020 新入社員の女の子の家で眠る

 金曜日の夜がやって来た。

 仕事終わりに集合すると、高見さんが予約してくれた洋風居酒屋で飲み会をはじめた。

 四人がけのテーブル席だった。俺の正面に市柳さんが座り、彼女の隣には高見さんが座った。

 黒浜は俺の隣の席だ。


 開始から1時間も過ぎたころには、みんなリラックスしていた。

 なごやかな雰囲気の良い飲み会だったのだ。


 それでも俺は新入社員たちの心に踏み込めるような話までは、出来ていなかった。

 まあ、彼らとこんな飲み会が開けたというだけでも関係が一歩前進している。それだけでなんだか満足してしまったのだ。


 アルコールのせいでほんのりと頬を赤らめている市柳さんが、俺に尋ねてきた。


「そ、それにしても大沼さんって、本当にお酒をお飲みにならないんですね?」

「はい。実は俺だけじゃなくて、父親もお酒が弱いんですよ。遺伝なんですかね?」


 俺は辛口のジンジャーエールをごくりと喉に流し込むと話を続ける。


「俺が社会人1年目だったから22歳のときかな。夏に実家に帰ったとき、350ミリリットルのビール1缶を親父と二人で半分に分けて飲んだんですよ。本当に1缶だけ。それで、気がついたら二人とも朝までリビングで眠っていました」


 高見さんが軽く吹き出した。


「ぷっ! 親子でどんだけ弱いんスか」


 彼女はミルクティー色の髪を揺らしながらニヤニヤ笑う。

 俺の隣では、黒浜が静かに笑っていた。

 サラサラの栗色くりいろの髪を揺らしながら年下のイケメンが両目を細めて微笑むと、男の俺ですら楽しい気持ちになる。

 もし俺が女性に生まれていたら、彼の笑顔で軽くごはん二杯くらい食えたかもしれない。


 新入社員たちとの飲み会はすごく気楽な雰囲気で、事前に想像していたよりももっとずっと楽しい気持ちになった。


 過去の俺は本当にどうして、後輩たちに苦手意識を抱いていたのだろうか?

 みんなとっても良い子たちじゃないか!


 気分がよくなってきて、俺は少しだけ羽目はめを外してみたくなる。


「よし。俺も久しぶりにお酒を飲んでみようかな。楽しくなってきちゃいましたよ」

「だ、大丈夫なんですか? に、苦手なら無理にお飲みにならないほうが」


 市柳さんが、少しトロンとした目で心配そうに俺を見つめてくれる。

 たぶん彼女も、お酒はそんなに強くないのかもしれない。

 目の前の黒髪の美人に「心配してくれてありがとうございます」と伝えてから俺は言った。


「実は俺、少しばかりお酒を飲む練習をしたんですよ。今は、ちょっとくらいだったら大丈夫なんです。久しぶりに一杯だけ飲んでみますね。今日は本当に楽しくて、みんなといっしょにお酒が飲みたい気分なんですよ。許してください」


 ビールを中ジョッキで一杯だけ注文すると、俺はちびちびと時間をかけて飲みはじめた。


 俺が酒を飲みだしてからも、なごやかな飲み会は続いた。

 三人の後輩たちを観察していると、やはり市柳さんだけ他の二人に少し遠慮している雰囲気だった。

 彼女のもともとの性格もあるだろうし、一人だけ営業ではなくカタログ制作班だというのも関係しているのかもしれない。


 やがて視界がぼんやりしてきた。両耳が熱くて、頭の血管がドクドク鳴りはじめる。

 市柳さんの声が聞こえる。


「お、大沼さん? か、顔が真っ赤ですよ?」

「ああ、いちややぎしゃん、らいじょうぶ、らいじょうぶですよ」

「でも、大沼さん、ろれつが……」

「いやぁ~、らいじょうれすよ。俺、30歳過ぎたくらいから、お酒を飲む練習をはじめましてね。中ジョッキで一杯くらいのビールらったら、もう飲んでも大丈夫なはずれすよ」


 高見さんの声が聞こえる。


「ちょっ……何言ってるんスか? 大沼さんって、26歳じゃないんですか?」

「ふぇぇ……しまった。そうらった……俺、今は26しゃいだったわ。じゃあ、だめかもぉ~……れす」



   * * *



 俺はすっかり眠っていたようだ。

 気がつくと両目を閉じたまま、座椅子ざいすらしきものに座っていた。


 ゆっくり目を開けると、ぼんやりとした視界の中で、女の子が俺の顔を心配そうにのぞき込んでいた。

 徐々に視界がはっきりしてくると、ミルクティー色の髪が優しく揺れていた。


「よかった。大沼さん、目が覚めたみたいですね。ひとまず安心かな」

「あ、あう……たきゃみしゃん?」

「そうですよ、大沼さんが会社の後輩の中で一番可愛がってくれている高見ですよぉ~。そしてここは、アタシの部屋ですよぉ~」

「う、うぇ!? そりゃ、申し訳にゃい! 自分の家に帰らなくしゃ!」


 立ち上がろうとするが、足に力が入らない。


「大沼さん、あわてなくても大丈夫ですよ。まだ、ゆっくり休んでいてください」

「俺、にゃんでここにいるんれすか?」

「住んでいる駅が隣同士だから、アタシがタクシーで大沼さんの家まで送ることになったんです。でも、こんな状態の大沼さんを一人にしてしまうのが心配で……。それで、思わずアタシの家に連れ込んじゃいました。ふふっ」

