008 ランチタイムの過ごし方
フルーツサンドを食べ終わった後も、市柳さんは機嫌良さそうに話し続けた。
こういう言い方は、まあ失礼なのだけど、市柳さんにしてはよく喋ってくれた方なのだと思う。
俺からたくさん話題を振ってみて、それでようやく人並みの会話量という感じではあったが……。
昼食時に会話したのが原因なのか、市柳さんの話は飲食店に関するものが多かった。
会社の近くに、お寿司屋さんなのにランチ限定でタイカレーが食べられる変わった店があって、市柳さんは二日続けて通ったとか……。
スナックだったのを喫茶店に改装したような店がお得なランチをやっているのだけど、店内には昔のゲームセンターにあるようなテーブル型のゲーム機が何台か置いてあって、食事用のテーブルとしても使用することができる。市柳さんはレトロなシューティングゲームのデモ画面を見つめながら、唐揚げの乗った山盛りのスパゲティーを食べたとか……。
市柳さんがランチで利用している店は、入社して10年以上経つ俺ですら一度も行ったことのない変わった店ばかりだった。
すべて会社の近くにある店らしいのだけど、本当に俺と同じ会社で働いているとは思えないほどだ。
そんな変わった店に会社の誰といっしょに食べに行っているのかと尋ねると、どうやら市柳さんはランチタイムはいつも一人で過ごしているみたいだった。
まあ、社会人が一人で飯を食べるなんてのは当たり前のことだ。
誰も気になんかしないだろう。俺だって営業だから、出先で一人で昼食をとることが多い。
それでも、市柳さんの話から彼女が会社にもカタログ制作チームにも馴染んでいないことが薄々伝わってきた。
おおよそ3年間、彼女はオークション会社で働くのだけど、退職する最後の日まで一人でランチタイムを過ごしていたのだろうか?
俺は、市柳さんのことをほとんど覚えていないのでわからない。
とにかく、サンドイッチ屋で市柳さんの話に熱心に耳をかたむけたが、7年後の世界に戻るためのヒントらしきものはなかったと思う。
「な、なんだか、わ、わたし一人でいっぱいしゃべってしまいましたね。す、すみません、大沼さん」
市柳さんがいっぱいしゃべるよう導いたのは俺だ。だから、別に構わなかった。
本当はもっともっとしゃべってもらいたかったのだけれど、俺の会話術ではこれが精一杯だったと思う。
「いいんですよ、市柳さん。会社の近くには俺の知らない飲食店が、たくさんあるみたいですね。もし機会があったら今度どこか連れて行ってくださいよ。たとえば……そのぉ……昔のゲーム機がある喫茶店で、いっしょにランチを食べる……とか?」
まあ、どこだってよかった。社交辞令だ。
さっと思いついたのが、ゲーム機のある店だった。
「い、いいですよ。き、機会があれば、ぜひ。お、大沼さんは、そういうゲームとかやるんですか?」
「ゲームはあんまりやりませんね。学生の頃、同級生には何人かゲームに詳しい奴はいましたけど、俺はあんまりやらなくて」
「そうなんですか。じ、実はわたしも、ああいうゲームって、そんなによく知らないんですよ」
なんだか……ゲーム機がある店にわざわざ行く意味が薄れるような会話だった。
やがて、集荷の時間がやってきた。
俺は二人分の食事代を支払うと、市柳さんを連れて神田の画廊に向かった。
集荷の時間が変わったことを、画廊のオーナーは謝ってくれた。
同じ火曜日を繰り返しているので、俺はもう何度も彼から謝ってもらっていた。
それから、いつものように雑談がはじまる。今回はわざと市柳さんとオーナーが会話をするように仕向けてみた。
俺の力では市柳さんから引き出せなかったような話も、オーナーなら引き出せるのではないかと考えたからだ。
その目的はやはり、市柳さんが話す内容に『7年後の世界に戻るためのヒント』が隠されていないかを調べるためだった。
オーナーの興味が市柳さんに向くよう話題を誘導する。
「彼女、今年の新入社員なんですよ。今はまだ仮配属中で、オークションカタログの制作をしているんです」
市柳さんは挨拶と自己紹介をしてから、オーナーと雑談をはじめた。
これまでだったら俺は、二人の雑談をほどほどのタイミングで止めていた。だけど、今回は止めずに市柳さんにがんばってもらった。
この画廊のオーナーは、すごく話すことが好きな人だ。市柳さんのようにあまりしゃべらない人を相手にしても、たぶんずっと話し続けることだろう。
