七、

 父母が亡くなり、一時養護施設に預けられていた春代だが、叔母が春代を預かりたいと申し出たため、養護施設を出ることとなった。前向きな気持ちにはなれなかった。養護施設には、弟のように可愛がっている“拾”という少年がいたからである。拾は春代に懐き、いつも春代のあとをついて回っていた。春代はそれが嬉しくて、態と隠れたりして拾を泣かせた。

 拾は虐められていた。顔半分を覆う包帯の所為で化物と呼ばれ、何をしなくても石を投げつけられ、蹴り飛ばされ、殴られていた。拾は決して泣かなかった。まるでそうされるのが当たり前であるように、耐え続けていた。春代は見ていられず、それを庇った。それから、拾は春代に懐くようになった。

 最初は笑わない、つまらない子供だと思ったが、接していくうち、次第に春代のジョークに笑うようになった。春代が十歳、拾はまだ、五歳くらいだっただろうか。二人とも幼かった。

 最後まで、叔母と施設長に、拾も一緒に引き取れないか、と駄々をこね続けた。しかし、他人の子供を引き取るのは簡単ではないらしい。裕福でない春代の叔母家では、拾を引き取る手続きが出来ない。どんなに頼み込んでも、皆、首を振るばかりであった。

 施設を出る時、拾はいつも以上に泣いていた。泣けるだけましだ、春代に出会う前は、蹴られても殴られても、泣けなかったのだから。春代は拾に、人間という自覚を持って、強く生きていくことを約束させた。

 拾が自分の従姉弟に値する人物であると知ったのは、その一か月後であった。

 春代の母の父、つまり祖父の宣達は、祖母と結婚する前に、月読という女性と結婚し、子をもうけていた。月読が亡くなったため、祖母の神良と再婚し、春代の死んだ母、久美を生んだのだという。その月読の孫が、拾に当たる。久美と月読の子、辰吉は異母兄妹であり、久美の妹の久子も、同じく辰吉とは異母兄妹ということになる。つまり、拾と春代は従姉弟であったのだ。

 急いで養護施設に連絡すると、拾はつい先日、脱走して今捜索願が出されているという。春代は自分の運命を呪った。施設で最も大切にしていた友人が従姉弟であり、そしてその友人を救う事が、出来なかったのである。

 きっと拾は、春代を追って施設を出たのだ。若しくは、春代という後ろ盾を失って、孤独を感じてか、また再び虐めが始まったのか、いずれにしても、春代の所為で、拾は行方をくらましてしまった。

 春代は一か月、食べ物ものどを通らない状態だった。叔母が心配して何度も声をかけてくれたが、春代の心は閉ざされていた。罪悪感のみがあった。拾を救えなかった。たった十歳の春代には耐えきることが出来なかった。

 ふと縁側を見る。もしあの時、この事実がわかっていたならば、今頃また施設に居た時のように、二人で笑い合っていただろう。

 拾は、春代を恨んでいるだろうか。それとも、まだ探し続けているのだろうか。

 拾の唯一の理解者である、春代を……。







 拾が養護施設に入れられると聞いた秋人は、何とか自分の家で引き取ることは出来ないか、と両親に懇願した。しかし、ただでさえ貧しい由宇奇家に、秋人を入れることは、生活が困難になり、秋人の為にもならないだろう、と由宇奇の父は判断したらしい。秋人の願いは却下された。

 秋人は、拾が近所の住民たちから、避けられていることを知っていた。顔の腫れと、母親によるドメスティックバイオレンスの所為であろう。「あの子とは遊んじゃダメよ」の一人に、拾は入っていた。

 秋人も、秋人の家族も、そんなことは気にしていなかった。秋人にとって拾は、唯一無二の親友であり、心置きなく遊べる相手だった。

 別れの日が近づくにつれて、秋人は拾に会うのがつらくなった。大切に思えば思うほど、それを失った時の寂しさや切なさは計り知れない。それでも、父も母も失って孤独な拾を癒す為、秋人は毎日、かくれんぼやキャッチボール、出来る限りのあそびをして、心の中にある喪失感を誤魔化していた。

 拾は秋人に、容姿の話をすることがよくあった。顔が恐ろしいと他人は言うけれど、自分は生まれてこの方この顔だから、どのように恐ろしいのかがわからなくて辛い、それが彼の一番の悩みだった。その度に秋人は、自分の腕から生える悍ましいとも言える無数の白い蟲を見せ、自分も同じだ、と諭した。

