第2話
保健室は消毒アルコールではなく紅茶の香りが漂い、他の教室と違う時間が流れているような気がした。
思いっきり走ってきた僕は盛大に息をきらしながら引き戸を開け、花音の姿を探す。
「先生! 花音、阿部花音は無事ですか?!」
保健の先生に食ってかかるように尋ねる。
「あなた、阿部さんのお兄さんね。良かった、でもちょっと静かにしてくれるかな?」
先生は豊かな胸を腕組みで支えながら出入り口に立ちはだかった。
「で、でも! 妹が!」
走っている間に不安が爆発しそうだった。
頭を打って意識不明になっているのではないか、それともどこか骨折しているのではないか、と悪い方にしか考えられなかった。
仕切られたカーテンの向こう側のどこに妹がいるのか、早く教えて欲しかった。
「大丈夫、ただの睡眠不足だったみたいよ。今はよく眠っているから起こさないであげて」
そこまで言われてやっと気がつき、僕は息を整えた。
「妹さんは家で夜更かししているのかな?」
先生は自分用に淹れていたと思われる紅茶を僕に勧めてくれ、遅れてやってきた真奈美先輩と共にご馳走になった。保健室なんて入ったこともなかったけれど、このやすらぎはくせになりそうだ。
「それが……家では部屋にずっと籠っていて、よく分からないんです」
僕は正直に答えた。が、花音の中学時代についてはさすがに触れられなかった。
だが、恐らく担任か誰かから申し送りがきているのだろう、先生は深く追求することはしなかった。
「そうなの? 女の子だからお兄さんとはあまり話さないのかな。だけど、もう少し睡眠時間を取るように言ってあげてね」
「はい、分かりました。それにしても、保健室ってこんなにいいところだったんですね」
「いいところ?」
先生が不思議そうに僕を見つめる。
「お茶も飲めるし、先生も優しいし」
「お茶が飲めるのは、みんなに内緒だからね」
あぁ、と小さくうなづき、先生は少し照れくさそうに人差し指を唇に当ててウィンクした。
「先生、花音ちゃん、阿部さんはいつ頃目を覚ましそうですか?」
静かにやりとりを見守っていた真奈美先生が訊ねる。
そうだ、受験生の先輩をいつまでも引き止めておくわけにいかない。
僕は大事なことを忘れていたことにやっと気がついた。
「す、すみません、先輩! 花音は僕が連れて帰りますから大丈夫です!」
「もう、静かにしてって言ったのに」
先生に睨まれ、僕は小さくなる。
「もう放課後だし、いつまでも寝ててもらう訳にはいかないから、そろそろ起こさないとね」
そう言って先生は立ち上がり、花音を起こしにカーテンの向こう側へ行った。
何度か起こす声が聞こえたが、なかなか起きないようだ。
「一緒に帰ろうよ。お茶はまた今度にして」
ティーカップを片付けながら先輩が提案してくれた。
先輩はなんて優しいんだろう。
本当に、天使みたいだ。
*
「そりゃあ、お前に気があるんじゃないか?」
宏哉に相談したのは間違いだったのだろうか。
昼休みの教室は喧噪から一転して静まり返った。
僕は慌てて誤摩化し、宏哉を睨む。
宏哉も周りの様子に気づいたらしく、笑いながらも謝った。
仕方がない。中学時代の友人にも、美術部のヤツらにも、先輩の話をする訳にはいかなかった。
言ったら袋だたきにされるだけだろう。
僕にはそこまで勇気はない。いや、逆に自意識過剰だと慰められたかもしれない。
「まさか、先輩が僕のこと……そんなはずないって」
「だって、なんとも思ってない後輩にそんな優しくするはずないだろ。それに三年の中じゃ噂になってるみたいだぜ、学年一の美人と一緒に毎朝登校してる男がいる、って」
「マジか?!」
「圭一は顔だって別に悪くないし、もっと自信持てよ。まぁ、ちょっと地味だけどな」
別に悪くないというのは褒められているのかどうかよく分からないしちょっと地味だというのは余計だが、宏哉がそんな風に思っていたとは。
いや、やはりそこまで楽観は出来ない。
「うん、でも…… 普通に花音のことを心配してくれただけかもしれないし」
「そうかもしれないけど、これをきっかけにしてお前の良さをアピールすればいいじゃないか」
さすが、モテる男は考え方が違う。
だが、どうやってアピールすればいいというのだ。僕にはさっぱり分からない。
「お前、過保護なくらい妹に優しいもんな。その辺はポイント高いと思うぞ」
「過保護? 僕が?」
「そうだよ。いくら兄妹だからって毎日一緒に登校するなんて、よっぽど仲良くなきゃ出来ないって。ウチの姉貴なんか近寄っただけで蹴り入れてくるぞ。いつもパシリにするし」
そうなのだろうか。
今まで自分の周りには一人っ子か男兄弟のいる友人しかいなかったから比較が出来ない。それに、家の中では花音も宏哉の姉とあまり変わらない気がしないでもない。
「そうかな、これが普通だから分かんないよ」
「絶対仲いいって。花音ちゃん、いい子なんだな」
「そっちかよ」
「いや、マジで。だって、普通なら嫌がるはずだろ? お前のこと結構好きなんじゃねぇの?」
思わず弁当を吹き出した。「汚ねぇな!」と騒ぐ宏哉には申し訳ないが、花音が自分を好きだなんてあり得ない。
「ごめん、って! でもさ、万が一嫌われてなかったとしたら「ウザい」とか「キモい」とか、言わないはずだし。絶対そんなはずないし」
言葉にすればするほど、自分が妹から嫌われていることを自覚して悲しくなる。
自ら振っておきながら、なんていう話題だ。昼飯を食べながらする会話じゃない。
「バッカだなぁ。それは所謂ツンデレってヤツじゃねぇかよ。可愛いじゃん、花音ちゃん」
能天気な宏哉はなおも話し続ける。少しは人の身になってくれ。
「いやいやいや…… ツンデレならどこかでデレがあるはずだろ? それがなかったらただのツンだろ?」
「お前はホント分かってないな。だからモテないんだよ」
分からないよ。分かる訳がない。
こちとら生まれてから一度もモテたことなんかないんだからな。
僕が反論しようとしたとき、クラスの女子が近づいてきた。
「ねぇ。阿部くんって、一年二組に妹いる?」
今年から同じクラスになった女子、桜井由美だ。
猫みたいな丸い目が好奇心旺盛そうに輝いて見える。
「あ、うん。いるけど……」
突然話しかけられて、僕も宏哉も唖然とした。
「やっぱりね。ウチの妹も一年二組なんだ。それで妹が、すごく可愛い子がいてその子のお兄さんが二年生にいる、って言ってたから確かめたかったの」
「へぇ……」
妹が可愛いと言われると兄として誇らしい。
それにその口ぶりだと、花音にもちゃんと友達が出来たようだ。高校生活は順調そうで何よりだ。
と、思ったのだが。
「妹さん、クラスで全然喋らないみたいだよ」
「本当?!」
「う、うん……」
しまったと思ったのか、由美は口ごもる。
衝撃は受けたものの、それが事実なら教えてくれたことはかえってありがたい。
「教えてくれてありがとう、妹はちょっと人見知りなんだ。桜井さんの妹さんはもう友達出来たのかな?」
最近真奈美先輩と話す機会が増えているおかげか、初めて話す女子にもそれほど緊張しないですんだ。
「あ、うん。妹は中学の時の友達が同じクラスにいるみたい。よかったら、明日妹さんに話かけるように言っておくから、阿部くんも伝えておいて。ウチの妹、桜井恵美っていうの」
逆に由美は自分から話しかけてきた割に、僕の返答に戸惑っているようだ。
何か変なことを言ったのだろうか。
「分かった、伝えとく」
「うん、じゃあよろしくね」
それだけ言うと慌てたように走り去っていった。
去り際に「やっぱ違うかも」とつぶやいたような気がしたが、僕にはなんのことだかよく分からなかった。
「今のヤツもお前に気があるのかな」
「はぁ? なんで? そういうことなら僕じゃなくて宏哉にだろ?」
自分と宏哉が並んでいたら、十人中十人の女子が宏哉を選ぶだろう。悔しいけれどそれが現実だ。それなのに宏哉ときたら。
やはりコイツに相談するのは間違っていたのかもしれない。
それよりも気になるのは花音のことだ。
もうすぐ新学期が始まって半月が過ぎようとしている。その間一度も誰とも話していなかったのだろうか。登校時には真奈美先輩とそれなりに会話が成立しているではないか。
花音はやれば出来る子だ。
いや、引きこもる前はむしろ社交的で積極的な性格だったはず。そりゃあ、一年間も友達と会話しなければ、話題の作り方も忘れてしまっているかもしれない。だとしても、二週間もの間、誰にも話しかけずにいられるものなのだろうか。
分からない。分からない、が、このままじゃマズいだろう。下手したらまた引きこもって不登校になってしまうかもしれない。
花音のことが気になって、午後の授業が始まっても僕の心に平穏が訪れることはなかった。
*
今日は部活をサボってしまった。そして先輩を連れ出してしまった。
予備校が始まるまでの貴重な数時間。それを自分のために、いや、正確には妹のために割いてもらうなんて。
今さら反省してももう遅い。
遥遠く美術室から飛んでくるような視線を躱しながら、僕は真奈美先輩と並んで歩いていた。
「せ、先輩。つきあってもらっちゃってすみません!」
つ、つきあうだって?!
なんてことを言っているんだ己は。先輩が気を悪くしたらどうする気だ。
僕は心の中で自分で自分にツッコミを入れた。
「別にいいよ。ケーキ食べたかったし。でも、せっかくなら花音ちゃんも誘えばよかったのに」
気づいていないのか気づいてないフリをしてくれているのか、先輩は優しく微笑んでくれる。
あぁ、やっぱり天使、いや神だ、この人は。
「そ、それが、実は話したいことは花音のことで……」
僕はまだ、先輩にどこまで相談すべきか迷っていた。
妹に友達がいないかもしれないことを兄が心配するのは、やはり宏哉が言うように過保護なのだろうか。
真奈美先輩は花音の不登校を知らない。
それを、花音の許可を得ず勝手に僕が話してしまうのはフェアではないだろう。
「もしかして、夜更かししてること?」
「あ、え〜と…… はい、そんな感じです」
「阿部くんって、ホント優しいね」
「え? い、いや、そんなこと、ないです……」
思わず顔が真っ赤になってしまった。
「そんなことあるよ。普通だったら、妹さんのことそこまで心配しないと思うなぁ」
考えてみれば、妹が一年間も引きこもりで不登校でなければここまで心配しなかったかもしれない。先輩に話すわけにはいかないが、これは不可抗力なのだ。だが、詳細を説明出来ないとなると、誤摩化すしかない。
結局、店に入るまでに相談内容を決めることが出来ず、かといってセンスのある会話も出来ずに僕はもだもだしながら歩き続けた。
先輩が選んだ喫茶店は大通りから一本入った人通りの多くない立地に建つチェーン店だった。
程よく人がいて落ち着いている。先輩は、予備校に行く前に休憩ためよく利用するのだと言った。
「ここのモンブランが美味しいの。テイクアウト出来るから花音ちゃんのお土産にもいいと思うよ」
モンブランより先輩の笑顔の方が美味しいです!
うわ、もう……
「好きです!」
しまった。何を血迷っているんだ。
今日は花音について真奈美先輩に相談したかっただけで。
こ、告白なんてするつもりじゃ……
うわ〜!
先輩がきょとんとした顔で見ている。
えっと、ど、どうしよう。
僕が動揺していると、何かに気づいたというように先輩の目が輝いた。
もしかして、このどさくさまぎれの告白は成功したのだろうか。
「良かった、花音ちゃんもモンブラン好きなんだね! 私も大好きなんだ」
「あ…… はい」
なんだこの展開。
安心すべきなのかがっかりすべきなのか分からない。
今度は僕の方が呆けた顔で真奈美先輩を見つめ返した。
「あ、ごめん! 阿部くんも好きだった? 私、てっきり阿部くんは甘い物苦手だって言ってたから、モンブランも食べないかと思って」
えぇ、食べませんよ。普段なら。糖分を大量に摂取しなくても困らないような省エネ生活をしていますからね。
だが、パニックに陥った僕は慌てて呼び鈴を押し、二人分のケーキセットとテイクアウト用のケーキを注文していた。
こうなったらもう、とっとと次の話題に行くしかない。
「実は、花音がまだクラスで新しい友達を作ってないみたいなんです」
結局、今日桜井由美から聞いた情報だけをオブラートに包んで話すことにした。
え? 今、包んだよね? 分かりやすく簡潔に、優しい言葉に置き換えたよね?
真奈美先輩から笑顔が消えて、あまつさえ涙ぐみ始めたのを見て、僕は心配になった。
「もしかしたら……花音ちゃんは可愛すぎるから、周りの子が緊張して話しかけられないのかもね……」
花音が可愛すぎるとは思わないが、仮に可愛すぎるとしたら周りのヤツらは緊張して話しかけられないのだろうか。
一瞬考え込んだが、目の前を見て納得。なるほど。
「それって、先輩の実体験なんですか?」
「え? そ、そんなことないよ! ……ただ、私だったら緊張しちゃうかな、って。だってホント、すごく可愛いし……」
か、可愛い。先輩が真っ赤になって焦っている。
後半は声が小さすぎてよく聞こえなかったけど、たぶん問題ない。はず。
「それじゃあ、先輩だったらどうやって友達を作ればいいと思います?」
「う〜ん、そうだなぁ……私だったら、無理して友達作らなくてもいいかな。焦らなくても、そのうちたぶん出来るよ」
やっぱり、先輩は自分の体験を話してくれているのだろう。
男女の差はあるだろうし美形の悩みはよく分からないが、いたって平凡な僕でさえ友達作りに苦労したなどという覚えはないのだ。
花音の場合は去年一年間のブランクがあったため桜井由美の言葉に動揺してしまったが、本来の彼女なら友人作りごときに苦労はしないだろう。
なんだ。冷静になってみれば簡単なことじゃないか。やっぱり先輩に話を聞いてもらって良かった。
「安心したらお腹減っちゃいました。先輩、話を聞いてくれてありがとうございます。僕って過保護なのかな? 友達に言われたんですけど」
「そんなこと……花音ちゃんは可愛いから、ちゃんと守ってあげないといけないもんね。あ、ほら、ケーキきたよ」
なんとなく誤摩化されたような気がしないでもないが、先輩の言葉を素直に受け取ることにした。
テーブルに置かれたケーキは想像していたものよりも小ぶりで、甘ったるそうな生クリームは乗っていない。このくらいなら頑張れば一口で飲み込めるかもしれない。
「ホントだ。このケーキ、美味しいですね」
先輩が「美味しい」と言ったプラシーボ効果かもしれないが、モンブランは辛党の僕の口にも美味しく感じられた。
悩みはほぼ解決ししてしまったけれど、せっかくお土産も用意したことだし、ケーキをダシにして花音と少し話してみるのもいいかもしれない。だって、花音のお陰で真奈美先輩とデート出来たようなものなのだから。
「そういえばさ、阿部くんって少女漫画読む?」
間が持たないと思ったのか、先輩が話題を振ってくれた。
「少女漫画ですか? う〜ん。少年漫画なら読むんですけど。あ、昨日話してたなんとかっていう雑誌ですか?」
「そうそう、ガルコミ。面白いよ」
まぁ、正直少女漫画には全く興味はないが、せっかく真奈美先輩が紹介してくれているのだ。それに、読んだら先輩がどんな話を好きなのかも分かるようになるだろう。
「今度読んでみます」
「うん、是非是非〜!」
なんていい日だ。
先輩は予備校に行かなければいけないため、あまりゆっくりは出来なかったが充実した一日だった。
もうこのまま地球が滅亡したっていいくらいだ。
なんて、宏哉に言ったら「満足するの早すぎ」と言われてしまいそうだが。
*
「どうしたの? ケーキを買ってきてくれるなんて初めてじゃない? しかも『パレット』なんて。ここのモンブラン美味しいのよね。明日雨でも降るのかしら?」
お土産は母にことのほか喜ばれた。
財布の中身は寂しくなってしまったが、こんなことならもっと前から時々買ってくれば良かった。
なんて思っていたら、階下の声を聞きつけたのか花音が勢い良くダイニングにやってきた。
おいおい、ケーキってヤツはこれほど効果があるものだったのか。
「なんで? 誰と? 先輩と? どうして?」
モンブランを頬張りながら花音が訊ねてくる。期待以上だ。
「いや、ちょっと…… うん」
馬鹿か、己は。
先輩と過ごした時間に舞い上がって、花音にそれとなく学校生活を聞き出すためのセリフを考えることをすっかり忘れていたのだ。
僕は意を決する。
「クラスの女子の妹が花音と同じクラスらしくてさ、桜井さんって言うんだけど、知ってる?」
甘い物で柔らかくなっていた花音の表情が、みるみるうちに固まってゆく。
「それが何? 先輩に話したの? 信じられない! 馬鹿! シネ!」
それだけ言うと、ケーキだけは手放さずにダイニングを去ってしまった。
あっけに取られた僕は、涼しい顔でモンブランを頬張る母に向き直る。
最初から母に相談すれば良かったのか。
「母さん、花音は一体どうなってんの?」
「あの子ね……」
「ダメーーーー!!」
消えたと思った花音が戻ってきて大声量で叫んだ。
「……だって」
あくまでも母は明るく、肩をすくめておどけてみせた。
結局謎は謎のまま。
ただ、母を見る限りそれほど深刻な問題でもなさそうだ。そりゃあそうか。去年より酷い状況なら、また学校に行かなければいいだけなのだから。
とはいえ、僕としては噂を聞いてしまった以上、出来るものならなんとかしたいと思うのだ。
「あの子は大丈夫だから、静かに見守ってあげて」
僕の考えを見透かすように母が言う。なら答えは明瞭だ。
花音には明日の朝にでも謝ろう。
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