第3話 磁石の男

 ひとまず目の前の危機を乗り越え、わたしたちにしばしの休息がおとずれた。そう、そのはずだった。しかしそうは問屋とんやがおろさない。わたしは大事なことを忘れていた。定期テストの存在だ。夜は夜更かし、昼は居眠りで授業の記憶はまったくなく、範囲がどこかすら覚えてない。テスト期日は明後日あさっての月曜日。今日を入れて三日だ。急いで友達に範囲を訊き、死に物狂いの勉強を始めた。天才の京は無勉強でも問題ないが、凡人のわたしはそうはいかない。これから三日間、なんとしてでも知識を詰め込むのだ!!



 ―――帰ってきた答案を見て、わたしは青くなった。全身の血が引いてゆくのをひどく鮮明に感じた。


 10点、14点、12点、23点、20点。不吉な数字が答案の右端に並んでいた。一番できのいい現代文でも30点。最悪だ。まれにみる凶作だ。別に今期のテストが特別難しかったわけではない。むしろいつもと比べて甘いほうだった。それでこの点数。無理もないといいたいが、今回は楽勝だと浮かれるクラスメイトを見るとつらくなる。


 ただ、驚いたことに京もわたしとにたりよったりの成績だった。戦いに明け暮れて復習する余裕もなかったのだろうか、わたしひとりじゃないんだと妙な仲間意識を感じる。放課後、先生に職員室まで呼び出され、夏休み中の補講を言い渡された。わたしたちはお白洲しらすに引き据えられた時代劇の罪人のようにそれを聞いていた。


 とぼとぼ並んで帰る途中、京はわたしをはげましてくれた。


「元気出しなよ朱美。一回くらい赤点とったって、後になってみればいい思い出よ」


「そんなこと言ったって・・・。あんたは普段から点数いいから構わないかもしれないけど、わたしなんかいつもいい加減だから今回はピンチなのよ。あーあ!」


 今日の空は梅雨らしい曇り。わたしの心もまた晴れ間のない曇天どんてんだった。



                   2



 梅雨明けにはちょっと早いが、夏休み初日は景気のいい晴天だった。今頃クラスメイトたちは高校最後の夏休みを満喫まんきつしていることだろう。来年わたしたちは受験生になるんだし、思いっきり遊べるのはこれが最後だ。だというのに。


 ―――ああ、ため息をつきたい。なんだって補講なんて受けなくちゃいけないんだろう。出来損ないの答案を見てお母さんは今年一番の雷を落とすし、お父さんも失望した様子を隠さなかった。これ以上成績が下がるようなら塾に入れるとふたりでこっそり相談しているのをわたしは目撃してしまった。とんでもない。わたしはそうまでして勉強なんかしたくはないし、できる限り遊びたい。塾なんて、なんとかしていい大学に入りたい人が行くところだ。まっぴらごめんだ!


 ・・・というわけで、この夏は机にかじりつく夏になりそうだった。それも、塾に入らないためというおかしな目的のために。


 やるべきことはひとつではない。もうひとつ重要なことがある。わたしはそっと隣に座った京を見た。教室にはわたしたちふたりだけ。ぬるい空調がきいている。やるべきこととはもちろん、敵の妖術師たちとの戦いだ。あれ以来敵の襲来はないが、またいつくるかはわからない。もしかしたら今こうしている間にも魔の手はやってくるかもしれない。そんな状況でも京がいれば安心できる。京が一緒に補講を受けてくれて本当によかった。


 ―――まって。天才の京が補講?


 引っかかった。今まで京は勉強らしい勉強をしてこなかった。テスト間近に京のノートを写させてもらおうと貸りたところ、ほとんどまっさらだったということもあった。それなのに今回に限って京が赤点を取るのか?いくら戦い疲れたとはいえ・・・・・・もしかしてそれほどのなにかがあったのだろうか。京に赤点を取らせるほどの何かが。それともまさか、わたしをひとりにさせないためわざと赤点を?


