010 ヒントを与えようとしている

 市柳さんの腹の音の話題は、軽く流してあげた方がいいだろう。

 それで、話の流れを変えようと俺が口を開こうとしたとき――。


「あははっ、どうしたの、市柳ちゃん? お腹すいたの? お昼ごはん、ちゃんと食べた?」


 一足先に製薬会社の担当者がそう発言して、市柳さんのお腹が鳴ったことを笑ったのだ。

 市柳さんは小声で言った。


「はっ……はい。お、お昼ごはんは、サンドイッチを御馳走ごちそうになりまして」

「んっ? 市柳ちゃんは、ご飯をたくさん食べる子なのにサンドイッチだけじゃ足りないでしょ。御馳走になったって、誰かに食べさせてもらったの?」


 市柳さんは顔を真っ赤にしたまま、俺にお昼ごはんをおごってもらったことを担当者に説明した。

 担当者が微笑みながら俺に言う。


「大沼さん。この子は、すごい大食いなんですよ。うちに遊びに来たときも何度かいっしょにご飯を食べたんですけどね、三人前くらいペロリですから。できるだけボリュームのあるランチに連れていってあげてください」


 確かに、サンドイッチ屋で市柳さんと飲食店の話題になったとき、彼女はボリュームのある店のランチの話ばかりしていたような……。

 今日の昼飯は軽めのサンドイッチにしておこう、と考えた俺の判断が間違っていたようだ。

 市柳さんがぼそぼそっと声を出す。


「だ、大学生のとき、お金がなくて……。お恥ずかしい話なんですが、おじさんの家でごちそうになるときは、ま、毎回お腹いっぱい食べさせていただきまして……」


 担当者が「あははははっ」と、楽しそうに笑う。

 市柳さんは話を続けた。


「お、お腹も鳴ってしまいましたし、大食いなのも会社の人にバレてしまいました。わ、わたし、もう恥ずかしすぎて、あ、泡になって消えたいです……」


 んっ? なんで泡?

 消えるにしても、消え方がちょっとファンタジーなのを希望しているの?

 人魚姫だったっけ?


 市柳さんが両手で顔を覆ったところで、注文した四人分のコーヒーが店員によって運ばれてきた。

 製薬会社の担当者が、「どうぞ。おいしいですよ」と言ってコーヒーを飲むよう促してきたので、課長と俺はコーヒーに口をつける。確かにおいしかった。

 担当者は市柳さんに向かって言った。


「それで、市柳ちゃん。今後、営業としてやっていくのなら、お客さんの前でお腹が鳴ったことくらい失敗のうちに入らないよ。おじさんはそう思うな。気にしなくていいさ。営業先で、もっともっと恥ずかしい失敗をこれから先、数え切れないくらいするだろうし」


 まあ、市柳さんは本当は営業じゃないんだけど……。

 担当者が、なんだか良いことを言っている雰囲気だったので、俺は会話に口を挟まなかった。課長もたぶん同じような気持ちだろう。

 担当者は市柳さんの姿をさっと眺めてから言った。


「市柳ちゃん、営業なら面構つらがまえも大切だな。いつまでも恥ずかしがって顔を赤くしていないで。そうだなぁ、顔を覆い隠しちゃっている髪を切ってさあ、もっとお客さんに自分の顔をよく見せた方がいいかもな。営業なら、顔を覚えてもらわなくちゃ」


 営業だろうがカタログ制作スタッフだろうが、市柳さんは髪を切ったほうがいいんじゃないかと、俺はずっと思っていた。

 ただ、そういうことを会社で下手に女性に言うと――考え過ぎかもしれないが――セクハラ発言だなんだと問題に発展するのが怖い。

 だから俺からは言わないでいたのだけど……。

 発言した製薬会社の担当者は、市柳さんとは昔から仲の良い知り合いみたいだし、個人的には『俺の代わりに、市柳さんに言ってくれてありがとう』という気持ちだった。


 それから、担当者が急に俺の方を向いて質問してきた。


「大沼さんは、市柳ちゃんと同世代の若者だと思いますが、たとえば女の子の髪型はどんなのが好きなの?」

「えっ……はい。そうですね、その人に似合っている髪型ならどんなものでも好きです」


 突然の質問に戸惑いながらもそう答えた。

 でも、俺の答えに担当者は不満みたいだった。


「いや、そんな優等生みたいな意見が聞きたいんじゃないよ。面白くないなあ。これまで好きになった女の子とか、好きになったアイドルとか女優とかいるでしょ?」

「そ、そうですね。どちらかといえば、これまでずっと髪の短い女の子が好きでした」

「髪が短いって、どのくらいの長さ? お坊さんくらい?」

「あ、あははっ……。いや、その、肩に触れないくらいの長さですかね。これくらいの」


 そう言うと俺は、両手を使って肩の上あたりの空間を示した。

 今度は担当者も満足してくれたみたいだ。


「そうそう。私はね、ビジネスパートナーからは、そういう正直な話が聞きたいんですよ。高額な出品物を任せるかもしれないんだから。大沼さんは女の子の髪の長さは、肩に触れないくらいが好きなんだね、あははっ」


