六、

 由宇奇は、やはりじっとして居られず、ベッドを抜け出して、院内の廊下を歩いていた。看護士に何か嫌味を言われるたびに、「リハビリっす」と誤魔化した。傷は大分癒えていた。あとは脇腹がもう一本くらい繋がれば、完治、と言っていいだろう。自分の身体の事は自分が一番わかっている。由宇奇は院内を、パジャマのポケットに手を突っ込みながら歩いていた。

 油断はできない。いつ、拾がこの病院にやってくるかわからない。奴が来たら、自分が真っ先に、まなみを守らなければならない。例えそれで自分の命が脅かされようとも、人間世界と妖怪世界を守るためには、そうする他無い。

 廊下の窓から見える景色は、ありきたりなものだった。ただの、いつもの街並みである。山があって、家々があって、電車が偶に通って、川があって……。今まで気づかなかったが、“普通”というのが最も美しいことなのかもしれない。由宇奇は窓の外に目をやりながら、ふと思った。気付いていなかった、この街の尊さに。そう思った途端、由宇奇の目には今まで見えていた景色が違って見えていた。愛おしい、愛おしい街である。空があって、街があって、密集した住宅街やいつもは通らないような汚らしい路地裏さえも、遠くから眺めると儚ささえ感じる。自分は、こんな町に住んでいたのだ、こんな、素晴らしい町に住んでいたのだ。

 歩いている内に、まなみの病室の前まで来た。笑い声が聞こえる。旦那と娘が来ているのだろう。楽しそうだ。この家族を、壊してはいけない。いつまでも、こうあるべきである。新しく産まれる命と共に、喜びを分かち合い、永久に続かない幸せを全うすべきである。決して、途中でもぎ取ってはいけない。

 子供の拾と最後に会った時が、拾が初めて包帯を巻いた日だった。拾の家族は、幸せでなかった。拾の母親がしたことは、決して許されるべきことではない。だからと言って、他の家族の幸せを奪う事は、間違っている。

 拾に、そう伝えなければならない。かすれた声で、つたない言葉で良い。自分の口から伝えなくてはいけない。

 彼は、罰されなければいけない。

「おい、病人」

 後ろから声がした。振り向くと、綺堂だ。

「動くなって言ったじゃないですか!さっきですよさっき」

「いや、ほら、リハビリだ」

 由宇奇は頭を掻きながら、言い訳をした。

「歩いたほうが、体力もつくし、体調もいい。横になっていると、気分までふさがってきてよくねえ」

「そうはいっても、まだ怪我治ってないんですから」

「ああ、さっき糞馬鹿力の女にふっとばされてからあばらが二、三本いっちまったからな」

「そ、そんな簡単に由宇奇さんのあばらは折れません!」

 夏芽は顔を真っ赤にして言った。

「それより由宇奇、まなみさんの様子は」

「見りゃわかるだろ。楽しそうに談笑中さ」

 由宇奇は気怠そうに答えた。

「俺の親父は凄く厳格な奴だったから、こんな談笑はなかったな。羨ましい限りだぜ」

「この人たちの幸せまで、奪いたくないな」

 綺堂は言った。

「そうだ、今、“向こう”へ行ってきた。恐ろしいことになっていたよ。妖怪たちが、まるで“ゾンビ”だ。そして、拾のやりたいことが、やっとわかった」

「拾のやりたいこと?」

「八千代トンネルが、閉ざされかけていた。夏芽さんの力のお蔭で、何とかこちらに戻って来れたが」

「力って、私はただ、念じただけですよ」

「それこそ力だ。妖怪たちの持たない、力。念。夏芽さんはそれを使って、死層と化した八千代トンネルを通過したんだ」

「八千代トンネルが、死層だって?」

 由宇奇は驚いて、それがあばらに響いたらしく、「あ痛たたた」と腹を押さえた。

「大丈夫ですか、由宇奇さん」

「それより、八千代トンネルが死層って、どういうことだよ、聞いたことないぜ」

 綺堂は咳込んだ

「“向こう”の世界が“喪”に服す間、たまに時空が乱れて、八千代トンネルが通れなくなる日があるだろう。あれは、妖怪世界の妖力が弱まって、八千代トンネルが死層に飲み込まれそうになっているのを、人間世界と境界を引くことで止めているんだ。しかし、今回は、それを利用しようとしている奴がいる。拾だ。奴は、死層と化した八千代トンネルを無理やり人間世界にくっつけて、二つの世界を無理やりにつなごうとしている」

