018 【第3章 完】惚れかけました

 茶色いテーブルに並んだワイングラスの群れを見下ろしながら、俺たちは仕事の分担を決めた。


「ワイングラスに触ってサイズを測るのは、アタシの方がいいと思います。大沼さんは2課から追い出されるほど手先が不器用とお聞きしていますので」

「そ、そうですね。でも、『2課から追い出されるほど手先が不器用』とか、ちょっと言い方が……」


 俺は不満を口にしたのだけど、高見さんは聞こえていないふりをする。

 本当にこれが入社2ヵ月ほどの新入社員の態度だろうか?

 俺は「こほん」と軽く咳払せきばらいをしてから言った。


「では、高見さんはサイズを測ってください。俺が原稿用紙に書いていきますから」


 ワイングラス6点1組や、12点1組などを次々とこなしていった。

 高見さんがグラスの直径や高さなどを測り、俺が原稿用紙に記録していく。

 ワイングラスが終わると、あとはカップ&ソーサやティーポットなどの原稿もいくつかこなして、高見さんの本日のノルマは終わった。


「大沼さん、今日は本当にありがとうございました。手先が不器用なのに、字は上手なんですね」


 最後に原稿をチェックし終えると、高見さんは俺に向かってお礼を口にしたのだ。

 まあ、余計な一言が添えてあるお礼だけれど。


「高見さん、おつかれさまでした。それでは先にあがってください。俺はまだちょっとだけやることが残っているんで」

「んっ? 大沼さんは、帰らないんですか?」


 ミルクティー色の髪を揺らしながら、高見さんが俺の顔をのぞき込んでくる。


「はい。実は俺、査定の仕事が少し残っていまして」

「えっ……。大沼さんは自分の仕事が残っているのに、アタシの原稿書きを手伝っていたんですか? 査定の仕事があること、どうしてアタシに隠していたんですか?」


 高見さんはちょっと怒っているような表情で、薄桃色のくちびるをとがらせた。

 普段からややつり目気味の目が、さらにつりあがっている。

 俺はあわてて説明した。


「えっ? いや、別に隠していたわけじゃ……。この原稿書きが終わってから査定をしようと予定を組んでいただけでして……。ま、まあ、高見さんも集荷のときに原稿書きの仕事があることを俺に隠していたじゃないですか。これで、おあいこということで、どうです?」


 高見さんは小さくため息をついてから「わかりました」とうなずく。

 続いて、ニコッと笑いながら言った。


「今日はお互いひとつずつ隠し事をしちゃいましたし、おあいこですね。ふふっ」

「はははっ、よかった。では、高見さんはどうぞ、気にせず先に帰ってください」


 しかし、高見さんは帰ろうとしない。


「あの……大沼さん。査定の仕事って、アタシでも手伝えることあるんですか?」

「んっ?」

「手伝えることがあるのなら、言ってくださいよ。アタシの原稿書きは、おかげさまでかなり早く終わりました。だから、あと1時間くらいの残業だったら許可はもらっています」


 以前の俺だったら、彼女の申し出を断っていたと思う。

 自分一人でこなせる仕事を、わざわざ後輩といっしょにするのは面倒だと考えていたからだ。

 けれど今は――。


「わかりました。じゃあ、高見さんに甘えてしまおうかな。俺の仕事を手伝ってもらえます?」

「はいっ!」


 俺たち以外誰もいない倉庫スペースに、高見さんの元気な返事が響いた。

 しかし、追加で残業だというのに、なぜか彼女はうれしそうである。


「高見さん、1時間の残業が追加されたのに、どうしてそんなにうれしそうなんですか?」

「べ、別にうれしいとか、そんなことはないですよ。ただ……ここだけの話ですけど……」

「な、なんですか?」

「そのぉ、絶対に誰にも言わないでくださいよ。この会社でアタシに優しくしてくれる先輩って、大沼さんがはじめてかも……なんです」


 それから高見さんは、悩みを口にした。

 直属の先輩から自分があまり好かれていないのではないかという話だった。

 高見さんの直属の先輩は、2課の若手のエースである。


「そのぉ……美人で頭もよくて、物知りで仕事もできる先輩なので、アタシだって尊敬しています。でも、いっしょにいると、言葉は悪いですけど少し息が詰まるといいますか……」


 高見さんの言う通り、彼女の直属の先輩はとても仕事のできる聡明そうめいな女性である。

 けれど俺と同じく自分の仕事に集中するあまり、後輩の育成なんかには消極的なタイプなんだと思う。

 後輩が好きとか嫌いとかそういうわけじゃなくて、面倒をみるすべを身につけていないだけのような気もする。


 性格はとにかくクール。冗談も口にしない。

『氷の女』みたいなことを会社の誰かがチラッと言ったのを、俺は耳にしたことがあった。

 高見さんのような性格の人は、彼女とはあまりりが合わない気はする。


 まだ入社して2ヵ月ほどだ。けれど、高見さんだってさすがに先輩との関係が毎日ギクシャクしていると、心が弱ってしまうだろう。

 そんな心細いときに『後輩に優しく接しよう』と意気込んでいる俺が、タイミングよく高見さんの前に現れたのだ。

 だから、『この会社でアタシに優しくしてくれる先輩って、大沼さんがはじめてかも……』なんて気持ちになっているのだと思われる。


 高見さんがミルクティー色の髪を軽くかきあげてから言った。


「そのぉ……大沼さんは、後輩と接するのがなんとなく苦手とおっしゃっていましたけど、本当なんですか? 後輩にすごく優しい気がするんですけど」

「そ、そうですか?」


 高見さんは、こくりとうなずくと少し顔を赤らめる。

 続いて、何かを決心したような表情で、俺の両目を見つめながら言った。

 少し茶色がかった彼女の瞳は、うっすらと涙でにじんでいるような気がした。


「あ、あの……大沼さん」

「はい」

「は、恥ずかしいので一度しか言いませんけど……。今日の集荷で大沼さんが、アタシの新品のスーツが汚れないよう何回も気遣きづかってくれていたのは……正直、グッときました。本当にうれしかったです!」


