三、

 とんとん、

 病室のドアが叩かれる。

「どなた?」

 不信感を抱きながら、まなみは言う。

「夜崎夏芽さんの、知り合いの者です」

「あら、夏芽ちゃんの。たかねから聞いてるわ。さあ、入って」

 まなみは男を病室に招き入れた。

 まなみはたかねの母で、活発な性格の女性だ。出産直前まで働こうとしていたようだが、今回の事件の事もあり、夫とたかねに説得されて、昨日から入院している。

 今日、夏芽が見舞いに来る、ということは聞かされていたため、然程驚かなかったが、まさか知り合いの男性だけが来るとは予想外だった。夏芽は来ないのだろうか。

「唐沢まなみさん、ですよね?たかねさんの、お母さん」

「そうです。たかねとは」

「夏芽さんの知り合いなんです」

 夏芽が変わった子だという事は聞いていたが、この着物姿の不思議な男性、夏芽の彼氏だろうか。

「心配で、お見舞いに来てしまいました」

「ありがとうございます。お出しできるものなんてないけれど、よかったらお話していかない?私、とっても健康なのに、強制的に入院させられちゃって、とっても暇なのよ。どうかしら」

「いえ、今日は、これを届けに」

 男は花と千羽鶴を取り出した。

「早く元気になってほしいなって思って。あ、言い方が間違ってますよね、元気な男の子を、産んでほしいなって思って」

 男はにっこりと笑った。

「因みに夏芽さん、少し遅れてくるそうです。僕は、このあと用事があるので、すぐ行かなきゃいけないんですけど」

「そうなの、残念」

「お子さんのお名前は、決まってるんですか?」

「うふふ、まだ悩んでてね。秘密よ」

「そうですか。産まれたら、教えてくださいね」

 花と千羽鶴を置いて、男は立ち去って行った。去り際に振り返って、

「あ、夏芽さんたちに、よろしくお願いします」

「ええ。気を遣ってくれてありがとうね」

 男が出て行ってから少しして、花を手に取る。白いチューリップ。良い香りがする。春に咲く花、チューリップ。その中でも、白という、こんなに繊細な色を選ぶなんて、きっと素敵な方なんだろう。千羽鶴まで用意してくれて。夏芽はあんな優雅な人を恋人に持っているのだから、幸せ者だ。まなみは花を抱きながら、そんなことを思っていた。