「でも綺堂さん。それだったら、死層だったら、妖怪たちがこっちに出てくることはないですよね?だって、死層は、入ると死んじゃうんでしょう?」

「それが、勘違いだったようだ」

「え」

「死層は、“死をも覆す層”。この世界と、この世界から不要とされたものたちの世界をつなぐ、闇だったんだよ。だから、人間の中には、窓から落ちて、死層に入り、向こうの世界に出たのち、八千代トンネルの様な”通路”を通って人間世界に帰るなんて話もあったようだ。皆が死層を“死の道”と勘違いするようになったのは、“死”が連想させるものの恐怖と、これはあくまで僕の勘だが、死層を安全に通ることが出来る可能性が低かったからだ。しかし、拾は今、その“常識”を、ある“迷信”で覆そうとしている」

「ある迷信?」

 由宇奇は眉を顰めた。

「まさか」

「妖怪世界に住むものならだれでも聞かされる昔話さ。―――フタツノ クニヲ ワカツ ミチ イツツカラナル イキナガラニシテ シンダ タマシイガ アツマルトキ ヒラカン―――つまり、二つの国を分かつ、八千代トンネルを、五つの水子の魂で繋ごうとしているんだ」

「そんな馬鹿な話があるか。迷信だぞ。天照の話と同じくらい信憑性に欠ける」

「ところが、僕と夏芽さんは、現に死層を通ってきた」

 由宇奇は黙った。

「そして、死層ができているということは」

「拾は、そろそろここに来る」




「ご名答」




 三人は、はっとして振り返る。そこには、派手な着物姿に長髪、右半顔に包帯を巻いた男、夜崎拾が居た。

「久しぶりぃ、由宇奇。思ったようで元気そうで残念だよ」

「てめえ」

 由宇奇の額に汗が流れた。あれだけ親友を救うと誓ったのに、自分の身体をボロボロにした張本人を目の前にすると、思っていた言葉も出てこない。

「残りの二人は初めましてだねえ、可愛い女の子は、一度すれ違ったことがあったか」

「まなみさんには、指一本触れさせない」

 綺堂は一歩前へ出た。いつもと変わらない気迫である。しかし、由宇奇をあそこまでにした相手に、この、どう見ても普通の人間にしか見えない綺堂が、勝てるというのだろうか。

 綺堂は右掌からふわっと青の炎を出して、それをボールのようにポンポン目の前で投げてみせた。

「僕はね、君の様なできそこないのクオーターとは違うんだ。有名な妖怪のハーフでね。君みたいなのにやられる雑魚の気がしれないよ。顔から溢れるほどの妖力、それがなんだい。腕に蟲を持つ男、それがなんだい。所詮君たちは、クオーターだ。クオーターという奴はいけない、変な思想を持ったり、変な格好をしたりする。偏見だがね。今まで出会ったクオーターで、マトモなのがひとりも居ないよ」

「俺がそのマトモなクオーターの一人目になってあげるよ」

 拾は笑った。

「お兄さん、面白いね、名前は?」

 綺堂は掌の炎をすっと隠した。

「綺堂壱紀。妖怪ぬらりひょんの息子だ」







「やっぱり秋人くんが居ないと、つまらないわぁ」

 春代はため息を吐いた。ワイドショーはヒマつぶしにはちょうどいい。しかし、秋人が出始めてから、午後のサスペンス劇場を卒業してワイドショーを見るようになったのだ。そう考えると、今こうやって、ワイドショーを見ている意味などないのではないだろうか。