 その時、先生が入ってきてわたしの思考は中断された。仕方なくわたしは授業に集中した。


 お昼過ぎになってようやく今日の補講は終わった。泥のようにだらけるわたしを京は下敷きであおいでくれた。


「詰め込みすぎて頭がパンクしそう・・・」


 京が何か言ったようだがわたしには聞こえなかった。いまやクーラーの音も京の声も聞こえない。すべてが同じ雑音で、使い過ぎた頭を素通りしてゆく。これ以上頭を使えば熱暴走を起こしてしまうだろう。


 ―――そのとき、ふと目をやった窓の外に、知らない男が立っていた。肌の浅黒い坊主頭の男だ。用務員さんだろうか。だけどなぜここに?


 男は教室を覗き込んでわずかに口を動かした。かすかに声が聞こえた。


「・・・見つけたぞ」


 それに気づいて京もまたそちらへ目をやる。


 男の右手が窓にかかる。異様な手だ。銀色に輝く小さな凹凸おうとつが無数についている。京が物も言わずわたしの身体を押し倒した。わたしは椅子いすから倒れ込み、京がそこにおおいかぶさった。同時に窓の割れる甲高い音が響きわたる。


「朱美、離れて!」


 わたしは身を起こすと急いで教室の隅っこまで移動した。振り返ると、男は自分で叩き割った窓から侵入し、教室に降り立つところだった。京は早くも起き上がっておのが右腕を切り付け、凍った血の刀を作り出していた。


「私が何者か、言うまでもないだろうがな。私は」


「あの老婆の仇を討ちに来た妖術師ね」


 ふたりの妖術師は対峙たいじした。男はしぶく、不敵に笑う。


「さよう。しかし私の妖術までは知るまいな」


 そう言って男は銀色の不気味な腕を伸ばす。よく見たらその銀色はパチンコ・・・・・だった。無数のパチンコ玉が磁石に引きつけられるように男の両手を覆っているのだ。


「見よ、妖術・磁気嵐じきあらし!」


「伏せて!」


 京の叫びに瞬時に反応し、わたしはべたりと身を伏せる。その瞬間、パチンコ玉はいっきにはじけた。互いに反発し、壁や物に反射しながら飛び散った。クモの子を散らすようにと言うが、まさしくクモの子ならぬパチンコ玉は、散弾銃みたいに空中に散らばった。


 京はとっさに跳び下がり、倒した机の陰に隠れてこれをやり過ごしていた。あちこちに散らばったパチンコ玉はひとりでに宙を舞い、男の右手に吸い寄せられ、ふたたび右手をおおった。


 そのとき、男にわずかなすきができた。京は倒した机を持ち上げて、ハンマー投げの要領で男に投げつけた。男は飛び上がってこれをかわし、金属製の窓のさんに虫のように張り付いた。


 男は腕を横に振る。すると今度はパチンコ玉がひとつなぎの線になり、むちのようにしなって京を襲った。京は身を伏せてしのいだが、それで終わりではなかった。鉄玉の鞭はさらなる追撃を加える。机や椅子を跳ね飛ばし、京を追い詰めてゆく。しかし京も必死だ。赤典太で迫りくる鞭をいなし、切り離し、隙あらば男に迫ろうとする。一進一退いっしんいったいの攻防である。


 男はいったん鉄の鞭を引いた。そしてようやく床に降りて、鎖のようにパチンコの線を頭上で振り回した。


「なかなかやるではないか娘よ。だが・・・」


 列をなしたパチンコ玉は、一列に並んだ机の下をヘビのようにった。机の脚にその体を巻き付けて―――。男が右手を引くと、離れていた机は連結した。パチンコ玉がそれぞれの机を結び付けたのだ。


「これを受けきれるか!」


 男は机の脚を持った。その長さは約七メートル。軽々と持ち上がる。時計の針のようにゆっくり回りだす。まさか・・・・・・。


 窓という窓の割れる音、机や椅子の吹き飛ばされるすさまじい音に混じって短い悲鳴が聞こえる。京がわたしの目の前に転がってきた。うずくまり、小さくうめく。わたしは京に駆け寄った。


