002 リクルートスーツ姿の女性

 古い携帯がどうして?

 俺、スマホと間違えて携帯を持ってきちゃったのか?


 いや……違う。

 オークションの昼休み中、休憩室で確かにスマホをいじっていた。携帯電話なんて持っていなかったはずだ。


 そのうえ、さらにおかしなことに気がつく。

 着ているスーツに違和感が……。オークション中に着ていたスーツとは違うものを、俺は着ているのである。


 十年以上前に父親が『就職祝い』として買ってくれた古いスーツだった。

 オーダーメイドのスーツで、たぶん十数万円。

 もちろん、俺の持っているスーツの中ではぶっちぎりに高価なものだ。こんなに高いスーツは2着と持っていない。


 当時、さすがにこれほど高価なものはいらないと一度は断った。だけど、親父に押し切られて、結局甘えてしまったのだ。

 それで『勝負服』にした。ここ一番の商談があるときなどに身につけた。

 俺にとっては、お守り代わりのスーツだ。


 でも……それをどうして今、俺は着ているのか?

 20代の後半あたりから少々体重が増えはじめ、やがてサイズが合わなくなった。もう何年もそでを通していなかったはず……なのだが?


 スーツの違いに戸惑いながらも俺は、二つ折りの携帯電話をパカっと開いた。

 とにかく今は時間を確認したい。

 早くオークション会場に戻らなくては……。


 しかし……携帯のディスプレイを目にしてさらに戸惑った。

 年月日と時刻が表示されていたのだけど……『7年前の日付』だった。

 そして、時刻は午前11時――。


「お、おおぅ……」


 と、俺は声を漏らし、片手で頭を抱える。


 んーっ!!

 ……どういうことだっ!?


「お、大沼さん? ど、どうされました!?」


 助手席の女性がそう声をかけてきた。

 そうだ、この黒髪もっさりの女の子はいったい誰なんだ? 海藻かいそうの擬人化か?

 俺は助手席に視線を向ける。素早く! このリクルートスーツ姿の女性の顔を、今度は確実に確かめてやろうと思いながら。


「ひっ……」


 と、彼女は声を漏らした。長い黒髪が、もさもさ震えている。

 もしかすると俺は、とんでもない表情で彼女をにらみつけてしまったのかもしれない。

 まあ、こっちだって現状に混乱しているんだ。許してほしい。


「すみません。俺、びっくりさせてしまいましたか?」


 謝罪しながら俺は、おびえている彼女の顔をまじまじと眺めた。


 えっ? あれ……?

 この女の子……知っているぞ。

 確か、3~4年くらい前に会社を辞めた子だ。


「い、市柳いちやなぎさん……だったっけ?」


 ぼんやりとだが、思いあたる名字を口にしてみた。


「っ……!?」


 女の子は言葉にもなっていないような声を発しながら、両目でまばたきを繰り返す。

 驚いているのか? いや、なんかショックを受けている?

 俺、名字を間違えたのだろうか?

 それにしても、あらためてよく見ると彼女は黒目がぱっちりとしていて、まつげが長い。肌だって綺麗だし鼻の形も悪くない。

 もっさりとした髪型が非常に大きなマイナス要素となっているけれど、そこをちゃんとすれば、けっこう美人なんじゃないのか?


 女の子は、小さくひかえめな咳払せきばらいを「ん、んんっ……」とする。

 それから返事をしてくれた。


「は、はい……い、市柳です」


 そして、すぐにうつむく。

 もっさりとした黒髪が、すだれみたいに彼女の顔を覆い隠した。劇場の幕が下りたみたいに。

『もうお話はここで終わりですよ』と彼女から宣言されたような気分になる。


 それにしても、やっぱり市柳さんだったか。

 確か――オークションカタログの画像編集なんかを担当していたスタッフの一人だ。そう記憶している。


 彼女が退職する前。まだ会社にいたときは、社内でもトップクラスに地味な存在だった。

 会社で誰かと雑談をしていても、市柳さんのことが話題にあがることは、まずなかったと思う。


 どんな人だったのか、詳しく知らない。ほとんど会話する機会もなかった。

 気がついたら会社を辞めていた女の子だ。

 それでも、『市柳』という名字はなんとか覚えていた。まあ、彼女の下の名前は、まったく思い出せないけれど。


 市柳さんが新入社員として採用されたのは、うちの会社が新卒採用に力を入れた年だった。

 俺の勤めているオークション会社は、1年に一人採用するかしないか。そのくらいの会社だった。新卒社員を一人も採用しない年だってあった。

 だけどあの年は、新卒社員を一度に三人も採用したのだ。

 社長や人事担当のきまぐれかは知らない。過去にそういう異例ともいえる年があったのである。


 しかし……新卒採用で入社した三人は、全員辞めてしまった。

 一人目は1年で辞めた。

 二人目は1年半で辞めた。

 市柳さんは、三人の中では一番最後まで残っていたが、就職4年目となるころに、ひっそりと退職した。

 どうして辞めたのか、理由までは知らない。


 会社は方針を見直した。新卒ではなく、中途採用に再び力をいれるようになったのである。

 以後、新卒で就職活動をする人にとって、うちの会社は再び狭き門となった。


 うつむいてしまった市柳さんの頭のつむじを眺めながら、俺は尋ねる。


「えっと……。市柳さんって、確か3~4年くらい前に会社を辞めませんでしたか? どうして、ここにいるんですか?」


 市柳さんは、戸惑いの声を上げながら顔をあげた。


「え……? えっ? ええ……っ!?」


 顔を覆い隠していた黒髪が、もっさりと左右に開く。のれんの奥から再び美しい顔が現れたが、彼女の両目には薄っすらと涙がにじんでいた。


 なんだ?

