一、
妖怪世界は“喪”に服していた。静かな空、誰も居ない街。
あの賑やかさは何処へやら。
しかし、これほど居心地のいいことはない。綺堂はぐっと伸びをした。もともと日向が苦手な綺堂は、この曇天も、生温い空気も好きだった。唯一気にくわない、三百日間の祭りが終わり、綺堂は上機嫌だった。
綺堂壱紀は古本屋をしている。今どき、古本が売れるなんて、と思われがちだが、妖怪世界では、意外と人気だった。しかも、綺堂の古本屋はどんな本でも揃っている。祭りが終わり、喪の時期に入ると、毎日のように、古本を求めて、妖怪や半人、勿論人間なども訪れていた。
二階で本を読みながら、最近、客が減ったなあ、と思っていた。別に、それで生活が出来なくなったりすることはないのだから、気にする必要は無いのだけれど。
外に目をやる。ふと、気になる男が通った。
長い髪に、右半願は包帯で隠されていて、花柄の、女が着るような派手な服を、胸元まで開けっぴろげて着崩している。
―――初めて見る顔だな。
男はその風貌に似合わず、葉巻をふかしながら、鼻歌を歌っていた。
―――変わった奴もいるもんだ。
本に視線を戻す。すると、
「これから、人間の世界は変わる」
男の声がした。
もう一度道に目をやると、派手な男はこちらを見ていた。
「もう少しで、始まる」
それだけ言うと、男はまた鼻歌を歌いながら、歩いて行った。男の去った後には、気味の悪さだけが残った。
あの男は誰だろうか。以前、夏芽が言っていた人物に、特徴が似ている気がする。夏芽は、その人物に惑わされ、危うく命を落としかけた。もしその人物と同一人物であるとしたら、危険な奴に間違いはない……。
そう言えば、古本屋に客がひとりも来ない、というのも奇妙な話だ。もう、客足が途絶えて、一週間以上になる。今まで、一週間も客が来なかったことがあっただろうか。
道を、妖怪がひとりも歩いていない、というのも変だ。喪に服しているといっても、食料の調達や、友人宅への訪問など、やることは沢山ある筈なのに。
辰之助の姿も見ていない。奴に関しては、喪に服す、という言葉が全く通用しない、という感じで、年がら年中、毎日、綺堂の家へ訪れる。しかし、ここ一週間、いや、祭りが終わってから一度も、辰之助の顔を見ていない。
―――何か、起きているのかもしれない……。
綺堂はぱたり、と本を閉じた。
その頃、人喰い女、波奈野目優子も異常を感じ取っていた。優子は妖怪離れして早数百年、仲のいい妖怪は、ぎょろ眼の辰之助と半妖半人の綺堂壱紀くらいであった。彼らが優子の家を訪れないのは別にかまわない。しかし、この胸騒ぎ、なんだろうか。純粋なる妖怪だからこそ分かる、この気持ち悪さは一体なんなのだろうか。
優子は、夏以来ハーブティにハマっていた。特に、ローズヒップティは、優子の好きな赤色をしているし、香りも酸味があって好きだった。次に好きなのが、ジャスミンティ。ローズヒップティもジャスミンティもカフェインが入っていないので、子供の夏芽が来ると、コーヒーでは無く、そちらを出すようにしていた。最近ではコーヒーでも、“デカフェ”というものがあるらしい。今度試してみよう。
蟲男事件が終わった後、妖怪世界はすぐに喪に服した。綺堂が夏芽に「喪に服すと静かでいい」とか言ったのだろう。賑やかな世界が好きな夏芽は、すっかり二週間ほども遊びに来ていない。しかし、何となく感じ取れるこの世界の異常……夏芽は、暫く来ない方が良いだろう。
優子はローズヒップティをすうと口に運ぶと、窓の外の曇天を見上げた。
*
「たかねー!おめでとう!」
「ありがとう、夏芽」
たかねは嬉しそうに微笑んだ。
「まさかこの歳で弟が出来るなんてね」
「うらやましいよ。私、一人っ子だから」
「一人っ子同士だったのにねー。夏芽だけ置いてっちゃって、ごめん!」