 男は廊下を颯爽と歩く。不意に笑いがこぼれる。

 くくくく。

 人間ごっこは面白い。

 院内ですれ違う人は皆、男を振り返っては怪訝な顔をした。着物姿は、やはり、この世界では派手のようだ。

しかし、好情報を手に入れることも出来た。まなみの“男児”は、順調に成長している様だ。そろそろか。そろそろ“とりだす頃か”。

 男の不気味な引き笑いが、院内に響いた。







 綺堂、夏芽、由宇奇は、病院への坂道を上っていた。

「たかねのお母さん、元気だと良いですね」

「ああ」

 綺堂は言葉少なめに言った。どうやら、由宇奇の家に泊まったのが余程気にくわなかったらしい。

「夏芽さんにも二日連続で会うことが出来て、面白い事件を解決に導こうとしているというのに、何でこんなにも気持ちが重いんだ」

「悪かったな、俺の部屋が狭くてよ」

「ああ、その通りだ。僕はあんなちっぽけな部屋に住む蟲男の気がしれないね」

「誰が蟲男だ。ふざけてるといい加減殴るぞ」

「好きにし賜え。この世界には警察という奴がいるんだ。即刻呼んでやる。もう二度とお前の顔なんか見なくて済むようにな」

「二人とも……仲良くしてくださいよ」

 夏芽は困ってしまった。

「これからお見舞いに行くっていうのに」

「ああ、その事だがね」

 綺堂は先程から持っていた大きな紙袋から、花束を出して見せた。

「ガーベラの花束だ」

「オレンジやピンクの色とりどりのガーベラが、籠に詰まっていた」

「わあ!素敵!」

「お前、いつの間に調達しておいたんだ」

「さっきさ」

「ああ、ついでに俺の煙草を買って来いって言って、買ってこなかった時か」

 ちっ、と由宇奇は舌打ちをした。

「ガーベラにはね、『希望』という意味の花言葉があってね、特にこのピンクのガーベラの花言葉は『我慢強さ』。子供を産むというのは、非常に大変な仕事だ。それを我慢強く、耐えて、立派なお子さんを産んでほしい、そんな意味を込めて、ガーベラのフラワーアレンジにしたのさ」

「綺堂さんって、意外と気が利くんですね」

「意外と、とはなんだい、夏芽さん」

「俺とは違ってよ」

「由宇奇さん、良いじゃないですか、私だって何も持ってきてないし」

 由宇奇は煙草をふかしながら、不服そうだった。一本取られた、という奴だろう。

 部屋番号を知っていたので、受付には寄らず、そのまま病室へ向かった。エレベーターが降りてくる。

「こちらの世界には、こういった愉快なものがあるから、面白いね」

「綺堂さん、こっちに居る時は、“向こうの世界”のことはしー、ですよ」

 夏芽は人差し指を唇に当てた。

「分かってるよ」

「由宇奇さんも」

「へいへい」

 エレベーターが三階に着いて、三人はエレベーターから降りた。まなみの病室は、三〇三号室。エレベーターを出てすぐそこだ。

 三人は静かに歩みを進めると、病室のドアを叩いた。

「あら、夏芽ちゃん?」

「はい、おばさん、入りますね」

「どうぞ」

 まなみの声は明るかった。三人は病室を開け、息を呑んだ。

―――白のチューリップ、しかも鉢植え……。

「たかねのお母さん、私たちが来る前に、誰か来たんですか?」

「ええ、着物姿の方でね。夏芽ちゃんの彼氏も着物姿って聞いてたものだから、てっきりそうだと思ったんだけど」

 それから綺堂を見て、

「着物姿のヒトって、意外といっぱいいるのかしら」

 夏芽はまなみに駆け寄った。

「何もされてませんか?無事ですか?」

「何言っているのよ。あのヒト、夏芽ちゃんの知り合いだって、言っていたわよ」

「……知り合いじゃ、無いんです」

「え?」

 まなみは目を見開いた。

「でも、千羽鶴や、こんな素敵なお花まで用意してくれて……」

「千羽鶴?」

 そこにはよれよれの千羽鶴があった。

「とても古そう……」

 夏芽は首を傾げる。まなみは千羽鶴に目を落とすと、

「あら、確かに。まさか使い古し?嫌な人だわ」

「まなみ、さん」

 綺堂が言った。

「その、チューリップも、奴が置いて言ったんですか」

「奴って……ほんとに知り合いじゃないのね?ええ、そうよ」

 まなみは肩を落とした。

「てっきり夏芽ちゃんの恋人か何かかと思って、楽しくおしゃべりまでしちゃって、私ばかみたいね。たかねが、言ってた、着物姿の彼氏だと勘違いしてしまって」

「それは、僕の事です」

「そんなことより、おめえさん、やべえぞ」

 由宇奇は三人の間に割って入った。

「その白いチューリップの花言葉は『失われた愛』だ。しかも、入院患者に送ってはいけない鉢植えで送っている。病魔が根付く、という意味で、忌み嫌われていることだ。それをわざわざしてきたってことは」

 一息置いて、由宇奇は言った。

「次の犠牲者は、お前さんだ、まなみさん」

「え?どういうこと?」

 こほん、と綺堂が咳をした。

「今の話じゃ、ごちゃごちゃし過ぎていて分かりづらいだろう。まとめるとこういう事だ。あなたのところに今朝来た男は、夏芽さんの知り合いじゃない。そして男は病人に与えてはいけない根付きの鉢植えの白いチューリップを置いていった。白いチューリップの花言葉は、『失われた愛』。つまり、子供を奪われた母の苦しみ若しくは、母を失った子供の苦しみを暗示している、と思われる、何故ならば。今日ここに来た男の外見が、多分着物姿と言うだけで容易に想像できるが、“連続妊婦殺人事件”の犯人に酷似しているからだ。だから由宇奇秋人、このルポライターは、次に狙われているのはあなただ、と確信したんだ。勿論僕も。そして、夏芽さんも、ね」