 担当者は笑うと、今度は課長の方を向いて言った。


「それで、仕事の話に戻りますが。失礼ながら、御社は高額作品の落札が国内の他のオークション会社と比べてまだまだ少ないですよね。特に落札価格が1億円を超えるような作品はどうですか? 正直なところ、過去に何回くらい扱ったことがございますかね?」


 急にビジネスモードに変更してきたかと思うと、担当者は俺たちの痛いところを突いてきた。まあ、剣か槍なんかで心臓を一突きされた気分だ。

 即死。こちらも油断していた。

 この担当者は、国内のオークション業界のこともよく勉強しており、うちの会社の弱点も完全に把握しているのだろう。

 課長が正直に答えた。


「1億円超えの落札は、弊社では過去に一度もないです」


 悔しいが……まあ、嘘をついたところで仕方がない。

 国内の美術品オークションの超高額作品の落札実績は、インターネット上にニュース記事としていくつか転がっていたり、書籍にまとめられていたりする。

 一般人でも本気で調べようと思えば調べられる。

 そして、1億円超えの落札作品をインターネットや書籍で調べても、うちの会社の名前は一度も出てこないだろう。だって、過去に扱ったことがないのだから。


 ここで嘘をついたところで見破られてしまう。

 製薬会社の担当者も、うちの会社が過去に1億円超えの作品を扱ったことがないことを調べたうえで発言しているのだと思う。


 1億円超えの高額作品の落札実績がない。

 だから、1億円超えの高額作品を任せてもらえない。

 そんな負のスパイラル。

 うちの会社はそこからずっと抜け出せないでいた。


 まあ、たとえば自分が、1億円超えの作品の出品を考えている客だったとしたら?

『どのオークション会社を選ぼう?』と考えたとき、1億円超えの作品を過去に一度も扱ったことのないオークション会社を、わざわざ選ぶだろうか?

 1億円超えの落札実績がいくつもある業界1位か2位のオークション会社を優先的に選ぶのは、きわめて自然な選択だといえる。


 担当者は、リストの一番上にあるもっとも高額な作品を指差しながら言った。


「出品を検討しております美術品の中には、1億円超えも充分に狙える作品があると考えております」


 課長が「おっしゃる通りです」と、うなずく。

 担当者は話を続ける。


「私は今回の出品に関して、窓口を担当しているだけです。正直、決定権は持っていません。たんなる窓口ですよ。決定権を持っているメンバーに私は入っていませんからね。最終的にどのオークション会社を選ぶかは、会議で決まります」


 彼から会社内部のそんな話を聞くのは、はじめてだった。

 これまでの過去では、担当者から門前払いとまではいかないけれど、リストを提出してそれで終わりという感じだったのだ。


「私は各オークション会社様からいただいた資料を分析し、わかりやすくまとめたものを、決定権のある方々にご提出させていただくところまでが役目でして。高額作品の――たとえば1億円超えの落札実績が、どのオークション会社が過去にどれだけあるのかという資料も、もちろん提出しますよ」


「はい」と、課長がうなずく。

 担当者が話を続ける。


「過去の実績は、やはり安心感につながります。そのオークション会社が、1億円超えの作品を落札できるような顧客をきちんと抱えているということが、実績から判断できるわけですからね」


 まあ、この話をされた時点で、1億円超えの落札実績が一度もないうちの会社はあきらめろと言われているようなものである。


「だから、市柳ちゃんと私が知り合いだからといって、特別なことは期待しないでください――と、先に一応言っておきます。私にはどのオークション会社を選ぶかの決定権は本当にありませんから。各オークション会社様の過去の実績なども踏まえて、出品するオークション会社は会議で決定されます」


 なんだろう……。さっきから妙に『実績』を強調するような言い方だけど。

 高額作品の落札実績の少ないうちの会社に対する嫌味いやみ……というわけではなさそうだ。

 担当者が、どうして急にこんな打ち明け話をしてくれたのか?

 もしかして彼は、この話の中で俺たちに何かヒントを与えようとしているのではないだろうか?

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