012 【第2章 完】猛烈なアピール

 この日の商談は、それで一段落だった。

 俺は会社に戻って追加資料の作成をしなくてはいけない。うちの会社に有利に働きそうな落札実績を、もっと調べてかき集めてみるのだ。


 帰り際に担当者が、市柳さんに言った。


「市柳ちゃんが、すてきな人たちといっしょに働いているようで、おじさんは安心したよ。顧客側にやる気がヒリヒリ伝わってくるような若手の先輩と、その若手をのびのびと自由にさせる上司。いい人たちといっしょに働いているね、あははっ」


 市柳さんは「は、はい!」と、彼女にしては活気のある返事をした。

 俺の隣では課長がニコニコ微笑んでいる。

 俺は課長の顔を見て、ふと我に返った。


 んっ……?

 もしかして俺……課長の前で、でしゃばりすぎたか?


 課長を差し置いて、俺が担当者と二人でぐいぐいしゃべっていたけれど……今の俺はよく考えれば、まだまだ入社5年目の26歳だった。

 商談にのめり込みすぎて、途中から33歳の自分に戻ってしまっていた。課長の顔に泥を塗ったりしていないよな?

 課長は面子めんつをそれほど気にする人ではないが、俺がでしゃばりすぎたことを怒っていないといいけれど……。



   * * *



 商談の翌日の水曜日。俺は朝からオークションの下見会会場にいた。木曜日・金曜日の下見会に備えて今日はまるまる一日、会場設営なのだ。


 所属する部署を問わず、会社のほぼすべての人間が下見会の設営には参加することになっている。

 俺は若手社員らしく振る舞うために、会場に一番乗りして誰よりも先に作業を開始していた。

 しばらくすると課長がやって来た。


「おい、大沼」

「課長、おはようございます!」


 昨日の商談で、でしゃばりすぎたことを怒られるだろうか……。

 少しビクビクしていると、話題はまったく違うものだった。


「市柳さんを見たか?」


 んっ……市柳さん?


「い、いえ。今日はまだ見ていませんけど。朝一番で、会場入りしましたので」

「そうか。彼女なあ、あの長い髪をばっさり切っていたぞ。昨日、製薬会社の担当者に言われたからだな」

「えっ?」

「さっき会ったんだよ。なんでも昨日な、退社後にすぐ美容院に飛び込んで、ばっさり切ったらしい」


 課長がそう言ったところで、市柳さんがちょうど会場に入ってきた。


「お、お、おはようございます!」


 会場の入口で、彼女はぺこりと頭を下げる。

 シンプルなデザインの紺色のワークシャツに黒いズボンという飾り気のない姿。設営作業で服が汚れないよう赤いエプロンを身に着けている。


 前日との大きな違いは、黒いリクルートスーツ姿ではなく、私服姿ということ。

 それと、もっさりとした長い髪がなくなっており、短く切られた黒髪――それは、肩に触れないくらいの長さだった。

 昨日の商談で、俺が担当者に伝えた『好みの髪の長さ』と、ちょうど同じほどである。


 肩に触れない程度に切りそろえられた黒髪は、市柳さんにとてもよく似合っていた。

 市柳さんの人生を冒険小説にたとえたとして、『自分にもっとも似合う髪型を探し求める冒険の章』があるとしたら、昨日の退社後に飛び込んだ美容院で、彼女のその冒険はきっと終わりを迎えたことだろう。

 今朝、俺が目にした市柳さんは『お似合いの髪型』という宝物たからものをすっかり手に入れていた。


 そんな市柳さんは会場に来るなりすぐに誰かに呼ばれ、どこかに行ってしまう。

 彼女の姿が見えなくなると、課長が俺に向かって宣言した。


「なあ、大沼。俺は決めたぞ!」

「な、何をです?」

「仮配属期間が終わったら、営業1課は必ず市柳さんを獲得する!」


 んっ?


「ええっ!?」


 俺が驚きの声をあげると、課長は胸の前で腕組みし、真剣な表情で語りはじめる。


「大沼、俺はあの姿を『決意の表明』だと受け止めている」

「は、はい?」

「長かった髪をばっさりと切ったのは、彼女の決意のあらわれなんじゃないかな?」

「そ、そうなんですか?」

「おい、大沼! 女の子が長い髪をばっさり切るっていうのは、すごく大変なことなんだぞ! お前、わかってんのか?」

「す、すみません……」


 課長の気迫に押されて俺は謝る。

 どちらかといえば温厚な性格の課長が、めずらしく興奮しているのだ。


「大沼よ。あれは市柳さんなりの『営業をやりたい』という猛烈なアピールだ」

「猛烈なアピール?」

「そうだ。そして、彼女のアピールは俺のここにちゃんと届いている!」


 課長は自分の心臓のあたりをトンっと手で叩くと、さらに熱く語り続ける。


「昨日、あの製薬会社の担当者から『営業なら、顔を覆い隠している髪を切って、お客さんに自分の顔を見せて覚えてもらった方がいい』みたいなアドバイスをされていただろ?」

「はい」

「そしたら、その日のうちに長い髪をばっさりだぞ! あの子、今はまだ営業じゃないのに! きっと営業になりたいんだよ! 市柳さんの行動に、俺はなんだかとても感動しているっ! 心を動かされたんだっ!」


 課長の中で、『市柳さんを営業1課で獲得するぞ!』というスイッチが完全にオンになっていた。女の子が長い髪をばっさり切ることで、ひとりの中年男性の心をここまで揺り動かすことができるとは……。


 それから課長は、両目をギラギラさせながら「ちょっと、トイレにいってくる! 朝、まだ出ていないんだ!」と宣言して、俺の前から去っていった。

 興奮さめやらぬといった感じだ。トイレに行くのにも気合がみなぎっている。


 課長が去ってからしばらくすると、市柳さんが俺の前にやってきた。先ほど誰かから頼まれていた用事は、どうやら済ませてきたみたいだ。


「お、大沼さん、き、昨日は色々と……ほ、ほ、本当にありがとうございました!」


 短くなった黒髪を揺らしながら、市柳さんが深々と頭を下げる。

 もっさりとした長い黒髪が、のれんのように顔を覆い隠すあの光景はもう見られない。


「いえ、こちらこそ。市柳さん、昨日は本当にありがとうございました」


 俺も頭を下げる。

 それから顔を上げて彼女と目を合わせると、もう一度口を開く。


「それと、市柳さん――」

「は、はい」


 市柳さんが、まつげの長い両目を素早くまばたかせる。

 俺は恥ずかしさで胸の鼓動の速度がやや上がるのを感じながらも、やはりこういうときはきちんと言葉に出してめたほうが絶対にいいのだろうなと、少し勇気を出して彼女に伝えた。


「髪が短くなって、市柳さんの顔がしっかり見えるようになりましたね。その髪型、本当によく似合っています。雰囲気変わりましたよね。すごくいいです」


 市柳さんは顔全体を真っ赤にさせると、すぐにうつむき「あ、あ、ありがとうございます!」と言った。

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