 春代はせんべいを口に運び、ばくり、とかみついた。食べかすがこぼれる。どうせ自分で掃除するのだから、気にする必要もないだろう。

 コマーシャルに入った。巻くだけで痩せる、ワンダーなんたら、という奴の宣伝をしている。巻くだけで痩せるなんて、有り得ない。人間は、食べて、運動して、何ぼの生き物だ。

 不意に腹をつまんでみる。あっ、と思わず声を漏らした。

―――どうしよう、ちょっとお肉が付いてきちゃっているじゃない。

 そう言えば先日、夏芽に言われたような気がする。

『そんなに食べてばっかりいると、太っちゃうよ』

 その通りだった。確かに、毎朝ウォーキングをしているが、歳が歳だ、若いころとは違うのだ。

―――昔はスリムだったのになあ。

 春代は鏡の前に立ってみた。いつの間にか、一回り大きくなっているような気がする。いい意味では無い。

―――冬吉さんに嫌われちゃうわ。

 春代は一人、自己嫌悪に陥った。それから、思いつく。そうだ、これから歩いて、まなみの見舞いに行こう。由宇奇も入院しているというから、二人分の、お見舞いの品を買いながら。何が良いだろうか。やはり、花だろうか。最近のフラワーアレンジメントは、洒落たものが多い。しかも、安く手に入る。

―――突然行ったら、びっくりするだろうなあ。

 春代は誰も居ない部屋で、にっこり笑った。さて、そう決まったら、支度だ、支度。







 心配性の鷲島は、まなみの病室を訪れていた。

「先生にまで来てもらっちゃって、ほんとすみません。これでたかねのただの勘違いだったら、もう、なんてお詫びしたらいいか」

「いいんです」

 鷲島は無表情のまま言った。

「ただ、お母さんと、お腹のお子さんが無事で、たかねさんが笑っていてくれれば、私はそれでいいんです」

「先生って、意外といい奴だよね!」

両親の前で安心してなのか、たかねは余りに失礼なことを言った。

「最初は、竹刀持って、生徒をビビらせて、圧力だけで屈服させてる悪い教師だと思ってたけど、夏芽の言うとおり、ちゃんと話してみたらいい人だし、良く考えたら授業も結構面白いし。あとは、もっと笑えばいいんだよ、先生」

「たかね、失礼よ」

 まなみは笑った。

「すみませんね。悪気はないんですよ。こういう子なんです。なんというか、嘘を吐けないというか」

「たかねさんの言うとおりです」

 鷲島は言った。

「元々笑うのが苦手でね。前、お前たちの担任をしていた、平沢先生みたいに、人に好かれることが、どうしてもできなかった。先生も人間だからね、得意不得意があってね。平沢先生が、優しさで人を笑顔にする先生なら、先生は、生徒たちを命がけで守れるような、強い先生になろうと思ったんだ。竹刀も、剣道をやっていたからその名残っていうのもあるが、それよりは、まずは形から、と思ってな。威厳を持つための。生徒からもおそれられるのは分かっていたが、そういう先生が、学校という大きな組織の中では一人は必要なんだよ。何かあった時の歯止めになる先生。先生はね、それを目指したんだ」

「ご立派ですね」

 たかねの父が言った。

「平沢先生は、あのような過ちを犯されたけれど、鷲島先生でしたら、安心です」

「平沢先生を止めることが出来なかった、というのも、私の後悔の一つでもあります。仲のいい先生の一人でしたから。どうして、あんなことになってしまったのやら。あの事件以来、そして、続いて起こった蟲男事件以来、少しでも嫌な予感があったら、行動に移そうと決めていたんです。たかねさんに、入院を勧めたのも私ですし、やはり今も、嫌な予感は消えません。この街は因縁のある街なんです」

「因縁?」

「昔、ここに女郎屋というものがありましてね、所謂、女性が身体を売る屋台です。ここは、戦後、売春が禁止された後も、容認され続けた“赤線”と呼ばれる地域でした。“赤線”では、米兵による女性の虐待などは常。女の死体が転がっていても、皆平然と、いつもの事だと蹴とばして歩いたと言います。そんな場所なんです、ここは。そして、これは噂話なんですが」