 半妖半人というのは、妖怪であって、妖怪でなく、人であって、人でない。昔から、そう言った類の人種はいたが、差別を受け、皆山奥へ隠れてしまったという。

 悪いのは自分たちではない、それを受け入れない世の中だ。最初にそう拾に教えたのは、秋人だった気がする。ほくろがあるように、戦場で腕を失った人がいるように、自分たちの存在は、もっと明確にされ、許容されなければいけない。そんなことを拾に言った気がする。

 拾との別れの日、父が拾の顔半分の爛れに、包帯を巻いた。そのときやっと、ああ、やはり他人にこの現状を受け入れてもらう事は不可能なのだ、と悟った。大人がそうしたのである、子供なら尚更だ。

 職員に連れられながら、何度も振り返る拾を見て、秋人は手を振りながら泣いた。大切なものを失った気がした。拾の父、秋男は、半妖半人の類である癖に見た目に“外傷”は無かった。同じ痛みを知るのは、秋人の周りには拾しか居なかった。温泉にも、プールにも行くことが出来ない。幼稚園にも行くことが出来ない。同じ境遇を持った、大切な友人だった。

 拾の失踪の連絡が由宇奇家に届いたのは、拾を見送ってから二か月たった後だった。秋男曰く、その時初めて、貧しくても拾を家に留め置いておくべきだった、と後悔したという。由宇奇家は総出で、拾の捜索に当たった。しかし、拾を見つけることは、どうしてもできなかった。

 秋人にはわかった。拾はきっと、施設で虐めに遭ったのだ。あの容姿の所為で、半妖半人である所為で、人間から仲間はずれにされたのだ。包帯を巻いても、何も解決しなかったのだ。可哀想な拾。秋人の唯一の理解者である拾。もう帰ってこないのか。

 雨が降ってきた。秋人は、拾と二人で遊んだ公園に拾が来るのではないかとずっと立っていた。どんなに雨が強くなっても、秋人はキャッチボールをした野球ボールと、グローブを持って、ずっと待っていた。拾は、来るだろうか。

 何時間経っただろう。いつの間にか、拾の隣に、秋男が立っていた。

『帰ろう』

 秋人は泣きながら、何も言わずに頷いた。嗚咽が漏れる。拾は来なかった。

 拾は、恨んでいるだろうか。拾を見捨てた自分を、恨んでいるだろうか。

 殺したいと思っているだろうか。自分を地獄にたたきつけた、親友を。

 それでもいい、と秋人は思った。

 拾に殺されるなら本望である。

 しかし、その前に、拾に伝えたかった。

 拾がいなくなる前に、伝えたかった。

 秋人が、拾を大切に思っていたこと。そして、今も、大切に思っている事。

 一生、忘れないこと。

 父親に肩を抱かれながらの帰り道、秋人はひたすら、泣き続けていた。どうか、拾はこの雨に打たれていませんように。

 そんなことを願った。







 行方不明となった胎児が、妊婦の遺体発見現場から見つかったと全国に知らせが入ったのは、拾が炎に自ら焼かれたあの日の次の日の事だった。赤子は皆、未熟児ではあるが、健康状態は良好だという。拾は、やはり、結局は自分の手で人間を殺すことが出来なかった。妊婦が死んだのも、全て胎児が生まれ出たことによる、失血死やショック死だった。それが最も残忍な殺し方である、と言われればそうかもしれない。しかし、子供の命を奪う事が出来なかったところから考えるに、自ら手を下す、という大事までは行えなかった模様だ。

 赤子が見つかったことで、今回の事件は終止符を打たれた。

 鷲島は、背中に重いやけどを負いながら、無事だった。皮膚移植をしないと、爛れは治らないと言われたが、そんな金もないし、必要もない、名誉の負傷だ、と言って断ったという。

 たかねの母親、まなみは、元気な男の子を出産した。

「名前はね、光。命を懸けて救ってくださった、鷲島先生の光晴という字からとって、光にするわ」

 まなみはうれしそうに笑った。最初はひらがなの名前にすると言っていたくせに、やはりまなみも、たかねの母だ。気まぐれである。

 まなみは、廊下で何があったかを全く知らない。知らない方が良いのだ。鷲島が、悪人から夏芽とたかねたちを守った、というのが表向き。真実は、いつも近くて遠い所にある。鷲島も、何があったか覚えていない様だった。ただ、必死に夏芽に突進したことと、“男が刃物を持って”居た事だけは覚えている、と言っていた。