 どうして泣きかけている?


「お、大沼さん……。わ、わたし、会社……辞めてないですよ……」

「えっ?」

「ま、まだ、し、新入社員なんです……。しゅ、就職したばかりなんです。こ、この会社で……頑張りたいんです」


 なんだか精一杯といった様子でそう言うと、彼女は再びうつむいた。

 先ほどと同じように、もっさりとした黒髪がすだれのように彼女の顔を覆い隠す。また幕が下りて会話が強制的に締めくくられた気分だ。

 本当に上演時間の短い劇場である。市柳さんが顔をあげているときだけ幕が開く。


 しかし……会社を辞めていないだって?

 いやいや、市柳さんは実際に会社を辞めているわけだし……。


 そう思ったところで俺は、ふと彼女の言葉に違和感を覚えた。

 ――まだ新入社員? 就職したばかり?


 市柳さんが新卒で入社してきたのは、7年くらい前のことだ。

 俺は再び携帯電話のディスプレイに視線を落とす。そこに表示されているのは、先ほど確認した通り7年前の日付である。


 続いて、自分の着ているスーツに、そっと手を触れる。

 父親がプレゼントしてくれた大切なスーツ。もう何年も袖を通していない。

 20代の後半以降に太ったせいで、ズボンもジャケットもきつくなってしまったから……。

 それなのに、どうして俺はこのスーツを着ているんだ?

 急にせたのか?


 車のルームミラーで、自分の顔を確かめてみる。

 30歳を越えたあたりから少しふっくらしてきた両頬りょうほほが、まるで20代のころのようにシャープで……!?


「って、あれ!? ひげがないっ!?」


 俺は大声をあげた。口髭が見当たらなかったのだ。

 ルームミラーに口髭が映っていないのである。

 実際に自分の顔を手で触ってみて確かめた。やはり生えていない!


「どうしてだ? 髭が生えていない!」

「お、大沼さん? だ、大丈夫ですか?」

「えっ!?」


 と、俺は大きめの声をあげて市柳さんの方を向いた。

 今の俺は、ちょっとしたパニックか? そう、パニックだ。

 だって、髭がないんだから。パニックだ。髭がない。


 両目に涙を浮かべている市柳さんを見つめながら、俺は自分の顔を――特に口のまわりを重点的に触ったり、ペチペチと両手で叩いたりした。

 髭の行方を探したのだ。髭はどこだ? パニックだ。


「お、お、大沼さん……? ほ、ほ、本当に大丈夫ですか?」


 市柳さんが、恐るおそるといった様子で尋ねてきた。

 それには答えず俺は、顔を両手でペチペチと叩きながら逆に質問する。


「い、い、市柳さん。変なことをお尋ねしますが、俺、口髭が生えていませんよね?」

「は、はい……。お、大沼さんが口髭を生やしているところを、わ、わたしは一度も見たことないです」

「えっ?」

「えっ?」


 顔から両手を離して、俺は頭の中で状況を整理しはじめた。

 市柳さんは再びうつむいて、もっさりとした黒髪の幕を下ろす。

 俺はひとりごとのようにつぶやいた。


「ああ、そうか……。俺が髭を生やしたのは、市柳さんが会社を辞めた後だった……かな?」


 うつむいていた市柳さんが、「っ!?」という言葉になっていないような声を発しながら、がばっと勢いよく顔を上げる。


「お、大沼さん、わ、わたし、か、会社を辞めてないです……」

「ああ、すみません。さっき、そういう話しましたよね? って……あれ? じゃあ、どういうことだ?」


 ますますワケがわからなくなった。またパニックだ。

 そして俺は、口髭を生やした経緯いきさつを、なぜか市柳さんに説明しはじめた。


「いや、とにかく30歳くらいの頃にですね、社長から言われたんですよ。『大沼、お前は見た目が地味だから、髭でも生やしてみたらどうだ』って」

「は、はあ……」

「だから、口髭を生やしてみたんです。俺、社長の言う通り、見た目が地味で印象が薄いから、お客さんに顔を覚えてもらえていない気がしていたし」

「そ、そうなんですか……」

「はい。それに、どちらかといえば童顔どうがんですから、口髭でも生やせば男として少しは貫禄かんろくが出るかなって……。そういうわけで口髭を生やしたんですけど、その髭がないんですよ。どこにいっちゃったの?」


 説明し終えると俺は、再びルームミラーに顔を映す。

 やはり鏡に映っているのは、どう見ても20代の頃の自分の顔だった。少し若い……。


「夢でもみているのか……? それとも……」


 試しに俺は、自分の生年月日を市柳さんに伝えてから質問してみた。


「それだと、今、何歳になりますかね?」

「まだ6月なので、に、26歳だと思います……」

「26歳……ですか」


 もう俺は、自分の身に起こったことをほぼ確信した。

 だが、念のために最終確認をしておこうと考える。

 ズボンの前ポケットから小銭入れを取り出して中身を確認する。7年前に使っていた小銭入れだ。


「市柳さん、ちょっとだけ車の中で待っていてもらえますか」


 そう言い残すと、一人で車を降りた。

 すぐ近くのコンビニに入ると、適当な新聞を3紙購入して外に出る。

 3紙とも異なる新聞社のものだ。店の外で何度も確認する。日付はどれも同じだった。

 7年前の6月である。

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