新しい学年への期待を胸に、なつめとたかねは地獄坂を上っていた。春の息吹に包まれる。そんな中、たかねの母が妊娠し、新しい命が誕生しようとしていた。
「どうしてもっと早く教えてくれなかったのよ。来月生まれるってことは、もっと早くわかってたってことでしょ?」
「だってぇ、宮本先輩の事で忙しかったし、なにより夏芽を驚かせたたくて!」
「そりゃ、びっくりしたけどね」
「夏芽は、弟ほしいとか思わないの?」
「うーん、お兄ちゃんなら欲しいけどなあ。あと、妹なら。弟だと、大きくなってから色々馬鹿にされたりしそうで嫌。ほら、年下男子って、何かと目上の人に反抗的じゃない」
「これから弟が生まれるって人になんてこと言うのよ」
たかねは肩をすくめた。
「でもね、私には夢があるの」
「何?」
「弟が、二十歳になって、二人で歩いても、姉弟じゃなくて、親子じゃなくて、“カップル”に見えるような、そんな二人になりたいなってね」
「たかねがいつまでもその“美貌”を保ってなきゃ無理な話ね」
夏芽は皮肉っぽく言った。
「おばさんにはなっちゃだめよ」
「そうだねー。いつまでも綺麗でいなきゃ」
たかねは自分の頬を叩いて気合を入れた。
「てか、春休みの宿題終わった―?」
「終わったよ。まあ、ぎりぎりだったけど。お蔭で、“向こうの世界”にも行けなかったし、つまんない春休みだった」
「“向こうの世界”って、マジで夏芽はいつまでたっても信じてるのね。綺堂壱紀って人は、ほんとに居たみたいだけど。あ、もしかして、あの人にだまされてるんじゃない?妖怪がいるとか、あれは妖怪ですとか」
「違うから。もう、たかねには何も話さない」
夏芽はプイと横を向いた。
教室に入ると、鷲島がいつものように、偉そうに教員用机に座っていた。鷲島は体育教師で、いつも竹刀を持ち歩いている。強いとか、格好つけだとか、いろんな噂が流れているけれど、夏芽は、鷲島と竹刀は“二つで一つ”つまり、セット物と同じ感じだと勝手に解釈していた。ペット好きのおじさんが、犬を連れて散歩するのと同じ、宝石趣味のおばさんが、毎日高級なルビーのネックレスを付けているのと同じ感覚だ。
教室では、みんなひそひそ声で喋る。鷲島が怖いからだ。たかねが小声で、
「また、ホームルームの十分も前なのにいるよ。気まずいっての」
夏芽は、鷲島には進路の相談に乗ってもらったり、アドバイスをしてもらったり、かなり良い待遇を受けていたので、たかねとは違う意見だった。卒業するまでにもっとクラスに溶け込んで、みんなと仲良くなれればいいと思う。見た目がこれだからとても誤解されやすいが、進路相談等、様々な悩みを聞いてくれる良い先生だ。だが、彼にそんな相談をする生徒はいない。それが残念でならない。みんな、もっと鷲島のいいところを知るべきである。
「たかねちゃん」
同じクラスの朝香が声をかけてきた。
「弟が生まれるんだって?」
「そうなの!」
「おめでとう!なんか、お祝いしなくちゃね」
「えー、いいよー気にしないで」
気にしないで、と言いながら、たかねは絶対に“お祝い”を期待している。
「クッキーとかでいいよ」
「じゃあポディバのチョコレートクッキー、弟君生まれたらあげるね!」
朝香は嬉しそうに言った。
「名前は決まってるの?」
「ううん、まだかなあ」
たかねは拳に顎を乗せた。
「でも、ひらがなにしようかって。わたしもひらがなだから」
「そうなんだ。姉弟名前揃ってるとか、素敵」
朝香は笑った。
「夏芽ちゃんも、親友に弟が出来るなんて、嬉しいでしょ」
「そりゃあ、うれしいよ。かわいかったら、貰っちゃおうかと思ってる」
「えー!さっきは弟は嫌だとか言ってたくせに。絶対にあげないんだから」
「ふふふー。どうかなー。ある日突然私の弟になってたりして」
二人のやり取りを見て、朝香は愉快そうだった。
チャイムが鳴る。三人は慌てて席に戻ると、鷲島が立ち上がって、
