僕の妹の秘密を僕だけが知らない
Mikey
第1話
ソメイヨシノがはかなげに散ったあと、八重桜がここぞとばかりにたくましく濃いピンク色で空を染める、そんな春の朝。
僕、
「圭一! 花音のこと起こしてくれる?」
階下の母に頼まれて妹の部屋をノックしたが返事はない。が、かすかに物音が聞こえるということは目を覚ましているのだろう。
それにしても妹の部屋の前に積まれた段ボールには一体何が入っているんだろうか。いや、おそらく漫画であることは確実なのだ。隣に堆く積まれているのはすべて漫画や漫画雑誌なのだから。
むき出しになった漫画と箱の中に入っている漫画の違いを知りたいような知りたくないような、複雑な気分で僕はダイニングへ向かった。
「ちゃんと起こしてくれた?」
朝食の皿を並べながら母が言う。テーブルの上に置かれた弁当箱は三つ。父はいつもながらすでに出社したあとだ。
「中で動いてる音がしたから、たぶん起きてるでしょ」
僕は目玉焼きを箸でちぎりながら答える。
母が朝から忙しいのは分からなくもないが、そろそろ妹を起こさせるのはやめて欲しい。と、いつも目で訴えているのだが、母には伝わっていないのだろうか。
「あの子寝起きが悪いんだから、顔見て確かめてくれなきゃダメじゃない」
いやいやいや、と僕は首を振りながら頬張った白飯を慌てて飲み込んだ。
「無理だよ。ドア開けたらすげー怒るもん」
やはり自分の気持ちは母に伝わっていないようだった。がっかりはするものの、仕方ないとも言える。この一年間、僕も含めて家族はみな妹の問題に一丸となって戦ってきた。だからといって女子高生のような難しい年頃の妹を毎朝起こす役目は勘弁願いたい。
「明日からは母さんが自分で起こしてよ」
今度こそ母に伝わっただろうと思ったが、母の視線はパジャマから現れた妹に向けられていた。
おそらく、僕の声は母に届いていないだろう。だが、妹が今朝も無事に起きられたのは朗報だ。なにしろ妹、阿部花音(かのん)は途方もなく朝が弱く不機嫌なのだ。
「あら花音、起きれたのね。ご飯食べる?」
母は花音にご飯をよそいながら言う。
「……食欲ない」
食卓についたものの、花音はぐったりとして顔を伏せたまま動かなかった。
母が用意した朝食は手つかずのまま冷めてゆく。もったいないから僕が一口いただくことにする。
花音は僕の行動に全く気づかないどころか微動だにしない。本来まっすぐなはずの黒く長い髪は寝癖でウネウネしている。折れそうなくらいに細くて白い腕をテーブルいっぱいに伸ばした姿は、まるで構って欲しくて邪魔をする猫みたいだ。
「もしかして、起きたんじゃなくて寝てないの?」
母が今度は野菜ジュースを用意した。やれやれ、どこまで妹に対して甘いんだか。
「しょうがないじゃん」
顔を伏せたまま、消えそうな声で母に返事をするところも甘えている猫っぽい。
それにしても、ダイエットなのかなんなのか知らないけど女子高生は朝飯を抜くのが流行っているみたいだ。花音だけじゃなくクラスの女子も朝を抜いて、その代わりにお菓子みたいな物を食べている。本末転倒な気はするけれど、下手に指摘して敵視されたら困るから僕はいつも黙っている。
「早く食べないと時間なくなるよ」
「……ウザい」
兄としては親切に教えただけなのに、花音は僕にに対してだけはなぜか横柄な態度をとる。僕は、それを妹なりの照れ隠しだと信じることにしていた。そうじゃなければ悲しすぎる。兄妹の仲は小さい頃からずっと変わっていない、はずだ。毎日喧嘩ばかりしている兄妹もいるらしいから、それに比べればかなり良好だと思う。