「そ、そんな……でも、その為に入院したんじゃ……」

「多分だが、あんたは、最初から狙われてたんだ」

 由宇奇は言った。

「あの、たかねって少女、何か良くないモノをひきつける体質みたいだからな」

「じゃあ、わたしは、この子は、死ぬんですか?」

 まなみは顔を強張らせて言った。

「嘘よ……うそ……たかねも、お父さんも、あんなに楽しみにしているというのに……私は、この子は、死ぬの……?」

「大丈夫です」

 綺堂が言った。

「そうさせないために、僕たちはここまで来ました。あなたに会って、あなたを守るために」

「安心してください」

 夏芽も続けて言う。

「綺堂さんと由宇奇さんがいれば、安全です。あとは、たかねのお母さんが、安静にしててくれればそれでいいんです」

 まなみは三人の顔をかわるがわる見た。

「本当に、守ってくれますか?」

「勿論です」

「いいか、今度、そいつが来たら、すぐにナースコールしろ。そうすれば人が駆けつけてくれる。それと、奴は普通に産ませるのではなく、切迫早産に追い込んで無理やり胎児を引き出す。自分の手を汚さずにだ。少なくとも、男手があった方が良い。旦那を、呼び戻せ。付いててもらえ」

「わ、わかりました……」

 まなみは冷や汗を流しながら言った。そんなまなみの手を、綺堂が優しく握った。綺堂とは思えない微笑みだ。

「大丈夫ですよ、心配しないで。僕たちが、付いてますから。安心して、立派なお子さんを産んでください」

 それから、

「このチューリップと千羽鶴は、不吉なので持って帰りますね。代わりに、僕が今朝買ったこのガーベラをプレゼントします。ガーベラの花言葉は『希望』、そして、ピンクのガーベラの花言葉は『我慢強さ』。あなたなら、耐えぬけます。いいですね?安心して、ただ眠っていてくれればいいんです」

 まなみは頷いた。

「分かりました。主人をすぐに呼び戻します。だって、息子の大事だもの。私の事はどうでもいいけれど、息子を死なせたくない。そしてたかねを悲しませるのは、もういやですもの」

「強い人で良かった」

 綺堂はまなみの手を放した。

「それでは、僕たちはこれで」




「てめぇ、何のつもりだ」

 由宇奇は部屋を出ると、ぼそりと綺堂に言った。

「あの不気味な笑顔はなんだ」

「私も、びっくりしました。綺堂さんが、あんな優しいことをするなんて」

「嫉妬かい?」

「いえ、違います」

「いいかい、妊婦ってのは、ただでさえホルモンの乱れで、自律神経がおかしくなっている。そこにあのような恐ろしい話をしてしまったら、恐怖で錯乱して何を起こすかしれない。妊婦への一番の治療法、それは、“安心させること”なのだよ。もし、僕たちが彼女に怖い話だけを聞かせて“気をつけてください”なんて言って去ったら、彼女は何に対しても“気をつける”ようになる。食事も、なにもかも。そして、心も身体も弱っていく。それが奴の仕組んだ罠だ。だから、僕はそれを逆手に取ってやった」