「ホームルーム、始めるぞ。赤崎」
「はい!」
緊張感漂うホームルームが始まった。今日は進路について、アンケートを配るらしい。来週までに書いてもってこい、という内容だった。それから、受験が近いこと、進路が決まっている者はそれに向かって勉強を進めること、部活動も最後だからやりきりなさい……という話などを長々とされ、時間ぎりぎりになって、
「これでホームルームを終了する」
と言った。生徒たちが、ほっと胸をなでおろす。やっと終わった。
「唐沢たかね」
突然名前を呼ばれて、たかねは驚いて立ち上がった。
「は、はい?」
「片付けが終わったら、体育研究室まで来い」
それだけ言って、鷲島は教室を出て行った。たかねの顔がみるみる青くなる。夏芽はたかねに駆け寄ると、
「何したの!たかね、何したの!」
「何も……だって、今日が学年変わって初登校の日だよ?」
「変な不良とつるんでたところを見られたとか、そういう事はない?」
「こう見えて、変な不良とつるんだりしないから、私」
確かに、たかねは正統派のイケメンや、“頭良さそう”で地味な男子が好きで、そういう子たちとばかり仲がいい。女子なら尚更だ。不良やヤンキーとつるんだりする筈がない。
「……兎に角、行かないと、もっと、やばいよね?」
「……鷲島先生、意外と、いい人だから、大丈夫だよ」
夏芽は勇気づけるように言った。
「私の進路の話もね、真剣に聞いてくれて。だから大丈夫」
「進路の話だったらもっとやばいでしょ。私、成績学年最下位なんだから」
夏芽の励ましは、逆効果だった。
「……とりあえず、行ってくるよ」
たかねは震えながら、教室を出て行った。
「たぶん、進路の事だよ」
「たかね、成績悪いし、服装もあれだし」
「生徒指導の先生が担任やってるクラスとしては、よろしくないもんね」
生徒たちが口々に言う。夏芽は、たかねが無事ですように、ということと、これを機に、たかねが改心して勉強に励んでくれますように、ということ、両方を願った。
たかねは、鷲島の待つ、体育研究室の前で立ち止まっていた。中でがさごそ音がする。鷲島がいるのだろう。たかねははち切れそうな心臓の音をなんとか押さえようと深呼吸をすると、こんこん、とドアをノックした。
「はい、どうぞー」
鷲島の声が聞こえる。
「し、失礼します!」
たかねは緊張を隠しきれないまま、手に汗握り、研究室のドアを開けた。研究室には、鷲島がひとり座っていた。振り返ってたかねを見ると、
「唐沢か、呼び出してすまんな」
と、予想外にも謝った。
「とりあえず、この椅子にでも座りなさい」
パイプ椅子が出される。たかねは鷲島の雰囲気がいつもと違うような気がして、不信感を持った。
―――成績の事とかじゃないのかな。
鷲島はたかねをパイプ椅子に座らせると、険しい表情で言った。
「お母さんの話だ」
「お母さん、ですか?」
たかねはきょとんとした。鷲島には、全く関係のない話のように思える。
「お母さんが、どうかしたんですか?まさか、事故とか!」
「いや、そうじゃないんだが」
鷲島は頭を掻いた。
「唐沢も、テレビのニュース番組で、観ているだろう、連続妊婦殺害事件」
「あ、はい。でも、詳しくは知りませんけど。この街では起こってないし、なんで私に関係があるんですか?」
「唐沢のお母さん、妊娠しているな?しかも、もうすぐ子供が生まれるんだろう」
「はい。何で知ってるんですか?」
「さっき、大声で喋ってたじゃないか」
確かに、夏芽と朝香と一緒に大声で騒いでいたかもしれない。
「子供は、男の子なんだそうだね」
「そうです。男の子です。あと一ヶ月くらいで、生まれるんですよ」
たかねは誇らしげに言った。それから、目の前に居るのがあの恐ろしい体育教師であり担任の鷲島であるという事を想い出して、肩をすくめた。
「先生とは、何の関係もないと思うんですけど……もしかしてその事で呼び出したんですか?」
「そうだ」
鷲島は腕を組んだ。
「この学校は、まるで呪われている様だ」
突然、鷲島は怖い顔をして言った。
「平沢先生の事件、土田和也の事件、短期間で、連続に起きすぎてるだろ。胸騒ぎがするんだ、嫌な予感がな。今回の妊婦殺害事件だって、この街でこそ起きていないが、近い地域で起きているのは確かだ。唐沢のお母さんがそんな、危ない時期に子供を産むなんて、やっぱり因縁みてえなものを感じざるを得なくてな。お前は確かに問題児だし、他に警告すべきことがあるだろう、とは思ったんだが、先生はそれよりも、お前のお母さんと生まれてくる弟君が心配だ」
「でも、私のお母さんが狙われるとは限らないし、それに、お母さんが子供を産む頃には、事件も解決してるんじゃないかって思うんですけど」
「そうとも言えん」
「なんでそう思うんですか?」
「お前、テレビ見てないのか?もうかれこれ二週間、犯行は繰り返されている。手掛かりはほとんどないそうだ。捕まってくれればいいが、そうとも限らん。お母さんを、安全な病院にかくまった方が良い」
「その忠告をするために私をここに?」
「それだけじゃない。狙われるのは、全員“男の子供”を身ごもった妊婦のようだ。お母さん、危ないだろ」
「確かに……」
「先生は、この学校の卒業生でな」
懐かしそうに、鷲島は腕を組んだ。
「この学校が、これ以上、血で汚れるのは嫌だ」
「先生……」
「被害者も、加害者も、二度と出したくない。だから、お母さんを、出来るだけここから離れた病院へ、しかも監視のついたいい病院へ移せ」
鷲島は真剣だった。たかねは唖然として少し間を置いてから、はっとしたように、
「すぐ、お父さんに電話してみます。それで、なんとか病院に入れてもらうように、手配してもらいます」
「ああ。その方が先生も安心だ。弟さん、無事生まれると良いな」
鷲島は、怖い顔のまま、優しい声で言った。
「さあ、授業が始まっている。言い訳は、鷲島先生に呼び出されていた、と言っておけばいい。そろそろ行っていいぞ」
「は、はい。ご心配、ありがとうございます!」
たかねは立ち上がって、鷲島に礼を言った。それから出口に向かうと、
「失礼しました!」
と声を張り上げた。
たかねが去った研究室で一人、鷲島は腕を組んで目を瞑っていた。まさかとは思うが……。いや、例えそうだとしても。
鷲島は眼をかっ開いた。
―――自分の生徒にだけは手を出させてなるものか!
「ってことなのよ!夏芽!」
帰り道、たかねは夏芽に、鷲島に呼び出されて話されたことを全て語った。
「そう……確かに、妊婦さんの子供はみんな男の子だったって、報道されてたよね。それに、妊婦さんの死体は見つかるのに、子供の死体は見つからないんだって……」
「そうなの?私、ニュースとか新聞とか見ないから知らなかったや」
「少なくとも、お母さんは見てると思うから、不安じゃないかな。今日は早く帰ってあげなよ」
「うん……」
たかねは不安そうな表情をしていた。
「利やんのこともそうだし、蟲男のこともそうだけど、やっぱり妖怪っているのかな……。人間に、こんな残虐なことは出来ないよ。お母さんを殺して、子供を、子どもは生きてるかわからないけど連れ去って……」
「妖怪は居るよ。でも、犯罪を犯すのは人間。妖怪じゃない」
「でも、ひどいでしょ。人間には出来ないよ。妖怪に憑りつかれてやってるのかもよ。綺堂とかいう人に聞いてみなよ」
「綺堂さんが言ってたの。妖怪は、人間に直接手を下すことは出来ない、って。ただ、妖怪に影響を受けた人間が、犯罪を起こすことはあるかもしれないって」
あの、平沢利夫のように。
「そうなんだ……。とりあえず、私は家に帰って、お母さんのそばにいる。お父さんも、事情を話したら、すぐ帰って来てくれるって」
