものに限るが、剣や槌、槍など、その種類は多岐にわたる。

 そして今回それは剣――それも大剣であるようだった。

 ただ剣といっても、それはもはや黒い十字架だ。柄や鍔に凝った意匠なども見受けられないし、歪に凝り固まった刀身に刃など存在していなかった。


(……けど、まともに食らったら終わりだな)


 たとえ刃のない剣であろうが、あの化け物の身体能力で振るわれれば、それは強力な武器になる。直撃をもらえばそのダメージは計り知れないだろう。


「……使うか」


 言ってノインは、〈ギムレット〉のマガジンリリースを押し、特殊弾の弾倉と入れ替えた。

 相手はそこそこタフな個体のようだし、さっさとこっちで殺しきってしまうべきである。

 ノインはすでにチャンバーに入っている通常弾一発はそのままにして、二発目からは特殊弾が撃てるように準備する。特殊弾の残弾は、三発。

 するとその時、魔法使いが動いた。


「ヴヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲ!」


 魔法使いの口から、人と獣の声帯が幾重にも重なったような不気味な咆哮が上がる。

 そして次の瞬間には、魔法使いは剣で頭部を守るようにしつつ、こちらに突っ込んできた。


「ちっ……」


 ノインはすかさず迎撃したが、銃弾は構えられた剣に弾かれ、相手の肩口に浅く刺さっただけだった。次弾は特殊弾だが、残弾を考慮すると不用意には撃てない。もっと決定的な隙を狙う必要がある。しかし魔法使いは間合いに入ったと見るや、ノインに攻撃の隙を与えることなく、右手の大剣を下段から切り上げた。


「っ……!」


 ノインは大きくバックステップを踏み、ギリギリで剣閃を避けた。数秒前までノインがいた位置に、下から上への剣撃が走る。

 だがノインに一息つく暇はなかった。魔法使いは先の切り上げの姿勢からそのまま大きく一歩踏み込み、攻撃を回避したノインに追い打ちをかけるように今度は両手で大剣を振り下ろす。

 大上段からの一刀。

 剣の重量を利用した渾身の一撃は、重力の助けを得、神速ともいえる速さでノインに迫った。

 轟音。

 振り下ろされた黒の大剣は地面の霧を払い、そのまま石畳を大きく穿つ。

 抉られた石畳は粉塵を吐き出し、中心では、黒の大剣が折れることなく切っ先を沈めていた。

 しかし、剣が傷つけたのはあくまで地面だけだった。


(もらった……!)


 その時ノインがいたのは魔法使いの背後だった。

 ノインは剣が振り下ろされる瞬間にその間合いの内に飛び込み、その一撃を魔法使いの側面から背後へ抜けるように回避していた。

 切り上げからの振り下ろし――単純な攻撃パターンだ。

 この程度の剣戟なら、十分見切ることはできる。回避した方向は少々危険であったものの、ノインの目には、地面にめり込むほど力強く剣を振り下ろした魔法使いの無防備な後ろ姿が写っていた。

 いくら身体能力が高いといっても、基本的にこの化け物の体の可動域は人間のそれとほとんど同じである。あの巨大な剣を扱う筋力があっても関節可動の限界は存在するし、受ける物理法則なども人間と変わらない。それに背後というのは魔法使いにとっても死角なのだ。見えないというのはどんな形であれ隙を生む。魔法を使うにしても、ある程度の時間はかかるだろう。


(獲った……!)


 ノインが狙うのは当然、魔法使いの頭部。

 しかしノインは、彼らの首の上部にある『脳幹』――化け物の急所中の急所からだけは、あえて狙いを外していた。そこに攻撃を受ければ通常弾でも彼らは即死するのだが、特殊弾でそこを破壊してしまうと、ノインにとっては少々不都合なのだ。これは特殊弾の欠点とも言える。

 ノインは状況を見極めて冷静に照準を定め、トリガーにかかった指に力を込める。

 だが、次の瞬間。

 眼前の魔法使いは『後頭部に』巨大な一つ目を覗かせた。


「な……!」


 それは俗に『注目』と呼ばれる彼らの行動パターン。

 人と同じく、彼らにとっても眼球は脆く、かつ重要な感覚器官だ。そして彼らの場合、その特徴的な一つ目を頭部内から露出させることで、まるで写真機のレンズのようにその感度を上げることができる。これは素早い状況把握を可能にするもので、空間認識能力も高まると言われている。ただ、後頭部に目があるというのは、明らかに常軌を逸したパターンだった。


(っ……!)