「成る程な」

 由宇奇は頷いた。

「いつものお前らしくねえと思った」

「僕は単なる興味のない人間に優しくしたりなんかしない。しかし、夏芽さんや夏芽さんの友達のたかねくんの大切な人だならば、守ってやらねばなるまい」

「俺たちみたいな、半妖半人が関わっていることだしな」

「ああ。放っては置けない事態だ」

 綺堂は白いチューリップの鉢植えを、由宇奇に渡した。由宇奇はそれを地面にたたきつけようとしたが、夏芽が慌てて止めた。

「花に、罪はないので……」

 夏芽は由宇奇から鉢植えを受け取った。

「私が育てます」

「不吉な花だぞ」

「でも、きれいじゃないですか」

「確かにそうだ」

 綺堂は頷いた。

「それに、チューリップ全般の花言葉は『思いやり』夏芽さんにピッタリの言葉だ」

 夏芽は少し顔を赤くした。

「そういわれると、照れますね」

 昼の鐘が鳴る。夏芽の腹の虫も、そろそろ限界を迎えそうだ。

「何か食べませんか、うちの親が、用意していると思うんです」

「本当かい!いやあ、お母さんの手料理が食べられるなんて、嬉しいよ」

「なんか、勘違いされそうだから、俺は遠慮しとくわ」

 由宇奇は言った。

「えー!由宇奇さんも来てくださいよ」

「だーかーら。おめーの母親に変な因縁つけられたくねえっての。また親族での集まりがあった時に気まじいだろうが」

「そうですか」

 夏芽は残念そうに肩を落とした。それを見て由宇奇は、

「まあ、気持ちだけ、ありがたく受け取っとくよ」

と言った。

「それから、綺堂」

 綺堂は由宇奇の方を向く。

「その千羽鶴、よこせ」







「ああ、愉快でたまんねえや」

 半顔を包帯で隠した着物姿の男、拾は、楽しそうに笑った。

「すぐ人の事、信じちまうんだからなあ」

 拾は懐から手鏡を出した。

「こんな顔で、こんな格好でも、ああ、こんなのもいるんだ、で終わる。人間世界では、やりづれえ格好かと思ってたけど、そうでもなかったか。不思議なもんだね。人混みの中に居たら、溶け込めちまう、どんな珍妙な姿でも、例え、半分以上が妖怪だとしても」

 くくくく……。

 拾は、八千代トンネルの淵にもたれ掛かっていた。

 誰も、拾を、悪魔の殺人鬼だとは思っていないのだ。すれ違いざまに、殺されてしまうかもしれない、そんな恐怖を、彼らは感じることなく、しかし身近に潜ませながら生きている。そう考えると、愉快でたまらない。

「ああ、おもしれえ、これから滅ぼすってのに、今更面白さに気付いちまうなんてね」

 だが、拾の心は変わる由もなかった。傷つき、やつれ、錆付いた心は、今や修復不可能であった。脳味噌が、人間の誕生を阻止せよと命じる。だから子供を、産ませない。産み落とさせない、新たな命を。今まで、自ら手を汚すことを避けてきた。しかし、もう我慢が出来ない。血が見たい、血が。あのほとばしる鮮血を。

あと一人。あと一人で、妖怪世界と人間世界が繋がる。そうしたら、ゾンビ化した妖怪たちが、人間たちを、嫌でも滅ぼしてくれる。自分を生み出してくれた、母なる人間を……。母という存在が、この世から消える。

 なんと喜ばしいことか。

「夜崎拾」

 突如、名前を呼ばれ、拾は振り向いた。そこには見知った顔があった。

「やっぱり、来ましたか、由宇奇秋人」

 由宇奇は手に持った千羽鶴を目の前にかざした。

「お前、こんな大事なもん、捨てちまったらいけねえだろ」

「何言ってんだ、俺にゃ大事なもんなんか、存在しちゃあいねえって」

「これは、お前の親父さんが亡くなる時に、お前が作った、千羽鶴だろうが。この、不細工な作りですぐにわかった。お前、関係もない人間殺して、母親に復讐したような気になってんじゃねえだろうな」

