009 大きな変化が起きる予感

 背が低く、肩幅の広いガッチリした体格の男が、不思議そうな表情を浮かべている。

 待ち合わせ場所で立っている課長だ。

 俺と市柳さんの姿を見るなり彼は、首を小さくかしげたのである。市柳さんがいるからだろう。


 俺は課長と合流すると、製薬会社に向かって歩き出しながら理由を説明する。画廊の集荷が長引いたことで、会社に一度戻っている時間がなかったことを。


「えっ? 大沼、どういうことだ? 市柳さんも、今日の商談に参加させるのか?」


 課長が後ろを振り返りながら、俺にそう尋ねてきた。

 俺と課長の少し後ろを、黒いリクルートスーツ姿の市柳さんが、場違い感満載なオーラを漂わせながら歩いている。うつむき加減で、もっさりとした黒髪がのれんのように彼女の表情を隠していた。

 心なしか両肩も震えているように見える。おそらくかなり緊張しているのだろう。


 俺は隣を歩く課長にだけ聞こえる程度の小声で言った。


「俺の直感なんですけど……市柳さん、営業に興味がありますよ」

「えっ? 本当か?」


 まあ、嘘だ。俺は市柳さんをここまで連れてくることはできた。だけど、今日の商談に参加させるための上手い理由は、実は何も思いついていなかった。

 そこで――。


「課長。市柳さんは、かなりやる気のある新入社員です。高額作品の商談も、見学してみたいんですよ。それに、ここまで連れてきて、いまさら彼女を電車で追い返せますか?」

「む、むぅ……」

「俺は思うんです。二人より三人で商談に乗り込んだ方が、あの製薬会社の担当者にこちらの本気度が伝わるんじゃないかって。『わっ! こいつら、営業三人で乗り込んできやがった!』ってな感じで」


 俺もずいぶんと適当なことを口にしている。

 どうせ失敗したところで、土曜日のオークションでハンマーを叩けば、また火曜日に戻るだけだろう。きっとやり直せる。

 だから俺は、なんだって思い切ったことを出来る気がしていた。


「でも、大沼……彼女、本当に大丈夫なのか? 営業には、あんまり向いていなさそうな気がするんだが……」

「課長、大丈夫ですよ。市柳さん、さっきまでいた神田の画廊でも、オーナーとすごく盛り上がっていましたから」

「そっ、そうなのか?」


 俺は課長の隣を歩きながら、小声で彼を説得し続けた。

 結局、課長の結論が出る前に製薬会社のエントランスに到着してしまった。うやむやな雰囲気のまま、三人で足を踏み入れる。

 俺たちの後ろを歩いていた市柳さんの目には、大人の男が二人でひそひそ話をしている姿がずっと映っていたことだろう。

 課長との話の内容は……まあ、彼女には聞こえていないと思う。




 俺たち三人が案内されたのは、革張りのソファーが設置された広くて立派な応接室だ。いつも通される部屋である。

 ほんの少しだけ遅れて製薬会社の担当者が部屋に入ってきた。

 やはり、いつもの50代くらいの生真面目そうな男性だ。


 俺たち三人は、すぐに深々と頭を下げながら挨拶をする。

 そして、頭をあげると……? んっ? なにやら、担当者の反応がおかしい。

 彼は、市柳さんのことを眺めながら少し戸惑ったような表情を浮かべていたのだけど、すぐにその表情は微笑みに変わる。


「あれ? い、市柳ちゃん?」


 ……市柳ちゃん?

 50代くらいの男が、うちの新入社員のことを親しげに――それも『ちゃん付け』で――呼んだ。

 市柳さんの方も、「えっ? あ、あれ……?」と、一瞬戸惑いの表情を浮かべるが、


「お、お、お久しぶりですっ!」


 と言いながら、男に向かってもう一度深々と頭を下げる。

 市柳さんと担当者は知り合いのようだった。

 俺と課長は、二人とも口をあんぐりと開けて顔を見合わせる。


 製薬会社の担当者は、俺や課長なんかには目もくれずに、市柳さんと親しげに会話しはじめた。

 これまで俺は、この担当者と何度も顔を合わせていたわけだけど、常に生真面目な表情の彼しか知らない。

 それが今は……。

 いつものビジネスライクな態度はすっかり影を潜め、両目を細めて、初孫を眺める祖父のような優しげな表情で市柳さんと会話をしているのだ。

 まあ、年齢差的には『祖父と孫』ではなく『父親と娘』というべきなのかもしれないけれど。


 なんか……あまり人に話せないようなやばい男女の関係とかじゃないだろうな?