僕は僕なりに花音を可愛がっているつもりだ。昔も、今も。
一緒に釣りに行きたいと言われればクラスメイトから鬱陶しがられようと連れて行ったし、虫取りだろうが木登りだろうがなんだって一緒にやった。学校に通うのもいつも一緒だったし、放課後も、ずっと一緒だった。時々はぐれたのを置き去りにしたり、転んで怪我させたりしたのを怒られたのもいい思い出だ。
そしてあの日から、何も出来ないながらも今まで通りに振舞い、寄り添ってきた。
うん。と、うなずいて気を取り直す。
花音が元気なら、それでいい。
「お弁当はちゃんと食べなさいよ」
母が花音の伸ばした手に弁当を乗せながら言う。
「……はぁい」
母親も最近は諦めたようで、花音にムリヤリ朝飯を食べさせることはなくなった。花音はスマホのアラームが鳴った瞬間にそれを止め、打って変わってシャキシャキ動き出し、僕が朝食を終える前に完璧に準備を終えて玄関にたどり着いていた。
「いってきます」
「いってらっしゃい! ほら圭一、花音がもう行っちゃったわよ」
「え? ちょっと、花音! 待ってよ!」
母に言われて慌てて追いかけるが、花音の後ろ姿はすでに小さくなっていた。
……と思ったら戻ってきた。
「ねぇ! 今日ジャングルから荷物届くけど、絶対開けないでよ! あと手紙も」
「分かってるわよ。今日はドキ☆マホ20巻の限定版が届く日だもんね。それに、ガルコミもそろそろ届くんだっけ?」
「あ〜もぉ〜!」
さっきまで蚊の鳴くような声を出していた花音が盛大に吼える。体どうしたってんだ。
「なによぉ……もしかして、まだバレてないの?」
母は意味あり気に目を細め、花音から鋭く投げられた「ママ!」という叫びを軽く躱した。
世の普通の母たちは、ドラマの俳優さんに心を奪われるもんなんじゃないのだろうか。少なくとも去年まではそんな感じだったはず。だけど、最近じゃ花音の二次元にどっぷり浸かった言い回しによくついていっているし、去年から少しずつ増えてきたジャングルの段ボール箱が今年に入って頓に増えているのが気にかかる。
ちなみに、僕には二人の会話が宇宙語にしか聞こえない。
「ごめんごめん。あ、もう行かなきゃ遅れるわよ」
「絶対絶対絶対絶対に開けないでよ! 開けたらコロス!!」
「はいはい、いってらっしゃい!」
母は花音を軽くあしらって送り出す。
「花音のこと、よろしくね」
振り返って母が今度は僕に声を掛けた。
そう、母とトラブルがあるわけでもない。ない。と、思う。たぶん。
「分かってるって。いってきます」
別に、一緒に行かなくてはいけないわけじゃない。ただ、行き先は一緒だし、後からついていくのではまるで妹の後をつけるストーカーのようではないか。ご近所さんに妙な噂を立てられるわけにもいかないので、僕は急いで妹を追いかける。幸いなことに、今朝は最初の角を曲がる前に追いついた。
「……」
「え? なに?」
「……ついてこないで」
ついてこないで、と言われても、僕と花音は同じ高校に通っているのだ。それに、花音のことは家族みんなで静かに見守ろうと決めていた。高校に入学してから毎日真面目に通うようになってくれて、家族一同ホッとしている。それまでは部屋に閉じこもってお風呂とトイレの時以外、一歩も出てこなかったのだから。
きっかけはほんの些細なことだったと思う。
