四、

「この化物!」

 今日も母親は少年を叩いた。少年が、母の大切にしていた皿を割ってしまったからである。

「お前なんか産まなきゃよかった!」

「なんてことを言うんだ咲良!」

 父は母を一喝した。

「拾だって、わざとやったんじゃないだろう!そんな言い方しなくてもいいじゃあないか。それでも母親か!」

 父は少年を抱きしめた。

「かわいそうに、こんなに脅えて」

 少年は泣いていた。母に喜んでほしかった。それで、お気に入りのお皿に、手料理を作って運ぼうとしたのだ。

「もとはと言えば咲良、お前の血筋の所為じゃないか!」

「私がすべて悪いっていうの!」

「いや……私も悪い。霊力の強い人間の子孫であるからな。ふたり、あわせて、このような顔になってしまったんだ。親の所為なんだ。可哀想に」

 少年は泣いて父に縋った。

「すまないなあ、すまない」

 父は少年を母から庇うようにして、いつもそうやって謝った。

 こんな顔だから、幼稚園には行けなかった。必ず虐めの対象になる。両親が、というよりも、父が、そう考えたからだった。

 少年はいつも、同じく幼稚園に行けない従兄弟の少年と一緒に遊んでいた。名は秋人という。彼は少年の顔を見ても驚かなかった。たまに自分の腕を見せては、

「今日もむず痒い」

といって白い蟲を見せてくれた。

 秋人の蟲は、居るだけで、何もしないのだという。少年の顔も、醜いだけで、何をする訳でもなかった。

 ただ、母を異常に怖がらせた。母は言った。

「夢にまで、あんたの顔が出てくるのよ」

 この顔に怯えているのならば、いっそ、この顔をつぶしてしまおうかとも思った。しかし、そんな勇気は少年には無かった。

 水面を見るたびに、少年の醜く爛れた顔が映った。しかし、生まれてからこの顔と共に生きてきた少年にとって、この顔は決して汚れた恐ろしいものでは無かった。

 単に自分である。

 それだけだった。

 それ故に、母がどうして自分を恐れているのかがわからなかった。母は何故、自分をここまで恐れる。秋人にだって、腕に蟲が住んでいる。自分だって、きっと何か身体に異常があるに違いない。それなのに、どうしてそんなに少年ばかりを責めるのか。少年には理解できなかった。

 ただ、少年は愛してほしかった。自分を見てほしかった。

 一緒に居て、笑ってほしかった。

 少年は母に殴られるたび、そう思った。

 

 今日も殴られた。目つきが悪いと言って殴られた。母と一緒に居たいと、そう言いたくても言い出せず、隣に立って、母の顔を見ていた、それだけで、殴られた。

 父がいない時、母は少年を必ず殴った。見えないところを蹴ったりもした。少年が母のいる部屋から去ると、決まって母の泣き声が聞こえた。

 母の父は妖怪だった。その妖怪は恐ろしく、強い妖怪だったと聞いている。しかし、人間と結婚をして、子を産んでから姿を消したのだという。

 だから、母は、父を見たことがない、と父から聞いたことがある。少年も、祖父を見たことが無かった。それ程に、恐ろしい妖怪だったのだろう、醜い妖怪だったのだろう。

 母は、自らが妖怪の子孫であるという事を恥に思っていた。その為、それを寛容に受け入れてくれそうな男性を、見合いで見つけたのだという。それが父だ。父は、“霊力”を持つ人間、所謂巫女などの部類の人間の子孫で、霊感が非常に強いため、一目で母を、半妖半人であると見抜いたという。そうやって二人は結ばれ、子が生まれた。母は、やっと妖怪という恐怖から逸脱して幸せになれる、そう思っていた。

 しかし、生まれた子供の顔半分は妖怪のように爛れていた。

 原因は不明で、皮膚移植をしても治らないと言われたという。妖怪の部分が、容姿に現れてしまったのだ。

 それから母は狂ったように、我が子を毛嫌いするようになった。




 少年は虐待を受けながら、五歳にまで成長していた。

 母が少年を毛嫌いする理由が明確にわかったのは、その頃である。

 風呂から出る母の姿が、遠くから見えた。少年は隠れながら、何となくその姿を見ていた。母親の背中には、火にあぶられたように爛れた模様があった。

―――間蟲だ!

