029 『オークションの神様』

 ほんの少しだけ沈黙があった後、市柳さんがしゃべりはじめる。

 俺は顔をあげて彼女の話に耳をかたむけた。


「か、カタログ制作は本当に素敵なお仕事だと思っています。やりがいも感じています。でも……カタログ班にいながらも、実はわたし『営業として働くこと』にずっとあこがれていました……。高見さんや黒浜さんが、本当はうらやましかったんです」


 そう言うと市柳さんは、少しだけうつむく。

 それから、話を続けた。


「正直に話せば、わたしは営業1課で働いてみたいです。せっかくのチャンスなので挑戦してみたいです。でも、どうしても不安が……」

「それは、どんな不安ですか?」


 彼女は小さくうなずいてから答える。


「……こんなわたしが、本当に営業としてやっていけるのか自信がないんです。営業1課で働きたいんですけど、営業1課で働くことが正直すごく怖いです……。わたしは営業には向いていない気がするんです。自分らしくない挑戦だってことは、充分わかっています。それなのに……どうしても胸がざわつくんです。自分が営業としてどこまでできるのか試してみたいって……。こ、これが、わたしが隠していた本音です」


『営業1課で働きたい』


 市柳さんが本音を打ち明けてくれたことに、とりあえず俺はほっとした。

 過去を何度も繰り返して、ようやくここまでたどり着くことができたか――と胸にこみあげるものがあった。


 人の本音を聞き出すことって本当に難しい……。


 ただ、同時に市柳さんが『営業1課で働くことを怖がっている』ということも、よくわかった。

 先輩としてその恐怖を少しでもやわらげてあげることは出来ないだろうか?

 可愛い後輩のために、何か俺にできることは……?


 少し考えてから俺は、市柳さんにこう言った。


「じゃあ、こうしましょう。市柳さん、俺の『馬鹿げた提案』をひとつ聞いてもらえませんか?」

「て、提案……ですか?」


 市柳さんは顔をあげて、ちょっとだけ首をかしげた。


「市柳さん、6月にいっしょに行った製薬会社の商談は覚えていますよね?」

「はい」

「あれは正直、まったく勝ち目のない商談だと思っていました。ただ、市柳さんがあの場にいたおかげで商談の流れが変わって、俺と課長はなんとか踏ん張ることができました。まあ、例の外国人作家の挿画本を出品してもらえるかどうかは、今はまだわかりませんが」


 出品の連絡がもらえるのは週明けの火曜日である。

 今の時点では、まだ出品は確定していないのだ。


「ねえ、市柳さん。俺は今から少し変なことを言いますが――」

「へ、変なことですか?」

「はい。実は俺、この世界には『オークションの神様』みたいな存在がいるんじゃないかって、最近ずっと考えているんです」

「お、オークションの神様……ですか?」

「はい」


 こんな話をすれば、頭のおかしな男だと思われるんじゃないか。

 俺だって馬鹿げていると思う。けれど、こうして7年前に戻ってきて何度も過去をやり直す経験をしていれば、そんなことを考えたくもなる。

 俺は話の先を続けた。


「そして市柳さんは、たぶんオークションの神様に愛されているんじゃないかなって俺は考えています」

「わ、わたしが……オークションの神様に愛されている?」

「ええ。うまく説明はできないんですけど……」


 市柳さんは俺の話に戸惑いはじめた。彼女は両目でまばたきを繰り返す。

 まあ、当然こんな反応になるだろう……。


「市柳さん。俺はあの日、製薬会社との商談にたまたま市柳さんを連れて行きましたよね。すると商談の相手が偶然ぐうぜん、市柳さんの知り合いだった。こんなことってありますか?」

「ど、どうなんでしょう……。めったにない気はしますけど……」


 彼女は小さくうなずく。


「俺は思うんですよ。あの商談がすべてのはじまりだったって。あれがきっかけとなって、『市柳さんを営業1課に迎え入れたい』という話が持ち上がりました。たぶん、オークションの神様みたいな存在が市柳さんを営業1課へと導くために、製薬会社の商談の場に市柳さんを呼んだんですよ。あれはきっと運命ですね」