 鷲島は一息置いた。

「女郎屋に、足蹴なく通う男がいましてね。羽振りもいいもんだから、気に入られていたんだが、いつしかその店の最も美しい一人の女に恋をして、駆け落ちをしたんだそうです。怒った店主が、町中探し回って、何せ、看板娘を取られたわけですからね。最悪、殺してもいい、という命令を下したそうです、あの戦後に、そんなことがあったんですね。しかし、二人は消えてしまったように居なくなった。最後に見た者は、八千代トンネルという、通学路に見える古いトンネルがあるだろう?あそこを渡っていくのを見た、という。しかし、渡ったところには何もない。二人も居ない。そこで、街ではこう噂されました、“妖怪にさらわれたのだ”と。昔から、八千代トンネルでは、神隠しが起きたりしており、不気味な場所だとされていました。だから、女は可哀想に、妖怪にさらわれたのだ、という事で、店主も渋々納得したのだそうです」

「妖怪とか、先生も意外とロマンチストなんだね。夏芽みたい」

「夜崎も、この話を知っているのか?」

「いいえ。夏芽は、妖怪を信じてるだけ。でもこの街に、そんなに気味の悪い話があるなんてびっくり。先生物知りだね」

 たかねは笑った。鷲島は頭を掻きながら、

「……そういう、まあ、迷信なんですけど、嫌な噂が多い場所だから、所謂、いわくつきって奴ですか。だから、心配になったんですよ」

「ありがとうございます」

 まなみは笑った。

「楽しいお話まで聞かせて頂けて、退屈な病院生活だと思っていたのに嘘みたいだわ。本当に、感謝しています」

「先生、ありがと」

 たかねは鷲島の腕にしがみついた。鷲島は、老けて見えるが、実際は三十半ばあたりだという。たかねは腕に抱きつきながら、「鷲島もアリだな」などと無粋なことを頭に浮かべていた。

