第三十三話 悪意

 蒸暑い、と心の中でぼやきながら手に持った扇子で風を送る内親王はどんよりとした空の下、流鏑馬の演武を鑑賞していた。


 言うまでもなく内親王として参加する公式行事ゆえ重ねうちぎをしているせいで、座っているだけでも汗がじんわりと滲んでくる。


 ドスッと的に矢があたる鈍い音が一際響く度に後方からあげられる黄色い声にいい加減ウンザリし始めていた。


「内親王殿下には、どうにも無聊ぶりょうかこっておられるご様子とお見受け致します」


 それでも普段なら欠伸を噛み殺す時でさえ、表情を変えることはないほど気の緩みなど見せはしないのに。

 あまりの暑さにウッカリしていたらしい内親王の微細な変化を捉えてきたのは、大王の弟の息子である皇子みこだった。


 一つにまとめられた甘い栗色の長めの髪を揺らしながら汗を拭い、そのベビーフェイスに爽やかな微笑を咲かせる姿はなるほど女性にとってはなかなか魅力的で、黄色い声が上がるのも頷ける。


「決してそのようなことは。ただ、出来うることなら私も、と叶わぬ思いを馳せていたのでございます。勿論、それは私の我儘と重々承知の上、香久火命かぐほのみこと様はどうぞ演武にお戻りくださいませ」


 けれども、内親王には例外なく無意味だった。寧ろ、バレたことを悪びれる様子もなく艶やかに笑む内親王の方が破壊力を備えていたらしい。

 皇子は明らかにトキめいた顔をして、咄嗟にその腕を強く引いていた。珍しく反射神経の良い内親王が気付くよりも先に、である。


「あの、一体何を」

「王女様は武術はもとより馬術も心得ていらっしゃると伺っております。折角の機会ですからその腕前、拝謁させて頂ければと」

「お申し出は嬉しゅうございますが、行事行程を変更しては皆々様にご迷惑をおかけしてしまいます。またの機会に……」


 両の手を握り、ずずいっと顔を近づけてくる皇子はそれはもう図々しいという他なかった。

 武術も馬術も心得ている王女である、と知れ渡っているがために勿論あったこの行事への参加の打診は初めから断っていたのである。皇子という立場上、それを知らないハズもない。にもかかわらず、人の話を全くと言っていいほど聞く耳を持たず、内親王が戸惑いを見せている間に馬が繋がれている場所まで連れて来ていた。


 勿論内親王とて、たとえ好奇心が本当に疼いていたとしても是が非でも断るべきと理解している。手抜き出来ないその腕前を公衆の面前で披露すれば女では無いとバレてしまう可能性は十分にあるのだから。

 いつのまにか馴れ馴れしく腰に回された腕など、内親王にとって朝飯前に振り払えるのだが、ぐっと堪えて伏し目がちに告げる。


「それは残念。ですが自信がない、と仰られるのでしたら致し方ありませんね」


 けれど、残念ながらそれは逆効果だったようだ。どうやら加虐心を刺激されたらしい皇子が口にした安っぽい挑発は、内親王の理性をいとも簡単に崩壊させた。

 無理もない、今のは侮辱を受けたのと同義なのだから。


 内親王は皇子の腕を乱暴に振り解くと、近くにいた馬に誰の手を借りることなく華麗に飛び乗る。そして慣らすように手綱も持たずに軽く馬を走らせると、和弓わきゅうを、と手を出した。


 先とは違う、してやったりという顔を隠し切れていない皇子の後方で、国妃が苦笑いを浮かべていた。


「うへぇ、ベタベタ」

「お疲れ様でございます。珍しく本気、でございましたね」

「失敗なんて、教えられてないからね」


 結局、馬を走らせたコースに不揃いに並べられていた的全てに、内親王は矢を射ることを成功させた。しかも、弓を引くも大変な何枚も重ねた着物のまま、である。


 ただ内親王の腕を見たかっただけなのか、若しくは他に思惑があるのか皇子の意図は最後まで定かではなかったが、流石に驚きを隠せなかったらしい。見事というしかない腕前に、目を輝かせ興味津々に迫ってくる皇子をどうにか撒いて湯殿へとやって来た。