 予想外の行動に驚き、ノインの照準は一瞬ぶれる。だが、いまさら撃発は止められなかった。

 中途半端な状態で発射された銃弾は、空しく魔法使いの側面を抜け、遠方の夜闇に呑まれる。そして攻撃が外れたとみた魔法使いは、剣を手にしたまま素早く翻身すると、その勢いを利用して剣を構え直し、ノインに向かって飛びかかるように剣先を突き出した。


「おわぁっ!」


 ノインは右半身を引いたスウェーバックで、その攻撃をなんとか回避する。

 通常、魔法使いは口と体の骨格から予想して顔の前後を見分けるが、どうもこの個体は瞳が後頭部についているらしかった。それを鑑みると、今までの攻撃は聴覚、嗅覚といった視覚以外の情報で相手の位置を探って繰り出していたと考えるのが妥当だろうか。

 特殊個体――と言うほどのものかはわからないが、つくづく奇怪な生き物である。

 ノインは体勢を立て直し、距離を取ろうとその場から飛び退く。

 だがその時、ノインは出っ張っていた石畳に足を取られてしまった。思いもよらぬ二度目のアクシデントで、ノインの姿勢は完全に崩れる。


 ――ヤバい。


 そう思った時には、目の前の魔法使いはすでに攻撃体勢に入っていた。よろめくノインの前で、魔法使いは弧を描くように漆黒の大剣を薙ぎ払う。


「がはっ……!」


 その一撃は的確にノインの腹部を打ち据えた。

 たった一振りの攻撃で、ノインは数メートルの距離を吹っ飛び、道路脇の街灯の支柱に背中からぶつかって地に落ちる。刃のない剣であったおかげでノインの体が斬断されることはなかったが、正面からの鋭い打撃の攻撃力は計り知れない。その一撃の苛烈さを証明するように、ノインはその場で動かなくなっていた。

 そしてそれは、隙などというレベルを超えた絶対的な間だった。魔法使いは容赦なく追撃を選択し、剣を捨ててノインに向かって疾駆する。さらにその顔には人のものと似た形の――しかし黒い色の歯が並んだ口が開かれており、それは彼らの貪欲な食欲を強烈に主張していた。

 二者の距離は一気に縮む。

 あと数秒で、ノインの体は化け物に食い裂かれる。

 はずだった。


 ――ちぃん。

 

 その清涼たる音が響いたのは突然のことだった。

 金属と、硬質な何かがぶつかったような音。実に小さな音だったが、人間よりも優れた感覚――この場合は聴覚だ――を持つ魔法使いはその音に反応せざるを得なかった。

 しかもこの個体は、視覚よりも聴覚を重視している可能性が高い。そしてそれを証明するように、魔法使いの動きには一瞬迷いが生じ、明らかに集中力が分散した。


 だんっ!


 直後轟いたのは火薬の炸裂音。音と共に、魔法使いの頭部前面が弾ける。

 魔法使いは突進の勢いを削がれ、無様に地面に倒れ込んだ。


「残念だったな」


 いつの間にか身を起こしていたノインは、立ち上がりながら特殊弾の弾倉を抜くと、チャンバーの一発もきっちり抜き取ってから通常弾の弾倉と交換する。

 そして倒れている魔法使いに照準し、無造作に数度トリガーを引いた。

 重なるような銃声の後、魔法使いは完全に動かなくなった。


 ○ ○ ○


「……うまくいったか」


 ノインは攻撃を受けた腹部をさすりながら、目の前で伏す魔法使いを見て呟いた。

 こちらのダメージは、そう大きなものではなかった。

 攻撃の勢いを完全に殺すのは無理だったものの、剣が当たる直前、最低限のダメージで済むように体を捌けたので大事には至っていない。危険な仕事の割にノインが軽装であるのには、こうした身のこなしを優先する理由があったりもする。

 そして、今しがたノインが取った戦術は、魔法使いの感覚器官の鋭敏さを逆手に取ったごく単純な騙し討ちだった。ポケットにあった空薬莢をさりげなく上空に弾き飛ばして地面に落とし、敵の注意がそちらに向いたところで仕留める。聴覚で動くような魔法使いであれば、薬莢を飛ばすところは見られないので、悟られにくい。音で判断する魔法使いだと確信があったわけではないが、そこは結果オーライだ。

