003 新入社員の仮配属期間

 コンビニの前で、俺はひとりつぶやいた。


「本当に7年前に戻っているのか? 日付を間違えているのは、俺の方なのか……!?」


 さらに新聞に目を通す。

 テレビ欄には7年前の番組名が並び、記事は7年前のニュースを扱い、広告は7年前の商品を宣伝していた。

 この世界で時間を間違えているのは、俺の方なのだろう。


 ようやく自分の置かれた状況を少しだけ飲み込めた気がした。

 同時に、驚きと不安が本格的に身体の中を駆け巡る。


 新聞を握りしめていた手が小刻みに震えはじめると、震える足で車に戻った。いや……車の中に逃げ込んだ。そう表現する方が、より正確だろう。

 ワケのわからない状況で外にいるのが怖くなり、少しでも壁や天井で囲まれている場所に逃げ込みたかった。


 再び運転席に座ると、助手席の市柳さんが声をかけてくれた。


「だ、大丈夫ですか、大沼さん。か、顔色が悪いようですけど?」


 うまく反応したかったけれど、声が出せなかった。

 俺は黙ったまま助手席に顔を向ける。

 市柳さんと目が合った。ぱっちりとした黒い目だ。

 きっと彼女はすぐに目をそらす。うつむいてしまうだろう。そう思った。さっきまで、ずっとそんな感じだった。もっさりとした黒髪の幕が、再び彼女の顔を覆い隠すはずだ……。


 けれど市柳さんは目をそらさなかった。

 本当に心配そうに――少なくとも俺にはそう思えた――こちらのことを見つめ続けてくれた。

 それが素直にうれしかった。彼女に良い印象を抱いた。


 しかし、彼女に何を言っていいのかわからなかった。

 俺はとりあえず、市柳さんの目を見つめながら小さくうなずいた。

 市柳さんもなぜか、こちらにつられるように小さくうなずいた。

 お互い黙ったままだ。

 うなずく市柳さんを眺めながら、俺がもう一度小さくうなずく。つられるように彼女も、もう一度うなずいた。

 試しに、さらに一度うなずいてみる。市柳さんもうなずいた。


 なんだろう、この女の子……。

 きっと、優しい子なんだろうな……。


 こんな状況だけれど、俺は少し面白いと思った。

 だって、ワケもわからず二人で合計6回うなずいたのだ。


「すみません、市柳さん。もう大丈夫です。ご心配をおかけいたしました」


 少し落ち着いたので、そう言って俺が無理やり作り笑いを浮かべると、市柳さんは「そ、そうですか。ほっとしました」と言って、ぎこちない笑顔を浮かべた。

 それから俺たちは、どちらからともなく視線をはずして沈黙した。


 市柳さんは助手席で、たぶん再びうつむいていたと思う。

 俺の方はフロントガラスの向こう側の景色を眺めていたような……ただ目を向けているだけで何も見ていないような……そんなボーっとした状態で過ごす。

 頭の中では混乱が、波のように寄せては返すを繰り返していた。


 やがて、さすがに状況に耐えかねたのか、市柳さんが話しかけてきた。


「そ、そのぉ……大沼さん。お、お、お昼ごはん、ど、どうしますか?」


 ……んっ?

 お昼ごはん?


 お腹なんか、まったく空いていなかった。

 それに、午前11時は、昼飯にはまだ少し早いのではないかと思った。

 こんな時間に昼飯の相談なんて……。

 この女の子、食いしん坊なのだろうか?

 いや、さすがにそんなことはないだろう。何か理由があるのかもしれない。


 市柳さんは、それ以上は何も言わず黙り込んでいた。

 俺の返事を待っているのだ。


 先ほどから彼女を困らせているのは、あきらかに俺だった。

 二人きりの車内で女性を困らせているのは、単純に居心地が悪い。

 加えて、状況はどうあれ後輩社員を困らせていることが、先輩社員として恥ずかしかった。

 それがたとえ、何年か後に会社を辞めていく後輩社員が相手だとしてもだ。


 今は夢の中なのかもしれないし、ここは本当に7年前の世界なのかもしれない。ワケの分からない状況だ。

 それでも……。

 そんな状況でも俺は、『後輩の前で先輩らしく振る舞いたい』という気持ちを、ほんの一握りくらいは持っていた。

 まあ、これまでの人生で、後輩の面倒見の良い人間ではなかったのだけれど。


 先輩らしく振る舞いたい。

 そんなのは、ちんけなプライドかもしれない。だけど、ちんけなプライドが俺の頭を冷やしてくれた。


 ……いつまでも後輩を困らせていてはいけない。

 まずは先輩らしく、市柳さんときちんと会話を成立させる。そして、状況を把握することからはじめようと思った。ワケのわからないこの現状に、とりあえずの地図を作らなくてはいけない。