「人間の脳味噌は、有り得ないものを視た時に、ああ、これは“あれだ”と勝手に決めつけてしまう癖があるのだよ」

 綺堂はその話を聞いて、笑った。

 火傷については、犯人が油をまいて火をつけた、と説明しておいた。病院関係者は納得して居ないようだったが―――それもその筈、油の痕跡もなければ、天上と床が煤けているだけだったのだから―――それ以外説明のしようがないのだから、仕様がない。綺堂の説明に、仕方なく頷く、という感じであった。

 こうして、事件は解決した。今回は綺堂の活躍というよりも、春代の登場が一番の鍵だったのだろう。春代の話からすると、春代も、霊力の強い人間であるようだ。それを受け継いだ夏芽も、同じなのだろう。

「だから夏芽さんは八千代トンネルを通ることが出来たんだね」

 綺堂は納得した。







 優子は、嫌な空気がすうっと消えて行くのを感じた。曇天は曇天のままだが、妖怪世界を覆っていた悍ましい雰囲気が、風が吹いたように遠くへ飛んでいく。優子はコーヒーに手を伸ばしながら、

「綺堂の坊や、上手くやったみたいだね」

と笑った。一口飲んだ時、ごんごん、とドアを叩く音が聞こえた。インターホンがあるというのに、こういう事をする奴は。

「あいよ、五月蝿いね」

 優子は立ち上がって、玄関に向かった。玄関には、晴れ渡ったような笑顔の、辰之助の姿があった。

「姉さん!おいら、正気に戻ったでさあ!」

「そりゃあよかった。おあがりよ。コーヒーでも飲んでいきな」

 辰之助は少し間を置いて、思い切って言ってみた。

「実は、コーヒー苦手なんでさあ。夏芽姉さんが、夏に、紅茶を飲みたいって言ったのは、おいらに気を遣って下すったからなんでさあ」

 優子は笑った。

「そうかい。実はね、わかってたよ。でも、あんたに直接言ってほしくてね。だってあたしたち、そういう仲じゃないか。親友だろ?」

「姉さん……」

 辰之助は優子に飛びついて泣いた。

「おいら、元に戻れて本当に良かったでさあ」

「ああ。あたしも嬉しいよ」

 優子は優しく辰之助を撫でた。後頭部のぎょろ眼から、涙が溢れる。

「さあ、おあがり。紅茶は、どれが好きかい」

「この前飲んだ、レモンティってやつが、おいらの舌には絶品でしたぜい」

「了解したよ。今用意するからね」

 辰之助は慌しく靴を脱ぐと、リビングの椅子に腰かけた。こうやって、辰之助と二人で話をするのも久しぶりだ。優子は人喰い女とは思えない、優美な微笑みを浮かべて、キッチンへ向かった。

「今日は特別なレモンティを仕入れてあるんだよ」







「綺堂さん」

 病院の待合室で、春代が言った。

「拾くん、死んじゃったのかしら」

 居間にも消え失せそうな声だった。

「拾くんが罪を犯したのも、人間を憎んだのも、全て、私の所為」

「そんなこたあ、ねえ。俺だって悪いんだ」

 由宇奇が口を挟む。

「俺は、拾と同い年でな。養護施設に預けられるまで、家も近所で、従兄弟で、親友だった。なのに、俺は、俺たち一家は、奴を見捨てて、養護施設に入れた。そこから、全てが始まったんだ」

「秋人くんは、拾くんのお母さんのご親戚なのね?」

「ああ」

「私もね、父方の親戚で、拾くんとは従姉弟だったの。同じ養護施設に一か月居たことがあってね。彼とは、あなたが言うように、親友だったわ。でも、私は、私たちは、従姉弟だという事実を知らないまま、彼を一人養護施設に置いて、去ってしまった。その後、従姉弟だと判明して迎えに行ったけれど、手遅れだった」

「一度差し伸べた手を、放すことほど、重い罪はない」

 綺堂は静かに言った。

「救いがあるように見せかけて、相手に光を見せておいて、再び突き落とされたその闇は、以前居た闇よりももっと暗く、恐ろしく見えるだろう」

「私たちの所為ね、拾くんが狂ってしまったのは」

「ああ」

「いや、違う」

 綺堂の声に、由宇奇と春代は同時に顔を上げた。

「夜崎拾は、二度も救いの手を差し伸べられていた。その事実だけでも、十分彼を光に導くことが出来た。ただ不幸だったのが、彼がその光に気付くことなく、闇に向かって走り続けてしまったことだ。振り返ることなく、周りを見ることもなく。自分一人が不幸であると勘違いをして。悪いのは、彼と、彼の運命だ。君たちに、罪はない。寧ろ、彼に光を与えてくれたことに、一、半妖半人として、感謝する」