「なってるとしたら?」

 拾は悪戯っぽく笑った。

「母親に復讐した気になっているとしたら、どうするってのさあ?」

「てめえ」

 由宇奇は拾の胸倉を掴んで、トンネルに押し当てた。

「死んだ、親父さんの気持ちも考えてみろ。確かにお前の母親は、悪魔みたいなやつだったさ。でもな、親父さんは精一杯お前を守ろうとした。死んじまったけど、守ろうとしたんだ。その、守られた命を、こうやって無闇に“人の命を奪う事”に使うなんて、親父さんに謝れ!天国の親父さんに」

「天国なんざあ、ねえよ」

 拾は冷たい目をしていた。

「俺あ、観てきた、いろんな奴の死を。そこには、地獄しかなかった。天国なんざあ、ねえよお、なあ、由宇奇。おめえにも、わかるだろうよ」

「わかんねえな」

「わからせてやるっていってんのよ」

 突然、強風にあおられたように、由宇奇は拾から遠ざけられた。胸倉を掴んでいた手が、離れてしまう。

「俺あさあ、由宇奇の事は嫌いじゃねえよ?寧ろ大好きなわけ」

 拾はゆっくりと、右半顔の包帯を説き始めていた。

「けどよお、世界一嫌いなもんがあるんだあ」

 右半顔が露わになる。焼け爛れ、まぶたがない。表情のない顔は、由宇奇を睨み付けると言った。

「胡散臭え、説教だよお、由宇奇」

 真赤な炎が上がった。由宇奇は唖然とそれを見つめる。人間世界で、妖力を使うことが出来る半妖半人はいない。何故ならば、それが人間世界の秩序を乱すことに繋がるからだ。しかし、目の前に居る夜崎拾は、それをあっけなく壊してしまった。それほどまでに、奴の心は汚染され、そして妖力は、強かった。

「よせ、拾!」

「大丈夫、今の俺の標的は一つ」

「一つ?」

 真赤な炎の弦が、拾の右半顔から生えるようにして飛び出し、動きを止めて、由宇奇の方を見た。見た、という表現が正しいのかはわからない。しかし、炎の弦は確実に、由宇奇を捉えていた。

 拾はにやりと笑って、仕留めるように言った。

「お前だよお、由宇奇い」







 昼食を食べていた夏芽の携帯電話が鳴った。

「もうなっちゃん、ご飯を食べるときくらい電話はしまって?」

「だって、何があるかわからない世の中だよ。持っておかないと。ちょっと待ってて」

 夏芽は箸をおいて、携帯電話の画像を見た。知らない番号からだった。

―――誰だろう。

 夏芽は不審に思いながら電話に出た。

「もしもし?」

『もしもーし。由宇奇くんの、お知り合いさん?』

「あ、はい、そうですけど」

『由宇奇くんねえ、ダンプカーに轢かれちゃってね、今、死にそうなの。八千代トンネルの近くでねえ。この世界の“救急車”?とかの番号知らねえから、とりあえず、ここに電話してみたんだけどお、なんてったって、名字があ、俺と一緒だから興奮しちゃって』

「名字が一緒?何言っているんですか?てか、由宇奇さんがダンプカーに轢かれたって」

 綺堂が箸を止めたのが分かった。

『とりあえず、八千代トンネルに来たほうがいいってことよ。由宇奇、死んじゃいそうだからさあ』

「夏芽さん、代われ!」

 綺堂は奪うように夏芽から携帯電話を取り上げた。

「おい、おい!お前!」

 ツ―――――――。

 電話は切れていた。

「くそっ……」

 いつになく、綺堂が取り乱した。

「夏芽さん、奴は、なんて?」

「あの、八千代トンネルの近くで、由宇奇さんがダンプカーにはねられたから、すぐ来いって……」

「行こう。まず、一一九番するんだ、八千代トンネルに向かうようにって」

「わ、わかりました」

 春代は慌てて、

「秋人くん、どうかしたの?」

「詳しくは、後で話します!今は、急ぎますので、御馳走様でした!夏芽さん、行こう」

 綺堂は夏芽の手を取って走り出した。夏芽は救急車の要請をしながら、八千代トンネルを目指す。穏やかではない風が吹いていた。あの妖怪世界の様な、曇天の空の下。夏芽は少し狼狽えながら、綺堂のがっしりとした手だけを頼りに走った。