母から聞かされてもさっぱり理解出来なかったが、去年の春、花音が中学三年生だった頃、クラスで始まりかかったいじめを止めようとして逆に新たなターゲットにされてしまったらしい。いつも僕の友達に囲まれて男勝りだった花音は、女子の湿っぽい友情関係に疎かったようで、持ち前の明るさと正義感で対処しようとして返り討ちにされたのだ。最初のターゲットだった友人まで敵に回ってしまったのが最後の一撃となって、花音は学校に行くのをやめた。
女子の考えていることはよく分からない。
男子にもいじめは起こりうるが、女子とはなんとなく質が違う。だから僕は花音の力になることが出来なかった。そもそも、いじめられていたことさえ、言われるまで気がつかなかった。
出席日数も内申もギリギリだった花音は、それでも実力で高校受験の合格通知をもぎ取ってきた。しかも僕が息切れしながらなんとかこじ開けた門戸と同じ、県立三高だ。県下にはもっと高いレベルの学校だってある、とはいえ僕があんなに頑張ってやっと入れたところに軽々とやってこられると、兄としては誇らしく思えばいいのか悔しがるべきか迷ってしまう。
「花音ちゃん、おはよう!」
「おはようございます」
駅のホームで真奈美先輩に会った。
やった。今日も間に合った。僕は密かにほくそ笑む。
先輩は今日も綺麗だ。先輩がいるだけで薄汚れた景色が輝いて見える。
花音も先輩にはきちんと挨拶しているようだ。
「小川先輩! おはようございます!」
「圭一くんもおはよう!」
美術部元部長の小川真奈美先輩はいつも同じ電車の同じ車両に乗る。だから僕も同じ電車に乗ることに決めているのだ。出来るだけ花音も一緒に連れて。先輩は中学の時から同じ部活だし、花音の事もよく相談に乗ってくれたし、花音も同級生より先輩と話す方が気楽なようだ。と、僕が勝手に思っているだけかもしれないけれど。
真奈美先輩はものすごく綺麗で、中学生の頃から、当然今も男子から絶大な人気を誇っている。鎖骨にかかるくらいのふわふわな髪は明るい色をしていて、色白の先輩にとてもよく似合う。花音も白いけれど、あれはずっと引きこもっていた名残の病的な白さで、真奈美先輩の健康的な肌とは全然質が違う。
黒髪の花音が和風な猫なら先輩は洋風な小型犬。
花音が真っ白な雪なら先輩は淡いピンクの桜の花。
花音が抹茶チョコレートなら先輩はマシュマロ。
なんだかよく分かんないけどそんな感じだ。
去年までの登校時間は僕ひとりじゃなんとなく声を掛けづらくて、同じ車両の微妙な位置で先輩を眺めているだけだったのが、今年から花音のおかげで自然に会話が出来るようになった。
な、眺めてたっていっても、じっと見つめたていたわけじゃない。マジで。
僕はひとりで勝手に赤くなってうつむいた。
とにかく、毎朝の幸せなひと時に遅れないでよかった。
「花音ちゃん、今日も眠そうだね」
「あ、はい。大丈夫です」
お、おい、花音。
せっかく真奈美先輩が話しかけてくれているのに、とんちんかんな返答をするなよ。
花音は頑張って目を開けているようだが、実際にはほとんど開いていない。それどころか、つり革にぶら下がりながら舟を漕いでいた。
「なんか、朝まで起きていたみたいて」
僕が慌てて言い訳をする。我ながら優しい兄だ、などと自分で自分を褒めながら。
「そうなんだ。遅くまで大変だね」
え? 大変? 徹夜で漫画読むことのどこが大変なんだろうか。
妹は元々漫画が好きだったと思うが、去年引きこもるようになってからその量はふくれあがった。たぶんおこずかいのすべてをつぎ込んで漫画を召還しているのだろう。
毎週のように届くジャングルの段ボールと漫画本が部屋には収まりきらず、そのうち廊下まで浸食するようになっていた。
「先輩、こいつは毎晩遅くまで漫画読んでるだけですよ」
痛い! 花音に足踏まれた!