 火間蟲入道、それが祖父の名である。彼女は、火であぶられたような模様として、妖怪の部分を受け継いでいた。

 女性にとって、身体に傷があるというのは、非常に辛いことだ。学校の水泳の授業も出られず、夏に海なんかにも行けず、背中の爛れた模様の所為で、散々辛い目に遭ったに違いない。

 だから子供を見るたびに、それを思い出すのだ。思い出して、少年を叩くのである。

 それが、彼女の真実だった。

 その日から、少年は母に殴られても泣かないようになった。自分も強くならなくては、強くなって、母を虐める人間たちから母を守らなくては。そう思ったからだ。

 父は、勿論母に殴られる少年を守ってくれた。父がいない時は、泣かずに堪えた。辛い日々だった。どんなに殴られても、蹴られても、罵られても、少年は泣かなかった。そうすれば、いつか母が認めてくれる、そんな気がしていた。

 泣かない少年を見て、母は不満げだった。父は、虐待によって感情を失ってしまったのだ、と嘆いて、母を責めた。その度、母は、

「お前なんか産まなきゃよかった!」

と言って泣いた。少年は、それを見るのがつらかった。


 そんなある日、父は病気になった。結核だった。治らないと言われた。それでも少年は、治ると願って、千羽鶴を折った。友人の秋人も一緒に折ってくれた。二人で、父の回復を願った。

一か月後父が死んだ。

 母は今まで以上に、狂ったように泣き続けた。少年は、やはり泣かなかった。母が泣いているのだ、自分まで泣いてしまったら、誰が母を守るのだ。

 母は父の亡骸に縋りながら、少年をきっとにらんだ。

「お前の所為だ」

「僕は、何もしてないよ、お母さん」

 少年は久しぶりに口を開いた。

「お父さんがいなくなった分、僕が、お母さんを守ってみせるよ」

「ふざけるな!」

 母は叫んだ。

「お前の所為でお父さんは死んだんだ!お前が生まれてきたせいで。お前の所為で心労がたたって、死んだんだ!すべて、お前の所為だ!」

 少年は慌てて首を振った。

「僕は、何も……」

「お前なんて」

 母の目から大粒の涙がこぼれた。

「お前なんて産まなきゃよかった」




 葬式が終わると、母は出て行った。行く当てなどあるというのか。死にに逝ったのか。少年にはわからない。

 少年はそのまま児童養護施設へ預けられることになった。児童養護施設へ預けられる際、秋人の父親が、爛れた顔に包帯を巻いてくれた。

「これで少しは隠せよう。いいか、辛くなったらいつでも家に来るんだよ」

 少年は頷いた。秋人は、少年に、千羽鶴を渡した。

「これを見て、俺と、お父さんを思い出して」




少年は去っていった。




 児童養護施設で、やはり、少年は虐めを受けた。あろうことか顔の包帯の所為だった。

「こいつ、年がら年中顔に怪我してやがる!」

「きもちわる!」

「化け物!」

 皆そう言って、少年を嘲笑った。

 石を投げられたこともあった。綺麗な方の顔にも、石が当たって、傷が出来た。職員に見つかって、

「どうしたの?」

と尋ねられたが、

「転んだ」

と言った。職員は、首をかげていた。

 ある日、また、化け物、と呼ばれて虐められた。仕方なく少年は、

「そうなんだ」

と、芝居を打つことにした。本当に、化け物ってことにして、少しだけ、虐めっ子たちを懲らしめたかった。それだけだった。

「僕は本当は、化け物なんだ」

 少年はゆっくりと包帯をほどいた。

「怖がらせないように、これを巻いていたけれど」

 ほどけた包帯の下には、爛れた顔と、まぶたのない、剥き出した眼球があった。

「僕は化け物なんだ」

 虐めっ子たちは悲鳴を上げると、即座に逃げ出した。

 その日から、少年が虐められることはなくなった。


 そんな少年だったが、養護施設にひとりだけ、友達がいた。

 名前は思い出せないが、優しい少女だった。

 少年の事を化物呼ばわりする虐めっ子たちを追い払ったり、石を投げられた時は身を挺して庇ってくれたりした。その所為で、彼女は右肩に大きな痣を作ってしまった。消えないかもしれない、と言われたけれど少女は気にする様子もなかった。