 そんなことを言われると、こっちだって照れてしまう。

 俺は上手く声が出せず、黙ったまま小さくうなずいた。もしかすると俺の顔も、高見さんのように赤くなっているかもしれない。


 高見さんは、さっきよりも顔をもっと赤くしながら話を続ける。


「アタシ、今度から大沼さんといっしょに外回りに行くときは、新品のスーツとか、高いスーツなんかは絶対に着ないよう気をつけますから! 今日の最後の集荷なんて、ほこりまみれの絵を大沼さんが一人で全部運んじゃいましたもんね? ふふっ」


 そう言って笑うと、高見さんは突然何かを思いついたかのように「あっ……」と声を出す。

 彼女はひとりごとのようにつぶやく。


「でも……このままだとさすがにめ過ぎか。後輩として、先輩にダメ出しもしておかないとね」


 んっ?

 後輩として、先輩にダメ出しもしておかないと……って、どういうこと?


 俺が心の中で首をかしげていると、高見さんが言った。


「ああ、そうだ。アタシ、他にも大沼さんに言いたいことがありましたよ」

「な、なんです?」

「大沼さんって縦列駐車じゅうれつちゅうしゃ、下手くそッスよね」

「うっ……」


 痛いところを突かれた。俺は思わず自分の左胸を手で押さえる。縦列駐車が苦手だという自覚があるのだ。

 高見さんはダメ出しを続けた。


「助手席でアタシ、『えっ!? この人、何回切り返すんだろう……』って思っていましたよ。大沼さん、手先だけじゃなくて運転も不器用ですよね」

「い、言わないでください……。会社のワゴン車が白くてデカイのが悪いんですよ」

「はあ? 白くてデカイって……デカイはともかく、車の色は縦列駐車の技術とは関係ないでしょ」

「そ、そうですね……色は関係ない」


 高見さんは右手の人差し指をピンっと立てて俺に言う。


「はい。そんなわけで、縦列駐車が下手なのはマイナスだと思います。なので、大沼さんの先輩としての評価は、トータルでプラスマイナスゼロですね。ふふっ」


 俺は苦笑いを浮かべながら彼女に質問する。


「た、高見さん。後輩なのにダメ出しするとか、なんで偉そうなんですか?」

「まあ、いいじゃないですか。とにかく、これからいっしょに出かけるときは、アタシが運転しますね。大沼さんは助手席でくつろいでいてください。たぶん、アタシの方が運転はうまいですよ」


 高見さんは、両目を細めて「にししっ」と笑う。

 本当に会話の途中でこまめに色んな笑顔を挟んでくる女の子だ。

 表情も豊かだし、冗談も口にする。にぎやかな女の子だった。


 高見さんはその大きな胸の下で腕組みをしてから俺に言った。


「というわけで、集荷から会社に戻った時点では、大沼さんの評価はプラスマイナスゼロでした。でも――」

「でも? でも……って。まさか、まだダメ出しが続くんですか?」

「い、いえ……。もうダメ出しはないです」

「えっ? じゃあ、なんですか?」


 高見さんは腕組みをやめると、ミルクティー色の髪を何やらもじもじと手でいじりながら言う。


「そのぉ……ついさっきですよ。大沼さんが、自分の仕事があるにもかかわらずアタシの原稿書きの手伝いを優先してくれたってことが、わかったじゃないですか」

「はい」

「アタシ、そのときは、なんか……ほんの一瞬だけ、大沼さんにれかけましたよ」

「えっ!? ほ、ほれ!?」

「ま、まあ、本当に惚れているわけではないので勘違いしないでくださいね! アタシ、面食いなんで!」

「お、おう……そうですか」


 ひどい……。


「はい。だから、お、大沼さんみたいな、ただただ地味な顔の人には絶対に惚れないので安心してください。アタシ、童顔どうがんの男の人とか過去に一度も好きになったことはないんで」


 なんか……別に俺が恋愛感情を抱いているわけでもないのに、一方的に振られたような気分だった。

 高見さんはその大きな胸に、両手をそっと当てながら話の先を続ける。


「とにかく、アタシに優しくしてくれる先輩がこの会社にちゃんと一人はいるんだってことがわかって……。それで今日は、ほっとしちゃったっていうか。胸のあたりがこう……じんわりと温かくなってきて……」


 高見さんはまた笑った。

 先ほどは「にししっ」と、どこかイタズラっぽい笑顔だったけれど、今度はやわらかな微笑みだった。

 本当にころころと表情が変わるのだ。


「アタシ、心の底からうれしくて。このことはきちんと大沼さんに伝えておこうと思いまして。だから、この後失敗しなければ、今日は大沼さんはプラス評価で一日を終えられます」

「だからどうして後輩なのに偉そうなんですか?」

「ふふっ」


 高見さんがまた微笑むと、俺は軽く「んっ、んんっ」と咳払いをしてから言った。


「ま、まあ、後輩からの好評価を裏切らないよう、俺もがんばりますけど……」

「よし! じゃあ、今日のお仕事を終わらせましょうか! 大沼さん、アタシと二人でがんばりましょう!」


 高見さんは俺の肩を、ポンポンッと親しげに叩いた。

 それから俺たちは絵画の倉庫スペースへと移動し、1時間ほどで残りの仕事をすべて終わらせたのだった。

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