なんだよ、本当のことじゃんか。僕は花音を睨むが完全に無視される。
それより、起きているならちゃんと自分で返事しろよ。僕はハラハラしっぱなしだ。
「三高はやっぱり勉強が難しいから……復習してたら遅くなっちゃったんです」
え? そうなんだ。花音なら授業も余裕でついていけると思ってたけど。
「分からないことがあったら教えてあげるよ」
「せ、先輩は受験生じゃないですか! 勉強の邪魔になるからダメですよ!」
「だって、人に教えた方が勉強になるんだよ」
もし先輩が本気で言っているのなら、自分が教えてもらいたいくらいだ。なのに当の花音は再び眠たげに車窓を眺めている。
「そういえば、最近ガルコミっていう雑誌で面白い連載が始まったよね。花音ちゃん知ってる?」
「……ちょっと分からないです」
一瞬、凍り付くような殺気を感じた。
が、その殺気を放ったであろう主は微笑みをたたえている。
僕の気のせいだったのだろうか。今の花音からは何も感じられない。
「あ、そっか。花音ちゃんにはまだ早いよね。あれって結構過激な話が多いもんね」
「花音。ガルコミって、さっきお袋とそんな話してたじゃ……」
うぎゃ! 痛ってぇ〜!! さっきより痛ぇよ!
僕のローファーに花音のローファーが刺さった。思わず声が出ると真奈美先輩に笑われた。うわぁ、もうおしまいだよ。
「ふふ…… 圭一くん、女の子の話に入るからだよ」
あ、あれ。受けてる?
何かが先輩のツボにはまったらしく、電車を降りるまでずっと笑っていた。
*
教室に入るとクラスメイトの
去年から二年連続で同じクラスのヤツで気心は知れている。気心は。
宏哉は野球部所属で、文系の僕からするとかなり暑苦しい男だ。しかも、そこそこモテるくせに、というかモテるからこそなのか、女子の噂話ばかりしている。僕にとって、友達としては悪くないが妹のことは絶対に近づけたくない要注意人物なのだ。
「なんだよ、圭一。なんで朝からあんな綺麗な子、二人も連れて歩いてるんだよ!」
「あ、いや、えぇと……」
警戒していたくせに、肝心な時に上手い言い訳が出てこない。僕は目を泳がせた。
「朝から両手に花なんてずるくね?」
「あれは部活の先輩と妹だよ。全然両手に花じゃねぇし」
宏哉の更なる追求に僕は反論した。そうだ、それが現実だ。
「嘘だ。お前が俺に嘘をつくなんて。親友じゃなかったのかよ。去年は誰とも登校してなかったじゃねぇか」
いつの間に親友になっていたんだろうか。家も遠いし部活も違うし、一年生の時から教室で話すだけだったはずなのだが……
「だからぁ、先輩は妹と話してて、僕は付き添ってるだけ……」
自分で言って悲しくなった。
そもそも、ずるいのは宏哉の方だ。と、僕は思う。
野球部と言うだけで女子からのポイントは高い。坊主頭でも野球部ならモテモテなのだ。しかも宏哉はレギュラーでスタメンで、可愛いマネージャーの彼女がすでにいるではないか。
「宏哉。お前、彼女いるくせに」
ちくりと反撃すると、急に宏哉の態度が軟化した。
「いや、俺は圭一のことを応援しようと思っただけだよ」
嘘をつけ。単純にうらやましがっていただけじゃないか。
そりゃあ、妹だって真奈美先輩と並んでも遜色ないくらい可愛いわけだから、褒められて嬉しくないわけでもないけれど。
「それで、妹ってどっちなんだ?」
「まさか、花音を狙ってるのかよ?」
「へぇ、花音ちゃんっていう名前なんだ。入学したばっかだから黒髪の子かな。圭一には似てなさそうだったけど」
「おい!」
じろりと宏哉を睨むとヤツは慌てて目をそらした。
油断も隙もありゃしない。花音のことは自分が守らなければ、と僕は改めて心に誓う。
そんな下らないやりとりを宏哉と続けていたら、鋭い視線がグサリと刺さるような気配がした。
僕は担任がやってきたのかと思ったが、まだ予鈴はなっていないし、教室を見回してもやっぱりまだ来ていない。視線はひとつではなく、複数から投げつけられていたようだ。