 教室はひどいありさまだ。窓はすべて割れて桟もひしゃげ、ねじれている。壁には巨大な爪でひっかいたような傷跡が残り、わたしの近くの黒板もゆがんでしまっていた。何が起こったのか、想像にかたくない。男はその長い腕を時計の針のように振り回したのだ。机椅子を吹き飛ばし、黒板をひしゃげさせるほどの恐ろしい力で。京はそれをもろに食らってしまった。わずかに反応が遅れたのだ。


「これがお娑婆しゃば不空坊ふくうぼうを倒した妖術師か」


 男は勝ち誇って言った。おびえるわたしを見て、いやらしい笑みをつくった。京はもう戦えない。わたしがどうにかしなくちゃ。わたしが京を守らなくちゃ。・・・わたしのどこにそんな勇気があったのか、京の取り落とした「赤典太あかてんた」を拾いあげ、見よう見まねで構えた。男は机の半分を切り離し、短くした。その長さは約二メートル。わたしひとりを始末するのにちょうどいい。


「来るなら来なさい!」


 男は右手を振りかぶった。わたしは閉じそうになる目をきっと見開いた。最後の瞬間までせめて敵をにらみつけてやる!


 と、視界のはしになにか動くものが見えた。黒板だ。ひしゃげて傾いた黒板が、男の手にひきつけられている。いまや黒板を固定しているのは片方に残ったネジだけだ。なにが起こっているのか、理解する前に身体が動いていた。


 わたしはじりじりと後ずさる。男はぐんぐん迫りくる。わたしは後ろなぐりに刀を振り回し、黒板を固定しているネジを断ち切った。途端とたんに黒板は、飼い主にとびつく犬みたいに男に吸いつけられた。驚愕きょうがくの声をあげて黒板の下敷したじきになった男は倒れる。わたしはすぐさま男に向かって刀を投げつけた。それは黒板を貫通し、男の絶叫があがる。いまだ!


 わたしは京の腕を取った。


「はやくこっちへ!」


 しかし京は動こうとしない。痛みで動けないのだ。わたしは京の細い体を背負いあげようとした。そのときだ、黒板の下から血潮をしたたらせたおぞましい影がはい出て、わたしの首に腕を絡ませた。すごい力に押されてわたしはなすすべなく後退する。


「やってくれたな小娘。よくも私の目を・・・!」


 男の左目は閉じられて、そこから泡立つ鮮血が流れていた。わたしはぞっとして目をそらした。それを見て京が痛みをこらえて立ち上がる。


「朱美!」


「娘はもらっていく。人質としてな。私はお前と改めて勝負がしたい。一切の邪魔の入らない場所で、正々堂々と。そのためにこいつはもらってゆく」


「勝負ならいまここでつけましょう。その子は関係ないわ」


「ならぬ。お前はひどい怪我を負っているし、わたしは左目が見えぬ。合わぬのだ、距離感が。私が片目に慣れ、お前の怪我のえるまで勝負はお預け。どうだ?」


 京は歯噛みした。ここで決着をつけたいのはやまやまだが、わたしのことを案じて手が出せないのだ。


「京、無理しないで。わたしは大丈夫だから」


「ほれ、娘もこう言っておる」


 京は力なくうなだれた。


「・・・・・・わかったわ。勝負は後日」


 男はにやりと笑うと後ろ歩きに窓を飛び越え、一階の教室を後にした。京の姿がだんだん遠ざかってゆく。わたしは心細さに押しつぶされそうだったが、京に心配をかけないようにわざと微笑ほほえんだ。



                   3



 連れてこられたのは、やはり人形の屋敷だった。男はわたしの両手両足を無造作に縛ると、赤い絨毯じゅうたんの床に放り出した。


「ここでしばらく、おとなしくしておれよ」


 そっけなく言うと、自分は切った作務衣さむえすそを片目に巻き付けて手当てした。そこへ二人の男―――いずれも坊主だ―――がやってきた。そして男のありさまとわたしを見てたずねた。