 その時、部屋の外から爆音が聞こえた。皆、思わず身を伏せる。

「何事だ?」

 たかねの父が、廊下に出て行こうとするのを、鷲島が止めた。

「私が行きます。みなさんは、ここで待っててください」







「ぬらり……ひょん?」

 拾は一瞬怯んだように見えた。

「あの、ぬらりひょんが、子を作ったというのか」

「ああ。僕がその証明だ」

「嘘だ。ぬらりひょんは冷徹非道で、人間を決して寄せ付けない」

「ああ。その筈だった。僕の母に出会う前はね」

 綺堂は再び、掌に青い炎を浮かべた。

「ぬらりひょんの子と、火間蟲入道の孫、どちらが強いか、ここで勝負をつけるか」

「綺堂さん、夏に言った、綺堂さんの能力は先詠みだっていうの、嘘だったんですか?」

「嘘じゃあないよ。でも本命はこっち」

「青い炎はオマケだって言ってましたよ!」

「ははは、それじゃあ、嘘を吐いたんだ、すまなかったね」

 くくくく……。

 拾は静かに笑った。

「俺はねえ、ただの火間蟲入道の孫と違うんだよ。霊感の強い家系の子孫との子だ。そんじょそこらのクオーターと一緒にされちゃあ困るねえ」

 拾はさっと顔面の包帯を取った。途端、爛れた半顔から無数の火の弦が飛び出した。夏芽は思わず身をよじる。危うく、当たってしまうところだった。

「夏芽さん、下がって。それに触れると、燃える」

「綺堂、お前、ぬらりひょんの息子だってこと、俺に黙ってたのかよ」

「その話は後だ、由宇奇。お前は邪魔だ、下がってろ」

「言われなくてもだ」

 由宇奇は夏芽の肩を抱くと、十歩後ろに下がった。

「だからあいつ、あんなに飄々としてたのか。自分の霊力が強いことを知っていたから……」

「あの、ぬらりひょんさんって、そんなにすごい妖怪なんですか?」

「馬鹿。妖怪の親玉だよ」

「え!」

「綺堂壱紀、あいつは妖怪の親玉の子だ。妖怪の世界で最も強い奴の、息子なんだよ」

 綺堂は全身に青い炎を纏っていた。恐ろしい“波力”を感じる。窓も開いていないのに、激しく風が吹いている。夏芽は飛ばされないように、必死に由宇奇にしがみついた。

「夜崎拾、貴様、あの“タワゴト”が真実だと惑わされていたようだな」

「タワゴトじゃねえさあ、だって、八千代トンネルは現に、死層になった。あとは、もう一つ命があれば、もう一つ……その奥にあるんだよ」

「拾、貴様の目的はなんだ」

「俺の目的?それはただ一つ」

 拾の半顔から弦が飛び出した。

「人間を滅ぼすことさ!」

 拾から放たれた弦は、綺堂の青い炎によって容易に焼き払われた。

「滅ぼしたところで、多分、お前は何も得られない」

 綺堂は冷たい目をしていた。夏芽はそれを見て、息を呑んだ。恐ろしい目だった。人間の目では無かった。蛇の様な、悪魔のような、




 そうだ、彼は、妖怪なのだ。




 その時、まなみの病室のドアが開いた。出てきたのは、鷲島だった。

「何事か!」

「先生!来ちゃ駄目!」

 鷲島は拾を見て、顔色を変えると、ドン、と後ろ手に、病室のドアを閉めた。

「……唐沢さんには、指一本、触れさせない」

「先生!」

 夏芽は思わず駆け出した。妖怪相手に、人間がかなう筈がない。拾はそれを見て、にやりとした。拾の炎の弦が伸びてくる。鷲島にではない、夏芽にだ。夏芽は唖然として立ち止まった。弦が目の前まで迫ってきているというのに、動くことが出来ない。スローモーションのように、確実に拾の攻撃は夏芽に向かっていた。

「危ない!」

 夏芽は目を閉じた。前方に衝撃を受けて、吹き飛ぶ。然程の痛みは襲ってこない。目を開けると、夏芽の上に覆いかぶさるように、鷲島が倒れ込んでいた。

「先生!」

 鷲島の背中は、肉を焼いた時の様な、じゅう、という音を立てて焼けていた。

「馬鹿者!」

 綺堂は表情をこわばらせた。

「夏芽さん、その人を早く後ろへ!」

「は、はい!」

 夏芽は、傷を負った鷲島を引きずるようにして、由宇奇の元へ戻った。鷲島は、夏芽を庇って傷を負った。しかも、あの恐ろしい妖力による、火傷を。命にもかかわるかもしれない。

「どうしよう……」

 動かない鷲島を見て、夏芽は呆然とした。

「先生……」

「夏芽、このくらいの火傷なら大丈夫だ」

 鷲島の傷を見て、由宇奇が言った。

「気を失っているだけだ。安心しろ」

 夏芽は由宇奇を見上げ、大きく頷いた。

「今はそんなことより、あいつに集中してろ。いつこっちに来るかわからねえ」

 綺堂はまなみの病室の前に立ち、拾の侵入を防ぎながら、由宇奇、夏芽、そして新たに増えた鷲島を守っている。例え妖力が強い半妖半人としても、限界があるだろう。

 拾の火の弦が激しく舞う。その度に綺堂の身体から、青い閃光が放たれ、弦の根を経つ。拾は戦闘を楽しんでいる様だ。対する綺堂は、表情を一つ変えないまま、しかし、重荷が一人増えたのだから、必至であろうことは分かった。

 火の弦が舞う。

 青い炎が弦を防ぐ。

 綺堂は自ら攻撃を仕掛けることはしなかった。ただ、来る攻撃を、受け流すように避けている。

「いいか、夏芽」

 由宇奇が鷲島を抱きながら言った。

「綺堂が、ぬらりひょんの息子だとしたら、奴が持っている能力は余りに強大だ。下手に使えば、この街ひとつ、消してしまいかねない。綺堂が、守りに徹しているのは、綺堂の攻撃の所為で、この病院に被害が及ばないためだ」