 八千代トンネルには、まだ救急車が到着して居ないようだった。そう分かったのは、人気のないいつもの様子と、血だまりの中で横たわる、由宇奇秋人の姿を見つけたからだ。

「由宇奇!」

 綺堂は夏芽から手を放すと、由宇奇の元へと駆け寄った。余りにもおびただしい血痕が、トンネルの手前一帯を黒い水たまりのように映しだす。綺堂は由宇奇を抱き起すと、何度も名前を呼んだ。

「由宇奇!由宇奇!しっかりしろ!」

 反応はない。夏芽は呆然と立ち尽くすことしかできなかった。

 綺堂は着物の袖をちぎると、由宇奇の腹を押さえた。どうやら、そこが致命傷らしい。血があふれ出続けている。

「くそっ、血が止まらない……」

 夏芽は脳味噌がぐらぐら揺れるのを感じた。さっきまで、隣にいた人が、死に逝こうとしている。由宇奇は目を開けない。血だまりは、少しずつ広まって、夏芽の足元まで到達していた。

―――血だ……。

 冬に、綺堂の血を見た時に卒倒したのを思い出した。あの時は、脳味噌が正常では無かった。今は違う。

 夏芽は由宇奇の元に駆け寄った。

「由宇奇さん!」

「夏芽さん、あらゆるところを切り刻まれている。本当に、まるでダンプカーにでもはねられたかのようだ。ここを、押さえてくれ」

 言われた通りに、夏芽は由宇奇の胸の位置を押さえた。由宇奇は目を覚まさない。

「脈はある。まだ、生きている。大丈夫だ。救急車がくるまで、なんとかもたせよう」




 遠のいていく意識の中、二つの顔が由宇奇の瞳に映った。

 俺は、死ぬのか。

 何もできずに。

 友人一人救えずに。

 死ぬのか。




「死ぬな!由宇奇!お前にはまだやることがたくさん残っているだろうが!」




 やること……。

 忘れてしまった……。

 もう死ぬのだから。

 いいだろう……。




 悲鳴のような、綺堂の声がトンネルに反響した。しかし、由宇奇には、もう何も聞こえなかった。







「なんであたしだけ」

 優子は家に閉じこもり、コーヒーを飲みながら言った。

「人を喰らうなんざ、寧ろあたしの方が都合がいいってのに」

 妖怪世界の妖怪たちは、皆人間を襲い、喰らうようになっていた。どん、どん、と魂が消える音がする。耳をふさぎたい気分だった。

 優子が“妖怪”を辞めてから早数百年が経つ。その為、その名を知らぬ者も多い。その所為だろうか。もしその所為で毒されていないのだとしたら。

“妖怪であることを忌み嫌う妖怪”は毒されることはないのかもしれない。

 その時、玄関インターホンが鳴った。こんな時に、こんな恐ろしいときに一体誰が。

 ドアを開くと、そこには人間がいた。恐怖で逃げ込んできたのだろうか。優子は、

「あんた、人間だね?怖いだろ。入んな」

「どうしてだ」

 男は言った。

「なんで、おめえには利かねえ」

「何を言っているんだい?」

 奇妙だ、と、男は笑った。それから、

「上がらせてもらうよ」

と、優子の家へ入った。

「あんた、帰り道、わかるかい?今、妖怪の世界はおかしくなっていてね。このままここに居ると、あんた、危ないよ」

「へえ、そうなんだあ」

「……ここまで来るのに、襲われなかったかい?」

「あんた、俺を見ても、“正気”なのかい?」

「何を言っているんだい」

 会話がかみ合わない。男はくくくく、と笑うと、

「珍しい妖怪も居るもんだね。興味深い。あんたの話、聞かせてくれないかい」

「あたしの話?」

「ああ、あんたが」

 男は一呼吸置いた。

「妖怪を辞めた話」

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