 しかし今回、最終的に化け物を仕留め切れたのには、その戦術よりも、例の特殊弾の力によるところが大きかった。

 倒れている魔法使いの頭部は異様な状態であった。

 通常弾でとどめの銃撃を行ったため既に半分以上破壊されてしまっているが、残った頭部の表面には、まるで植物の根のような組織の隆起が確認できる。また、特殊弾が着弾した周辺には通常弾の傷も含めて、全く出血が見られなかった。


「改めて考えると謎なもんだな……」


 ノインは残り一発となってしまった弾丸を思いながら、独りごちる。


 ――夜襲弾ナハトレイド


 六年ほど前に、街の統治機構である市政府が製造に成功した、魔法使いを効果的に撃退できる特殊弾丸である。大きさは一般的な拳銃弾と同じ九ミリ。ただ色は普通の弾丸と違い、弾頭も薬莢も特殊な白い塗料で塗装されている。

 ナハトレイドの効果として挙げられるのは二つ。着弾点付近の魔法使い体組織の完全破壊と魔法発動阻止だ。前者は再生を阻止するという意味も含めた破壊であり、ナハトレイドは撃ち込まれた部分周辺の魔法使いの体組織を再生不能にしたうえで破壊する。おまけに銃創として残る根のような部分は、時間と共に壊死していくのである。そして後者に関してはそのまま、ナハトレイドによってできた傷からの魔法発動を阻害するというものだ。

 どういう仕組みなのか知らないが、ナハトレイドは魔法使いを出血させない。

 しかも傷口付近の血液は、魔法の材料マテリアルとして使えなくなってしまうのである。すでに発動している魔法などに撃ち込んでもこの通りの効果は出ないが、人間にとってはまさに切り札――化け物殺しのための魔弾だ。使用感も通常の銃弾と変わらないので誰でも扱える。

 ただナハトレイドには製造段階で希少な素材を使用し、また特殊な加工を要するため、生産数が極端に少ないという問題もあった。しかも製造はヴェストシティ市政府のみが行っているため、徹底管理された支給という形でしか入手することができない。


(もうちょい数がありゃ、便利なんだがな)


 ノインは銃をしまい、心中で呟きながら魔法使いの前に屈みこむ。

 するとその時、魔法使いの体が、まるで砂で形作られていたかのように崩壊しだした。

 脳の統制を失った彼らの体組織は、形状を維持できなくなるようで、こうして砂塵と化して消えてゆく。この粉末に有害性はなく、カルシウムやリン、タンパク質といった物質が検出されるだけだ。当然、骨や内臓も残らない。

 そしてこの特徴は、魔法使いの生態研究を遅らせている元凶でもあるのだった。狂暴であるため生け捕りも難しいうえに、死体解剖すらもまともにさせてくれない。

 出現から二十五年が経つが、この化け物の生態は、ほとんど不明のままなのだ。一年ほど前に、縄張り意識のある個体がいるというような情報はあったが、それきり新しい情報はない。『魔法使い』という名前も、あくまで便宜上のものでしかなく、彼らの血の技についても、『魔法』としか呼称できない程度には、メカニズムの解明は進んでいない。

 ヴェストシティ市政府は、この街の近郊に生息する何らかの未確認生物が人間のように変質、あるいは細胞レベルで集合したものであると発表しているが、魔法使いがこのヴェストシティでしか確認されていない理由にはならないし、その仮説も怪しいものである。


「……まぁ、とんでもねーモンスターなのは確かだな」


 ノインは完全に砂塵となった魔法使いを見て呟く。もはやそこに、生き物としての姿はない。

 だが、その砂塵には妙なもの――五センチほどの黒い結晶体が混じっていた。ノインはそれをひょいとつまんで拾い上げる。

 実は崩壊した体以外にも、魔法使いが残すものは三つほど存在する。

 一つは魔法の残骸だ。今も、生成された血の剣はそのままの形で残っている。しかしこれはそもそも魔法使いの手から離れると時間経過で脆くなり、ただの黒い血に戻るものなので、残るものといえるかは怪しいところでもある。ちなみに血そのものに、害は確認されていない。