夏芽は安堵した。
「良かった。お父さんがいれば、怖いものなしだよね」
「でもうちのお父さん、なよいからなあ」
「なよい?」
「弱いってことよ。気も弱いし、力も弱い。私の方が強いんだから」
たかねは拳を振り上げた。
「もしお母さんを襲うような奴がいたら、私が退治してやる!」
「頼もしいね。でも、あんまり無理しないでよ」
平沢利夫には勝てなかったんだから、と言おうとしてやめた。彼女の首元には、まだエメラルドのネックレスが光っていた。
「あ、それとね、鷲島先生、夏芽の言った通り、いい人だった」
「でしょう?」
夏芽は笑った。
「人は見かけによらないのよ」
「自分の受け負ってるクラスの子たちを、必死に守ろうとしてるんだろうなって思った!だからあんなに早い時間から、クラスに居るんだよ。そんな気がする。竹刀を持っているのも、悪い奴が来たら対処できるようにするためだよ」
「そうだよ。私も、進路の話聞いてもらった時、鷲島先生には勇気をもらったもん」
「人は見かけによらないよねー」
「それ、今私が言った言葉!」
バス停まで来ると、たかねはすぐさま乗り込んで、夏芽に手を振って帰っていった。夏芽も、帰路を急ぐ。
家に着くと、春代がリビングで寛いでいた。ソファに座ってお菓子を食べている。今はまだいいけれど、その内お腹が出て“中年女性”になってしまうんだ。夏芽は溜息をついた。たかねの母親は、若く、子供まで授かったというのに、春代は、最早“女であること”を捨てているかのようだ。
「あ、なっちゃんおかえり」
春代はクッキーを頬張りながら言った。
「ただいま。そんなに食べてばっかりいると、太っちゃうよ」
「あら、失礼ね。毎日欠かさずウォーキングしてるんだから、大丈夫よ」
「そうだといいけど」
夏芽はスクールバッグを置いて、春代の隣に座った。テレビがついている。”連続妊婦殺害事件”についてのニュース番組が流れていた。
「たかねのお母さん、妊娠してるんだって」
「え?」
春代は驚いたように顔を上げた。
「まなみちゃん、妊娠してたの?だからママ会にもあんまりこなくなっていたのね」
「時期も時期だし、心配だね」
夏芽が言うと、
「本当に……」
と言って、春代は珍しく暗い顔をした。
「どうしたの?」
「いつ生まれるの?」
「ううん、来月位って言ってたよ」
「じゃあ子供の性別は分かっているわね?」
「男の子だって。だから心配よね」
春代は一層顔をしかめた。
「なんてこと……亡くなった妊婦さんたちはみんな子供が生まれるまであと二、三週間ってくらいだったらしいのよ。それで、さらわれた胎児はみんな男の子。妊婦さんはね、まだ陣痛が来ていないのに、無理やり胎児を引っ張り出されて、出血多量で死んでしまったんですって。人間の出来る仕業じゃないわ。恐ろしい」
「ワイドショーでやってた?」
「そう。まさか、身近に妊婦さんなんていないから……。まなみちゃん、若いものね、十分あり得たのにどうして気付けなかったのかしら」
「大丈夫、たかねとお父さんがついてるから。それに、大事を取って病院に入れてもらう事にするそうだよ」
「そう……」
春代は依然暗い顔のままだった。
「そうだと良いんだけど……」
*
がんがん、とガラスの引き戸が叩かれた。
「どうぞ」
綺堂が言う。
ガラガラ、と戸を開けて入ってきたのは、人喰い女の波奈野目優子だった。
「どうした、人喰い」
「あんた、気付かないかい」
優子は険悪な表情をしていた。
「この世界が乱れ始めてるよ」
「乱れ始めてる?」
「あたしは、人を喰うのをとうの昔にやめたといったね、でもその時の感覚が、妙にリアルに脳内に浮かんだりするんだ。今まで、この世界に来てからこんなことはなかったよ。あたしは妖怪離れして長い。だからこれで済んでるのかもしれないけど、他の妖怪たちは、もっと侵されてる」