「自分だって、ほくろがあったり、ゆうすけくんなんか、吊り目でしょ。なのにどうして、あなただけ虐められるのかしら。みんなそれぞれ、特徴があっていいと思うの。私だってそう。あなたたちのお蔭で、もう一つ特徴が出来たしね」

 右肩の痣の事を、彼女はそう言って笑った。

 

 ある日、彼女は、叔母が迎えに来て、去っていった。どうやら、一時的に預かられていたらしい。最後まで、少年の事で渋っていたが、仕方なく、さよならをすることとなった。

「大丈夫。みんな僕のことを、化物だと思ってる。だから、虐めたりはもうしないよ」

「だから心配なのよ。あなたは化物じゃないでしょう。あなたは人間よ。そして、大切な私の友達でしょ」

 彼女はそう言って小指を出した。

「いつまでも、自分を責めないで、そしてもう二度と、自分を化物だなんて呼ばないで。約束」

 二人は指切りをすると、さよなら、と言って別れた。




 彼女が去ってからは、ただ孤独だった。孤独でしかなかった。

 少年は少女を追うかのように、いや、笑ってくれなかったあの日の母親を追うかのように、養護施設を抜け出した。




 拾は煙草屋で葉巻を買った。

「うまくいってやすかい」

「そりゃあ、もちろん」

 拾は葉巻を吸って吐いた。

「いらねえの、ひとつ消してきたし、八千代トンネルが開かれるまで、あと一人ってとこまできたよ」

「あと一人の幼子で、八千代トンネルが本当に解放されるんですかい?」

「てめえ、俺を疑ってんの?あったりめえよ、調べたんだもの。贄が必要ってな」

「まあ、旦那が言うんなら本当なんでしょう」

「そういえば、お前も俺を見ても平気だね?どうして?」

「どうしてもこうしても、あっしは妖怪業なんざとうの昔にやめてますからね。今は煙草屋の、ただの亭主ですよ」

「……そうかい。さっき、同じような奴に話を聞いてきたよ。まあ、妖怪に手を下すほど、俺にゃ力はないから、放っておくことにしたけどさ」

 葉巻の煙がすうっと曇天に上がっていった。







 瞼を開けると白い天井が目に入った。最後の記憶は、拾との会話だ。拾はどうやら、由宇奇の事を友人だと思ってくれてはいたらしい。しかし、邪魔ものとして、排除しようとした。突風が吹いた所まで記憶があるが、それ以降は脳が拒絶反応を起こして思い出せない。多分、それほどの恐怖に、由宇奇は陥ったのだろう、あの短時間で。

 確実に息の根を止められるかと思ったが、この状況を見ると、そうでは無かったようだ。

 由宇奇が目を開けたのを見て、夏芽が声をあげた。

「綺堂さん!綺堂さん!由宇奇さんが!目を覚ましました!」

 それから由宇奇の肩にしがみつく。

「よかった……本当に良かった……」

「こいつがそんなことで死ぬはずがないだろう、夏芽さん」

 綺堂はいつも通り平静を装って言った。しかし、内心安堵していた。

「由宇奇さん、大丈夫ですか?」

 夏芽が聞く。由宇奇は何とか、

「ああ」

と声を絞り出した。

「由宇奇さん……」

 その蚊の鳴くようなかすかな声に、夏芽は泣き出してしまった。

「由宇奇さん、死ぬところだったんですよ……」

 何となく覚えていた。由宇奇の止血をしようと二人が駆け寄ってくる姿。

「夏芽、わりいことしたな」

 由宇奇は出来るだけ、元の声に聞こえるように言った。のどの方までやられたらしく、扁桃腺が腫れている。その所為で、以前よりまして、ガラガラ声だ。

「二人が助けてくれたんだろう。ありがとよ」

「助けたんじゃない。血が出ていたから、止めただけだ」

「それを助けたって……まあいいや」

 由宇奇は咳込んだ。

「俺、どんくらい寝てた?」

「三日です。あの日から、三日目です、今日」

 夏芽は目を腫らして、言った。

「一緒に、病院にお見舞いに行って、それで、一緒にご飯食べようって言って……私、断られて。でももっと、もっと強く誘っておけば、由宇奇さんはこんなことにはならなかった……」