 一礼する綺堂は、まるで拾の保護者だった。

「二人がいなければ、もう一人、無駄な犠牲者が出る所だった」

「妖怪世界も、救われたようだな」

 由宇奇は言った。

「あの、神話は、本当なのか?」

「それは、わからない。意味すら不明な駄文だ。それを本気にして、こんな犯罪を繰り返してしまった夜崎拾、哀れで狂気に満ちた、淋しい、一人の男だよ」

「余程、人間に恨みがあったんでしょうね」

 夏芽は言った。

「こんなに拾さんの事、愛してくれてる人、居たのに。それに、ちゃんと向き合えば、これからも、愛してくれる人ができたはずなのに」

 夏芽の胸は締め付けられた。拾の犯した罪は許されるものでは無い。しかし、拾の過去は、余りに悲しすぎるものだった。

「でも君たち、悲しんでいる場合ではないよ」

 綺堂は微笑んだ。

「ほら、もうすぐだろう」

 夏芽、由宇奇、春代、綺堂は、病室の入口に目をやった。がらがらがら、とドアが開く。病室から出てきたのは、小さな赤子を抱いた、美しい元妊婦の姿だった。

「女性は、女神に等しいね」

 綺堂は笑いながら言った。

「新たな生命を生み出す力を持っている。痛みを伴い、その痛みに耐えぬいて、その生命を産み落とすのだ。こんなに神秘的で、解明されていない事象はないよ。生命を作ることは、人間が一生かかっても出来ないだろう。出来たとしても、こうやって誕生した生命の輝き程、眩しいものはない」

 まなみに続いて、たかねが出てきた。

「たかね!」

「夏芽!」

 二人は抱き合った。

「良かった!今日無事退院できるんだね。本当に良かった」

「皆が守ってくれたおかげだよ。鷲島先生も、あんな重傷を負いながら、私たちを守ってくれた。本当に、感謝してるよ、ありがとう」

「光も喜んでるわ」

 まなみが、赤子を包んでいる白い布をさっと避けて、まだこぶしぐらいの小さな顔をのぞかせた。

「笑ってる!」

「夏芽の顔が面白いんだね」

「どういうことよ!」

「まなみちゃん」

 春代は言った。

「難産だったって聞いたわ。身体はもう大丈夫なの?」

「大丈夫よ、春代さん。この歳で子供を産むことになるなんて、思ってもみなかったけれどね。でもいいわね、新しい家族って」

「私も、夏芽を生んだ時を思い出すわ。産まれる直前までずっと、男の子だって言われていたのよ」

 春代は意地悪く笑った。

「だからこんなおてんば娘に」

「あら、うちのたかねと一緒」

「ちょっと」

「ふたりとも!」

 夏芽とたかねは同時に言った。気の合う二人だ。顔を見合わせて笑う。

 下駄の音を響かせながら、綺堂が近づいてくる。

「さて、僕も新たな生命の誕生とやらを祝福してやろうか」

 綺堂が顔をのぞかせた途端、赤子、光は泣き出した。

「ど、どういうことだ」

「綺堂さん、新たな生命は綺堂さんを拒んでるようですよ」

 夏芽は笑った。

「そんな筈が。僕はなかなか顔が整っていて、女性からも男性からも人気があるほうなんだぞ」

「自分で言うか、このナルシスト。どれ、俺が見てやる」

 やはり光は泣きやまない。

「いやあ、男嫌いなようだな。この赤子、光って名か。女好きに成長するぜ」

「失礼なこと言わないでくださいよ、由宇奇さん!」

 夏芽は一喝した。

「ちょっと、院内では静かに!」

 看護士が怒鳴った。皆は肩をすくめる。

「生命の誕生にも、色々と困難があるようだ」

「ちょっと綺堂さん、縁起の悪いことを言わないようにしてくださいよ」

 先程の看護士がこちらを見ている。

「さて、そろそろ行こうかな」

 夏芽は慌てて言った。




 病院の外まで、たかね一家と一緒に歩くことにした。たかねは夏芽に近寄ると耳元で、

「鷲島先生って、意外とイケメンだと思わない?」

「はあ?」

 たかねはにんまりと笑った。

「私のこと心配してくれたり、夏芽を命がけで守ってくれたり、生徒たちの為なら命をも投げ出す覚悟だとか言ったり、強いし、顔もよく見ればイケメンだし、そんなに歳も行ってないし、次は鷲島先生、狙ってこっかな」

「あんたね、教師と生徒の恋愛はご法度よ」

「一回経験してるから平気!それにこんなに私のこと心配してくれるってことは」

 たかねは手を組み合わせて祈るようなポーズをとった。

「きっと私に気があるのよ」

「違うと思います」

 夏芽は即答するが、たかねは聞いていない。

「明日ね、早速お見舞いに行くの。最初は一人だと心細いから、夏芽も一緒に来て!ね?いいでしょ?」

 たかねは夏芽の腕を引いた。

「私から宮本先輩をとっておいて、嫌だとは言わせないわよ」

 そう言えばそんなこともあったか。夏芽は悉く、たかねの恋人や恋心を引き裂いてきた。故意にそうしているのではないが、結果的にそうなってしまっている。たかねは、夏芽が引け目に感じていると知っていて、上手く突いて、利用しようとしているのだ。

 夏芽は溜息をついた。

「また私に取られても知らないわよ」

「大丈夫、夏芽には綺堂さんがいるから」

 たかねは笑った。

「ち、違うって!綺堂さんは」

「僕が何かい?」

 綺堂が突然二人の間に割って入ってきた。

「いや、何でもありません!」

 夏芽は慌てて言うと、

「明日、先生のお見舞いね、分かった、行くわ」

「ありがと、夏芽。流石親友」

 たかねはにやりとした。







 次の日、たかねと夏芽は鷲島の見舞いに向かった。たかねは、真赤な薔薇の花束を持っていた。

「お見舞いに薔薇って……どうなのよ」

「愛を伝えるためだもの、いいでしょ?」

「先生の傷を労ってのお見舞いでしょ。少しくらい配慮しなさいよ、色くらいは」

「わかってないわね。体育系男子はね、派手な位のアプローチが丁度いいのよ」

 たかねは高らかに笑った。

「鷲島先生のハート、私が掴んでみせるわ!」

 夏芽は溜息を吐いた。

 病室に着き、ドアを叩く。「どうぞ」という鷲島の低い声が聞こえる。夏芽は突然ぎゅっと胸を締め付けられながら、たかねに続いた。鷲島が傷を負ったのは夏芽を庇ったからである。しかし、今日見舞いに来た理由は、不純なものであるのだ。病室のドアを開けると、鷲島は背中の傷を庇ってうつぶせに寝ていた。

「ああ、唐沢と夜崎か」

 鷲島は笑顔もなしに言った。

「わざわざ、見舞にきてくれたのか、ありがとうな」

「いえいえ!私たちを守ってくれたんですから、当然です」

 たかねははつらつとして言った。

「先生、お怪我の具合は」

 夏芽が言うと、

「ああ、明日にでも退院できるそうだ」

 鷲島は窓の外を見ているようだった。

「また、学校に行って、お前たち生徒をしばくことが出来るな」

「先生は生徒をしばくんじゃなくて、守るんでしょ?」

 たかねが笑った。

「先生に早く復帰してもらわないと、私困るから!」

 たかねは花束を差し出す。

「これ、お見舞いの花束です。花言葉は、後で自分で調べてくださいね」

「ああ、わざわざありがとう」

 鷲島は言った。起き上がれそうになかったので、たかねは鷲島の顔の横に、態々花束を置いた。鷲島は特に気にする様子もなく、二人を見て、

「しかし、無事でよかった」

と言った。

「唐沢には話したが、この地域はやはり因縁のある地域でな。これからも、何かと不幸が怒るかもしれん。先生はこの街生まれ、この街育ちだが、悍ましい事件を沢山見てきた。君たちも、そうなるかもしれん」

「因縁?」

「赤線地帯だったんだって。さっき話したでしょ」

 赤線、というのは、戦後、売春が禁止された後も、暗黙の了解として風俗が黙認されていた地域である。

「それだけならばいいのだが、唐沢に言ったあの話には続きがあってな」

 夏芽はある程度たかねから聞いていたので、何となく内容は知っていた。女郎屋から、妖怪に連れ出された女がいた、という話だ。たかねはその話をしながら、

『妖怪を信じているなんて、鷲島先生意外とお茶目!』

と喜んでいた。

 鷲島は続けた。

「その女は、妖怪との間に子を授かったらしい。その子供は、人間世界と妖怪の世界を行き来しながら、今も生き続けているという。この街には、妖怪世界との連絡通路があって、そこを行き来できるものが居るため、妖怪と人間の間の子の様な存在が生まれ続けているらしい。この街には、そういう存在がいるという噂がある。今回の事件も、蟲男の事件も、その前の平沢先生の事件も、先生はどうしても、妖怪が関係しているような気がしてならないんだ」

 夏芽はぎくりとした。流石、生まれてこの方この地を離れなかった鷲島である。この地の歴史や噂については、詳しいらしい。確かに、この街には、八千代トンネル、という、妖怪世界と人間世界をつなぐ連絡通路があって、それを通って綺堂はこちらに来、由宇奇や夏芽はあちらに向かう。通路を通れる人間と通れない人間がいて、通れない人間が偶に迷い込んでしまうと、向こうの妖怪たちは喜んで我先にと驚かせに回り、上手に人間世界に帰すのだという―――夏芽も一度、経験している―――。

「しかし、そんなの噂にすぎない」

 鷲島は言った。

「そういう噂を信じたり、噂を利用して、犯罪を犯したり、危険なことをしている人間が、この場所には多い、という事を先生は言いたいんだ」

「え?じゃあ先生は妖怪を信じているわけじゃないんですか?」

 夏芽はきょとんとした。鷲島は初めて、はっはっは、と笑った。

「こんな大人にもなって、妖怪を信じるなんて、そんなのおかしな話だ。それに、妖怪なんかより、人間の方が怖いに決まっている」

 鷲島はまた怖い顔に戻った。

「妖怪と言う名の、人間をこの街は作ってしまっているのかもしれない」

―――世の奇妙は人である。世の異常は人である。―――

 綺堂の声が聞こえたような気がした。人間は、なんでもしてしまう。何でも作ってしまう。だから凄い、だから怖い。

 夏芽は鷲島のまともな意見を聞いて頷いた。

「私もそう思います」

「嘘つけー。夏芽は、妖怪はいるって、力説してたもん」

「妖怪はいるけど、悪いことはしないってこと」

「やっぱり信じてるんだ!」

「夜崎は面白いな」

 鷲島は言った。間顔だったので、怒っているのかと思ったが、そういうわけではないようだ。

「先生、この世界から、“悪い妖怪”がいなくなると良いね」

 たかねが言った。

「夏芽の言葉で言うなら、“妖怪を利用して悪事を働く人間”かな」

 たかねは、馬鹿なようで、よくわかっている。夏芽は感心した。




 妖怪は何処にでもいる。人の心の中に居座って、夢を与え、絶望を与える。どちらに感じるかは、その人次第だ。拾の場合、絶望だけを見て生きてしまった。ほんの一寸先にある希望に、気付くことが出来なかった。




 この世は儚い。

 拾が一瞬で消えてしまったように、四人の妊婦の命も、一瞬で消えてしまったに違いない。

 生きているという事は、それだけ尊いことなのだ。

 一日一日、噛みしめて生きていこう。

 夏芽は改めて思った。




 鷲島が眺める、病室の窓の外は、あまりに当たり前の街を映し出していた。いつもの学校、いつもの通学路、公園、八千代トンネル、家々が密集する住宅街、にぎわう繁華街、行き交う車、一時間に一本しか通らない電車のために敷かれた線路。なんて当たり前で、美しい光景だろう。

 鷲島も、きっと同じことを思っていたに違いない。

 夏芽は、目の前に横たわる、力強い背中を見て思った。

「命を懸けて、生徒を守る」

 平沢が出来なかったことを、鷲島はしようとしているのだ。

 たかねは、その平沢の影に、鷲島を重ねているように思えた。

 首元にはまだエメラルドがきれいに光っている。

 明日も、たかねは鷲島に、その事を怒られるに違いない。

 しかし、もし鷲島がエメラルドをたかねから取り上げることができる日が来るとしたら、それは、たかねが平沢を忘れて、前へ進むチャンスになるだろう。

「私、やっぱり、応援するよ」

 耳元で夏芽は言った。

 たかねはにっこり笑って、

「ありがと、親友」

と言った。

 鷲島のがっしりとした背中は、もう何も言わなかった。

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