彼岸坊ひがんぼう、どうしたのだ、その左目は」


「ちと不覚を取ってな。そこな娘にしてやられたわい」


 彼岸坊と呼ばれた坊主はうすく笑った。他ふたりの視線がわたしにそそがれる。


「妖術者か」


「いや、ただの子供だ。だがなかなかどうしてきもわっておる」


「なぜ途中で始末せず、ここに連れてきた」


「この娘は人質でございます、無明坊むみょうぼうさま。私はお娑婆と不空坊を倒した娘に並々ならぬ興味を抱き、再戦を誓いました。この片目の世界に慣れてからもう一度戦うため、こやつを人質としている次第でございます」


「ほう。一度痛手をうけて逃げ帰ったお前が、さらに不利なハンデを負って勝てる相手なのか」


 無明坊と呼ばれた坊主はあざ笑うように言った。彼岸坊は恥ずかしげにうつむいたが、すぐに気を取り直した。


「やります。やってみせますとも」


「ならば楽しみにしておるぞ。お前の勝ちっぷりを」


 ふたりはどこかの部屋へ消えていった。彼岸坊は片方だけの目でわたしをじろっと見て、言った。


「娘。私はお前に感謝せねばならんな。無明坊さまはああいうが、私は片目が不利とはちっとも思わん。決して負けおしみではないぞ。妖術師でもないお前に目を潰されたのは私の心にぬぐいようのない油断のあった証拠。お前のおかげでむしろわが心から少しの油断もなくなった。戦いが無事終われば、お前だけは無事に戻れるよう取り計らってやる。あの娘のことまでは、保証できんがな」


 わたしは彼岸坊を見つめた。なめし革のように浅黒い肌に、彫りの深い顔。身体はひきしまり、これで座禅でも組めば完全にインドの修行僧だ。わたしは男を睨みつけた。


「京はきっと勝つわ。勝って、あなたの手など借りなくてもわたしを助けてくれる」


「はっはっは、それはいい。ならばお前のその目で見届けろ、本当の勝者がどちらかをな」


 京は必ず助けに来る。それだけはまちがいない。そこに不安はなかった。しかし京はこの恐ろしい妖僧ようそうに勝てるだろうか。片目とはいえそれだけいっそうすごみを増したこの男に。京が無残にやられる光景を想像すると、それだけでわたしは悲鳴を上げそうになった。


 不安を紛らわそうとほかのことに目を向けているうち、その気はなくても敵のメンバーの名前を覚えた。まずわたしをさらっていった肌の浅黒い男が彼岸坊ひがんぼう。同僚の背が高く、鼻の高い外人のような風貌の男が金剛坊こんごうぼう。こうしてみるとけっこうないい男だが、全身に緊張感というか人斬りのような危険な雰囲気が漂っている。で、そのリーダー格が無明坊むみょうぼうという男だ。ふたりともこの男にだけはさまをつけ、敬語で話す。でっぷり太った大男で、鼻も口も大きく赤い。よく、飾られた人形を眺めては無口に薄笑いしている気味の悪い男だ。


 三日目、わたしは相変わらず同じ姿勢で縛られていた。その目の前で、彼岸坊は金剛坊に言った。


「金剛坊、お前の宝剣を私に投げてくれ」


「なにをするつもりだ」


「いいから投げろ。思いっきりだ」


 金剛坊は言われた通り、仏像が持つような木製の剣を投げた。と、それは彼岸坊の顔に届く前に、機関銃のように放たれる無数のパチンコ玉に砕かれた。木くずとなった宝剣を踏みしめ、彼岸坊は壮絶に笑った。


「合ったわ。目が合った。行ってくるぞ金剛坊。小娘の目にもの見せてくれるわ」


 目があったとは、片目を失って狂った距離感がもとにもどったということだろう。それはすなわち京との再戦を意味している。わたしは願った、京の勝利を。必ず生きてここに来てくれることを。