 俺はほんの少しだけ二人の関係を疑った。けれど、市柳さんがすぐに説明してくれた。

 市柳さんには大学時代にとても仲の良い友人がいた。その友人の父親が偶然、この製薬会社の担当者だったみたいだ。

 市柳さんも、友人の父親がこの会社で働いていることは知らなかったらしい。

 担当者が課長に言った。


「いやぁ、市柳ちゃんが、まさかオークション会社で働いていたなんて、わっはっは。娘の大学時代の唯一の友人なんですよ。恥ずかしながら、うちの娘は人付き合いが苦手でして。人一倍優しい市柳ちゃんだけが、うちの娘の面倒を色々とみてくれましてね。我が家に何度も遊びに来てくれたんですよ」


 課長は、「はあ、すごい偶然ですね」と言って愛想笑いを浮かべる。

 市柳さんの交友関係もすごく特殊そうだけど、この担当者の娘さんの交友関係は、なかなかな酷そうだ。


 うれしそうに話を続ける担当者の顔を見ていると、これまでの商談で会っていた生真面目そうな人とはまるで別人みたいだった。

 クールな50代のおじさんで、一般的な人間よりも常に30%くらい血の流れが少ないんじゃないかという印象を俺はこの人に抱いていた。だけど、市柳さんと会ってからは120%全身をくるくる血が巡りはじめたんじゃないかというくらい別人に変わっている。

 表情もずいぶんと豊かになり、5歳くらい若返って見える。クールな印象はとりあえず今は受けない。


「いやー、娘からは、市柳ちゃんが美術系の会社に就職したとは聞いていたんです。そうか、オークション会社だったか! 画材屋とか、そういうお店で働いているんじゃないかと勝手に想像していましたよ。わっはっは」


 それから担当者はニコニコしながら、こんなことを言い出した。


「もしよろしければ、場所を変えませんか? 近くに、おいしいコーヒーを出す喫茶店があるんですよ。ここよりその店の方が、お互いきっと会話も弾みますから」


 なんだか、俺の知っている過去に、大きな変化が起きる予感がした。




 訪れた喫茶店はどこにでもありそうな、いたって普通の喫茶店だった。

 四人用のテーブル席だったので2対2で向き合って座ることになる。俺と課長が二人横並びに座ったので、向かいの席には市柳さんと製薬会社の担当者が並んで座ることになった。

 製薬会社の担当者は、やって来た店員にホットコーヒーを4つ注文した。

 店員がいなくなると担当者が言った。


「では、リストを拝見させていただけますか?」


 俺は予想落札価格エスティメートが記載されたリストを差し出した。

 今までだったら彼は、リストに一度さっと目を通した後、自分の会社の資料と俺たちが提出したリストとを交互に見比べ、それからいくつか質問をしてくるのがパターンだった。

 けれど――。


 彼はリストから目を上げると「うーん……」と低い声でうなった。なんだか、これまでとは反応が違った。

 ビジネスライクな雰囲気で自分の会社が用意した資料を眺めながら、ほとんど表情など変化させずに価格の質問をはじめるのが、お決まりの反応だった。

 だけど、今の彼は両目をぐっと閉じ、眉間にシワを寄せて、何か悩んでいるように見えた。


 俺も課長も黙ったまま、担当者が話しはじめるのを待った。緊張感のある沈黙が続いていた。

 すると――。


 ぐぅ~……。


 そんな音が、俺の向かい側の席から聞こえてきた。

 たぶん、誰かの腹の音なのだけど……それはおそらく……。


 市柳さんが小さく手を上げて、今にも泣き出しそうな小声で言った。


「ま、まじめな話のときに、す……すみません……。お、お腹が鳴ってしまいました……」


 彼女の顔も耳も真っ赤で、それを見ている俺の方も、なんだか恥ずかしいくらいだった。

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