 二つ目は、彼らの食事の残り滓。

 これは、直近に食われた人間が身につけていたアクセサリーや衣服だ。今も、この魔法使いの死骸には小さな衣服の切れ端が混じっていた。

 おそらくこの個体は先の裏路地で食事中だったのだろう。ノインがこの魔法使いを見つけた時に被害者の姿は確認できなかったので、たぶんこの被害者は既に全身を食われきった後だ。魔法使いは、基本的に人間の姿を視覚で認識しなければ積極的な捕食行動には出ないが、気まぐれに家屋に侵入し、人を襲うことはやはりある。

 しかしこの現実は、こんな仕事に就いていても、あまり慣れられるものでもなかった。

 ちなみに、魔法使いの死骸に人体が混じっていないのは彼らの消化、エネルギー変換のプロセスが異常に早いためだ。故に、出てくるものは消化されずに溶け残った無機物ばかりとなるわけである。ただそれは身元が特定できるようなものでもないことも多く、あまり意味はないものだ。しかも今回は通報を受けた公安が探し回っているような様子もないので、万が一何か遺品を見つけたところで、ノインにできることは特になかった。

 そして魔法使いが残すもの、その三つ目。

 それが今しがた、ノインが拾った結晶体――『血晶板ペレット』と呼ばれる魔法使いの血の塊だ。これは魔法使い討伐の証でもあり、魔法と違って自然劣化することもないし、必ず死骸の中に残ってくるものである。

 唯一これが残らない例外は、ナハトレイドを脳幹に直撃させたときだ。

 そう。ノインが魔法使いの背後を取ったとき、脳幹への射撃を躊躇したのも、これを入手したい思惑があったからなのだ。

 魔法使いの狩人、討伐屋は、基本的にこのペレットを市政府に提出することで金銭を得て、生活している。そして市政府直属の魔法使い研究機関はこれを研究材料としてかき集めているのである。

 ペレットの換金額は一つにつき三十ゴルト。一斤のブラウンブレッドが四ゴルトであることを考えると、命がけで化け物を狩った報酬としてはかなり少ない。狩る数に制限はないものの、ヴェストシティ全体でも一晩に現れる魔法使いはせいぜい三十ほどと言われているので、ひと月分で計算しても討伐屋一人の給料はたかが知れている。

 まったく狩れない日もあるので、月に七百ゴルト程度稼げれば上々であるのだった。


「もうちょいはずんでくれてもいいよなぁ……」


 ノインはペレットをコートのポケットにしまいながらぼやく。

 ヴェストシティ外縁部出身という経歴の持ち主であるノインとしては、この街で仕事があるだけマシなのであるが、命を懸けた仕事に対する対価としては今の給料はやはり少ないと思えた。買い取り額をあと五ゴルトでも上乗せしてくれれば、今の生活でも安定するのだが。

 しかし討伐屋という職業の立ち位置を考えると、待遇改善というのは全く期待できないものなのだった。


 討伐屋というのは、劣化公安官だ。

 ヴェストシティの治安維持機関であり軍組織である公安は、一般的な治安維持の部署に加えて、魔法使いの討伐を任とする部署、『特殊生物対策課』を設置している。そして討伐屋は、その公安の業務の一部を委託されているという形になっているのである。『劣化』というのはそういう意味だ。また、討伐屋に必要な資格はなく、誰でも簡単になることができるのも特徴である。

 しかしそのシステムと仕事柄の弊害として、討伐屋にはこの仕事以外の選択肢がないという者が多く、委託契約は足元を見た非常に一方的な内容になっている。しかも仕事の危険さから人員そのものは少なく、組織規模も異常に小さいため、発言力なども皆無だ。

 加えて最近では、制度導入を決めた市政府や公安ですら討伐屋の存在を軽視する傾向が顕著で、本来仲間であるはずの公安官からも見下されることも多いという状態である。そのため、討伐屋業務の待遇改善を望むぐらいなら公安官を目指した方が現実的とすら言われるほどだ。

 とはいえ、公安官試験など簡単に突破できるものでもないので、読み書きと簡単な計算ができる程度の人間であるノインにはどうしようもない話であるのだが。


「……店帰ろ」


 ノインは気持ちを切り替えるように夜空に向かって息を吐くと、踵を返した。

 一応残弾はあるので仕事を続けられなくもないのだが、いささか疲れを感じたノインは、早めに仕事を上がることに決めた。今日の成果は数時間外を歩き回って、この一体だけである。


「冷えるな……」


 ノインはコートの襟を引き寄せて身を縮める。

 街に、空に無限に広がる夜は、道行くノインの姿を静かに受け入れていた。

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