「綺堂さんの力って、ぬらりひょんさんの力って、そんなに強いんですか?」

「ぬらりひょんは、こっちで言う、やくざのドンみたいなやつだ。金も、まあ”向こう”に金という概念がないから何とも言えんが、財力もあり、力もあり、仲間も多い。ぬらりひょんの歩いた後には死層が出来るという噂まである。妖怪でありながら、人間世界に出没し、人間に手を下すことさえできる妖怪、“向こう”の世界で、最も恐れられている妖怪だ。だから下手したら、というか、このままいけば」

 由宇奇は息を呑んだ。

「拾は死ぬ」

 由宇奇の目は、血走っていた。友人として、従兄弟として、拾を助けたいのだろう。しかし、拾にすらかなわなかった由宇奇が、綺堂に適う筈がない。綺堂は利己的な男だ。由宇奇の情などには流されず、正義の為に、拾を殺すだろう。

―――殺されちゃうの?

 その時、夏芽の脳味噌に閃光が走った。




―――たすけて。

―――たすけて。

―――たすけて。




 あの時、頭に響いた言葉だ。誰かが、助けを求めている。夏芽に、助けを求めている。まなみから生まれてくる少年だろうか、それとも、今まで奪われた命たちだろうか、それとも……。

「由宇奇さん、それじゃ駄目です」

 夏芽は立ち上がった。拾の目を見る。拾の目は、拾の目は……。

 泣いていた。

 泣いているように見えた。

 そうか、夏芽に助けを求めているのは、死人でも、水子でも、赤子でもない。夜崎拾、彼自身だ。夏芽は確信した。

「私が、私が止めます」

「何を言ってる馬鹿娘!あの青い炎に触れた途端、お前は消えてしまうぞ。そのくらい強い力なんだ。俺は半妖だからわかる」

「だからです」

「どういうことだ」

「妖怪には、怖いんでしょう、この攻防が。でも、私は人間です。悲しいんです、この争いが。拾さんは、助けを求めてるんです。いや、ずっと、助けを求めてたんです。やっと、助けられる日が来たんですよ」

「何を言っているんだ」

「それに」

 夏芽は由宇奇に微笑んだ。

「綺堂さんは、私の言う事、何でも聞いてくれるんです」

 そうか。由宇奇は理解した。妖怪世界が、彼女を受け入れた理由。妖怪の力を恐れない。何よりも誰かを“救おう”とする気持ちが強い。こんな日が来ることを想定して、彼女と綺堂を結びつけたのだ。夏芽を、綺堂の“歯止め”とすべく。

「やめろ!夏芽」

 由宇奇が言うのと同時に、

「綺堂さん、拾さん、やめてください」

 夏芽は二人に向かって言った。

「綺堂さん私、わかりました、トンネルの所で、私を呼んだ、声」

 人差し指を指す。

「彼です」

 拾の目は、確実に夏芽を捉えた。

「彼が、私を呼んだんです、たすけて、って。拾さん、本当は、助けてほしかっただけなんじゃないですか?本当は、こんなこと、したくなかったんじゃないですか?本当はただ、人に愛してほしかっただけなんじゃないですか?」

「おもしれえ、ことを言う嬢ちゃんだね」

 拾は動じることなく笑った。

「ああ、そうかもしれないねえ、俺には、手を差し伸べてくれる奴なんか、一人もいなかったのさ。だから、無意識に、優しそうな君を、呼んじゃったのかもしれないねえ」

『じゃあ、代わってくれる?』

 頭の中で響く。

『代わってくれる?』

 苦しみを、受けつづける拾の運命、と夏芽の運命、代わってくれないか、彼はそう言ったのではないだろうか。

 だったら、代わってあげてもいい。

 私でいいのなら、それですべてが終わるのならば。

 この争いが、この悲しい事件が、終止符を打ってくれるのならば。

 夏芽は目を閉じ、願った。再び目を見開き、拾を見据える。

「拾さん、私、五人目になります」

 夏芽は手を伸ばした。

「夏芽さん、駄目だ!」

 綺堂の声は、もう、夏芽には届かない。

「拾さん、ずっと、私を呼び続けてたんです。だから夏にすれ違った時も、何処かで会った気がするとか、そんなことを言ったんです。私で代われるなら、拾さんの辛い人生が終わるのなら、私を使ってください」