                   4



 宇喜多京はこの数日間、ベッドの上で痛みにもだえていた。彼岸坊に痛めつけられた身体は燃えるように痛み、神経をさいなんだ。もしあの時、とんでくる机と同じ方向に跳んで衝撃を緩和しなかったら、痛みはもっとひどかったに違いない。三日して、ようやく痛みは引いた。それでも胸部がひどく腫れている。しかし動けないほどではなかった。よろめくように立ち上がると、ある仕掛けを服に仕込み、出かけて行った。



 ―――待ってて朱美、あなたは必ずあたしが助ける。刺し違えてでもあなただけは。



 空に重苦しい暗雲あんうんがたれこめ、せみの合唱がやかましい。京は学校の裏山に登り、人形の館までたどり着いた。はたして、そこには彼岸坊が待ち構えたように立っていた。


「待っておったぞ、娘」


「朱美は?朱美は無事なんでしょうね」


「それなら屋敷の中だ。だがあれを取り戻したくば戦え。そしてこの私をしかばねにしてみせよ」


「のぞむところよ」


 京の右手から血潮がながれ、一メートルの氷った刀になる。同時に彼岸坊の右手を覆うパチンコ玉が一斉に放たれた。京は横っ飛びにそれをよけ、玉は遠くの木々を貫通してなぎ倒した。息つく間もなく次々に玉は放たれる。京は動き回り、赤典太ではじき返し、あし草に身を伏せて上手くかわした。そのとき、はじかれたパチンコ玉のひとつが彼女の足首を傷つけた。それはちょうど彼岸坊の最後の残弾だった。彼は玉をすべて打ち尽くしたようで、なすすべなくつっ立っている。


 しかしそこで終わりではない。実は彼の妖術「磁気嵐じきあらし」は、自分を巨大で強力な磁石に変えてしまう術なのだ。当然、放ったパチンコ玉を回収することも可能だ。けれどそれはまた、京にとっての反撃のチャンスでもあった。彼岸坊が玉を回収する間、彼はまったくの無防備だ。足首の傷をものともせず、するどい一刀がひらめくと、男の太い首に向かって振りおろされた。


「甘いわ!」


 その瞬間、キインッと金属の打ち合うような音が響いたと思うと、京の腕にするどいしびれが走った。赤典太は粉々に砕け散った。京は瞬時に状況を理解し、とっさに跳び下がった。彼岸坊は頭を守るように右手を突き出している。その腕は、灰色に膨れ上がっていた。


 彼は磁石と化した自分の右手に、砂鉄を巻き付けたのだ。その厚さは一〇センチもある。それだけの砂鉄が重しとしてぶら下がれば普通の人なら持ち上げることも難しいが、一〇連結の机を片手で振り回した彼岸坊にとってはなんのこれしき、空気のようなものだ。


 まとった砂鉄の先端がドリルのように鋭利にとがり、京を襲った。彼女はすれすれでこれを避ける。ドリルは屋敷の壁面をこすっておぞましい傷跡を残した。構わず彼岸坊は軽々とこれを振り回す。一見めちゃくちゃに振り回しているように見えて、彼は京を追い込んでいるのだ、パチンコの飛んでいった森のほうへと・・・・・・。


 ふたたび赤典太を作り出す京だが、彼岸坊の砂鉄腕の前にはじかれ、砕かれ、歯が立たない。

とうとう京は背中を木にぶつけた。目の前には恐ろしい武器を手にした男が迫る。彼岸坊は一思いにとどめを刺さず、左手を顔の前に挙げた。


「追い詰められたな娘よ。だが念には念を入れる」


 そして左手に強力な磁場を発生させた。京に近づかず、パチンコ玉を集め、ハチの巣にしてとどめをさすつもりなのだ。


 その瞬間、京の服がむくっと膨らんだ。その表面から無数のトゲが突き出した。はちきれんばかりに膨れた服はとうとう破れ、そこから赤い物体が飛び出した。それはよく見ると赤い、ねじくれたクギのかたまりなのである。外側にとげを突き出した恐ろしい物体が、彼岸坊の左手に飛んでゆく。