「違えよ、夏芽。俺は、最初から、あいつに会いに行くつもりだったんだ」

「え?」

「あいつとは、従兄弟って言ったよな。だから、もうこんなことはやめろって、言いに行ったんだ」

「でも、場所は分からないんじゃ」

「分からないから適当に、八千代トンネルまで行った。そうしたら案の定、あいつがいたってわけだ」

 由宇奇は包帯に巻かれた腕を上げたり下げたりしながら言った。

「話し合いで解決できなかったんだな」

 綺堂が言う。

「そういう奴じゃねえって、俺分かってたつもりだったんだけどなあ。最後の希望にかけちまったよ。あっさり裏切られて死にそうになったけど」

「由宇奇さん、今度から一人でこんな危ないことしないでください!由宇奇さんに何かあったら、私……」

「はいはい、もう泣かないの、お嬢ちゃん」

 夏芽は両手に顔を埋めた。由宇奇は綺堂を見ると、

「おめえ、俺の腕のこと、医者になんて言った?さぞ気味悪がっただろ」

 由宇奇の両腕は、“白い蟲”で覆われていた。寄生虫が顔を出しているように、由宇奇の腕からはその蟲たちが、“生えて”居る。何をする訳でもないが、通常の人間ではありえない。由宇奇は腕に、無数の生きた蟲たちを飼っていた。というより、同じ身体に同居している、という言い方の方が正しいのかもしれない。

「奇病だと言っておいた」

「正解だ。でも、こんなに包帯で巻かなくても……」

「腕は無傷だった。両方ともな。妖力に守られたんだろう。だが、医者はやはり気味悪がって、包帯で巻いたってわけだ」

「ひでえ、ヤブだな。まあ、他の患者に見られるよりはマシか」

 由宇奇は再び天井を見上げた。

「やっぱり、あいつは、人間に手を下すことのできる妖怪だ。止めらんねえ」

「分かってたなら、何故一人で会った。命をも奪われかねんかったぞ」

 由宇奇は寂しそうに笑った。

「幼馴染だったからな」

「……そうか」

 綺堂は腕を組んだ。

「だが、我々も君の友人であるという事を、忘れないでほしい」

「ああ。すまなかった。浅はかだったよ」

 由宇奇は、夏芽の泣き顔を見て言った。

「ところで、奴に何をされた」

「何を?」

「奴から電話が来たんだ、『ダンプカーに轢かれた』ってな。でもそれにしちゃあ傷がひどすぎる。それにしちゃあってのもおかしいが、お前が半妖半人でなければ、死んでいただろう。全身が骨折。体中が切り傷だらけで腹部に穴が数か所開いていた。本当にダンプカーにはねられたのだとしたら、鋭い牙を幾つも持ったデコレーションダンプカーに轢かれながら突き刺されたとしか思えない」