 市柳さんは「運命……」とつぶやいた。

 俺は、『馬鹿げた提案』の具体的な説明をはじめる。


「そこで、市柳さん。ようやく提案なんですけどね。例の挿画本が、もしうちのオークションに出品されるようなことがあったら、市柳さんはもう余計な迷いを全部捨てて、営業1課でいっしょに働いてくれませんか? 自分が営業に向いていないとか、もうこの先そういうことは一切考えないで」

「えっ……」


 戸惑う彼女の顔を見つめながら、俺は説明を続ける。


「挿画本の出品が決まったら、営業1課では『市柳さんに絶対に来てほしい!』って雰囲気がさらに盛り上がります。そうなったら市柳さんは胸を張って堂々と、営業1課に来ればいいんですよ。『自分はオークションの神様に愛されていて、運命に導かれて営業1課で働くことになったんだ』って。馬鹿げているかもしれませんが、自分にそう言い聞かせてあげてください」


 市柳さんは黙り込んでしまった。

 まあ、すんなりと受け入れられるような提案ではないだろう。

 俺は少し話の角度を変えてみる。


「あの、市柳さん。もし市柳さんが本配属で営業1課になったら、まず間違いなく俺が教育係になると思います」

「お、大沼さんが、わたしの教育係になってくださるんですかっ!?」


 俺は「もちろん」とうなずくと、微笑みながらこう言う。


「市柳さんには俺が営業の仕事をきちんと教えます。自分の知っていることはなんだって教えますよ。たとえば、うちの会社にはこれまで女性のオークショニアは一人もいません。ですが、もし市柳さんがうちの会社で初の女性オークショニアを目指す気があるのでしたら、営業の仕事だけでなく、オークショニアとしてのノウハウだって、俺が責任をもってすべて教えます」


 市柳さんが、きょとんとした表情を浮かべた。


「お、オークショニア? わ、わたしがですか……?」

「あっ、うーん……。まだ、そんなに先の話は想像できないですよね。すみません」

「い、いえ……」


 さすがにちょっと先走り過ぎてしまった……。

 俺は一度「こほん」と咳払いをしてから言う。


「とにかく挿画本の出品が決まったら、市柳さんは余計な迷いを捨てて、俺といっしょに営業1課で頑張ってみませんか?」


 彼女はしばらく黙り込んでしまった。

 やっぱり『馬鹿げた提案』だっただろうか。

 しかし――。


「お、大沼さん、わかりました。もし本当に挿画本の出品が決まるようなことがあれば、わたしは運命だと思って受け入れます。この先、迷いを全部捨てて、思い切って営業1課に飛び込んでみますっ!」


 そう言って市柳さんは、こくりとうなずいた。

 俺の提案を受け入れたのである。


 ごめんなさい……市柳さん。

 あの挿画本、火曜日には出品が決まりますからね……。

 覚悟していてくださいよ。


 自分でもこの提案はさすがに少しズルいとは思った。挿画本が出品される未来を、俺は知っていたのだから。


 でも、彼女の心の中にある余計な迷いを捨てさせるためには、こういった刺激的なエピソードをひとつプレゼントしてあげるのがとても有効である気がした。

 だから、こんな作戦に出たのである。


 これから営業としてやっていく市柳さんに、人生の中でこういう運命の力を感じさせるようなエピソードがひとつあれば、いつかどこかでお守りみたいに彼女の心を支えてくれるのではないか。俺はそんな気がしていた。


 父親がプレゼントしてくれたオーダーメイドのスーツが、長い間ずっと俺の心の支えとなってくれていたように――。

 俺がプレゼントした『運命的なエピソード』がこの先、市柳さんの心の支えとなってくれることを心から願った。


「で、でも、大沼さん。挿画本の出品……うちの会社に決まりますかね? ライバル会社も、どこもすごく強いところなんですよね? もし出品が決まらなかったら、わたし……」


 市柳さんを安心させるため、俺は満面の笑みを浮かべると自信たっぷりといった態度で言った。


「はははっ。そんなこと心配しないで。出品が決まらないなんてこと、きっとないですよ! 大丈夫! 市柳さんはオークションの神様に愛されているんですから。だから、挿画本の出品が決まったら余計な迷いなんか全部捨てて、市柳さんは自信を持って営業1課でいっしょに働いてくださいね。約束ですよ」