 夏芽は、救わなければいけないのだ。

 目の前の人を…………。

 拾はさっと夏芽の手を取ると、そのまま抱き寄せた。

「……人質、ゲット」

「え?」

 拾は夏芽を盾に、綺堂に向き直った。

「これでもう、俺に何もできないねえ」

「卑怯だぞ!夜崎拾!」

 夏芽は頭が混乱してしまった。

拾は、助けを求めていたのではないのか?

あの声は、確かに、拾だった……。

くくくく、拾が笑う。

「人殺しに、卑怯も何もねえだろう」

 拾は夏芽の首に額から飛び出た弦を巻きつけた。

―――く、苦しい……。

「さあ、そこを退いてもらおうか、妖怪世界最強の妖怪の息子さん」

 綺堂の頬を冷や汗が伝った。絶体絶命である。夏芽を見殺しに、あるかないかもわからない迷信を信じてまなみを守るか、まなみを見捨てて夏芽を守るか。それ以外に選択肢はあるだろうか。あるとしたら、強硬手段だ―――。




 拾くん?




 廊下の向こう側から、声がした。拾の表情が一気に和らぐ。振り向くと、そこには、夏芽の母、春代が両手に花束を持って立っていた。

「拾くん、でしょ?何してるの、そんなところで」

 それから、拾が命を握っているのが夏芽であると気付く。

「なっちゃん!拾くん、なっちゃんを放しなさい!何があったかは知らないけれど、なっちゃんは、関係ないでしょ?それとも何?悪口でも言われたの?悪口に屈するくらい、あなたは弱かったかしら!」

 説教口調で春代は言った。

「拾くん!」

「春代……ちゃん」

 春代ちゃん?夏芽を縛る弦が弱まった。夏芽は拾を見上げる。幽霊でも見たかのような顔をしている。自分はもっと恐ろしい、妖怪の血を受け継ぐ種族であるというのに。

 春代は物憂げに言った。

「孤児院を出た後すぐに、拾くんが私の従姉弟に値する人だって知ったの。だから、迎えに行ったのよ、家族みんなで。でも、その時、拾くんはもう居なかった。ずっと、ずっと探してたのよ。何よ!心配させて!今更こんな登場、私の娘に手を出しての登場なんて、どういう事よ!」

「……娘?」

「そうよ。拾くん。その子は夜崎夏芽。私の娘。あなたの、大切な親戚よ」

 拾は初めて、ちゃんと夏芽を見た。“向こう”の世界で会った時、見たことがある気がしたのは、養護施設で一緒だった、春代の娘だからだった。施設で唯一、拾を人間扱いしてくれた、あの春代の、娘だからだった。

「拾くん。あなたが何をしようとしているのかは、私にはわからないわ。でもね、今していることが、間違っている、これだけは言えるわよ。大人が子供を虐めていい筈ないでしょう。それは、あなたが一番わかっている筈。弱い者虐めはよくないわ。例え、なっちゃんじゃなくても、私、怒ってるからね」

 春代は状況を把握しようともしないまま、一方的に言った。

「それに、私、これからお見舞いに行くの。ここでそんなことやってたら、邪魔だわ」

「春代ちゃん、俺は」

 拾はもう一度夏芽を締め付けた。

「俺は、人間に“殺された”。だから、人間を滅ぼす。その為だけに、今まで生きてきた。連続妊婦殺害事件も、俺がやったことだ。俺は、殺人鬼で、悪魔だ。これから、八千代トンネルの霊道を使って、気の狂った妖怪たちをこの世界に傾れ込ませて、人間を滅ぼす。そう言っても、春代ちゃんは俺を、守ってくれる?あの時みたいに、養護施設に居た時みたいに、守ってくれるの?」

