第二話  誓言

「短い別れだったな、暁」

「……はい、本当に。こんなに早く華月あなた様に、再びお目にかかる事になろうとは思いもよりませんでした」


 湯殿から上がり、職務用の衣裳いしょうの上に儀式用の大袖を身にまとった王太子は王宮神殿への扉をそっと開けた。

 薄暗い殿内はただ階段が三十段程あるだけで、その他は何もない。その、登りきったところに佇んでいる、兜巾ときんで頭をすっぽりと覆い被った神官は恭しく礼をとった。


「父上はまだ五十にも満たなかったから、そう思ったのだがな。分からぬものだ——ところで、前官はどう読んだのだ?」


 一歩、また一歩と着衣の擦れる音すら立てずに神官の元へ上っていく王太子の声のトーンが低くなる。皮肉げに笑うその碧眼の奥には、隠しきれない苛立ちが潜んでいた。


御世みよは、栄易さかえやすなりよしんばそれはよく尽力し、力合せねばらず、と」

「なるほど、な。確かに、色々と受難続きでその度に奔走し、結果安定へと傾いてはきているがまだ危うい」

「前王はお優しい方でございましたから。けれど、優しさは時に偽りに変わることがございます。偽りは罪。罪があるモノには必ず罰が下るもの……と存じます、親愛なる国王陛下」

「故、罪までもを真実にすべし、と。成程……それが我への預言、というわけか」


 鈴を震わすかのような澄んだ声で淀みなく応えた神官は、颯爽と登り切った王太子の僅かに揺れていた手を流れるように、されど完璧に捉えてその甲に唇を寄せた。


 新国王即位の瞬間である。ふっと、表情が緩む。


「いいえ。一応慣例にのっとった、ただの真似事。そのような大層なものではございません。そもそも、陛下に預言など必要ございませんでしょう?」

「ふむ、最終的に其方そなたが飲み込む……と。漸く我がきみとなる心を決めたか」


 どこか仄めかした言い分に、新王はまるでいざなうようにその細やかな長い指を滑らせ、神官の顎から頬にかけてを撫で上げた。

 それはとても柔らかな所作だったが、下げられたおもてを強制的に上向かせる意思を含んでいたのだろう。被っていただけだった兜巾がはらりと落ち、少年とも少女ともとれる中性的な秀麗な顔に似合いの黒髪がさらりと落ちる。

 微かに震えた紫暗の瞳に、新王の甘い笑みが深まった。


「まだそのようなお戯れを……」

「我は言葉を反故にした事などなかろう。良いではないか、本来なら玉座に居座るなど億に一つもなかったはずの我が身。それ故こそ我が后には其方が相応しい」


 熱視線を送りながら肩にかかる髪を掬うようにして、口付ける。

 最上の口説き文句も奥歯に衣着せる物言いが台無しにしていたが、神官には充分だったようであなた様には敵いませんね、と艶やかに微笑んだ。


「精一杯お仕え致します。誓いの印に——陛下、こちらを」


 そして、するりと新王の手から抜け出るように身を起こした神官は神棚の上のものをそっと手に取ると、再び膝をついて差し上げる。


「ほぅ、コレを私に授けようとは。随分思い切りの良い事をするのだな、我が后は。二人の時は、これまで通りで構わん」


 神官、否、きさきから新王へと手渡ったのは真剣だった。シューっと飾り気のない鞘から美しき白刃が露わになれば陰りが帯びていた碧眼に、輝きが少し戻る。


「陛下の……華月様の手にあるべきと、その方が長剣こちらも勝手が良いかと。お祝いにお納め下さいませ」

「ならばこの後の、コレの代わりは我が成ろう。それが私の誓いだ」


 長剣を腰に下げた新王は静かにかしずいて、徐に差し上げられたままだった妃の手を取った。ゆるゆると侵食していくかの如く指と指を絡めながら、やにわに環指に口付けを落とすと紫暗が恥ずかしそうに伏せられる。まだ華奢な新王の所作は一つ一つが艶麗えんれいで様になっていた。


「……華月様、一つお伺いしたいのですが」

「なんだ?」

「大袖に漆黒をお選びになられるとは。その心はいかがなものでしょう?」

「黒とは何にも染まらぬ色だ、実に我らしかろう?」


 どこか慌てたように、早々に変えられた話題に新王はクスリと笑みを零して答えた。身に纏う漆黒に金糸と白い肌がよく映える。


「受け入れるための覚悟、と……では、この先も真っ黒な王様で?」

「案ずるな、衣裳は白にしてある」


 納得出来ない、というように首を傾ける妃を国王は片手で制してバサっと豪快に大袖を脱ぎ捨てた。先程とは真逆の、美しい碧眼以外が同系色に様変わりする。


「なるほど、何にでも染まれると。やはり、真っ白い王様である華月あなた様に預言など必要ありませんでしたね。それにしても、何というか存在感に欠けそうですが……」

「王様というだけで目立つんだ、多少影が薄くても問題あるまい。さて、そろそろ場を移さねばな」


 上から下まで舐め回すような不躾な妃の視線に国王は肩を竦める。そして、妃を引き起こすと心底、心底イヤそうに溜息をついた。古老ころう共は頭も硬いが、揃いも揃って気が短い。まぁ、待たされるのは私も嫌いだが……などとぶつぶつ独りごちて。


「では、私は後宮にて陛下のお帰りを待つと……」

「いや」


 そんな国王のダダ漏れの内心に、少し呆れ顔で御前から下がろうとした妃は、ふいにまだ繋がったままの手を強めに引かれスッポリと国王の腕に抱かれることになった。眉間にシワを寄せて怪訝そうに見やると、悪戯な碧眼がかち合う。


「傍で控え待て。皆に公表する……但し、我以外に肌を見せる事は一切許さん」


 それでも悪びれた様子のない国王は、妃をしかと立たせると落ちたままだった兜巾をふわりと被せ直したのだった。

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