 市柳さんは一度深くうなずくと、顔をあげてやわらかな笑顔を浮かべた。

 そのときの彼女の表情は、いざとなれば運命を受け入れる覚悟が出来上がっているように見えた。


 それから、営業1課についての質問を市柳さんからいくつか受けていると、高見さんが戻ってきた。


 男物の部屋着を身につけた高見さんは、ミルクティー色の長い髪をゴムでざっくりとお団子のようにまとめていた。

 シャワーで濡れないようにそうしたのだろう。

 さっぱりした様子の高見さんは、頬を薄っすらと桃色に上気じょうきさせながら言った。


「市柳さん、お先しました。どうぞ、シャワー空いたよ」


 俺は大きな声を出してしまう。


「はっ!? 市柳さんもシャワー浴びるの?」


 市柳さんがソファーから立ち上がった。

 彼女は俺に向かってぺこりと頭を下げると言った。


「お、大沼さん。わたしもシャワーをお借りしてよろしいでしょうか? あ、あと、何か服を貸してもらえませんでしょうか? できましたら、リラックスできるやつを……すみません」


 まさか市柳さんまでシャワーを借りるとは思わなかった。


 そんなわけで、市柳さんがシャワーを浴びに行くと、高見さんと二人きりでソファーに座ることになった。

 高見さんはいつの間にか髪をほどいていた。彼女はグラスのお茶をごくごく飲んでから「ぷはー!」と、風呂上がりのおじさんがビールを飲んだときのような声を出す。

 グラスをテーブルに置くと高見さんは言った。


「ねえ、大沼さん。なんか……こういうのいいですよね」

「こういうの?」

「今夜みたいな集まりですよ。みんなで飲みに行って、酔っ払って眠っちゃうやつとか出てきて、その後、誰かの家に押しかけてみんなで馬鹿みたいに朝までダラダラ過ごすやつ」

「ああ……うん。確かにいいですよね、こういうの。すごく久しぶりです」


 俺がそう答えると、高見さんはやさしげな微笑みを浮かべて話を続ける。


「大沼さん……実はアタシね、就職して社会人になったらこれで青春って終わっちゃうんじゃないかって思っていたんです……。でもなんか、大沼さんや新入社員の二人といっしょにいると、終わりかけていた青春がまた戻ってきて、もう少しだけ続いてくれるんじゃないかって……不思議とそんな気がしてきますよ、ふふっ」


 高見さんはそれから、俺に向かって急に頭を下げた。


「ど、どうしたんですか、高見さん?」


 俺が尋ねると高見さんは頭をあげて、にこりと笑った。


「ねえ、大沼さん。新入社員はみんな本当に感謝していると思いますよ。新しい環境で不安なときに、これだけやさしくて面倒見のいい先輩が一人いてくれるんですからね。自分にちゃんとやさしくしてくれる先輩がたった一人いてくれるだけで、新入社員にとって就職先が地獄じゃなくなるんです。……ああ、まあこれはアタシ個人の感想なんですけどね、ふふっ」


 面と向かってそんなことを言われると、さすがに俺も照れてしまう。

 おそらく顔を赤くしているだろう俺に向かって、高見さんは言った。


「よし! アタシも後輩ができたら、大沼さんみたいなやさしくて面倒見のいい先輩を目指しますね。でもその前に、早く一人前の営業にならないと……ですけどね。ファイト、アタシ!」


 やがて市柳さんがシャワーを浴びて戻ってくると、三人で早朝まで談笑を続けた。

 最初は、電車の始発の時間になったら解散する予定だったのだけど、市柳さんも高見さんもなんだか眠たそうにしていたので、そのまま帰すのは可哀想に思えた。


 敷布団しきぶとんがもうひとつだけあったので、俺が和室に敷いてあげると、彼女たちはそれを仲良く二人で使い、横並びになって眠った。

 俺の方は黒浜と同じ布団で眠ることには抵抗があったので、ソファーで一人で眠った。


 結局、午前11時くらいまでみんな俺の家で眠る結果となった。

 高見さんと黒浜はぐっすり眠っていたようだけど、市柳さんはあまり眠れなかったのではないだろうか。

 なんとなくそう思った。


 三人が帰ると、土曜日の午後を俺は自宅で一人で過ごした。

 いつも静かな自分の部屋が、余計に静かに思えた。


 家にみんなが遊びにきて、そして帰っていって、祭りのあとみたいな寂しい気持ちに襲われるのって大学生のころ以来だろうか?


 もしかすると、こんな俺にも青春が戻って来たのかもしれない。

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