「お前にしてはよく出来た冗談じゃねえか。でも、思い出せねえんだよ」

 由宇奇は再び天井を見上げた。

「あいつの胸倉を掴んだんだ。そうしたら、突然突風が吹いてよう、あいつから離れた。それ以降、お前らが来るまでの記憶がすっからかんだ」

「相当のダメージだったんだろうな」

「そうだろう。ダメージどころではなかったさ。この傷、わかってると思うが、ダンプカーなんかじゃねえぜ」

「妖力か」

「ああ」

「奴は、相当危険なようだな」

 綺堂は複雑そうな顔をした。

「まなみさんを、守り切れるかどうか……」

「綺堂さんが弱気になってどうするんですか!」

 突然、つい今まで泣いていた夏芽が、目を腫らしたまま立ち上がった。

「由宇奇さんがこうなってしまったからこそ、だからこそ、もっと奮い立つべきです」

 由宇奇は一瞬圧倒されながら、ははは、と笑った。

「夏芽、流石夜崎家の跡取りだ。強えな。俺も、夏芽に一票だぜ。それに」

 由宇奇は傷だらけの身体で起き上がってみせた。

「妖怪の力をなめちゃいけねえ」

「由宇奇さん、まだ怪我が」

「俺は普通の人間と違って、治りが早えんだよ」

 由宇奇は腹部の包帯を一巻き一巻き解いて見せた。穴が空いているように深かった傷が、もうふさがっていた。縫った痕だけが残っている。痣もない。小さな傷は、消えてしまったかのようだ。

「三日間も寝てりゃ、完治してても不思議じゃねえってのに、まだ痛むってことは、それほど強い力で痛めつけられたんだろう」

「そりゃあそうです。だって、血まみれで、もう死んじゃったのかと思ったくらいでした」

 夏芽は抗議するように言った。助かったのはよかったが、こうやって奇妙な程に回復した姿を見ると、三日間祈るように由宇奇に付き添い続けた自分が馬鹿らしく思えて、夏芽は溜息をつかずにはいられなかった。半妖半人とはいうが、あそこまで血を流して、あそこまでひどいけがをして、三日で回復するなんて、通常の人間だったら想像しえない。しかし、大事に至らず、よかった。

「これからどうする」

 由宇奇が言った。

「これほど危険な“男”に、夏芽を関与させるわけにはいかないだろう」

 夏芽は思わず顔を上げた。呆然とする。

「この件から、夏芽は外そう」

「それには僕も同感だ」

 綺堂が続けた。

「夏芽さんは普通の人間だ。相手が半妖半人、しかも、妖力の強い、“悪人”であると分かった以上、関わらせるわけにはいかない。お母さんも、望まないだろう」

 ここで、春代の事を口にするのは卑怯だ。夏芽は拳を握った。最初にまなみを助けたいと言ったのは、夏芽だ。そして、由宇奇の看病を、三日間し続けたのも、夏芽だ。綺堂と共に、由宇奇を助けたのも、夏芽だ。

「そんなの、ずるいじゃないですか」

 夏芽は言った。

「そんなのずるい。私が、私が言い始めた事なのに、二人ばかり危険な目に遭って傷ついて、私ばかり逃げろというんですか。そんなの、あんまりです。できません」

「夏芽さん、君の気持ちもわかるが」

「綺堂さんも綺堂さんです。私の気持ち、知っているくせに。私がどんなに、たかねを大切に思っているか、そして、綺堂さんと由宇奇さんを、どれだけ大切に思っているか……。それなのに、三人を、たかねのお母さんや赤ちゃん、お父さんを合わせたら六人を置いて、私だけ逃げろって、言うんですか。そんなことできません。できない。したくもない!」

「てめぇがいると足手まといだって言ってんだよ」

 ふと、由宇奇が言った。

「俺でさえ、油断してこれだ。俺だったからこそ助かったが、もしお前だったら、死んでた。確実にな。そうしたら、何人の人間が悲しむと思っている。俺はそう簡単に死なない。綺堂もだ。だが、お前は違う。簡単に、死ぬ。そんな奴、足手まとい以外のなにものでもない。俺を助けてくれたことは礼を言う。だが、今回の事件、お前は外す。これ以上口を出すな、顔を突っ込むな」

 厳しい口調だった。夏芽は食い下がる。

「何よ!動けないくせに!」

「動けるっての。半妖半人なんだからよ」

 由宇奇はそういうと、ベッドから起き上がり、床に足を付けて立ち上がってみせた。

「これで満足だろ。お前がいなくても、俺と綺堂で何とかできる」

「嘘よ。由宇奇さん。私を、馬鹿にしてるでしょ」

 突然、夏芽は何を思ったのか、由宇奇に突進した。由宇奇は避けることが出来ず、衝撃と共に、そのまま夏芽に馬乗りにされる。

「女子高生の攻撃を避けることさえ出来ないようなおっさんが、事件を解決できる筈ないでしょ!」

「おっさんとはなんだ!痛!」

 由宇奇は、やはり完治していなかった腹部を押さえた。外見は綺麗に見えても、中身、つまり骨は接着していなかったに違いない。由宇奇はもだえると、夏芽の下で丸く縮まった。夏芽は慌てて由宇奇から退く。