「そ、それは、も、申し訳にゃい!」


 まだ、舌がうまくまわらなかった。

 そんな俺に、高見さんは優しく微笑んでくれる。


「ふふっ。タクシーを降りた後、大沼さんは、うとうとしながらもなんとかここまでは歩いてくれたんですよ。けど、座椅子に腰を下ろすなりぐっすり眠っちゃって」


 飲み会ではグレーのスーツ姿だった高見さんだけれど、上着は脱いだみたいだ。

 白いカットソーにスカートという姿である。


 部屋は6畳くらいで、ベッドと座椅子とローテーブルがあった。

 部屋の隣には3畳ほどのキッチンがあるみたいだ。

 高見さんがキッチンの方に歩き出しながら言った。


「いつも大沼さんにはお世話になっていますからねぇ~、本当に特別なんですよ。普通、一人暮らしの女の子の家に、こんな酔っぱらい絶対に入れませんからね」


 それから彼女は、すぐにキッチンから戻ってくる。


「大沼さん。お水、このテーブルの上に置いておきますよ。椅子に座りながらでも届きますよね? あと、大沼さんの上着は、ハンガーにかけてありますから。カバンもちゃんと預かっています。苦しそうだったのでネクタイも外しちゃいましたよ」

「あ、ありぎゃとうございます」


 まだ少し舌がまわらない。

 高見さんが笑いながら言った。


「ふふっ。あの……大沼さん、もう大丈夫そうなんで、アタシ、シャワーを浴びてきちゃってもいいですか?」

「う、うぇうえ!?」

「うふふっ。大沼さん、動揺どうようし過ぎですよ。アタシ、7月のこんな暑い夜に酔っ払いに肩を貸してここまで歩かせたので、ちょっと自分の汗とか臭いが気になっちゃって」


 そう言うと高見さんは、自分の身体をくんくんと臭ってから話を続ける。


「別に大沼さん、アタシのこと襲ったりしないでしょ? どのみち、それだけフラフラな人に襲われても、アタシは負けませんしね、ふふっ」


 そう言い残すと高見さんは着替えを持ってキッチンの方へと行ってしまった。

 キッチンの隣に浴室があるみたいで、しばらくするとシャワーの音が聞こえてきた。


 ときどき機嫌の良さそうな鼻歌も聞こえてくる。

 今日の飲み会が高見さんにとっても楽しいものだったとしたら、俺はすごくうれしい。


 やがて、シャワーの音を聞きながら、俺は再び眠りについてしまったみたいだ。




「んっ……。この人、やっぱり可愛い顔してる。どうしよう……」


 そんな声といっしょにシャンプーの香りが近づいてきたかと思うと、「ちゅっ」という音とともに、なんだかほっぺたに柔らかいものが触れた気がした。


「ふふっ。大沼さん、早く起きないかなぁ……」


 高見さんのそんな声を聞きながら、俺はゆっくりと目を開けた。

 彼女の顔が目の前にあった。しゃがみ込んで俺の顔をのぞいていたみたいだ。


「あっ、大沼さん。起きましたか?」

「すみません。俺、また眠っちゃっていたみたいで」


 今度は舌がちゃんとまわった。

 酔いは少し残っていたけれど、気分は悪くない。まだほんの少しだけ頭の血管がドクドク鳴っていた。


「大丈夫ですよ、大沼さん。気が済むまで休んでいてください」


 そう口にすると高見さんは立ち上がった。

 彼女は部屋着姿になっていた。タオル地っぽい素材の上下セットで、ピンクと白のボーダー柄。上は長袖のパーカー、下はショートパンツである。

 むきだしの綺麗な太ももがチラついて、俺は目のやりどころに困ってしまう。


 正直、このままでは理性が保てそうにない。

 それにこれ以上、高見さんに迷惑もかけたくない……。


 俺は座椅子から立ち上がった。


「高見さん、今日は本当にありがとうございました。俺、帰ります。お礼は今度必ずしますので」

「あっ……大沼さん、待ってください」


 高見さんは両手で俺の腕をつかむ。

 ――かと思うと彼女は、俺の身体をぐっと引き寄せたのだ。


 高見さんはうつむいていて、俺の顔を見ないままこう言った。


「そのぉ……今日はもう、アタシの家に泊まっていきませんか?」

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