第3話 side花音

 着信に慌てて立ち上がると、左手を思いきり机の角にぶつけてしまった。

 痛かったけれど、右手じゃなくて良かったと思う。

 電話はすでに切られていた。

 仕方なくそのまま部屋を出る。隣にいる兄に聞かれる訳にはいかないのだ。

 私がそっと自室の扉を閉め、階下へ降りるとお母さんがダイニングで昨日届いた漫画雑誌ガルコミを読んでいた。


「二話目も面白いじゃない」


 そう言ってもらえるのは嬉しい。たとえ身内の贔屓目であったとしても。

 でも……


「お兄ちゃんには、私が言うまで絶対バラさないでね」

「うん、約束。お母さんからは絶対言わない」


 お母さんが小指を差し出す。

 なんだか子供扱いされているような気がしたけれど、私も小指を出してゆびきりした。


「ちょっと、担当さんと電話してくる」

「外は寒いから、これ着ていきなさいよ」


 お母さんから渡された上着を着て、花音は玄関の外に出て電話を折り返す。


 お兄ちゃんには絶対絶対絶対絶対に知られたくない秘密。


 私はこの春からガルコミという少女漫画雑誌で漫画の連載を始めていた。

 元は引きこもり中にラクガキした実録漫画をwebで公開したところ、雑誌編集者の目に止まったのが始まりだ。

 実録と言っても本当にあったことをそのまま描く訳にはいかないから、かなり脚色して面白おかしく脚色したのが良かったのかもしれない。もしくは、当時中学生だったということが編集者の琴線に触れたのかもしれない。web漫画を焼き直してストーリー漫画にしよう、と提案されたのだ。

 そして完成した漫画が見事新人賞を受賞。その後さらにストーリーを修正して現在連載三話目を絶賛執筆中なのである。

 さっきお母さんが読んでいたのは今日届いたガルコミの見本誌だ。お母さんには出版社との契約の関係で話をせざるを得なかったけれど、お兄ちゃんにはまだ何も言っていない。言えない。だって……


 編集さんからの電話は、おそらくメールで送った下書きについてだ。

 玄関先で打ち合わせするのはやりづらい。今後はガルコミ編集部で打ち合わせさせてもらえるように話してみよう。


「ベア先生、お疲れさまです」

「先ほどはお電話に出られずすみませんでした」

「今は大丈夫ですか? ガルコミの見本誌を昨日発送したので、今日明日中に届くと思うのですが」

「あ、はい。今日頂きました。ありがとうございます!」

「二話もいい感じですね。イチの表情が素敵です!」


 担当さんにそんな風に褒められると、すごく嬉しい。

 だって『イチ』は、この作品の中で一番力を入れているキャラクターだから。


「それで、三話のネームを見せて頂いたんですけど、中盤の盛り上がりがちょっと弱いと思うんですよね」

「あ、はい……」


 やっぱり。自分でも少しダレているような気がしていたから、その指摘は予測通りだ。


「近いうちに打ち合わせをしたいんですけど、ベア先生のご自宅ではマズいんでしたっけ?」

「あ、あの、そうなんです。出来たら、どこかのお店とか…… 喫茶店とかじゃダメですか?」

「あ、別に大丈夫ですよ! でしたら明後日伺いますね。何時にどこのお店がいいですか?」

「そ、それじゃあ『パレット』とか、どうでしょう?」


 つい、さっき食べたモンブランを思い出してしまった。


「分かりました、パレットですね。それじゃああとでメールも送りますが、明後日よろしくお願いします」

「は、はい。失礼します!」


 担当さんとの電話は未だに緊張する。

 でも、プロの漫画家として連載させてもらえるなんて、なかなか出来ることじゃないと思うから頑張らなくちゃ。

 私はひとつ小さなくしゃみをすると、再び部屋に閉じこもった。

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