「お次はお妃様方とのお茶会、でございますが……順調、にございますか?」

「どーだろ、公務が多過ぎて」

「確かに寝不足のご様子。今までの殿下の凛々しいご印象を和らげるチャンスかと存じますが、ご欠席なさいますか?」

「冗談、このくらいどーってことないよ。せんせーのおかけで陛下へのお土産も見繕えたし。それに宮といい、命といい厄介な人達ばっかだからねぇ」


 倭国に来てから視察の傍ら情報収集し、休む間もなく祭典へ参加と、内親王が動き通しである事は薬師も知っていた。

 寝ずに夜を明かした身体で更に武術を行い、その体力が限界に近づいているだろうことも。勿論、これしきの事で引っ込む様な性格でないことも。


 公務はまだ続く。

 眠気を振り払うように頭が振られれば、天井から注ぐ太陽の光に金糸が煌めく。内親王は国王よりまた少し長くなった髪を鬱陶しそうにかきあげると、だけど少しだけ仮眠、と告げて湯から出た。


「こちらのお召し物は急遽、皇子様がお選びになったそうですよ」

「へぇ、やっぱ何か試されてんのかな。まぁ袿を何枚も重ねるよりは遥かにありがたいけど」


 一刻程で活動を再開した内親王は、差し出された衣裳が単重ひとえがさねの構成なのを確認してなんとも言えない表情で溜息をついた。


 裏地のある袿と違い、上に表衣を羽織るものの単衣ならば重ねるのも二枚で済むので暑さは幾分かマシになる。また動きやすくもなるため内親王にとって喜ぶべきところだが、その分身体のラインを布の厚みで隠すことは出来ないのが悩みどころだった。


「本日は筝楽をご披露なさるとか。お傍で、というわけには参りませんが近くに控えておりますので何かあればお呼び下さいませ」


 差し出されたタオルを、もう一度ため息をついて受け取ると渋々胸元に挟み込む。申し訳程度に膨らみが作られた。


 命が選んだという単衣は、紺と藤の美しいコントラストだった。紫といえば凰都では中間位の色であるが、倭国では最位の色とされている。これから会う者達でさえ身につけることは出来ない色だ。

 その袂には金銀の日月じつげつ紋があしらわれていた。統一性を持たせたのか帯は金、表衣は銀だ。内親王の金糸にも合わせたチョイスか。


 どうにか準備を整えべっ甲の琴軋ことさぎを受け取る。返事の代わりに小さく手を上げると、内親王は陽葵ひまり園へと足を向けた。


「叔母上、何故ご協力頂けないのですか!? 国同士の縁を結ぶのは王女の役割ではないですか」


 内親王が倭国の宮や妃とのお茶会で肩身を狭くしている頃、国妃は内親王を大層気に入ったらしい皇子に詰め寄られていた。


 倭国でもやはり、宮であろうと貴族の娘であろうと武術を身につける習慣は無いに等しい。女は芸事で男を魅了する、という考えが根付いているからだ。だからこそその根底すら揺るがす内親王の姿は、皇子に限らず斬新であったに違いない。

 特にこの皇子は、宮廷では女好きとして有名なプレイボーイであった。


「香久火殿の仰ることは一理あります」

「でしたらっ!!」

「ですが、それが最も困難である事は貴方もご存知の通りです」

「……国王陛下の臣下だから、ですか」


 何としても内親王を手に入れたいとする皇子の眉間に皺が寄る。


 そう、国妃の言う通り凰都国の内親王はただの王女ではなく、王太子に次ぐ王国第五の地位。王妃も王太子も居ない現時点でいえば、国妃に次ぐ第三位だ。

 勿論、政務にも関われるため国王と国議、国妃と本人の意思が揃わなければ退位することなど到底不可能なのである。


 まぁ王宮の規律などを当てはめなくても、内親王が男に嫁げるわけなど元来無いのだが。


「えぇ、しかも陛下が他の誰よりも信頼をおいている臣下ですから手放すはずもないでしょう」

「そんなっ。王女の身でありながら、王宮に縛り付けられることが幸せだとっ!?」

「陛下はいつだって本人の意思を尊重されます。その上であの子は陛下をおいて王宮を出ることはしないのですよ」


 ただ、その咎事ひみつを言うわけにもいかないので、上がっていく皇子のボルテージに対して国妃は冷静に告げる。皇子は現在、皇位継承権第一位であるため、嫁げば正妃、ゆくゆくは皇后だと告げたが国妃が首を縦に振る事は決して無い。