 俺は市柳さんにお願いをした。


「そのぉ、お昼ごはんのことは少し置いておいて……。申し訳ないのですが、市柳さん。自分たちは今日、何をすることになっていて現在は何をしているのか、状況を説明してもらえないですか?」


 市柳さんはこくりとうなずき、


「お、大沼さん。や、やっぱり、これはなにかのテストなんですね?」


 と口にしてから説明をはじめた。


 市柳さんの話によると、今日は千代田区・神田にある画廊に行き、オークションに出品してくれる絵画を何点か集荷しゅうかすることになっているようだ。

 けれど、先ほど俺の携帯電話に連絡が入り、先方の都合が悪くなったので集荷の予定を一時間ほど後ろにずらしてほしいとなった。

 俺たちはすでに画廊の近くまで来ていた。仕方がないので神田周辺で少し早めの昼食をとって時間を潰すことにした。

 それで、コインパーキングに車を停めたところだった。


「なるほど」


 と声を出しながら俺はうなずく。


 しかしどうして、オークションカタログの制作スタッフである市柳さんを、集荷に連れてきているのか?

 出品物の集荷は、営業の人間の仕事である。市柳さんは営業の人間ではない。

 いや……。


 すぐに思い出した。

 7年前にたった一度だけ、市柳さんを連れて集荷に出かけたことがあった。


「仮配属期間か……」


 と、俺は思わず声をだした。

 市柳さんが不思議そうに小さく首をかしげた。


 新入社員は半年間、仮配属先で働くことになっている。

 たとえば俺は、入社したとき『営業部・営業2課』で半年間を過ごした。


 営業2課は主に、西洋の美術工芸品などを扱う部署だ。

 カップ&ソーサーやティーポットなどの陶磁器。

 陶製人形やビスクドール。ガラスの花瓶やガラスのランプ。

 シャンデリアや西洋のアンティーク家具などなど……。

 2課は、そういったものを集めてオークションを開催するのだ。


 しかし結局、俺の本配属は『営業1課』となった。

 1課は主に、絵画を中心に扱う部署だ。俺は手先が不器用だった。ガラスや食器などを触るのが危なっかしいと上司が判断した。それと、営業1課の人手不足なども重なった。

 そんなわけで、33歳になるまでずっと営業1課で絵画担当として過ごしている。


 半年間の仮配属――。

 新入社員はその間、仮配属先以外の部署にも適正がないか、念のためにテストされることがあった。

 7年前。市柳さんの仮配属先は、のちの本配属と同じく『カタログ制作班』だった。

 だけど俺は、上司から言われて仮配属期間中の市柳さんを集荷先に連れていき、営業職への適正があるか一度だけ確かめたことがあった。


 ふと、車内を見渡す。

 7年前に愛用していた自分のビジネスバッグを見つけた。

 バッグの中から手帳を取り出し、一日のスケジュールを確認した。

 神田の画廊で集荷を終えた後は、市柳さんと別れて、課長と合流することになっていた。


 なるほど。

 昼飯を食べるタイミングは、確かに今が良さそうだ。

 画廊の都合で集荷が一時間遅くなったのだから、集荷の後に昼飯を食べていたら、課長との待ち合わせに遅刻してしまうかもしれない。


 神田で昼飯を食べるときは、カレー屋かサンドイッチ屋をよく利用していた。

 午前11時で、お腹はまだあまり空いていない。ボリュームのあるいつものカレー屋よりは、サンドイッチ屋の方がいいだろうか?


 見た感じでは、市柳さんはなんとなく少食そうな印象だ。たとえば、海藻かいそうサラダなんかをちょこっとだけつまんで、それで満足しちゃっていそうな……。

 彼女のもっさりとした海藻みたいな黒髪も、俺のそんな印象を裏付けているような気がした。


「市柳さん。昼飯はサンドイッチはどうですか?」

「さ、さ、サンドイッチ、大好きです」


 問題なさそうだった。

 車を降りると、市柳さんを連れてサンドイッチ屋に向かった。


 店までの道を歩きながら記憶が少しずつよみがえる。

 確か7年前も同じだった。集荷が遅れ、彼女と二人で神田のサンドイッチ屋で食事をしたはずだ。

 市柳さんと二人きりで食事をしたのなんて、あの日が最初で最後だった。

 まさか、こんな形で再び彼女と食事をすることになるなんて。

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