 沈黙が訪れたかのように思えた。が、突然、春代は持っていた花を拾に向かって勢いよく投げつけた。

「馬鹿たれ!」

 廊下に罵声が響いた。

「そんな人道に背いたことが許されるわけないでしょ!そんなこともわからないの!拾くん、拾くんが辛い人生を歩んできたのは分かったよ。でも他の人は関係ないでしょ!やるなら拾くんを見捨てて養護施設を出て行った、私をやりなさいよ!私を殺しなさいよ!どうして妊婦さんやなっちゃんが殺されなきゃいけないのよ!おかしいわ!」

 言うと、春代は両手を広げた。

「さあ、やりなさい。私はこの日が来るのを待っていたのかもしれないわ」

 少し寂しげな言い方だった。

「お母さん!馬鹿なことはやめて!」

「なっちゃん、夏芽。あなたの事は、心から愛しているわ。冬吉さんにも、申し訳ないと思う。突然こんなことになっちゃって。でもね、ずっと私、覚悟してたの。いつか、拾くんが、私を呪って、殺しに来たら、甘んじて受け入れようって。それが、私に出来る、拾くんを救える唯一の事だったら。養護施設で出来た、初めての大切な友達に出来る唯一の事だったら」

 春代は拾の目を見て、静かに言った。

「さあ、拾くん、やりなさい」




『自分だって、ほくろがあったり、ゆうすけくんなんか、吊り目でしょ。なのにどうして、あなただけ虐められるのかしら。みんなそれぞれ、特徴があっていいと思うの』




『だから心配なのよ。あなたは化物じゃないでしょう。あなたは人間よ。そして、大切な私の友達でしょ』




『いつまでも、自分を責めないで、そしてもう二度と、自分を化物だなんて呼ばないで。約束』




 忘れていた。大切な友人たちとの約束を、自分は忘れていたのだ。

 由宇奇と遊んだ時間も、春代との約束も、全て、忘れていたのだ。

 自分は、一人では無かったのだ――――――。




 拾は夏芽を勢いよく突き飛ばした。夏芽はそのまま、春代の腕の中に抱かれる。

「今回は邪魔が入った。失敗だ」

 拾は冷たい声で言った。

「今回が、最初で最後のチャンスだったというのに。なんてこった。過去の記憶に邪魔されて、俺はもう人一人、殺せやしない」

「それが正しいんだ。君は、罪を犯し続けた。四人もの尊い命を奪ったんだ。その事は決して許されない。だが」

「俺はもう、生きている資格がない」

「何を言っている、夜崎拾」

 綺堂が言った。

「貴様には、友人がいたじゃないか。自分を叱ってくれる友人が、二人も。犯した罪は大きいが、生きている資格がないわけじゃない。これから償っていく方法は、幾らでもあるんだ。貴様が犯した一番大きな過ちは、大切な存在を、見失った事だ」

 綺堂の後ろで、由宇奇が頷いた。

「俺は、最後まで、お前が元に戻ってくれると信じていた。だからあの日、一人で八千代トンネルに行ったんだ。拾、お前を、救いたくて……」

 由宇奇は目に涙をためていた。

 少しの沈黙の後、綺堂が言った。

「ここは、意外と、救いがある世界だよ、拾」

 



 何故、今まで気づかなかったのか。

 ずっと、すれ違ってきた。

 もう、何人もの命を奪った。

 妖怪世界をも狂わせてしまった。

 もう、遅い。




「もう、遅いんだよ」




 突如、拾の身体から炎が上がった。

「拾!」

「拾くん!」

 駆け寄ろうとする由宇奇を綺堂が、春代を夏芽が押さえつけた。

「秋人、春代ちゃん、ありがとう」

 拾はそう言うと燃え盛る炎の中で、一粒の涙をこぼした。




―――人間に戻れた―――







「何事ですか?」

 今更駆けつけた看護士たちは、焦げ跡だけが残る現場を見て息を呑んだ。

倒れ込み泣きわめく人々、重症の火傷を負った男。

 焼け焦げた床に転がる、古びた千羽鶴。

 一体何が起こったのか、彼らに理解できる筈もなかった。

「小火です」

 綺堂は静かに言った。

「小さな炎が今、消えました」

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