 あまりにもしつこい皇子に、どうしたものかと国妃が頭を悩ませ始めたちょうどその時、お話し中失礼致します、と声がかけられた。薬師と、包帯でぐるぐる巻きにされた腕を抱えた内親王だった。


「殿下っ、その腕は如何なされたのですかっ⁉︎」

「演奏中にお箏の糸が切れてしまったのです」


 向けられる焦りを含んだこげ茶の伺いに、内親王はふぃっと碧眼を逸らす。ぶっきらぼうな口調に国妃は眉をひそめた。


 そもそも内親王の性格なら怪我の事実など隠してしまうだろう。大したこと無いなら尚更だ。にも関わらず、薬師に連れられてやって来た。


 国妃はすっと目を細めると、素早い動きで内親王の腕を取ると抵抗などもろともせずに包帯を解いていく。露わにされて傷は、出血は止まっているものの糸で切っただけではまず出来ない水疱が生じていた。


「……毒、ですか」

「はい。どのようなものが使用されたかは推測の域を出ませんが、口より摂取されたわけではございませんのでこれ以上酷くなることは無いかと」

「ですから、不問に付せるのではと申したのです。誰が仕掛けたかなんて、分かりはしないのですから」

「それでも、大なり小なり事は国際問題です。殿下の一存で決定し得るものではないでしょう」


 二人のやり取りを見てなるほど、と国妃は小さく頷いた。但しそれは薬師の正論に対してではなく、内親王が不貞腐れている理由にだ。


 包帯を国妃から奪い取り、片手で不器用に巻いていく内親王の言うことも正論なのだ。たとえ内親王だけが筝楽を弾くことになっていたとしてもここは倭国、穏便に済ますに越したことはない。

 けれども内親王は一緒にやって来た。それは、内親王には隠すつもりなど全く無いということ。つまりその表情は言うなれば、フェイク。


「聞いての通りです、香久火殿」

「そんなっ、妃達が殿下に? 悪戯にしては、タチが悪すぎるではないか。すぐに糾弾して——っ!!」

「お静かにして下さいませ。私はそんな事、望んでいないと申し上げたはずですわ」


 けれどそんな事情を読めるはずもない皇子は、顔を赤くして憤慨すると慌てて踵を返した。否、返そうとしてできずに終わった。

 それを引き止めたのは勿論、皇子の唇に押し当てられた内親王の人差し指だ。国王と同じ強い碧眼で、皇子を射抜いたまま。その威圧は、足を一歩引かせるほど凄まいものだった。


「……内親王殿下には、他に何か望まれることがあるのですか」

「お話が早くて助かります。倭国に私の姉、凰都国第三王女を迎え入れて頂きたいのです。さすれば此度の事、揉み消すと致しましょう」


 浮かべられた優艶な笑みとは裏腹に内親王が言葉にしたのは、政治的な取引。皇子の顔が露骨に引き攣る。

 第三といえば、内親王暗殺を試みたあの王女だ。その件は凰都国内で内密に処理されている為、難色を示した理由は他にある。

 それこそ一存で受けれる事ではないので、と口を濁す皇子に内親王は小首を傾げた。


「では、命様は大君へ働きかけを。そのくらいは容易いでしょう。別に王女だからといえど正妃に、というつもりは毛頭ありません。とりあえず宮として置いてもらいたいのです、倭国と凰都、永遠の友好の為に」

「そ、それでしたらどうにか取り計らえましょう……えぇ、早速大君の元へ参りますとも」


 深く鋭い碧眼に、どうにも居たたまれなくなった皇子は脱兎の如くその場から逃げ去った。


 残された内親王は要らぬ好奇心は火傷の元ですねなどと呟く国妃に任務完了、と国王に似た昏い笑みを向けたのだった。

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