そこまで不謹慎な話をしていただろうか。少なくとも、僕は被害者のはずなのだが。
「誰か睨んでる?」
「え? 何が?」
ダメだ。宏哉は全く気づいていない。
やはりターゲットは僕だけなのかもしれない。
宏哉に隠れながらもう一度様子を伺ってみたが、結局視線の主は見つからなかった。
*
美術室の窓からは校庭がよく見える。
運動部は春でもすでに真っ黒に日焼けして大変だろうな、と、僕は放課後の風景を眺めながら向かいの校舎を写生していた。
ここ、県立三高は昨年建て替えたばかりの武道館がガラス張りの屋根になっていたり、逆に明治時代の洋館をそのまま残した旧校舎が残されていたりして、県立高校としては珍しい、と地域の話題になっている。
せっかくだからその風景を描こうと思うのだが、なかなか上手く形が取れない。
「ねぇねぇ、阿部くん。花音ちゃんはもう部活決めたのかなぁ?」
真奈美先輩は石膏像をデッサンしながら囁くように僕に訊ねる。
先輩は美大への進学を決め、予備校に行くまでの時間も惜しんで美術室でデッサンをしているのだ。
僕にとってはなんという幸運な状況なのだろう。たとえ他に部員がいたって構わない。僕の中ではこの部室は二人の世界だ。
「あいつはたぶん、帰宅部なんじゃないですかね」
今までほとんど会話もなかったのに今日は先輩の方から話かけてくれたことが嬉しくて、僕の声は少し上ずっていた。
「えぇ、そうなの? もったいないよ! だって花音ちゃん、絵が上手いんでしょ?」
「あ、はい、そ、そうです。中二の時は県のコンクールで県知事賞をもらったらしいですから」
真奈美先輩が中学生だった頃は三年連続受賞していたという県知事賞を、先輩が卒業後に花音が受賞したのは結構すごいことだと思う。
花音、ありがとう。
僕は心から妹に感謝した。
ただ、残念なことに花音は部活に入る気がないらしい。もし美術部に入ってくれたら、真奈美先輩ともっと話がはずむだろうに。
「もうすぐ体験入部期間が終わっちゃうけど、良かったら花音ちゃんのこと誘ってみてよ。一回でいいから様子見においで、って」
にっこりと微笑む真奈美先輩に、僕の胸が高鳴る。
「は、はい! 絶対、絶対、明日来るように言います!」
「そんな、無理矢理連れてきちゃだめだよ。それに、明日は部活ない日だし」
「あ、そ、そっか。そうでした! とにかく今日伝えます!」
思わず立ち上がって大声を出したら、他の部員に睨まれてしまった。
真奈美先輩はにこにこと笑っている。
穴があったら入りたい、と僕は顔を赤らめた。
「あ、ダメだ。最近花音のヤツ、話しかけても返事してくれないんですよ」
今度は周りに迷惑をかけないように小声で話す。
人前ではそれなりに愛想良くしているが、家の中では僕のことだけ完全に無視するのだ。だが、恐らく真奈美先輩には伝わらないだろう、と思ったら案の定、先輩は不思議そうに首を傾げた。
「そうなの? あんなに仲良さそうに登校してるのに?」
「家だと全然喋らないですよ、生意気だし可愛くないんだから」
「そんなはずないよ! 花音ちゃんすごく可愛いもん!」
驚いた。今度は真奈美先輩が声を荒げたのだから。
先輩はすぐに我に返って「やだ、ごめん」などと周りに謝ったが、僕の時とは違ってみんな全然怒っている様子がなかった。
差別だ、とも思うが、僕も自分だったら先輩が大声出しても可愛いとしか思わないから別に気にしない。それより、花音のことを可愛いなんて言ってくれる先輩がますます可愛いではないか。
「す、すみません。俺、でもちょっと困ってて。どうやったら普通に話せると思います?」
妹が可愛くない、というのは言葉のあやだ。だけど、自分だけわざと無視されたら拗ねたくもなる。
「そうだなぁ……何か花音ちゃんの好きな食べ物でも買ってあげたらいいんじゃないかな?」
そんな発想はなかった!
さすが女子。さすが真奈美先輩。
だけど、今まで一度もそんなことしたことがない。僕は迷う。
「でも、兄妹でそんなことしたら、逆に引かれないですかね?」
「そんなことないと思うけどな……」
悩んでる先輩も可愛い…… と、眺めている自分は変態か。
「それじゃあ、明日の朝、私が誘ってみるよ。明日なら部活も予備校もないし、三人で一緒にお茶しに行かない?」
「ホントですか?! 行きます! 絶対行きます!」
またみんなから睨まれた。
やっぱり差別だと思った。だが、そんなこと気にならないくらい僕は浮かれていた。
先輩と一緒にお茶! まるでデートではないか。
「じゃあ明日ね。私、今日はもう帰らなきゃ。あ、そうだ。私のアドレス、花音ちゃんに伝えてくれる?」
そう言って、クロッキー帳の一枚にメールアドレスと電話番号を走り書きして先輩が手渡してきた。
ありがとうございます! 家宝にします!
僕は貰ったメモを握りしめ、肩を震わせた。
「あ、はい! お疲れ様です!」
おそらく部活の男子全員を敵に回したであろうが、僕は幸せな気分で真奈美先輩を見送った。
*
家に帰るなり、母親に驚きの声を上げられた。
「その顔! 一体どうしたの?」
真奈美先輩が帰ったあとメモの争奪戦が勃発して、美術部男子がそろって絵の具まみれになったのであった。
イーゼルはバタバタ倒れるし、女子は悲鳴を上げるし。
いつも静かな美術室が阿鼻叫喚の地獄絵図と変わり果てた。その後男子は当然叱られ、美術室の大掃除大会へと変貌したのだ。
そういえば、真奈美先輩のメールアドレスは二年の男子全員が知らなかったことになる。
もちろん、メモは僕が死守したのであるが。
「ちょっとね、名誉の負傷ってヤツだよ」
ジャージ姿の情けない姿とは裏腹に、僕は晴れがましい顔をしていた。
が、状況の飲み込めない母にとっては昨年の花音を彷彿とさせる様相だったのかもしれない。
「まさか、あんた……」
思わずそこまで口走ってしまって、母も気がついた。
階上から、そっと花音が様子をうかがっていたのだ。
やっと花音が学校へ通ってくれるようになったというのに、今度は僕がいじめで不登校などという事態に陥ったら家族は一体どうなってしまうのか。一瞬のうちに様々な想像が母の頭を巡ったであろうことが、青ざめた表情から分かる。
「違うって。美術部の、ほら中学も一緒だった小川先輩が、花音を美術部に誘いたいって言ってメールアドレスを教えてくれたんだよ」
「ははーん、それでアドレスの取り合いになっちゃった訳だ」
母はすぐに察してにやりと笑った。
真奈美先輩のことを覚えていたのだ。そりゃあ、あれだけ目立つ容姿なら、誰だって忘れないだろう。
まだ先輩さえも中学生だった頃のことだ。
学校公開日の見学にやってきた母は、部活中に真奈美先輩の前でもじもじしている僕をはっきり見てしまったのだ。以来、ことあるごとにからかわれたため、本当なら先輩の名前を出したくはなかったのだが。
たった一言で母が納得してしまうのだから、真奈美先輩恐るべし。
「だから、ちょっとシャワー浴びるから」
「それはいいけど、花音が部活に入らないって言っても、無理強いはしないでね」
「分かってるよ」
いくら真奈美先輩からのお誘いだとはいえ、花音の意志は尊重するつもりだ。
いや、でも、ホントに断られたらどうしよう。悩める男はツラいな。マジでツラい。
「花音、小川先輩が明日の放課後三人でお茶しよう、ってさ」
自分の部屋に荷物を置くついでに、さっそく真奈美先輩の伝言を伝えた。が、無視。
さっき、足音もドアが閉まる音もちゃんと聞こえてたんだぞ。返事ぐらいしたっていいじゃないか。
「花音が行かないなら、僕と先輩二人きりで行けるから、どっちでもいいけど」
と、現実には起こり得なさそうな、しかも起こったとしても花音にとってはどっちでもいいような、それこそ誰得なただの願望をつぶやく。
どうせ聞いてもいないだろうと思いながら、反応を確かめようとドアに顔を近づけると、なぜか勢いよくドアが開き、僕の顔を打ちつけた。
「痛ってぇ……花音、どうしたの? トイレ?」
思わず素に戻って聞いてしまった。
「馬鹿!」
再び扉は閉ざされた。
しまった。せっかく開いた天岩戸に注連縄を張りそびれた。
しばらく待ってみたが、再び扉が開く気配はない。
「明日の朝、また先輩と話せると思うけど、メールアドレス預かってるから連絡してみて。ドアに挟んでおくからよろしく」
仕方なくメモを挟んで簡潔に用件を伝えると、僕はその場を去った。
結局その日は妹の姿を見ることは出来なかった。
あとから、先輩のメールアドレスをメモしておけば良かった、と後悔したが、後の祭りだった。
*
翌朝、ぐったりとした花音を見るのが日課になっていた僕は、朝からシャキシャキ動く妹に驚く。
「おはよう、花音」
「……う」
「え?!」
我が耳を疑う。
が、確かに小さな声で「おはよう」と聞こえた。
あの花音が…… 花音が兄の自分に朝の挨拶をしてくれている。
「花音がおはようって言ってくれた!」
まるで野生動物の餌付けに成功して、自分の手から餌を食べてくれた瞬間みたいだ。
「キモ……」
感動も束の間、辛辣な言葉で攻撃される。だが、感動パワーは偉大だ。心が全く痛まない。
「ほらほら、二人とも。せっかく早く起きたんだから早くご飯食べなさい」
そうだ。僕は一晩眠れずに今日の行動をシミュレーションしていたのだ。その数、優に三百を越える。これで今日は完璧だ。あとはこの睡魔さえなんとか出来れば。
毎朝花音はこんな気分なんだろうか。
食卓に突っ伏したくなる気持ちが今ならよくわかる。当の花音は、やはり昨日も夜更かししていたようだ。
「あんたたち、今日は二人とも朝食抜きにするつもり? 残り物を食べるお母さんの気持ちも考えなさいよ!」
だんっ、だんっ、と勢い良く置かれた野菜ジュースを一気に飲み干し、僕と花音は競うように玄関へ向かう。
「行ってきます! 明日はちゃんとご飯食べるから!」
「行ってきます! 今日も荷物届くけど、絶対開けないでね!」
「はいはい、いってらっしゃい!」
なんとかいつもより三分遅れで家を出ることに成功した。
「花音! 待ってよ」
「別に、ひとりで行けるでしょ」
「そりゃそうだけどさ」
いつもと変わらないつれない態度だ。朝一瞬だけ見せた、あの態度は幻だったのだろうか。
それにしても花音は歩くのが早い。競歩の選手になれそうなくらい早い。ちなみに競歩は競技人口が少ないから、ちょっと頑張ればオリンピック代表に選ばれる可能性もあるらしい。いや、そんな豆知識はおいといて。
一年間引きこもりだったはずなのに。と思ったが、そういや引きこもる以前の花音はスポーツ万能だったっけ。僕は思い出してため息をつく。
「小川先輩、おはようございます!」
やった、今日もなんとか間に合った。
それにしても、花音の方から先輩に挨拶するとは。昨日ちゃんとメールしてくれたのかと思うと、胸に込み上げるものがある。やはり、朝の変化は幻ではなかったのかもしれない。
「花音ちゃんおはよう!」
「昨日はお誘いありがとうございました。嬉しいです」
ぺこり、と挨拶する花音とそれを優しく微笑みながら見つめる真奈美先輩。
なんだか麗しい光景が広がっている。眼福だ。
僕は眩しい景色に目を細めた。
「私もメール嬉しかったよ。ありがとう!」
やはり、メールのやりとりがあったんだな。僕はひとりうんうんとうなずく。
「今日はどこ行く? パフェパラがいいかな。あ、花音ちゃんは甘い物好き?」
パフェパラといえば、パフェオンリーのメニューで女子に大人気の喫茶店だ。三人で一緒に行く、と先輩は言っていたが実は、僕は甘い物が少し苦手なのである。
コーヒーでもあれば良いのだが、入ったことがないからまったく分からない。宏哉にでも聞けば分かるだろうか。いや、アイツは部活三昧だろうから、パフェパラのことなど知らないだろう。むしろ知ってたら羨ましくて一発殴ってやりたい。
「私は好きですけど、お兄ちゃんはちょっと……」
ん? ちょっと驚いた。
一年以上まともに会話をしていないが、花音は僕の苦手な物を覚えていたらしい。それとも実際は花音自身が甘い物苦手なのを誤摩化すために兄の名前を出したのだろうか。
頭をひねってみたが、花音の好物がなんだったか思い出せなかった。
それもそうだ。ここしばらく妹の食事風景を見ていないのだから。
「あ、そっか。あそこは女の子ばっかりだし、阿部くんは入りづらいよね。他のところにしよう。あとで友達にもお勧めのお店聞いてみるよ」
「あの、私。部活には……」
花音は焦っているようだ。一緒にお茶したら部活に入らないといけないような気がしているのかもしれない。
ここでいきなり断ったら真奈美先輩が傷つくかもしれない。だが、花音の意志も尊重しなければ。母にも釘を刺されたばかりだし。
僕はひとり葛藤していた。
「その話は今じゃなくていいよ。部活に誘ったけど、考えてみたら私、もう部員でもなんでもないんだもんね。花音ちゃんとはゆっくりお話してみたかったんだ……ダメ?」
「そういうことなら……喜んで」
花音が少し考え込んだあとにっこり笑った。
な、なんだこの表情。
僕はおろか、両親にもしばらく見せていないような柔らかい微笑みだ。
不覚にも、我が妹ながら可愛いと思ってしまった。
「良かったぁ。それじゃあ放課後、正門で待ってるね」
その後はいつも通り他愛のない会話が続いていたが、僕は菩薩のような気持ちで二人を見守っていた。
教室で宏哉につつかれたのは言うまでもない。
*
放課後が待ち遠しかった。
半分寝ながら授業を受けていたというのに、いつもの十倍長く感じられた。
休み時間は宏哉にこれ以上いじられないように狸寝入り兼睡眠不足解消をはかりながらやりすごし、やっと迎えた放課後。
急いで正門にやってきたが、真奈美先輩も花音もまだついていなかった。
待つこと十分。やはり事前に先輩の連絡先を聞いておけば良かった、と後悔するもすでに遅し。仕方なく、ダメモトで花音にメールを送ってみる。案の定返事はこない。
が、しばらくすると真奈美先輩がやってきた。
「遅れてごめんね。今、花音ちゃんに電話したら先生に見つかっちゃって……」
息を切らしながら急いで来てくれたのかと思うと、それだけで嬉しい。
じゃなくて。
先生に電話しているのがバレた、と言わなかったか?
「せ、先輩は大丈夫だったんですか?」
先生に怒られたりとか、怒られたりとか、怒られたりとか……
「え? なにが?」
「携帯見つかったって……」
「あ、うん。保健の先生が「ちょうど良かった」って言ってくれて大丈夫だったよ」
な、なんですと。
先生も美人には甘いのか。本当だったら学内で携帯電話を使うと没収のはずなのに。
差別だ、格差だ、カーストだ。
大声で叫びたい気分だったが、真奈美先輩の手前それは我慢することにした。
「それより大変なの! 花音ちゃん、体育の時間に倒れて保健室で寝てるんだって!」
「花音が?!」
体育の時間に倒れるなんて、ボールにでも当たったか、人にぶつかったのか。放課後まで目が覚めないほどの衝撃を受けたならなぜ自分に連絡が来なかったのだろうか。それより、母親には連絡が行っているのか。ダメだ。今日は仕事に出かけているはず。
とにかく、保健室に行って確かめるのが早い。
先輩が後ろで「待って!」と呼ぶのをかすかに聞きながら、僕は保健室へダッシュした。
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