1話 無言の別れ


 両親とその友人である男性の会話に起こされ、月明かりを頼りにリビングへ向かう。ゆっくりと部屋のドアノブを回転させ、押すと軋む音が廊下に響き渡った。冷やっとしながらも忍び足で声のする方へ歩く。


 リビングのドアから光が漏れ出している。そこから中を覗くと不穏な空気が流れていた。両親とその友人が何を話しているのか聞き取れなかった。しかし、様子がおかしいことは確かだ。いつも穏やかな両親は怒鳴っている。


 友人は眉間に皺を寄せた両親を挑発するようなにやけた表情でナイフを構えていた。ナイフを見た僕は怖くて震え、動けなくなる。警察を呼ぶという発想は無く、両親がこの状況をどうにかしてくれると思ってしまった。


 両親たちはお互いを睨み合っていて動こうとしない。時計の針がゆっくりと動く音がいつも以上に響く。その硬直した状況をどうにかしようと父が母を後ろへ下げて机をひっくり返した。そして、友達へ飛びかかり、押さえつけようとする。


 その後、フローリングは鮮やかな赤い絵の具が飛び散るように汚れ、低く恨みのこもった呻き声が家の中を駆け巡った。僕は何が起こったのか理解したくなかった。しかし、その場面は脳裏にしっかりと張り付く。


 父のお腹にナイフが刺さったのだ。友人はぐりぐりと痛めつけるようにナイフを掻き回し、思い切り引き抜く。友人の体は返り血で赤く染まる。友人の姿は僕が知っている人と全くの別人に見えた。


 その間に母が絶叫しながら台所へ走る。そこから取り出したのは鋭く光る凶器。友人に向かって一直線に向かって行く母を嘲笑い、瀕死の父を盾にする。そして、母にとどめを譲った。父は立つ力を失い、その場に倒れ込んだ。


 怖くて声が出ない。これが現実なのかもわからないし、僕も死ぬのではないかと思ってしまう。鮮やかで美しい景色はだんだんと色褪せていく。


 母は最も愛する人を殺めて相当のショックを受けたのだろう。魂が抜け、空っぽになってしまった死体を抱きしめ呆然としている。その隙に背後に忍び寄る影。僕はこの後の展開を悟ってしまった。


 やめて! と心の中で繰り返しても口から出るのは荒い呼吸だけ。母と影が横側からはっきりと視界に映る。それ以外は何も映らない。光り輝くナイフが振り上げられ、母の背中に向かって急降下。そのまま勢いよく突き刺さる。痛みも忘れてしまったのか、叫び声は聞こえない。 頬の輝きも虚しく、命の灯火は風のように消える。


 僕は嘔吐感に見舞われ、廊下に晩ご飯の一部を吐き出した。気持ち悪いし、めまいがする。それから絶望という窮地に来てしまったことを思い知り、何もかもが無駄に思えてきた。


 両親との思い出や約束が全て泡となり弾けて消える感覚に耐えきれず、涙が溢れる。鼻水も垂れてきたが、そんなことはどうでもよかった。


 やることをやり終えた影は荒くナイフを引き抜く。それと同時に鮮血が辺り一帯を染める。その色が赤だったのか、黒だったのか、全てがモノクロに見えていた僕には判別できなかった。その時殺人鬼が見せた『笑顔』だけははっきりと脳裏に刻まれた。


 次は僕が殺される。


 ここから逃げなければならない。慌ただしく玄関の戸を開き、滲む街をひたすら走った。それから何があったかは覚えていない。

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