「ご、ごめんなさい、つい……」

「初めて女に押し倒されたが……こんな形になるとはな……」

 由宇奇は腹部を押さえながら、立ち上がれず、壁に寄り掛かった。夏芽は慌てた。頭に血が上って突発的に起こした行動ではあったが、これで由宇奇の怪我が悪化するようなことがあったらどうしよう。かなりの勢いで突進してしまった。しかも頭からだ。最悪、骨の一、二本、ひびが入ったかもしれない。

 綺堂は笑った。

「いやあ、夏芽さんにはいつも驚かされるが、今回は本当にまいったね」

 綺堂は由宇奇、ではなく、夏芽に手を貸し、起き上がらせると、白いベッドに座らせた。

「由宇奇、演技をしても、夏芽さんにはお見通しみたいだ。貴様はまだ傷が治っていない。通常の人間通りに動くことも、ままならない状態だ。もう少し休息が必要と言っていいだろう。その間、妊婦殺害事件については、僕が主導して調べよう。しかし、一人では心もとない。そこで、夏芽さんを今まで通り、助手として起用しようと思う。あくまで、貴様の復帰までだ」

 由宇奇は壁伝いに立ち上がった。「普通、けが人に手を貸すだろうが」、とかなんとか、嫌味を垂れ流す。腹部と肩を両手で押さえながら、ゆっくりとベッドまで向かうと、夏芽の横に腰を下ろした。

「俺が、俺がやられたときの姿、見たか?」

 険しい顔だった、夏芽は頷く。それから、

「すみません、今、やりすぎました……」

「あの時の俺の姿」

 由宇奇は夏芽の言葉を遮った。

「忘れるな。お前は絶対ああなるな」

 由宇奇の脳内には、あの旋風が甦っていた。思わず手を放してしまうほどの、突風。恐ろしい表情の、拾。友人だった、拾。

 救うことが出来なかった。たった風ひとつで、この手を放してしまった。もっと強く、奴を捕まえてやるべきだった。捕まえて、放さない、二人の友情は、そのくらい強いものだと思っていた。

―――最初に手を放したのは、俺だ。

 白いシーツは、由宇奇と夏芽の体重で皺を作る。めしめしと軋むベッドは、由宇奇が小刻みに震えているのを夏芽に分からせた。あの由宇奇が、誰よりも男らしく、頼れる由宇奇が震えている。それ程、相手は恐ろしいのか、それとも、従兄弟であるという事に罪悪感を抱いているのか。夏芽にはわからなかった。

「俺は、怖い。お前が、血の海に寝転がる姿が思い描かれて、嫌でも脳内に映し出されて、それに恐怖している。しかも、それを行うのが拾だと考えると、従兄弟だと考えると、それだけで恐ろしくて、壊れてしまいそうだ」

「私は、死にません。約束します」

 震える由宇奇の手を、夏芽は握った。

「俺の身体が治るまで」

 由宇奇は静かに唇を動かした。

「俺の身体が治るまで、あいつを、止めててくれるか」

 ああ、やはり、由宇奇は、拾への恐怖で震えていたのではなかった。従兄弟を思いやる、優しい思いから来た震えだったのだ。

「お前なら、できるかもしれない」

 由宇奇は続けた。

「同じ“夜崎”の姓を持つ、お前なら」

 夏芽は強く頷いた。

「絶対に、助けてみせます、まなみさんも、拾って人も」

 由宇奇は顔を上げて夏芽を見た。夏芽は見つめ返して、もう一度頷いた。

「二人とも、助けてみせます」

「夏芽さん、そうと決まったら、一度行ってみたいところがある」

 綺堂が言った。

「先日、“向こうの世界”の公衆電話から、連絡があった。由宇奇の手術中だったから、出ることが出来なかったが、多分、何か僕に知らせたいことがあって連絡してきたのだろう。そんなことをしてくるお人よしは一人しかいない。少々危険を伴うが、久しぶりに、八千代トンネルを通ってみないか」