 彼がとっさの判断で術を解除したのはさすがだった。クギは彼の目の前でことごとく失速し、ポトポトと落ちていった。しかし彼は見なかった。赤いクギに紛れ、砕けた赤典太の破片が、残った片目めがけて飛んでいったことに。―――彼の右目にそれは埋まった。多量の血と涙と粘膜が、いっぺんに飛び散った。絶叫して彼岸坊は目をおさえた。すかさず京は、その細い手で男の首をむんずとつかむ。するとたちまち彼岸坊の身体は凍り付き、一個の氷像と化してしまった。


「―――氷獄ひょうごく!」



 そもそも、京の立てた作戦は次のようなものだった。


 彼岸坊がパチンコ玉を打ち尽くした後、彼はそれを回収する。そのときに発生する強力な磁場で、京があらかじめ服の中に仕込んでおいたマキビシのような道具が吸いつけられる。生身の人間にそれが刺さればどうなるか、子供でもわかる。―――京は、彼の術を理解していた。


 しかし、彼岸坊はパチンコ玉を回収しなかった。かわりに砂鉄を地面から吸い上げてよろいのようにまとった。それで京のたてた計画もおじゃんになる―――はずだった。だが彼岸坊は念には念を入れよと直接とどめをささず、パチンコ玉を回収し、確実に仕留めることを狙った。自分の油断を戒めるためである。それがかえってあだとなった。京のとっさの機転で彼岸坊は残りの目も失い、命を落としたのである。


 京は強敵を倒した余韻よいんひたる暇もなく、急いで朱美の救出に向かった。


 屋敷の重い扉をそっとおし開き、京は忍び込む。素早くあたりを見回す。とりあえず敵はいないようだ。床に横たわった朱美を発見し、かけよった。


「京・・・!」


「朱美、待ってて、いまほどくから」


 京は再び赤典太を使い、縄を切った。朱美はかすかにふるえながらたずねた。


「あの男は・・・?」


「もういない」


「よかった・・・・・・」


「別のやつらはまだ気づいてないみたい。早く出ましょう。立てる?」


 京は朱美をつれて歩き出した。すると不意に朱美は顔を赤らめた。


「京、その服・・・」


「ああ、これ?さっきいろいろあってね」


 京はウィンクした。あまりきかないでくれということだ。玄関口まできてふたりははたと止まった。


「朱美、これは何?」


 入ったときには気づかなかったが、ドアの横に洋館には不似合いな仏像が置かれていた。京たちよりひとまわり大きく、3つの怒れる顔がある。4本の手にはそれぞれ武器が握られ、正面の手は印をむすんでいた。頭の上に馬の頭がちょこんと乗っている。家畜の供養などで安置される馬頭観音ばとうかんのんだ。


「さあ?見たことないけど」


 朱美が怪訝そうに触れると、それは生き物のようにぶるっと身震いした。朱美は驚いて飛びのいた。すると仏像は本当に動き出した。しなやかに無駄のない動きで、美しく台座から飛び降りたのだ。カン、カンと青銅の音を響かせて、こちらにやってくる。京は朱美を離れさせ、自分は赤典太を仏像に見えないよう背後に隠した。何度目かの血の刀で、さすがの京もふらついてくる。


 一メートルの距離まで近づくと、京と観音、両者はにらみ合った。異常な殺気が交流し、無限とも感じられる時間が流れた。


 先に動いたのは仏像である。二本の右腕に握られた青銅の剣と斧が、素早く振り下ろされる。敵が京の両肩を斜めVの字型に斬り下げたのに対し、京はそれ以上に素早く、敵から見て左から右へ赤典太をなぎあげた。4本の腕はほとんど切り落とされ、胴体さえもまっぷたつだ。仏像の上半身は鈍い音をたてて絨毯の上に落ちた。足はその場に立ったままである。


 京は赤典太を左手に持ちかえると、あ然とする朱美の手を握って風のように走り去った。


 ・・・・・・ほどなくして、奥の部屋から寝起きの人間のあくびのような「あアぁ」という気味の悪い声がしたと思うと、玄関に金剛坊が現れた。無残に斬られた仏像をためつすがめつして、感心したようにうなった。


「不意をつかれたとはいえ、これはなかなか手ごわそうだわ」



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