「侵されてる?」
「人間を襲って恐怖させる喜びにさ」
「そんなもの、妖怪はみんなもっているじゃあないか。人を襲って、人を驚かせて、それで何ぼの生き物だ、妖怪って奴は」
「違う!」
優子は取り乱したように言った。
「そういう意味じゃないよ、坊や」
肩を上下させている。尋常ではない様子だ。
「あんた、人間だろ」
「当たり前だ」
「逃げな」
優子は扉を開けたまま言った。
「この世界は今、人間を排除する動きが高まっている。さっき見ちまったんだよ、妖怪たちが、今まで寛容に受け入れてきた“向こうの世界”の人間を、襲って喰っちまうところをさ」
「人間を喰う妖怪なんざ、いるかい」
「でもこの目で見たんだ。ぬっぺっぽうですら、人に襲いかかっていった」
「あの、ぬっぺっぽうがか!」
ぬっぺっぽうという妖怪は、死者の脂肪の集まりで、ただ夜道を歩くだけの妖怪だ。気味が悪いだけで、人を食べたりすることはしない。
「綺堂の坊やは、半妖半人だからね、あんまり心配しなくていいと思うけれど、もしもの時の為に、逃げておいた方が良いかもしれない」
「……穏やかな話じゃないな」
綺堂は腕を組んだ。
「先程、変な男が通った」
「変な男?」
「派手な着物を着た、片目で長髪の男だ」
「見ない男だね。そんなに派手な人間がいたら、一度くらい目にしている筈なのに。まあ、出不精の私だから、仕方がないか。そんなことより、坊や、とっとと行きな。妖怪世界は、おかしくなっちまっているよ」
「では人喰い、なんでお前には通用しない?」
「わからないよ。そんなこと。でも、あんたがこっちにいたら、夏芽ちゃんもこっちに来るだろう?もしかしたら由宇奇の坊やも。今こっちに人間が来ることは、危ない。妖怪の直感だけど、そう思うんだ」
綺堂は少し考えてから、
「わかった。お前の言うとおりにしよう。兎に角、家の中に上がりたまえ」
その時、優子の後ろから、久々に辰之助が顔を出した。目はかっと見開かれていて、異様な程クマが出来ていた。
「……ぎょろ眼……」
「旦那あ、旦那あ、綺堂の旦那あ」
弱弱しい声で、辰之助は言った。
「やべえですぜい、おそろしいことがおきてやすぜい、旦那なら、トンネルから“向こう”の世界に出られやす。はやくお行き下せえ」
「ぎょろ眼は、正気なのか」
優子はぎょろ眼の腕をがっしりと掴んだ。
「どう見ても正気じゃないだろ!いいかい、何故かあたしだけこんなだけど、他の妖怪たちはみんな“ゾンビ”の様さ。ぎょろ眼は、最後の力を振り絞って、あんたの所に忠告に来たんだ。その気持ちがわからないのかい!」
綺堂は唇を噛み、急いで支度をすると、優子と辰之助の隣をすり抜けた。
「急ぐんだよ。くれぐれも、他の妖怪に見つからないように」
すれ違いざまに、優子が言う。綺堂は頷いた。
綺堂は小走りで、八千代トンネルを目指した。言われてみれば、最初からおかしかった。何故この綺堂が、気付かなかったのか。いや、それも“異常”だったのだ。
―――僕より強い霊力の持ち主なのか。妖怪を操ることが出来る程の霊力。
妖怪は、人間によって作られた。その為、人間によって操作されることが稀にある。今がその事態であるという可能性も、無きにしも非ず。半妖半人という種族は特に、妖怪を操作する力を持つと言われている。辰之助が綺堂になつくのも、この世界で綺堂が何故か信頼されているのも、その力が少なくとも影響している。そして半妖半人には、先詠みという力がある。しかし、もしそれが正常に機能していたとしたら、この状態に、綺堂はもっと早く気付いていたはずである。
明らかに、綺堂より強い何か、何かがこの世界を汚染している。
八千代トンネルを抜けながら、綺堂は思うのだった。
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