案の定、オーナーがしゃべりまくって、市柳さんが聞き手にまわった。
俺もときどき会話に参加して、二人の会話がとぎれないように話題を振ったりとパスを出し続けた。
やがて、オーナーが市柳さんに質問する。
「それで、市柳さんは東京の人なの?」
「い、いえ。と、東京に来たのは大学からでして」
「へえ。出身はどこなの?」
市柳さんが口にした県名に、俺は少し驚いた。
画廊のオーナーが、俺の方を向いて言った。
「あれ? それって、大沼さんと出身が同じじゃないの?」
市柳さんとは3年間いっしょに働いていたのだけど、同じ県の出身だったとは知らなかった。
より詳しく聞いてみると、市柳さんが暮らしていた市と、俺が暮らしていた市は隣同士だった。
お互い住んでいた場所もそれほど離れていない。子どもでも少し頑張れば自転車で充分に行き来できるくらいの距離だった。
画廊のオーナーが笑いながら冗談を口にする。
「あははっ、すごいね。じゃあ、もしかすると二人は、子どものころに道なんかで偶然すれ違っていたかもしれないね」
まあ、さすがにそんなことはないと思うのだけど。
すると、市柳さんがこんなことを言った。
「あっ……わたし、そ、そういえば、子どものころに噂を聞いたような。と、と、隣の市にオークションのすごく上手な小学生が住んでいるって……」
んっ……? あれ……? これって冗談だよな……。
いっ、市柳さん、今、冗談を口にしたのか?
市柳さんって、冗談とか言えるのか!?
3年間いっしょの会社で働いていたけど、市柳さんが口にする冗談なんてはじめて聞いた。
あまりのことに驚いて、俺はまったく反応できなかった。
画廊のオーナーが気を遣ってくれたのか、代わりに反応してくれる。
「あ、あははっ……。大沼さんは、消しゴムとか鉛筆とか教室でオークションにかけていたのかな? ははっ」
オーナーの言葉を聞きながら、俺は微笑みを浮かべた。
それから、市柳さんの――おそらく非常に珍しいと思われる――冗談が聞けたところで、俺は会話を切り上げようと思った。
前回や前々回よりも、ずっと滞在時間が長引いていた。そのため、この後の課長との待ち合わせに遅刻してしまうと思ったからだ。
出品物の預かり伝票を作成してオーナーに渡すと、俺たちは白いワゴンに作品を積んで画廊を後にした。
赤信号で停車中に、車の時計に目を向けると少し微妙な時間だった。会社に一度戻ってから課長との待ち合わせ場所に向かうと、遅刻する可能性の出てくる時間だ。
けれど、このまま車で待ち合わせ場所にまっすぐ向かえば、充分に余裕がある時間でもあった。
そこで俺は、この状況を利用することを思いつく。
俺は市柳さんに言った。
「市柳さん、ちょっとこの後、課長との待ち合わせがあるんですけど、このまま一度会社に戻ると遅刻してしまうかもしれないんです」
「そ、そうなんですか。た、大変じゃないですか」
「でも、このまま車でまっすぐ待ち合わせ場所に向かえば、充分に間に合うんですよ」
「わ、わかりました。では、わたしは車を降りて、電車で会社に戻ります。で、ですので、大沼さんは、車で待ち合わせ場所に向かってください」
市柳さんは、カバンを抱えて車を降りる準備をする。
俺はそんな彼女を制して言った。
「ああ、いや……そうじゃなくて。市柳さんも、このまま俺といっしょに課長との待ち合わせ場所に向かうのは可能ですか?」
「へっ?」
「一応、今日一日は、カタログチームから俺が市柳さんをお預かりしていますので、終日連れ回しても問題ないと思うのですが。もし、市柳さんさえよければ、もう少しだけ営業の仕事を見ていきませんか?」
「よ、よろしいんですか? わたしは、うれしいんですけど」
「では、いっしょに行きましょう」
7年後の世界に戻るヒントを得るために、俺は市柳さんと可能な限りいっしょにいた方がいい。そう考えていた。
それで、このまま彼女を連れて製薬会社の商談に行ってしまおうと思いついたのだ。
大切な商談ではある。だけど、このままでは負けてしまう商談だ。7年後から戻ってきた俺には、それがわかっている。
ならば、市柳さんを連れていき、思い切った変化を商談に与えてみてはどうだろうか?
もしかすると、結果が変わるかもしれない。
そんな期待も少しはあった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます