005 『とにかく余計な行動をとるな』
時間が止まるなんて……。
まあ、信じられるはずがない。
もう一度だけ確認してみたくなった。
7年後から来たことを、再び市柳さんに打ち明けてみようと考えたのだ。
「あの、市柳さん――」
その瞬間。
やはり身体が硬直し、声が出せなくなった。
南京錠のマークらしきものが、自分の頭上に現れているようなイメージ。それが頭の中に強烈に浮かぶ。
『その行為は禁止されています』
誰かが俺に、そう警告しているかのように。
やはり、7年後のことを話そうとするとロックがかかった。自分の機能が停止されているような気分になる。
何もできない。
目の前にいる市柳さんも、店内の光景も、先ほどと同じように静止していた。
俺の周囲だけが止まっているのだろうか? それとも、世界中の時間が止まっているのだろうか?
それを確かめる
少し前まで、おいしいサンドイッチを食べたり、市柳さんと会話したりしたことで、俺はこの7年前の世界に対して油断しはじめていた。
けれど今は、なんともいえない不気味さを感じている。
再び時間を動かすために、先ほどと同じ方法で対処した。
『市柳さんに事情を打ち明けること』を心の中で諦めるのだ。
その瞬間。俺の身体は自由を取り戻し、市柳さんも動き出した。
「お、大沼さん。な、なんでしょうか?」
時間が止まる前に、俺は市柳さんの名前を呼んでいた。そのため彼女が、不思議そうな表情を浮かべながらそう尋ねてきた。
「すみません。お手洗いに行ってきます。ゆっくりしていてください」
仕事を抜けて、病院に行こう……。
店内を歩きながらそう思った。
この世界にも病院があるはずだ。現在の状況に病院が役に立つかどうかはわからない。けれど、ここでゆっくりコーヒーを飲んでいるよりかはマシだろう。
ただ……。
『7年後の世界から戻ってきた』なんてことを、どこの病院でどう相談すればいいのだろうか?
そう考えた瞬間――。
俺の身体が硬直した。
なっ……!? この行為も禁止されているのか!?
『7年後の世界から戻ってきた』ことを、病院に相談しに行こうと考えるだけでも駄目なのか!?
座席を立ってトイレに向かう途中だった。俺の足は動かなくなるし、声も出せなくなった。
例の南京錠のマークが頭の中に強烈に浮かんでくる。
『とにかく余計な行動をとるな』
そう強く警告されているような気分だった。
結局、現状の
集荷の時間が近づいてきたのでサンドイッチ屋を出ることにする。
もう俺は、この状況に抵抗するのをやめていた。
7年後から来た話を市柳さんに打ち明けることを諦め、仕事を抜けて病院に行くことも諦めていた。
しばらくは、7年前の世界でスケジュール通りに仕事をこなそう。
そう覚悟を決めたのである。
会計時に財布を取り出すと、少し考えてから市柳さんの食事代もいっしょに支払った。
今の状況は夢の中の出来事かもしれない。もし夢ならば、この金はどうせ自分の金ではないだろう。一度くらい後輩の市柳さんに気前よくおごってもいい気がした。
彼女とはこの先二度と、二人きりで食事する機会はないのだ。だから、いいじゃないか。
それに7年前には、おごらなかったわけだし。
市柳さんは恐縮した様子で、何度も何度も感謝の言葉を口にした。サンドイッチを一度おごったくらいで、こんなに感謝されるとは思わなかった。
それから、市柳さんを乗せた白いワゴンを運転して、画廊に向かった。
画廊のオーナーからは、丁寧に謝罪された。
集荷の時刻を変更した理由は、なんでも直前にずいぶんとおいしい商談が舞い込んできたからだそうだ。
詳細は聞かなかったけれど、「うまくいきましたか?」と尋ねたら、「うまくいったよ」とニッコリ笑い、彼は白髪混じりの頭をポリポリと掻いた。
オーナーは、小柄で痩せている気の優しいおじさんだ。
俺が新入社員の頃からのつきあいで、関係はずっと良好である。
この7年前の世界では、50代前半くらいの年齢だろうか。7年後の世界でも彼とは会うのだけれど、今、目の前にいる彼の方が7歳若い分、白髪もいくらか少なくて若々しい。
新入社員である市柳さんをオーナーに紹介した後、三人でしばらく雑談をした。
雑談をしたといっても、オーナーがほとんど一人でしゃべって、俺と市柳さんはずっと
話が終わると、画廊の壁にずらっと並べられた作品をざっと検品しながら、出品物の預かり伝票を作成した。2枚複写式の伝票だ。
せっかく集荷を体験しているということで市柳さんに記入をお願いした。
市柳さんの字は、とても美しかった。書道とかペン字とか、そういうのを習っていたのかもしれない。
彼女は大切な手紙でも書いているみたいだった。出品物の作者名と作品名を、伝票に自分の好きな人の名前でも書いているかのように、とても丁寧に記した。
版画であればエディションを『117/200』とか『CXL/CCL』とか、きちんと確認してから読みやすい字で記入していった。
出品物は全部で10点ほどだった。伝票の記入が終わると最後に担当印を押す。
俺は伝票の内容に目を通し、問題がなかったので担当印を押し、市柳さんにも担当印を押してもらった。オーナーにも内容を確認してもらい、サインをもらう。
それが済むと、2枚複写式の伝票をピリピリと1枚ずつに分ける。出品者用の控えをオーナーに渡し、もう1枚は自分のカバンに入れた。
車を画廊の前に移動させると、市柳さんと二人で作品を荷台に積んだ。
オーナーに挨拶をしてから車を発進させ、画廊を後にする。
「まあ、出品物の集荷はこんな感じです。営業はお客さんを訪問し、預かり伝票を作成して、作品を車に積んで……こんなことを一日に何度も繰り返します」
俺は車のハンドルを握りながら、助手席の市柳さんにそう言った。
「お、大沼さん、ありがとうございました。べ、勉強になりました」
「いえいえ。今日は小さな版画ばかりで重量のある作品はありませんでした。けれど、重たい油絵なんかを何十点も一度に預かったりするときもあります。けっこうな肉体労働だったりするんですよ」
「た、た、体力勝負ですね」
「はい。大きなブロンズ像を何体も預かったときなんか、車に乗せるのが本当に大変で、腕がパンパンになったり、腰痛が悪化したりします」
「よ、腰痛……」
「ところで、市柳さん。先ほど預かった版画で、エディションの『CXL/CCL』とか、意味はわかりましたか?」
さりげなく、市柳さんをテストしてみる。
「え、え、えっと……ローマ数字ですよね」
「はい」
「『C』が100で、『L』が50で、『X』が10です」
「そうです。ということは『CXL/CCL』は、どうなります?」
「ろ、ローマ数字で『XL』は40になりますから、『CXL』は140です」
「はい」
「『CCL』は250ですから、『CXL/CCL』は『140/250』です。あ、あの版画の限定部数が250部で、預かった版画が140番」
俺は車の運転をしているので、市柳さんの方を向かずに前を向いたままうなずく。
「正解です。すばらしい」
「で、でも、エディションナンバーが140だからといって、必ずしも140枚目に
「そうそう。市柳さん、よく勉強してますね」
「あ、ありがとうございます」
「俺は最初、エディションの数字が『1/250』だったら、250枚のうちの1枚目に刷られた版画なのかなって思っていたんですけど、必ずしも刷られた順番というわけではないんですよね」
「そ、そうみたいですね」
俺はさらに尋ねる。
「じゃあ、もう少しクイズをしましょうか」
「は、はい」
「エディション部分に『A.P.』と書いてあったら?」
「え、えっと……『アーティスト・プルーフ』ですよね。さ、作家保存版とか、そういう意味だったと思います」
「正解です。すごい」
それからも俺は、車を運転しながらさらにいくつか質問を続けた。
市柳さんはどうやら、最低限必要な知識は身につけているように思えた。ちゃんと勉強しているみたいだ。
そうこうしているうちに車が会社に着く。
「市柳さん、お疲れ様でした。作品を車から降ろして二人で社内に運びましょう」
「は、はい」
「それが終わったら、市柳さんはカタログ制作の方に戻っていただいて大丈夫です。今日は集荷を手伝ってくれてありがとうございました」
「い、いえ。お、大沼さん、こちらこそありがとうございました。と、と、とても楽しかったです」
それから俺は積荷を降ろすと、市柳さんとすぐに別れた。
この後、課長と合流することになっているのだ。
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