 きっと、綺堂に連絡を入れたのは、お人よしの妖怪、通称“人喰い女”、波奈野目優子である。夏芽は立ち上がった。

「行きましょう」

「喰われるかもしれねえんだぞ、危険だ」

 由宇奇が言う。

「言ったでしょう、絶対に、助けてみせますって」

 夏芽は由宇奇に笑って見せた。

「それに、私の事は、綺堂さんが助けてくれるから大丈夫なんですよ」

「夏芽さん、ついに僕の事を利用し始めたね?」

「いつもの事じゃないですか」

 二人の会話に、由宇奇は静かに微笑んだ。この二人なら、任せても平気かもしれない。拾を、救ってくれるかもしれない。犯罪の嵐を、治めてくれるかもしれない。そして、それに終止符を打つのは、従兄弟であり親友である、由宇奇自身でなければならない。その為に、早く回復しなければならない。

「早く行け」

 由宇奇は言った。

「早く行って、優子に会ってこい。それで、全て終わるんだったら、ここに居る時間がもったいない。俺も、寝て、早く治さなきゃいけねえしな」

「お前が戻ってくるころには、既に事件は解決しているだろう。残念だったな、由宇奇。今回も僕の勝ちだ」

「“も”ってなんだ“も”って。お前に負けた覚えはないし、勝負さえした覚えがないぞ」

 ははは、と綺堂は笑った。

夏芽は部屋を出る最後まで、由宇奇の体調を心配していた。心配してくれなければ困る。夏芽が由宇奇の怪我を悪化させたようなものなのだから。由宇奇は、態と痛がったり、嘘だ、と言って誤魔化したりして最後まで夏芽を困惑させた。その度に、夏芽の表情はころころと変わる。面白い“女”だ。

 綺堂と夏芽が部屋を出た後、由宇奇は窓の外を見つめていた。三階だろう、眺めがいい。三階と言えば、同じ階にたかねの母、まなみがいる筈だ。もしもの時は、自分が守ることが出来る。しかし――――――。脳内に先程の夏芽の泣き顔が浮かんだ。

―――無理はしないでおこう。

 由宇奇は静かにベッドに横になると、目を閉じて強引に眠りについた。







 春代はテレビをつけた。ワイドショーで、“連続妊婦殺害事件”の話がされている。今日は、由宇奇秋人は休みのようだ。夏芽から連絡があったが、“ダンプカーに轢かれて”重症なのだそうだ。

「秋人くんが出てたから見てたようなものなのに」

 ため息を吐く。つまらない。秋人の容態については、ワイドショーでは取り上げられていないが、体調不良のため、欠席、とされていた。

 由宇奇の代わりのコメンテーターは退屈な人間だった。有名大学の教授らしいが、猟奇的だとか、残虐的だとか、幼少時に何か問題を持っていた者が犯人だとか、誰でもわかる事ばかり、大げさに言ってのける。

「そんな発言、誰も求めてないのよ、馬鹿な教授も居るのね」

 春代は文句を言いながら、しかしワイドショーを見続けた。

 この事件には特に興味があった。何故かわからないが、嫌な予感がして堪らなかった。先程、夏芽から「由宇奇が目を覚ました」という事と「会話できるくらい回復している」という事を聞いた。由宇奇の家系は特殊だから、“ダンプカーに轢かれた”程度で死ぬことはないだろうことは、春代は知っていた。それにしても、三日も目を覚まさないとは、相当な勢いでダンプカーに轢かれたか、かなり巨大なダンプカーに轢きつぶされたに違いない。今日中にでも、由宇奇の所にお見舞いに行こう。花は何がいいか……いや、男性のお見舞いに行くのに花はよくないか。そう言えば、まなみも由宇奇と同じ病院に入院しているという。

―――二人同時にお見舞いしちゃえば、一石二鳥だし、楽ちん楽ちんね。

 春代はにこり、と笑った。

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